坐禅と動中の工夫20
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1620994804/ 菩提心も内なる仏性からの呼びかけって事でしょうね。 >>693
まぁ、そういう目線で見ればそうなるでしょうね。 日常生活は死ぬまで続くわけですから、修行も死ぬまで続くって事です。 此れであれば求所得禅にも無事禅にもならないでしょ?
はい、一件落着。 狂乱の修行か?
ハッタリナルシズムの修行かね?
笑 狂虚嘘一等の鹿野園の寝言荒らし講座が、
まったく〜〜
笑 >>698
仏教はナルシズムの教えです
感興のことばの第5章「愛するもの」
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。
そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。
すべての者は暴力におびえている。すべての生きものにとって生命が愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。 でおーの醜い嫉妬はいつまで続くんだろうね😯
クリスチャンからは悪霊に取り憑かれてるって酷評され、仏教徒からは餓鬼憑きって相手にされてないし。
リアルでも教会や社寺から出禁を喰らってるし、噂では裁判所への呼び出しが来てるとか・・・
性格も屑だしなぁ😯 俺はその頃禅定体験をしたとか、精霊体験をしたとか・・・
誰もでおーのそんな事は信じてないし、絡まれるのが面倒だから適当にあしらってるだけなのに。
でおーが知的障害者の構ってちゃんっていうのは、宗教板公然の了解事項なんだけどね😯
まぁ、悪意のある奴は論敵に対してそうしたでおーをおだてて使嗾して、間接的に嫌がらせをせしめてるんだけどね。
でおーって、そういう意味では かませ犬 とか あて馬 みたいなもんなんだろうね。
知らぬは本人ばかりなり😯 >>771
ションベン坊や先輩に続いて、
お薬、増やしてもらえ、
この異常な開き直りは
笑 お薬増やしてもらったら、
ションベン坊や先輩レベルに
修行が進むかもしれんぞ
笑 _
/ノ 0ヽ
__L __|__
U ´・ェ・`)ウンコ坊や、何か御用ですか?
_, ‐'´ \ / `ー、_
/ ' ̄`Y´ ̄`Y´ ̄`レ⌒ヽ
{ 、 ノ、 | _,,ム,_ ノl
'い ヾ`ー〜'´ ̄__っ八 ノ
\ヽ、 ー / ー 〉
\`ヽ-‐'´ ̄`冖ー-/
ノ ヾ ,, ''";l
(::___. ヽ::__. ヽ
.と::__丿::_ __丿
_...。゚
⊂...__....⊃ ジョロジョロ〜 (⌒Y⌒)
(⌒*☆*⌒)
~(__人__)~
(⌒Y⌒) (⌒Y⌒)
(⌒*☆*⌒) (⌒*☆*⌒)
~(__人__)~ ~(__人__)~
/ ´・ω・`) お薬増やしたら
_, ‐'´ \ / `ー、_
/ ' ̄`Y´ ̄`Y´ ̄`レ⌒ヽ 脳の統合が成功しました
{ 、 ノ、 | _,,ム,_ ノl
'い ヾ`ー〜'´ ̄__っ八 ノ
\ヽ、 ー / ー 〉
\`ヽ-‐'´ ̄`冖ー-/
ノ ヾ ,, ''";l >>690
祖師方は道を示しただけです。
歩むのは自身です。 だって祖師方に死はないと言われても納得出来ないでしよ。 本来みんな仏性の具備者であり、天然にして真実丸出しだから迷いも汚れもないってなもんで道元禅師の時代の寺では形だけ修行してたんだ。
本当ひどい時代です。
初めから真実丸出しで、迷いも苦しみもない仏であるならば、なぜ三世の諸仏祖師方は、わざわざ菩提心を起こし、命がけで修行する必要があるのか?
の道元禅師の問いに日本では誰も答えられる高僧がいないってなもんで、その当時の本場の中国に渡る。
菩提心のなせるわざですね。 その道元禅師の苦労で日本にはまだ、細々ですが正法が残ってます。
逆にインド、中国はもう仏教は廃れましたけどね。 >>711
みんな愚か者なのに一人だけ自分は賢いと勘違いした馬鹿がいただけって話です
道元はその一人 712.道元を批判できないバカである。大爆笑である。 >>712
「正法眼蔵 歸依佛法僧寶巻」
『・・・法華経これ大王なり、大師なり。余経余法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属(家来)なり・・・』
道元禅師の正法は【法華経】です 716.道元を超える、という野心はない、か。大爆笑である。
それでも悟れる、か。
不可能である。
大爆笑である。 無事禅に引っかかるとろんみたいに一生を棒にふるよ。 717.道元に引っかかると一生を棒にふる、よ。
大爆笑である。 719.悟る、ということは道元の欠陥がわかる、ということである。
その他の師家の欠陥がわかる、ということである。
バカには理解できない。
大爆笑である。 無いという概念も元から無かったことに気づけよ。
悟りなんか無いという考えから抜けたとき、悟りはある。
魚に聞け。 >>721
有るとか無いとかに拘る愚かさを悟りなさい そもそも釈迦は縁起を悟ったのだから、私たちも何か「を」悟ればいいんです。
成長とは、悟りの連続 自分は賢い正しいと思い込んでるから他人の愚かさに悩まされる
これが煩悩の本質
お互いが馬鹿だ愚か者だと認め合えば喧嘩も戦争もアホらしくなる >>724
この子は縁起の意味を分かっとるんか?
縁起の意味すら分からない愚か者だと悟る事
それが縁起です(笑) しかしながら、自己絶対化が同時に無的であるならば、対立はあっても、相互否認は起こりえない。
対立・対論は必要なのである。
必要というより、必然的なのである。
これがなければ、真理性の放棄に等しい。
互いの間にきびしい対立が存しながら、相互承認が成り立ちうるためには、有的であると同時に無的でなければならないであろう。
単に有的であれば、ただ対立があるだけであり、また、単に無的であれば、ただ融和があるだけである。
真理と真理とは対立しつつ融和するものである。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 ) それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。
しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。
各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 ) すこし読みやすくしてみた。
‥
それぞれの宗教における絶対者が単に有的であれば、諸宗教はけっして両立しえない。
また、絶対者が単に無的である宗教においては、他宗教との真の対論というものがない。
従来、聖書の神は単に有的に理解されてきた。そのために、他宗教の全面否定に走った。
しかし、単に有的にではなくて、無的にも理解されるようになったことによって、真の対論が原理的に可能となった。
相互否認に終わる偽りの対論ではなくて、相互承認に終わる真の対論の原理的可能性は自己の無性の自覚に存するのである。
けっして有限性の自覚に存するのではない。
人は言うかもしれない。自己の有限性を自覚して、自己絶対化を慎むならば、相互の平和共存は可能となろう、と。
しかしそうではないのである。
そこでは徹底した真の対論も真の相互承認も起こらないのである。
各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 ) 仏教と自分
白陰大悟十八遍小悟その数を知らずというんでしょう、悟りという実にまああの人不惜身命たいていじゃないことやっています。でもってどうして行かない。有心だからなんですよ、
「われこそは仏教の第一人者」
あるいは、
「仏教をどうしても我がものにしたい」
それはいいんだけれども、
「仏教をもって」
なにほどかしたいんです。どこまで行っても仏教があるんです。無心になれない、彼岸にわたっていないんです、此岸のとやこう取扱の問題なんです。
このあたりをよくよく見てください。
シャバの世と別れを告げる、難波のことは夢のまた夢、たとい、
「おれはいったいなんであったんだ」
という底無しの反省がないんです、出家のまっぱじめに来るはずの感想ですよ。だからどっか学者と同じに、どこまで行っても、
「仏教のえらい人」
なんです、収まり切らないんです。大切は、あなたの納まり切らない何かです。どこまで行ってもシャバの世の欲求不満ではないか、自分とこの現実世界、流転三界にケリがつかない、ひょいと見たら過現未一切自分の掌の上という、大力量の本来を知らない、そういうことがあるんですよ。
雪峰我今はじめて鰲山成道、しくしく雪ん中でやってるんですよ、足つん出して寝ていた兄弟子が、な−にやってんだおまえって云うんです、
「いや、どうしても行かん、あのときはこうだった別事どうだった。」
施設する、標準を外に求めているんです、
「こうあるべき」
から抜けられない、
「このばかったれ−めが、門より入る物は是れ家珍に非ず、てめえ通身からをもって蓋天蓋地これ。」
と示す。実に坐禅とは
「標準もとっからこれ」
に気がつくことなんです、ことはまったく簡単です、てめえ満足大安心という物差しがあるっきりです。でもたいていそれを間違えるんです、悟った申し分なしといって、朝三暮四を繰り返すのはこれです、知らぬまに標準を外に求めて、自分はの二分裂です。このばかったれ、三日耳を聾することなくんばってことあります。
よろしく。
http://www17.plala.or.jp/tozanji/houwasyuu.html 白隠ねw
白隠がいうには「大悟十八遍小悟その数を知らず」って云うんです。
大悟も小悟も今までの覚りは嘘だったって云うんです。
覚りなんて無いって云うのに等しいことを云ってるんです。
私は師家からそう聞きましたけどねwww おれは鹿に対しては、悟はあるよ、と言うし、カムイに対しては、もともと悟は無いよ、と言うしかないね。。
矛盾するようで矛盾していない。。
今ということで説明すると、今の自分、が常に標準であった、揺れ動いて変化するままの、その今の自己、
が標準になって、他を求めないようになれば、それで終わりというか、それが悟なんだよ。。
だから、今のものみなの在りよう以外に、法とか悟とかはない。。
今に落着して、他を想定しない、他を求めなくなれば終わりだね。。
もちろん、ひたすら坐る、ということなければ、それもわからないし、そこに落ち付けるということはないでしょう。。
だけど、今の他に、悟りとか、仏とかを想定して、修行するのは、基本的には、間違いですね。。
この間違いからしか始められないかもしれないけれど、師に就いて学ぶうちに、祖師方の語録を学ぶうちに、
どうも、そうじゃないらしい、って気づいていくのが、祖師禅ということです。。
そうじゃなければ、なんか得た気になって、てめえご本尊の、キチガイになってしまいます。。w >各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
>しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
つまり、柔軟心(にゅうなんしん)。 >実に坐禅とは
「標準もとっからこれ」
に気がつくことなんです、ことはまったく簡単です
これなんだよ。。
カムイの言っていることとまったくちがうだろ?w
なんで彼の言っていることを理解しようとしないのか、理解しなかったのか、不思議。。 >>735
www
自惚れないでね。
あなたよりもっともっと仏教の消化が進んでる人は世の中掃いて棄てるほどいますから。
私からはそうとしか云えません。 仏教を学んで消化してとかじゃないんだよ。。w
ただ、仏教を含めた従前の観念の世界=自我を忘れて、はじめて気づけることです。。 >>737
> >実に坐禅とは
> 「標準もとっからこれ」
> に気がつくことなんです、ことはまったく簡単です
>
> これなんだよ。。
> カムイの言っていることとまったくちがうだろ?w
>
> なんで彼の言っていることを理解しようとしないのか、理解しなかったのか、不思議。。
www
佛から見れば標準。凡夫から見れば修行。
その違いをギャギャー云ってるだけでしょ?
まぁ仏教初心者には有りがちな事ですけどね。
そんな次元をとっくに卒業してる人なんて世の中掃いて棄てるほどいるんですよ、ロンさん。
そんな次元でギャギャー騒いで天狗になってどうすんですか。 >>740
> 仏教を学んで消化してとかじゃないんだよ。。w
> ただ、仏教を含めた従前の観念の世界=自我を忘れて、はじめて気づけることです。。
だから、そんなのとっくに卒業してる人なんて世の中に掃いて棄てる程いるんですよw >>742
ちがう。。
あなたは、概念を当てはめて、説明してわかった気になってる、だけでしょうね。。w >>743
いや、あなたは他に何かあると思っている人です。。w 再掲しておくか😯
↓
各宗教は自己の絶対性を主張すべきである。
しかしながらそれでいて、この絶対性を単に有化しないことが肝心なのである。
信仰に関しても、それが単に有的であれば、他の信仰を審くことになる。
すなわち、他の有的信仰に対しては、自分の信仰と異なる、と言って。
また、他の無的な信仰に対しては、信仰が無的である、と言って。
しかし、信仰が無信仰の信仰であるならば、信仰を有的に絶対化し、他の信仰を審くことはないであろう。
(宗教哲学入門 (講談社学術文庫) 量 義治 ) 747.宗教は一つ、である。
対立はない。
バカには理解できない。
大爆笑である。 対機説法っていうのは、上記にも引用したけど、有的であると同時に無的じゃないと駄目なんですよ。
そこを分からずして「俺様は甲にはAと説き、Bには非Aと説き…」とか。
こういう事はバカ鬼みたいな覚者妄想に堕ちたアホがやることじゃないんです😯
そういう自覚のないバカが分かったつもりになって「此れ分かるかなぁ?」なんて。
そういう事は春先にお花畑にでも行ってそこで勝手にやって下さいって事ですよ😯 >おれは鹿に対しては、悟はあるよ、と言うし、カムイに対しては、もともと悟は無いよ、と言うしかないね。。
なんですか、此れ?
何様のつもりですか、此れ?
自分が仏陀や祖師にでもなったつもりですか。此れ?
いくら何でも、こういうのは凄まじい勘違いと云うか、増上慢であって自惚れが過ぎますね。
坐禅なんかしてないんでしょ?
師家にもついてないんでしょ?
実生活のかなでそそのように仏教を消化してないで、それが雪担老漢のいう「標準もとっからこれ」なんですが、こいつは口先だけじゃないですか?
坐ればいいじゃないですか?
師家に付けばいいじゃないですか?
その実践が「標準もとっからこれ」なんですよ?
口先だけ。
ほんと、口先だけ。
匙を投げられて当然ですよ、この人は😯 訂正
>おれは鹿に対しては、悟はあるよ、と言うし、カムイに対しては、もともと悟は無いよ、と言うしかないね。。
なんですか、此れ?
何様のつもりですか、此れ?
自分が仏陀や祖師にでもなったつもりですか、此れ?
いくら何でも、これは凄まじい勘違いと云うか、増上慢であって自惚れが過ぎますね。
あなた、坐禅なんかしてないんでしょ?
あなた、師家にもついてないんでしょ?
実生活の中でそのように仏教を消化してないで、それが雪担老漢のいう「標準もとっからこれ」なんですが、あなたは口先だけじゃないですか?
坐ればいいじゃないですか?
師家に付けばいいじゃないですか?
それが「標準もとっからこれ」なんですよ?
口先だけ。
ほんと、口先だけ。
匙を投げられて当然ですよ、あなたは😯 まぁ、こういう人ですね、ロンさんは。
↓
967 名前:くろ[sage] 投稿日=F2020/05/03(日) 17:54:57.03 ID:QqZCVbZL [3/5]
>>955
正師を見つけて、指導してもらう。。
969 名前:かの[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 18:04:35.09 ID:P1S873Ky [21/23]
>>967
>正師を見つけて、指導してもらう
その正師に
くろさんは指導して頂いてますか
982 名前:くろ[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 19:53:44.40 ID:QqZCVbZL [4/5]
>>969
いいえ。。 >>726
全てのものは関係し合って成り立っていること。関係せずにいきなり栄進が生まれる事は無い。それが縁起 今の自分と考えているうちに今はもう過去になる。
ゆえに今の自分などない。 >>754
因があるから果があるのか?
果があるから因があるのか?
仏教でも洞察が進むと、果から因縁が遡って言語に拠って創られるって事に気付くんですよ。
栄進さんはその次元で話してるって事です。 鹿クン、あなたもう存分に荒らしただろ。。w
そろそろ帰ったら?w
おれは、そもそも読まないから。。w
邪魔なんだけど。。ww >>718
一生を棒に振る=彼岸に渡るだね。。w
これほど素晴らしいことはない。。w >>754
全く逆です
なんの関係も無いのに栄進は存在している
それが縁起です
愚か者は、そこに関係を求めるから苦悩するのです 760.正解である。大爆笑である。
バカには理解できない。
大爆笑である。 >>724
悟りは一つです。
なので悟れば釈尊と同じ悟りとなります。 >>760
そうじゃなくて、縁起というのは、空と同じだから、実体ない、ということだよね。。
だから、栄進も実体ない、野良もカムイも、おれも実体ない。。
お釈迦さまも、禅も仏教も実体ない。。
縁起の理という法のみがある、ということ。。w
何にも無いけど、同時に、すべてが在る。。
あっぱれなり、終わり。。w >>756
今に直接触れる体験をすると、また、違う感覚になります。 因縁があるってことはわかるけど、どういう因縁で、おれみたいなどうしょうもないやつが生まれたのか?
その詳細は不明だよね。。w
因縁がないとは言わんけど、それらが全部わかるってことはない。。
不昧因果とか言っても、ごくごく簡単な因果しかわからんのが人間の知能の限界。。w 統合失調ってのは、要は、自我の不調。。w
怒りとか不満とかどこに向けたらいいのかわからない。。
どうして、こうなってしまったか、わからない。。
栄進でもコジでも、親が創価だった、というのが共通しているよね。。
親に対する、愛憎、アンビバレンツ、これを正しく意識して、解消する、というのが、精神分析の方法だけど、
そこに宗教が絡んでくると厄介だ。。
新興宗教って、信じている自分たちだけが特別だ、となってしまうから、ヤバい。。
新興宗教じゃなくても、そういう思い込みってヤバいよね。。 縁起の理が法であるということは、実体を認めないということ。。
実体を認めないということは、是非善悪を言う世俗の法とはちがうということ。。
もちろん、世俗が是非善悪を必要とするというのも、法なので、否定はしないけど、仏法は、それを包摂して超えるわけだ。。
だから、この仏法を明らめて、そこに安住するのが、悟であるという風に理解しないと、縁起、因縁の他に法があることにになって、仏法に反する、ということになるんじゃないかな?
超越ということがあるなら、自我とか、世俗に対して、超越性はあるが、因果、因縁に対する超越性はない。。
だから、因果、因縁のままに、ということでしかない。。
どーしょうもないんです。。w
しかし、このどーしょうも無さの中に、安楽がある、安心がある、ということだね。。 >>763
縁起とは、原因が存在しないこと
原因が空ってこと
すべてが偶然って話です >>769
原因が空は、その通りだけど、そこから、全ては偶然、にはならないだろう。。
飛躍しているよね。。w >>770
因果関係が存在するのが必然です
因果関係が存在しないが偶然です わかった!
こう言い換えればスッキリする
必然と偶然の対立、矛盾が「縁起」です 坐禅が大安楽の法門である、というのは、自我を超えるから。。
自分の取り分がない=大安楽だよね。。
自分の取り分があったら、大安楽にはなりません。。w
何かしら仏教らしいこと欲しい、得たい、というのでは解決しない。。w
本当の自分が欲しい、じゃないと、自己は解決できないね。。
解決したら解決したで、だからおれは・・・とやりだす、これが収まらないことにはどうしょうもないわ。。w >>772
何かが偶然か必然かなんて、わかりようがないじゃん。。w
それをわからないまま、曖昧なままにできるのが、まともです。。w
偶然なんだとか、必然なんだ、とか思い込むのは、ちっとおかしい人、なんじゃないか?w
ただ、何か起こったら、原因があるだろう、とか複数要因があるだろう、という理がわかるというだけだよ。。 >>775
まともか?
ただのバカだろ
「もしも愚者が『われは愚かである』と知れば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかも自分は賢者だと思うものこそ、『愚者』と呼ばれる」
出典:『ブッダの真理のことば・感興のことば』
中村元、岩波書店、P239〜240より
↑
お釈迦様も、偶然なのか必然なのか分からない馬鹿でしたってオチだよ 東大受かったら受験勉強した必然だ
宝くじ当たったら偶然のラッキーだ
世の中、偶然と必然が入り乱れてる
訳分からん
コレが縁起
(^ω^) 手球が的球にふれるまでは、いかなる因果性も生じない。
このことは、衝突に至る前の任意の地点で手球を手で止めることができ、そうしたら的球には何の影響も及ばなかったであろうことからわかる。
球が当たるまで、的球にとっては何の因果性も生じていない。
そしてこれは、ヒュームのもう一つの原理である近接性からわかることである。
手球は的球に離れたところから影響を及ぼすことはできない。
だから、衝突に先立って手球が転がっていったことは、実はあまり関係がなかったことになる。
それは手球がどのようにして衝突の地点にたどり着いたかの話にすぎない。
近接性の条件によれば、因果性は原因と結果の接触とともに生じる。
そして接触が生じるのは、ある特定の一つの時点か、あるいは若干の幅のある時間においてである。
このことから、原因が結果よりも前に起こることはありえないことが示唆される
(『哲学がわかる/因果性』岩波書店) >>760
アホかw
他から全く独立した栄進など不可能だ。 >>776
だから、愚者か賢者かという両極端で思考するのは、おかしいんじゃない?w
まともであればいいだけだろ。。w カムイは、また殻に籠っちゃった気がするな〜〜。。w
すぐ自分だけの世界に籠っちゃう人。。w 牛過窓レイの公案も、もともとは、牛が小屋に入って出られなくなる、というものだったらしい。。
せっかく、外に出て自由になったと思ったら、また、檻に入って、出られなくなってしまう。。
なんでなのか?w 牛というのは、自分とか悟りとか仏法とか・・・さて、なんで身動きが取れなくなるんでしょうか?w まあ、こういうごちゃんなんかも、檻と言えば檻、隔離病棟かもしれない。。ww この檻というものには、ちゃんと出方があるんです。。w
入ったら最後のゴキブリホイホイじゃないからね。。w
でも、ゴキブリみたいな人は、出られなくなります、ということかも知らんが。。w >>780
なので栄進は存在しません
と言ってる栄進は存在します
結局、有るとか無いとかに拘るから愚か者だと言われるのです 法はあるよ、ただ法を体得した後に法を消していく。
法を体得してないのに法はないない言ってるやつが多すぎるな。 別に愚か者でいんじゃない?w
賢者でもいいかもだけど。。
というか、栄進は遊び人だけど。。w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています