「ふん、おれがバナナのたたき売りなら、おまえはチンドン屋じゃねえか」

485さんのような恥知らずはどうでも良い。
上記の文章を読んで、信者さんたちの中に、信仰する教祖の文言として
「恥ずかしい」と思った人たちがいたはずです。
2002年は桐山さんはすでに有余依涅槃の聖者を宣言していた。
有余依涅槃の聖者とは、阿羅漢、解脱者のことです。
仏教の阿羅漢は、煩悩から解放された人のことです。
阿含宗でも解脱者とは桐山カルマと煩悩の両方を切ったことになっている。

煩悩から解放されたはずの人の発言が、チンピラのような品性の卑しい上記です。
普通の国語力のある人が読めば、桐山さんの作家Aへの激しい怒り、憎しみ、
小説家として成功した彼への嫉妬などの煩悩が満ち溢れているのがわかる。
この時、すでに24年も経過していてこの有様なのだから、
桐山さんの怨みと憎しみの執念深さはまるで霊障のホトケです。
文章には桐山さんの「悔しい、憎らしい、うらやましい、復讐してやる!」
という煩悩が荒れ狂っている。
485さんが桐山さんに共鳴するのはこの激しい憎しみや復讐心でしょう。
煩悩が切れているどころか、むしろ、普通の人よりもはるかに強い。
この煩悩が暴風のように荒れ狂う桐山さんを、信者さんたちは
煩悩から解放された解脱者だと信じている。
まるで麻原彰晃は粗食でガリガリに痩せていたと信じているようなものです。