教理が破綻した大乗仏教を正当化するための神義論をキリスト教から借りる
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一切衆生の救済を謳うも、戦争や病気で苦しむ民衆を放置したままの大乗の神仏。
キリスト教から神義論を借りて、破綻した大乗を正当化できないか検討する。
論理的議論の場なので、以下のルールを守れない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・反論したければロジックで。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。 >>377
史上最強の哲学入門 (河出文庫) 飲茶、なんぞソースに出すくせに、哲学について知ったかぶりすんなよw。
それは、胡散臭いことばかり書いてある。何も知らない人に間違った知識も含む歪んだ全体像を示すという価値を完全否定まではしないが、それをソースに出すのは、ねw。 >>371
しかし原始経典の中で釈迦は在家に悟りは難しいからと出家の十戒の代わりに在家の五戒を授けて その上で天界往生を説いている
直接涅槃が難しい者でも一旦天界に生まれて天人の膨大な時間を修行に充てれば解脱は可能だという事だ
出家と在家の大きな違いは生活と修行に割り当てられる時間の配分だから在家として生活しながら出家と同じ解脱が得られるなら働いた方がいい事になって出家の必要性もなくなる
よく意味を考えて理解しなさい >>380
だからさ、そのお前の主張を『初期仏教ーブッダの思想をたどる』は完全否定してんだよw。
息してる? >>378
???
ですから、馬場先生も
>現代的読解においては、仏典の”正しい”読み方はありえない。
って仰った上で3.を準拠にその本を上辞されてますが?
歴史的文脈での歴史的解読と個人並びに教団の解読の差異は、その本質の問題については問題にされないって事でしょ。 >>379
???
実際問題そうでしょ?
この他者論を完全に克服する思想は出ていませんから。 >>381
息してるから書けてるんだろ?
当たり前の事が判らない奴に仏教理解は不可能だから諦めるか勉強するかだよ
お前は今のところ どっちつかずだけどな >>382
大乗とその信者の妄想的信仰についてとやかく言わないけど、
3.歴史的文脈での歴史的解釈
は、
『初期仏教ーブッダの思想をたどる』 馬場紀寿 の冒頭に、
初期仏教は日本の仏教とはずいぶんと様相を異にしている。極楽浄土も、苦しんでいるときに助けてくれる観音様も説かれていない。永遠に生きる仏も、曼荼羅世界もない。公案に集中することも、座禅ばかりすることも無い。葬式もなければ、呪術も無い。初期仏教は個の自律を説く。渇望の克服を説く。
釈迦の教えはJAP大乗とはかけ離れている。個が精進して執着から離れるのである。まさに俺が繰り返したこと。
なかなかいいソースだなw。正しい理解に基づいて大乗を痛烈に批判している。大いに共感する。
ちなみに、下の何ページで言ってる?
1.読み手による自由解釈
2.伝統教団による伝統的解釈
3.歴史的文脈での歴史的解釈 釈迦が否定したもん全部乗せの段階で有象無象の新宗教。 >>388
おまけに、釈迦の教えは低級だとディスる始末。
大乗の教義は訳分からん。 >>343
過去仏はあなたの好きなスッタニパータにも登場しますよ(第2小なる章の<2、なまぐさ>の主役のカッサパ)
永遠の仏もスッタニパータや相応部ヴァッカリ経典の「「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見ている者は、わたしを見るのであり、わたしを見ている者は、法を見るのだから」から法身仏という永遠の理法としての仏が誕生したということです
まあ阿含経の随所そして中論25章で強調されている「如来の滅後は無記」の教えとは相反しますけどねw >>343
「大乗仏教の空の思想」の話をしているのですが、なんで
>初期仏教は日本の仏教とはずいぶんと様相を異にしている。極楽浄土も、苦しんでいるときに助けてくれる観音様も説かれていない。永遠に生きる仏も、曼荼羅世界もない。公案に集中することも、座禅も無い。葬式もなければ、呪術も無い。初期仏教は個の自律を説く。渇望の克服を説く。
の話になるのですかw
話のすり替えじゃないですか?w >>352
おお、よく調べ上げましたね
しかし
・ヤサの出家で説かれる四聖諦 スッタニパータ 724〜727
→その二種の観察の経典自体はヤサの出家とは無関係、そして二種の観察で説かれる四諦は相応部ももちろん含む阿含経の四諦とは異なっています
特に道体の部分で違っており八正道が説かれていません
・カッサパ三兄弟の回心で説かれる三毒 スッタニパータ 10〜13
→蛇の章もカッサパ三兄弟の逸話とか無関係です
そしてヤサの出家は四阿含ではなく『律蔵』「大品」に書いてあると馬場氏の本に書いてありませんでしたか?
あなたは>>9以外は創作であるようなことをと言われていましたから(>>224)ヤサの出家も創作で良いですね?
創作で良いのならば>>371のあなたのレスも無効ですね
>『初期仏教ーブッダの思想をたどる』の203ページには、初期仏教では在家と出家で解脱に区別はなかったとある。
この解脱の例で挙げられているのがそのヤサなのですから
しかしあなたの主張では>>9以外は創作であるようなのであなたはその本の203ページを支持のヤサの例を支持するべきではありません
・サーリプッタとモッガラーナの回心については教理的に見るべきところはなく
いやいや、アッサジの短いが教理的に重要な縁起の理法の説法を聞いただけで預流の悟りを得て六師外道の一人のサンジャヤに師事していた時よりも瞬時に真理に近づいたというのは仏教的には重要なエピソード >>354
まあ馬場氏も只管打坐の意味を取り違えている可能性は大いにありますけどね
修業はただ坐禅のみしていれば良いというのが只管打坐ではありませんので
ですから禅の修行には掃除や炊事さらには農業などの作務もあるのですから
曹洞宗の坐禅は「只管打坐しかんたざ」、ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。
https://www.sotozen-net.or.jp/propagation/zazentop >>394 追記
まあしかし只管打坐という言葉は道元のオリジナルと言っても良いかもしれません >>353
大丈夫です、雨安吾についても書いてあります
安吾
精舎がつくられても、釈迦と弟子たちの生活は旅を基本として伝道を続けた。
雨季には集まって定住し、論議などの特別の修業期間とした。
それを雨安吾また夏安吾という。 >>355
>馬場氏の主張する初期仏教の姿は、>>9の限定である。
だから捏造はよくないですよ
馬場氏はスッタニパータなどの韻文仏典は非仏であるという趣旨のことを言っているのですから
>>330に書き写しております
これらの仏典(スッタニパータなどの韻文経典)には、仏教特有の語句がほとんどなく、むしろジャイナ教聖典や「マハーバーラタ」などの叙事詩と共通の詩や表現「多く含む」。仏教の出家教団に言及することもなく、たとえば『犀角』は「犀の角のようにただ一人歩め」と繰り返す。多くの研究者が指摘してきたように、これらの仏典は、仏教以外の苦行者文学を取り入れて成立したものである(72ページ) >>393
違うと喚いてるだけじゃお話にならん。
どこが違うかを明示して、根拠も付けろよ。
馬場氏は大品に四諦や三毒が書かれているとしか言ってない。初期経典に書かれていないなんて一言も言ってない。
そして、
『初期仏教ーブッダの思想をたどる』 馬場紀寿 の冒頭に、
初期仏教は日本の仏教とはずいぶんと様相を異にしている。極楽浄土も、苦しんでいるときに助けてくれる観音様も説かれていない。永遠に生きる仏も、曼荼羅世界もない。公案に集中することも、座禅ばかりすることも無い。葬式もなければ、呪術も無い。初期仏教は個の自律を説く。渇望の克服を説く。
とはっきり明言してる。俺の主張を裏付けるソースを提示してくれてありがと、な。自分で提示したソースだから否定できないよなあw。 >>397
あのさ、重要なのは教義。お前はほんと本質を理解できないな。
馬場氏の主張は、釈迦の教えは、無我・四聖諦・縁起・三毒にあると言ってる。
>>9を根拠にするのか、大品を根拠にするのかの違いはあれ、釈迦の教義については一致した理解に至る。
当然、大乗は釈迦の教えとはかけ離れているという点も一致。
お前は、外面だけ見てひょいひょい飛びついちゃってるけど、中身の教義を見ると、むしろ俺の主張のソースになってしまっている。浅はかだったなあw。 >馬場氏の主張は、釈迦の教えは、無我・四聖諦・縁起・三毒にあると言ってる。
大乗仏教もそうでしょ。 >>387
???
ですから、馬場先生も
>現代的読解においては、仏典の”正しい”読み方はありえない。
って仰った上で3.を準拠にその本を上辞されてますが?
歴史的文脈での歴史的解読と個人並びに教団の解読の差異は、その本質の問題については問題にされないって事でしょ。 で、>>1よ。
その奇妙で奇々怪界で摩訶不思議な「大乗神義論」とかとやらはどうしたんだい?
大乗神って何?
大乗神教?
そんな宗教初めて聞くけどな。 >>385
お前の言葉は全部嫌味だから一々構ってられん >>391
横からですが阿羅漢達に対しては如来の死後を詳細に説いた経典も有るので無記は理解力の無い修行僧やそれ未満の人物に対してだったのではないかと思われます >>405
どんな経典でしょう?
私は浅学で存じないのでよろしかったらそのお経の名前を教えてください
ただ私にも心当たりがあるものでは、まずは在家というか異教徒から釈迦の説法を聴いて即座に阿羅漢になったのに不幸にも直後に事故死したバーヒヤのお経
(以下引用)
「実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」
バーヒヤという樹皮をまとった行者は、このように、尊師が簡略に法を説くやいなや、執着がなくなり、煩悩から心が解脱しました。
さて、尊師は、樹皮行者のバーヒヤにこの簡略な教誡によって教えて、去っていった。ところで、尊師が去って間もない頃、樹皮をまとった行者バーヒヤに、牝牛と仔牛がぶつかって、命を奪い去りました。
そのとき、尊師は托鉢のために行じて、食後に乞食より戻って、多くの比丘たちとともに町から出て、樹皮をまとった行者であるバーヒヤが亡くなったのに出会いました。これを見て比丘たちに、話しかけました。
「比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取り上げて、寝台に乗せて外に出し、火をつけなさい。そして、かれの塔を作りなさい。比丘たちよ、おまえたちと共に清浄行をしていた者が亡くなったのだ。」
「尊師よ、その通りにします」と比丘たちは答えて、樹皮をまとった行者バーヒヤの身体を取りあげて、寝台に乗せて外に出し、火をつけて、かれの塔を作ったあと、尊師のところに赴きました。
尊師のところに赴いて、挨拶をした後、一方の端に座りました。一方の端に座った比丘たちは尊師にこのように述べました。 「尊師よ、樹皮行者バーヒヤの身体は荼毘に付され、かれの塔が建てられました。かれの赴く先はどこでしょうか。未来の運命はどうなのでしょうか」
「比丘たちよ、賢者である樹皮をまとった行者のバーヒヤは、法に関して随法行を行い、わたしを、法の課題で悩ませることはなかった。比丘たちよ、樹皮をまとった行者バーヒヤは、般涅槃したのである。
そこで、尊師は、この意味を知って、そのときに、このウダーナ(感興のことば)を発しました。
水も、地も、火も、風も、堅固に存在することのないところ、そこでは、星もまたたくことがなく、太陽も輝かない。
そこでは、月も現れることがなく、そこでは、闇も存在しない。
バラモンである聖者が、自己の寂黙によって知ったとき、かれは、形あるものからも形のないものからも、苦楽から解脱する。
http://manikana.la.coocan.jp/canon/bahiya.html もう一つ、これも異教徒への説法となる火ヴァッチャ経典です
(以下引用)
2
すると、ヴァッチャは、さらに問うていった。
「では、友ゴータマよ、そのようにして解脱したる心をもてる比丘は、いったい、いずこに往きて生まれるのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれるというのは、適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからばいずこにも往きて生まれないのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれないというのも、また適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからば、往きて生まれ、また往きて生まれないのであろうか」
「ヴァッチャよ、、往きて生まれ、また往きて生まれないというのも、また適当ではないであろう」
「では、友ゴータマよ、しからば、往きて生まれるにもあらず、また、往きて生まれないのでもないのであろうか」
「ヴァッチャよ、往きて生まれるにもあらず、また、往きて生まれないのでもないというのも、また適当ではない」
「友ゴータマよ、わたしはもうまったく判らなくなった。迷ってしまった。友ゴータマとの以前の対話によって、わたしが得た深い確信すらも、すっかり消えてしまった」
「ヴァッチャよ、汝がまったく判らなくなった、迷ってしまったというのも、当然であろう。
ヴァッチャよ、この教法は、はなはだ深く、知りがたく、悟りがたく、寂静、殊勝、思慮を絶し、微妙であ
って、よく知者のみが知りうるところである。それは、他の見解にしたがっている者、他の信仰をもっている者、異なる権威に従っている者、そして、異なる行をおさめ、異なる道をあるいている汝には、到底知られ難いであろう。
だが、ヴァッチャよ、いま、わたしは、汝に問おう。汝の思うままに答えるがよい。
(略)
「友ゴータマよ、それは見当違いというものである。
友ゴータマよ、実に、かの火は、草や薪があったから燃えたのであり、それが尽きて、あらたに加えられず、もはや燃えるものがなくなって消えた、というべきである」 >>407続き
「ヴァッチャよ、その通りである。そして、わたしもまた、そのように説くのである。
かの色(肉体)をもって人間を語る者には、人間のその色が捨てられて、その頭を伐られその根を断たれたターラ(多羅)の樹のようになるとき、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。ヴァッチャよ、実に、その時、人間は色というものから解脱するのであって、それは、甚深無量にして底なき大海のごとく、往きて生ずるというも当らず、また、往きて生じまた生ぜずというも当たらず、あるいは、往きて生ずるにもあらず、往きて生ぜざるにもあらずというも当たらないのである。
そして、かの受(感受)をもって人間を語る者にも、・・・かの想(表象)をもって人間を語る者にも、・・・かの行(意志)をもって人間を語る者にも、あるいは、かの識(意識)をもって人間を語る者にも、人間のその識が捨てられて、その頭を伐られその根を断たれたターラの樹のようになる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。
ヴァッチャよ、実に、その時、人間は識というものから解脱するのであって、それは、甚深無量にして底なき大海のごとく、往きて生ずるというも当たらず、往きて生ぜずというも当たらず、また、往きて生じまた生ぜずというも当たらず、あるいは、往きて生ずるにもあらず、往きて生ぜざるにもあらずというも当たらないのである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7061602.html
甚深無量にして底なき大海のごとく、というのが滅後の如来らしいです
この如来の無記について龍樹は中論二五章で
二一 如来(ブッダ)は死後に存在するかどうか。世界は有限なものであるかどうか、など、世界は常恒なるものであるかどうか、などというもろもろの見解は、ニルヴァーナと【死後の】のちの世界と、【生まれる前の】未来の世界とに依存して述べられている。
二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。
二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
として論じていますね >>406 自己レス
>それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」
これはスッタニパータの蛇の章などに見られる
この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
と同じことを言ってるように思えますね
両者の中間にもいない=脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである
要するに解脱しているということです >>391
のヴァッカリ比丘ですが、お釈迦様の説法を聞いて解脱した後に病に苦しみ自ら命を断ちました(自殺しました)
その阿羅漢のヴァッカリ比丘の滅後は
36 尊師は、遠くから、尊者ヴァッカリが寝台の上に、還滅した蘊(=死んだ身体)を横たえているのを見た。
37 ちょうどそのとき、煙のように立ちこめた黒雲が、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのであった。
38 そこで、尊師は、比丘たちに呼びかけた。
「比丘たちよ、お前たちは、この煙のように立ちこめた黒雲が、東に走り、東に走り、西に走り、北に走り、南に走り、上に走り、下に走り、四維に走るのを見ているかどうか」
「はい、見ています、尊師よ」
39 「比丘たちよ、悪魔パーピマン(波旬)が、善男子ヴァッカリの意識(識)はどこに住しているのかと、かれの意識を探し求めているのである。
40 比丘たちよ、善男子ヴァッカリは、かれの意識は住することなく、完全な涅槃に入ったのである」
http://manikana.la.coocan.jp/canon/vakkali.html
さて、ここでお釈迦様が言われた「悪魔パーピマン(波旬)が、善男子ヴァッカリの意識(識)はどこに住しているのかと、かれの意識を探し求めているのである」ですが、輪廻の主体は識(意識、識別作用)であるという根拠のひとつとなっているそうです >>401
まーた捏造か?。
>>377では「馬場先生はその本で仏典の読解について
1.読み手による自由解釈
2.伝統教団による伝統的解釈
3.歴史的文脈での歴史的解釈 」
と、お前は言った。何ページに書かれているんだ? 大乗だろうと小乗だろうと教皇猊下は拘らない。カトリックは伊達に普遍名乗らないね。懐が深いというべきか。 >>413
捏造がばれてそれでごまかすのは、さすが捏造経典信者らしい。 >>416
だから何ページ?
ソースの提示方法も知らないお前でも入れる大学って…。 >>418
>>419
うんうん。調べてやるから項目とページ。ソースの提示は箇所まで示すもんだ。
低学歴過ぎる。 >>420
出たあwwww。低学歴晒してるだけだと自覚できてない低学歴wwww。
ソースは相手がすぐに見つけられるように提示するもの。相手に探す手間を書けされるのはアホwww。
それなのに、それでマウント取った気になっちゃうんだから、低学歴はすげえわ。 馬場先生の引用も「礼拝」もあるから。
本なり辞典を持ってるのならすぐに分かるはず。
すぐに分からない方がおかしい。
これがヒントだなぁw >>424
www
そうですか、低学歴で悪かったですね。
私の前任は文部省からの出向でしたけどね。
後任も似たような機関からの出向でしたが。 >>425
ソースの提示方法もしらない低学歴事務員乙。 知らない訳はないとして、貴方に直に調べてもらいたいからそうしてるのくらい分かるでしょ? >>427
馬鹿だなあ。
お前が間違っているときだって、何が間違ってるかソース付けてちゃんと示す。それが当たり前。
そんなことすらできないのは低学歴と間抜けを晒してるだけだ。恥ずかしいことだといい加減認識しとけ。 >>428
今までソースは散々示してきたし写メまで送ってるから、知らないという貴方と主張は通りませんね。
重ねて云うけど、それは貴方に調べてもらいたい・学んで貰いたいからなんですよ。
で、あなたは仏教を誰から教わったの?
師匠はいるの?宗派は? >>429
お前がソースを提示してからは、ソースを提示しろとは言ってねえだろ。
隙あらば捏造。 まぁ「礼拝」を「れいはい」って読んで「そんなの仏教辞典にないぞ!!」って言ってるレベルだかならぁ、>>1は。
で、そんなレベルで仏教やキリスト教、哲学に精通してるような口振りして俺様〜してるんだもん。
この手のアホは泳がして於いて後で〆ると面白い。
わざとソースの提示を遅らせてたら、散々「捏造」だの「改竄」だの罵倒してきて、いざそれそのものを写メして送ったらしどろもどろになってたもんなぁ。 まぁ、他のスレにも中途半端な知識や体験なのに、俺様無双をして独断的な判定吹聴し、他人にマウンティングする人がいますけどね。
せいぜい「こう思うんです」とか「こうじゃなかろうか」って位に留めておけばいいのに、ボロカスのタコ殴りにあって気の毒な位です。 あ、訂正ね。
まぁ、他スレにも中途半端な知識や体験しかないのに、何を勘違いしてるのか俺様無双をして独断的な見解を吹聴し、他人にマウンティングする人がいますけどね。
せいぜい「こう思うんです」とか「こうじゃなかろうか」って位に留めておけばいいのに、ボロカスのタコ殴りにあってますよ、その人。
気の毒な位です。 人がイエスキリストを信じるのは聖霊がその人を呼んだからです😃
イエスキリストを信じない人は聖霊が呼んでない >>432
しつこいなあ。
アニミズムと偶像崇拝の区別すらできてないくせに何を言ってんだよww。 ねえ、ねえ、御兄さん
好きなオカズは
何ですか?💋 >>406
残念ながら経題を失念した為に見つかりませんが 涅槃とは明るくも暗くもなく、暖かくも寒くもなく…という様に言語に依る対立を悉く打ち消して行く表現になっていました 大乗神「深い慈悲で一切衆生を救済してやる。人類が滅亡した56億7千万年後まで待て!」
やっぱり破綻しているのでは? このスレの大乗信者によると大乗で覚った人もたくさんいるらしい。
しかし、そうであれば一切衆生の救済が実現されていないのはおかしいことになる。
覚りによって一切衆生を救う!
そして、大乗で覚った人はたくさんいる。
となると、一切衆生の救済が実現されていないのは教義破綻。これはまずいな! 中論第16章
【4】もろもろの生成変化するものは、生成変化するものであるから、輪廻をへて涅槃に入るということができない。輪廻をへて涅槃に入るあいだ何ものかであり続けるのでなければ、輪廻をへて涅槃に入るということはできない。同じ理由で、もろもろのいのちあるものも、輪廻をへて涅槃に入るということができない。つまり、輪廻だけでなく、涅槃もまた存在しないことになる。
http://nagarjuna.jugem.jp/?cid=22
衆生は涅槃できない!
あれ?一切衆生を涅槃に導くと喚いてた連中いたけど息してる? >>444
中論一六章を最後まで読みましょう
九 「わたしは執著の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしにはニルヴァーナが存するであろう」と、こういう偏見を有する人には、執著という大きな偏見が起こる。
一〇 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529967
曹洞宗のお経の修証義の第一章 総序の
生死の中に仏あれば生死なし、但ただ生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭とうべきもなく、涅槃として欣ごうべきもなし、是この時初めて生死を離るる分あり、
(生死(迷いの生)の中に仏のさとりがあれば、生死は無くなる。ただ、生死がつまりは涅槃だと心得、生死だからといって嫌うべきではなく、涅槃だからといって願うべきでもない。この時、初めて生死を離れ自由自在となる)
と中論一六章で言わんとしていることは同じだと思います
あとは静かに瞑想して涅槃というものが現実の生から独立した実体としてあるのかどうかあなた自身が確認してください >>444
???
衆生は輪廻出来ないってその引用のどこにあるの? >>441
その大乗神の名前を具体的に挙げてみてください
なお弥勒の未来仏信仰は大乗仏教だけではなくテーラワーダ仏教にもありますのであしからず >>446
衆生は輪廻出来ない?
そんなことどこにも言ってない。 >>447
このスレの大乗信者の主張に基づいているんだが。文句は過去の大乗信者にいいなさい。
違うと言うなら、お前の考える「深い慈悲で一切衆生を救済してやる。」がどういうものか説明すりゃいいだろ。 >>445
そうだな。
涅槃するぞー!という者は執着していると、9で言ってる。
そして、10で、いかなる涅槃も考えられない、と言ってる。
一切衆生を涅槃に導くと喚いてた連中いたけど息してる? >>449
○法華経の場合
一切衆生は過去世に於いて仏の説法を聞いているので仏種が具わっておりその時点で仏になる資質が植え付けられたということで救済されています
あとはその仏種は縁によって起こるので菩薩行により仏種を芽生えさせていけば輪廻の最終身において仏に成ります
○浄土経の場合
五劫の昔の法蔵菩薩の請願が成就して阿弥陀仏になった時点で一切衆生は極楽浄土に往生できる資格を持つに至ったということで救済されています
なお、現世に於ける病や災害や戦争を防ぐ力があるとするのは日蓮宗や真言宗にはあるかもしれませんが、大乗仏教全般の思想ではないと思います >>451
○法華経の場合
釈迦の教えによって覚ることができるのは当たり前。
「一切衆生の救済」だの、「大乗」だの、偉そうに言ってたのは何?
○浄土経の場合
それが、「深い慈悲で一切衆生を救済してやる。56億7千万年後まで待て!」 だろ。
人類は滅亡してるよw。 >>451
○浄土経の場合
56億7千万年前の請願がすでに成就してるということか。
>>4で説明済み。
現世ではなく、浄土で救われるといったシステムも使用されるようになった。こうすれば、現世で民衆が救われない問題から逃げることができる。
これは、キリスト教からのパクリだろう。極楽浄土は天国だし、弥勒はメシアである。
http://togoku.net/maitreya-tachikawa/
あの世のことを持ち出されちゃ証明不能。しかし、本来の仏教はそういうオカルトから離れたところにあった。 >>450
>そして、10で、いかなる涅槃も考えられない、と言ってる。
そうではありません
一〇 師(ブッダ)は生存(J註:原語で有の意もあるとの事)と非生存(J註:原語で無の意も)とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。
(中論二五章)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
これが龍樹が説く涅槃ですよ
〔ニルヴァーナとは〕,一切の得ること(有所得)が寂滅し,戲論(想定された論議)が寂滅して,吉祥なるものである。ブッダによって,どのような法(教え)も,どのような処(議論の対象)でも,だれに対しても,説かれたことはない。
※有所得…『有(存在)』に関する『所得(見解)』 >>454
本来の仏教にも輪廻思想は普通にありますが
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨らかなのを見て、喜び、楽しむ。
あと阿弥陀仏は一応空性ですのでキリスト教の神のような縁起から外れた処にいる存在ではないと見なされています
早い話が阿弥陀仏は絶対神ではないということです >>455
お前が提示したソースには10で、いかなる涅槃も考えられない、と言ってた。
自分でミスしておいて何が「そうではありません 」だよ。ミスは素直に認めろ。
中論の「非有非無」は永続的に存在せず、縁起によって因果の流れの中で幻のように漂っているもの。
となると、涅槃に達してもそれは幻。
大乗が到達できる涅槃は、せいぜいそんな気の迷い程度だろうな。 >>456
○浄土経の場合
極楽浄土に行けるかもしれないってだけで、実際は輪廻を回り続けるのかよ。
どこが救済になってんだ? >>456
釈迦の教えは、現世で平穏に至る。
輪廻についても語ってはいるが、輪廻がなかったとしても現世での平穏は失われない。
極楽浄土がなかったから崩壊する浄土経とは違う。 >>457
>お前が提示したソースには10で、いかなる涅槃も考えられない、と言ってた。
私はそのソースたる10が書いてある中論一六章での趣旨は「生死即涅槃」である旨を修証義を借りて既に述べてますが>>445
何度も言いますが捏造はやめましょうよw
あとはあなた自身が瞑想して心意識を一秒からでも止めるようにして中論二五章の
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。
が正しそうかどうか、理屈ではなく体験で答えを出してくださいな >>460
ミスは素直に認めような。
一〇 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。
「いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。」とあるんだから、いかなる涅槃も考えられない、と言ってる。
後半は文章から外れた曲解。 >>460
>理屈ではなく体験で答えを出してくださいな
最初に書かれているのをちゃんと読んだ?
何度も提示してるんだから、いい加減理解しような。
論理的議論の場なので、以下のルールを守れない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・反論したければロジックで。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。
お前が、破綻した教義を妄信したいならご自由にどうぞ。でも、このスレはそういう場ではないから、ここでそれはやめようね。 >>458
浄土経にはいろいろな解釈がありますがどの解釈でも10回でも念仏すれば極楽浄土に往生できますよ
五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれますけどね >>461
funky-buddha-dojo…。ワロタ…。 >>459
現世で平穏に至れないと自覚した者のために念仏はあるので良いのですよ
納得できないのなら歎異抄を読みましょう >>466
現世で平穏に至っていなきゃ、輪廻の苦しみを繰り返す。それが釈迦の教え。
釈迦の教えとはかけ離れすぎだろ。もはや、仏教ではなく、キリスト教では。
煽り抜きの本気でそう思う。 >>462
いかなる涅槃も認められるない
そんな解釈はあなたの勝手な独断でしょうw
このつばめ堂通信の中論訳には青目の注釈もついているので(というか鳩摩羅什訳の中論は青目の注釈によるもの)そこで一六章の一〇偈の趣旨の確認をしてください
http://tubamedou.egoism.jp/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon03.htm?v=20190528#no16 >>469
は?
一〇 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。
「いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。」とあるんだから、いかなる涅槃も考えられない、と言ってる。 >>467-468
ですからまずは歎異抄を読みましょうね >>470
いいから青目の注釈を黙って読めば良いじゃないですかw
落ち着きなさいって >>473
ミスをごまかすなよ。みっともないなあ。
一〇 ニルヴァーナが有ると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところでは、いかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。
「いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。」とあるんだから、いかなる涅槃も考えられない、と言ってる。
それ以外のどんな解釈をお前はしてんだ? >>472
釈迦の教えからかけ離れ、キリスト教をぱくって教義破綻した捏造経典なんぞ読むほど暇じゃない。 中論第16章
【4】もろもろの生成変化するものは、生成変化するものであるから、輪廻をへて涅槃に入るということができない。輪廻をへて涅槃に入るあいだ何ものかであり続けるのでなければ、輪廻をへて涅槃に入るということはできない。同じ理由で、もろもろのいのちあるものも、輪廻をへて涅槃に入るということができない。つまり、輪廻だけでなく、涅槃もまた存在しないことになる。
http://nagarjuna.jugem.jp/?cid=22
衆生は涅槃できない!
or
大乗の涅槃は縁起によって幻のように存在せず、非存在もせず。因果によって漂うのみ。それって、涅槃じゃないだろw。
あれ?一切衆生を涅槃に導くと喚いてた連中いたけど息してる? 大乗の涅槃は存在しない、または大乗の涅槃は無常。
大乗の教義は破綻してる。まずいなあ。 >>442
それに対する見解は二つ
1.永遠に続く未来の中で何処までも救い続ける
2.全ては法身のアバターなのだから予め救われている事になる
どちらにせよいずれは一切衆生は解脱するか する事が確定してるかだから短いスパンでの結果は問題ではない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています