【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、 体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、 更なる成長を求めて語り合いましょう。 前スレ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607853920/ ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、 日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。 日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります。 諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。 そこを踏まえてご参加ください。 答えを先に握りしめてる人が他人の話なんて聞けないよね 人は一人ではない 周囲との関係で生きている なんらかの役割を演じている 生きるとはこうも周りに翻弄されることだ ヴィパッサナーでそんな心を真摯に見つめていく 見つめれば心は静かになる 惑わされなくなる 人は刺激を求める 愛憎、喜怒哀楽、すべて楽しみとしていく それは依存しているということ それなしでは生きていけないということ 瞑想は刺激のないことを楽しむ これほど依存しない生き方はない 大乗はそういって尊大な態度をとっていたが 現代になって詳細な情報が知られてくると その立場が逆転したな 我々の菩薩は、阿羅漢になろうと思えばなれる段階から、如来となられるまで 四阿僧祇十万劫のあいだ波羅蜜を積んでこられたという。 仏教は、釈迦牟尼の時点で最初から一乗。 方便を理解しない人だけが大乗、小乗ということを言う。 拈華微笑 仏教は蓮華の華に譬えられるが、蓮華の華は拈って裏返しにしても 同じ蓮華の華。 まあ両方で極論に走る人がいないと2ちゃんねるではスレが回らないし 我々の菩薩と書いて、我が君と読む。 個人的には、内心では王子と呼ぶこともある。 孤独のグル 尊師がいろんな所へ托鉢に回り、もらった供物をいちいち品評しながら食す人気ドラマ 仏教における指導者は善友(カリヤナミッタ)と呼ばれ、世俗や外道における支配・被支配の関係性とは異質と思う。 他力の信心うるひとを うやまいおおきによろこべば すなわちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまう(親鸞) とかだな 結局いろんな宗派が釈迦の教えを表現しようとしてるんだわね そんで俺の似顔絵の方が釈迦に似てるーあんたの似顔絵は釈迦に似てないーとかしてんだ 空しいもんです そだね。 他者を問題とすることをやめて、自分が三学を進めれば、似顔絵ではなく実物が見られますよ。 「法を見る者はわたしをみる。わたしを見る者は法を見る。」 この言葉は比喩じゃない。 文字通りの意味。 じゃあこれを 『若し、長老が「我は是羅漢」と言ふも、阿羅漢の者は、終に想を生ぜず。我は羅漢を得たりと。 阿羅漢のものは、惟善法を説きて、不善を説かず』 (もし、長老が「私は最高の聖者である」と言うことがあっても、本当の最高位の人が「私は最高の聖者のさとりを得た」と思うことはない。 最高の聖者はただ善に係わることだけを説き、不善に係わることは口にしない) ラベリングラベリングの瞑想がうまくいく人、才能あるんだと感じる ラベリングだけ流れて行って、ラベリングしてるだけで感覚見てないってなって妄想や思考ばっかりなるわ 感覚を優先してラベリングはものすごく適当に数少なくやらないと、ただ苦痛の中で座ったり歩いたりして、そして妄想思考だけ暴走してるってだけでしかないわ俺 とにかくラベリング法だと、まだ、なんか適当にマントラみたいなの唱えてやるほうができるって感じだわ むずかしい場合、最初は思い思いとか感覚感覚とか動き動きとか大雑把でやってみるのもいいですよ もっと大雑把に言えば全ては自分の状態なのですから状態状態でもいいと思いますし そのとき自分の今の状態が起こっているという事実にちゃんと気づきながらラベリングしてればそれでいいと思います 慣れるにしたがってより細かくできるようになっていくと思います 瞑想で神秘体験したって話良く見聞きするけど(なんつーかナチュラルマウント取ってきてるように感じること多い) なんか普通状態じゃない感覚はあることはあるけど、はっきり自分が神秘体験したとかそんなのないし気配もない 長老は動画でよく「神秘体験が何ですか??」 言ってるし、長老が神秘体験をしていても、そのことによるナチュラルマウントは感じたことないけど 「俺神秘体験した」ってネットで見聞きする範囲では、したって発言する人間 なんか隠せないマウントがあるんだよなぁー 有頂天って言葉あるしね。思い上がりがあるうちは、まだまだだと、どっかの禅の お坊さんが言ってたよ。 桃太郎が登場しないとすぐに過疎ってしまい一向に盛り上がらないスレとなってしまうな。 なんでだろう?そろそろ、盛り上げて差し上げましょうか?(笑 このままだと、いつものごとく、ナンチャッテ覚者が仏典に基づかない持論を述べるだけのスレとなり 真実の仏法を学びたいと思う方々にとっては、まったく物足りないスレとなってしまいますね。 >>24 前スレ【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 >>828 の長老の法話なんかみると、思いあがりにも程があるね。 なんたって、「俺サマは竜樹を超えた法師である」「龍樹は未熟者だ」と言ってるも同然なんだから えっらそーに!な〜に言ってんだかと思うよ。 その前スレ読んだけど そう受け取るのは妄想やと感じたで 空というのは頭で理解するものではなくて、修行して体験するものなんですね。 それはないでしょ、あの人の哲学には。 この部分、俺には真なのか長老の妄想なのかは分からんけども ここが特に引っかかる部分や思うが 大乗仏教って何かとりあえず「空! 空! 空!」言うけど 空性って実際何でわかるんだ? 頭で言葉でわかるで 「車があります。と言いますが車って何ですか? ハンドルですか? エンジンですか? 部品をとりあえず集めて、重ねても車ではないです。 各々が、関わり合い、作用する関係になって、いわゆる縁起が成り立って車です。人間もその他もすべてそうです。”車”だ、”人間”だ、”私”だ。と言う”実態”はなく空なのです」 って言葉は分かるけどさぁ 俺はもちろん瞑想でも思考でも、空性になんか気づいてねーよ? 念仏唱えて色即是空空即是色般若腹見たー言って理屈聞かされても、もちろん空とか分からんわ って、俺自身なに言いたくて書いたかもわからんわ このこと自体が空なんかね むしろ、テラワダのやり方で悟ると、俺は偉い、悟ったと言うのがそもそも妄想だった と分かるよ。だから、自分から悟ったぞすげーぞとは言えなくなる。 神秘体験で有頂天になるのは、むしろ梵我一如系だと思う。自分もすげーと思ったけど、 今では、まあ、そういう体験もありますね位になるよ。 白隠が悟ったと有頂天になった時に、正受老人にとっちめられて、おばあさんに頭を ポカリと叩かれてやっと分かったっていった逸話に似てる。 >>27 >テラワダのやり方で悟ると.....自分から悟ったぞすげーぞとは言えなくなる。 じゃ、涅槃とか預流果とかを悟ったと言っている人は邪道なんだね。 いっぱいるよ、このスレの住人には。 「預流果まで入ったことの無い人間には分からない」とか、よく言ってるよ。(笑 ※遠回しに「オレは悟った」と言いたいんだろうね。 >>26 「空」がどうのこうの言っても私たちの日常生活に於いてはなんの意味も無い。 他に有意義で価値ある事を考えていた方がよほどマシです。 例えば「りんご」とはこの様なもので、その構造はこのようになっていて、甘くて酸っぱい。 その化学式は○○であり云々....とか、あれこれ考えるより、果物屋さんに行ってリンゴを買って食べた方が早いに決まっている。 毎日、エロ動画観て楽しんでいるようなオレらが「空」の悟りがどうのこうの一生掛かっても理解出来るものではない。 それらはあくまでも「真実の仏法」を理解する上での「助縁」でしかない。「縁起」も「無我」も同じで、実は同じ事を言っている。 まさに「樹をみて森を見ず」だ。 では、その「真実の仏法」とは何かと言うと法華経であり、末法の「南無妙法蓮華経」に他ならない。 ちなみに >念仏唱えて色即是空 などは、地獄の因を積むことになるだけで、なんも良いことは無い。 仏法に無知な者のする事です。 俺信者じゃなく、とりあえずマインドフルネス系から瞑想入って ようつべで、法話聞けるやんええわって聞いてるが 他にも三つかな? ヨガ系の法話もやってるチャンネルとかも見たけど、とりあえずスマナサーラ長老の法話が一番いいわと一番見てる 長老は瞑想での妄想は徹底的につぶさなあかんいうけど、それ難しすぎるわ マインドフルネスだと多くの場合 「妄想が多い、落ち着きがない。そのことに気づけばいいのです」 ってむっちゃ簡単なこと言うけど、まあ、 「妄想ばっかりのまま座ってた。歩いてた。そして決めた時間の間座ったり歩いていた。もしくは途中で投げ出した」で良し。ととても思えんのは事実だが だからって妄想が沸きまくる心理状態の時、長老の言うように妄想を叩き潰すってできない心理状態なんだよな そこが、比丘でも在家修行者でもなく、 「ブッダはすごいことに気づいたと知った。俺もそれに気づいていきたいって瞑想している。五戒を守りたいが蚊とか害虫と言われるのは殺してしまう」 のの現状なんだろう 長老に言わせたら 「頑張ってください」 で終わりやろうけど まあ、とにかく瞑想続けよう >>28 敢えて、話を理解してもらうために、預流果になったと、説明のために仕方なく 言ってるだけだと思うよ。間違っても、会う人に、俺悟ったぞすげーだろとは言わない。 心の奥でも、俺は悟った凄いんだと思わない。そもそも凄いとか思ってる事自体が 妄想だと分かるんだから。 すまん・・・ 「アンカ先が無いおかしいぞ」と思った アンカに合わせてアンカ先出て知ったが 俺、桃太郎氏の文章、題目と念仏と同じく一切無駄と思ってるのでNGしてたわ すまんけどそのままNGしとくわ 題目と念仏と同列に無駄だから 重ねてすまん。 NGとか、レッテル貼りとかいかんな 桃太郎氏、悪かった NGをやめます ごめんなさい(ごめんなさいとかなんか子供みたいだが) >>30 >俺悟ったぞすげーだろとは言わない。 言わなくても思っているなら同じ事だよ。(苦笑 まぁ、ネットで遊んでいるような愚かな凡夫の物差しで、「悟った悟った」言うのは本人の自由ではあるが 実際は何一つ変わらない自分を観て、「なんじゃコラ?」気づく時がいつの日かくるだろう。 そもそも仏法は「頭」で理解するものでは無い。 私たち凡夫は仏の教えを「信ずる」ことでしか悟りを得ることは出来ない。 これを「以信代慧」という。 末法の修行者は「信をもって、智慧に代える」のです。 仏教上の瞑想は、今の世に何の意味も無い無駄な修行法です。 仏は教・機・時・国・教法流布の先後を見極めて法を説くのです。 時(時代のことでは無く衆生が仏を求める「時」を言います。) 機(衆生の機根を見極めます) 国(風俗や習慣、時代ごとの風習を尊重します)※釈迦も外道の教えを借りて方便を説きました。 教(仏は以上の事を鑑み、衆生にとって最も適切な教え(方便)を説きます。) こうした、教法の手順を踏みながら、次第に「法華経」へと誘引していくのです。 したがって、如何なる時代、如何なる国々に於いても、仏が説く教えは必ずしも同じでは無いのです。 それを、みんな分かっていないし、理解している人も少ない。 但し、末法に於いては「南無妙法蓮華経」の一法のみで他の教えは必要が無い事は、言うまでもありません。 朝5時にウォーキングいうか散歩して、近所の自称大社の中通ってる 大社名乗りよるので実際広くて、賽銭して拝むところ四か所かそれ以上あるのかな? 俺はただ通り抜けるだけだが、毎日毎日、その四か所にお金いれて、二拍なんとかいうの? それしてるのが複数いる 「神社みたいな、教えも衆生救済も一切なく、金だけ集金して戦争の時は国民の命吸って。こんなのになんでここまで敬意を払うんだ?」 って常に思うけど、それによって本当に”我”を離れるなら、神社も瞑想修行も題目も念仏もどれでもいいとは思う 俺だって、たかが賽銭して、拝んで我の欲望を願って、それで我を離れてうろたえたり感情に振り回されないとかなるならするわ 今現在瞑想でだって我は離れないし感情の制御もできないが 信心があって、念仏や題目すれば、何かあるか知らんけど とりあえず俺に、その手の信心は発芽しない >>33 >>心の奥でも、俺は悟った凄いんだと思わない。 と書いているんですけど・・・? また、桃太郎氏の法華経講座が始まったので勝手にどうぞ。 小乗教の大きな間違いは 釈尊が2500年前にインドに裕福な王子として出現して、19才で出家し、外道に仕え 30才で菩提樹の樹の下で悟りを開き「仏に成った」と思っていることです。 つまり、妻子持ちのボンボン王子様が、ある日思いついて、外道の修行に明け暮れ 「もう、ムリ。こんな辛い修行で悟れるわけないじゃん!」 「やーめた。」と言って修行を投げ出し、スジャータの娘がくれた乳粥を飲んでファイト一発! 修行に付き添っていた従者たちは「釈迦王子が退転してしまった」と嘆く。 十分療養した後、釈尊は瞑想三昧。 ついに悟りを開き「仏」と成った。 仏になったとたん、様々な教えを身近な人間に説いていくが、 その説く教えの素晴らしさは外道の法師さえ驚く程であり、外道の弟子たちは次々と釈迦の弟子となっていく。 舎利弗、目連、摩訶迦葉等々 こうした釈迦が仏に成る過程を「始成正覚」と小乗教の弟子等は認識しているが、実はそうではない。 ※始成正覚=今世で初めて「正覚(仏の悟り)」を得る事。 釈尊が自分の正体を明かしたのが法華経寿量品第十六に記されてある。 ※久遠実成=過去世から仏であった事 釈尊が菩提樹の樹下で悟ったのは、遠い過去世から、もともと「仏」であった事を「思い出した」のです。 つまり、妻子持ちのボンボン王子様の釈尊が、わずか10年の外道(バラモン)修行(最後は投げ出したが)で 瞑想により、たまたま悟りを開いて「仏」になったわけでは無いという事だ。 小乗教はここが根本的に理解出来ていないのです。 >>35 >>>心の奥でも、俺は悟った凄いんだと思わない。 >と書いているんですけど・・・? いやいや、悟ったと思わない人間が「悟らなければ分からない」という逃げ口上は致しませんよ。(苦笑 悟ったと慢心しているからこそ出るセリフでしょうに。 あー ようつべとツイッターで 「在家で何にも帰依してないけど坐禅で悟った」っていうのがいて 前少し見てた。少し見て、こいつ嘘だわって完全に見限ったが それの師匠の師匠は僧だけど、師匠自体が僧じゃなく 師匠「私の下で何人悟りました(決着がついたって表現だったと思うが)」とかホームページで書いてる 「ブッダと同じ境地に悟った」みたいなのも ともかく、そのようつべやってるそれが 「悟った後のことは話しません。悟ったらわかりますから」 言いながら悟ったらどうなるって良くしゃべってたわ 悟り方は、正しく座ることさえできれば悟るという説明 悟るってどういう状況か分からんが 逆上がりができるようになった みたいなものと違うんかな 俺はもうどれぐらいの年月逆上がりしてないか分からんけど、よほどおかしいぐらい体力衰えてなければ逆上がりできるわ でも、どうやったら逆上がりできるか俺の能力では説明できない 練習に付き合って、腰を持ち上げて、こういう動きだって相手の体に覚えさせてできるようにはできるだろう でも、なぜ自分ができるか、なぜ出来たら出来るようになるのか、それは説明できない 「逆上がりを悟ったもの」が存在すれば、逆上がりを悟ってるんだから、多分説明できると思う 違うんかな? >>37 悟ったと言う事実と、慢心という事実を切り離して考えてみてください。 慢心するのは悟ったからですか?テーラワーダの悟りではそうはならんですよ。 またいつもの言い方になりますけど、全てを吹き消した境地が涅槃ですから、それについて あれこれ言う基準が無くなってしまうんです。 吹き消された境地について、俺は、吹き消された境地を知ったからすげーと慢心 しますかね?逆だと思いますけど。 >>39 じゃ、あなたは「全てを吹き消した境地」に立っているんですか? ※で、なにを吹き消すの? 抽象的で意味不明 >>40 煩悩が全て落ちた状態と言ったら分かりやすいかもしれませんが、言葉で上手く説明できません。 預流果だと、そのすべてを吹き消した状態を一瞬垣間見ます。 >>41 話をそらさないで。 >あなたは「全てを吹き消した境地」に立っているんですか? と聞いているんです。 >>43 預流果では、そのニルヴァーナを一瞬垣間見るんです。その状態がずーと 続くわけではないです。また、現世に戻ってきます。それでも一回ニルヴァーナを 垣間見ると、三結と言う煩悩が完全になくなるんです。何回も言われてるけど、 疑(ブッダへの)、有身見(我があるという妄想)、戒禁取(しきたりに関する迷信) が完全に落ちます。だから、預流果になっても、まだ欲もあるし怒りもあります。 だから、預流果は、三結が無くなった状態で物事を見てます。一来果、不還果と修行が進むと やがて、欲と怒りが完全になくなります(自分はここまで行ってません) 完全にニルヴァーナと一体化する(すべてを吹き消した状態に地でなる)のは阿羅漢ですよ。 >>44 >一瞬垣間見るんです。 それなら、睡眠薬飲んで熟睡しているのと変わらないのでは?(苦笑 たぶん、それはあなたの妄想であり、一種のトランス状態しょうね。 涅槃とか言っても、それは証明不可能であり、結局ネットで遊んでいるような人間が自分の物差しで自己判断しいるだけの話ですね。 だから、「ナンチャッテ覚者」と呼ばれるのですよ。 証明不可能なら、誰でも勝手に「涅槃を得た」とか言えますもんね。(苦笑 ちなみに、葬式で念仏の坊主が「故人は成仏しました」と言っているのと、さほど変わりがありません。 ※いい加減な気休めに過ぎないのに。(笑 それから、前にも言いましたけど釈迦在世に於ける弟子の中でも阿羅漢に達するのは上品のエリートの中でも僅かであり その修行の厳格さは貴方たちには想像もつかないものである事は間違いない。 その貴方たちが阿羅漢になれると本気で思っているのでしょうか? 前スレ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 >>943 を参照されたし。 それから、これも前に言いましたが、小乗にせよ大乗にせよ修行の段位などは仏弟子の求道心を発心させる為の方便に過ぎません。 無我、無分別の世界にそもそも生命のランク付けなど無意味なのです。 それに執着して自分に気付かないだけの話です。 阿羅漢果を得ると「三界には戻らず輪廻から解放」と言いますが 戻らない人間が、どーやって証明出来るのですか?この時点ですでに論理矛盾しています。 釈尊の説いた方便にいつまでも執着するから、真実の仏法がいつまでも分からないのです。 初期仏教は実力主義で 「俺はできる。お前も出来るようになれ」 みたいなところがあるのは思う そもそも、生きたいという願望があるからこうやって生命は今もあるのに だから必ず苦しむように産まれついていて、苦しむように産まれついているから生命は絶えなく続いているといえる その願望を手放す状態だけど生きてる、そして慈悲の心があふれる って、すごい実力主義で、信仰やそっちで大丈夫なんだって言われて救われるのはあるわ でも俺信仰心とかなんでできないんだろうなぁ 信仰心とかできたら楽なのに 「俺は俺でできるんだ」って、巨大な慢心があるんやろうなきっと 瞑想でととのっていってる気も一切しないし 信じやすい性格の人間は信仰に走りやすい 疑い深い性格の人間は信仰より初期仏教のような実践主義に向かう でも預流果になれば経典に書かれいてる内容が本当だと分かるので盲信ではなく本当のことだという確信としての信仰心がわく 預流とは悟りの流れに乗っているという意味で預流果において涅槃がどういうものか分かるので修行の方向性の迷いがなくなりこのまま進めばいいのだと分かる そういう信じる心、盲信でない信仰心は預流果になって初めて明らかになる あやふやな信仰(盲信)ではなく自分とは世界とは本当に実際何であるのかを分かりたいと真に願う人は実践を続けて早く預流果に至るといいでしょう 釈迦は、預流果になると、その人に残ってる苦は、大地の土に比べて爪先の上に 乗る土ほどしか無いと言っている(阿含経 爪先) また、世界の王になるよりも預流果の方が優れていると言っている(ダンマパダ) 預流果はちょっとした変性意識状態ではないよ。 「悟った悟った言っちゃってどうしたの?」 って茶々入れたくなる気持ちは分かる >>48 そうでしょうね。(笑 でも、「スマ爺教」では、ネットで遊びながらでもカンタンに到達出来るらしい。(苦笑 そういう馬鹿げた妄想を信じ切っている「スマ爺教」信者が本当に哀れでならぬ。 もし「預流果悟りましたぁ〜」なんて言ってる愚かな凡夫を、 大阿羅漢の舎利弗がみていたら呆れかえってものも言えないでしょうね。 >>47 >信じやすい性格の人間は信仰に走りやすい これも前に私が話しました。 「信じやすい」もなにも、人間は「信じる事」なくして生きていけないのです。 前スレ >>934 参照 つまり、人は皆、信仰に生きています。 「信ずる対象」を誤ると不幸になるだけの話です。 あなた方はスマ爺という「悪知識」を信仰するゆえに 「ナンチャッテ覚者」になってしまうのです。 鰯の頭も信心からなので 本当に信じたなら、信じたせいで不幸ってそれは他人の感想 >>52 大乗の仏法者としては、「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」なんて出来ないんですよ。 もし、友人がISISに入りたいなど言ったら、必死で説得して止めるでしょう。 まぁスマ爺教は「悟らないのに人は救えない」というスタンスだから関係ないんだろうけどね。(笑 他人の感想でしかないなぁ イスラム国に入りたい友人ねぇ? ふーん >>54 ふーん、あなたの感想でしか無いよね。(笑 まぁ、どーでも良いけど。 涅槃経に曰く「若し善比丘がいて、法を壊(やぶ)る者を見て、置いて、呵責(かしゃく)し駆遣(くけん)し挙処(こしょ)しなければ、当(まさ)に知りなさい。 是の人は仏法の中の怨(あだ)である。若し能(よ)く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」 間違った考えは正してあげないと、仏法者として無慈悲だと私は思う。 あなたの感想でしかないw(おうむがえしと w) どうでもいいけど(逃げるための一言) は残念だったなぁ・・・ >>大乗の仏法者としては、「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」なんて出来ないんですよ。 それなら、桃太郎氏がISISの本拠地に乗り込んで、法華経こそが真の教えである と、堂々と説いてみては? >>56 名無しのステハンさんから、逃げる意味がわかりませんね。(苦笑 言ってる事が、まるで小学生だな。(笑 それでいて涅槃とか信じているんだから、ヤレヤレです。 >>57 じゃ、君は 「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」と思うし 「友人がISISに入りたいなど言っても止めない」 「世の中、間違った思想や権力者によって人々が苦しめられても、私は関係ない」主義なんだね。 そしてそれがテラワダ思想と言うわけだね? 君がテラワダ信仰者でなければ別だけど。 そこ、先ずハッキリさせましょうか。 いや、だから、桃太郎氏がISISに乗り込んで法華経こそが最高の教えであると 言えば良いんですよ。なぜ最高の教えなのにそれが出来ないんですか? >>「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」と思うし 「友人がISISに入りたいなど言っても止めない」 「世の中、間違った思想や権力者によって人々が苦しめられても、私は関係ない」主義なんだね そんなの時と場合によるがな。なんでそんな極論に走るのか理解不能。桃太郎氏は テーラワーダが血も涙もない自分が救えれば良い教えだとでも思ってるんだろうか? 違うよ、自分の心のコントロールは自分でしか出来ない(特に瞑想に関して)から、 他人のやったことに関しては他って置いて自分の心を見つめなさいと言うんだよ。 >>60 君は自分で何言っているのか分かっているのかね? >なんでそんな極論に走るのか理解不能。 こっちが理解不能だよ。(唖然 >桃太郎氏がISISに乗り込んで法華経こそが最高の教えであると言えば良いんですよ。 平然と、こう言うのを極論というのじゃないの?自語相違も甚だしい。 そして君は >大乗の仏法者としては、「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」なんて出来ないんですよ。 という私の主張に反論して「ISISに乗り込んでみろ!」言ってるんでしょうが?違いますか? ならば、あなたは「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」という考えを容認している事になりますよね。 分かりますか?言ってる意味が? そもそも、小乗教は自己中心で他者の不幸に無関心でいる。ゆえに大乗より「小乗」と言われるのです。 >>62 >>大乗の仏法者としては、「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」なんて出来ないんですよ。 という私の主張に反論して「ISISに乗り込んでみろ!」言ってるんでしょうが?違いますか? ならば、あなたは「人は人、他人が何を信じて不幸になろうが知ったこっちゃない」 という考えを容認している事になりますよね。 なぜ容認してるのか理解不能。大乗の理念としてすべての人を救う。理念としては素晴らしい です。でも、そればかり言ってる桃太郎氏に対して、現実的にそれを言うんだったら こういう場合はどうか?という極端な例を上げただけ。 普段の生活で他人への思いやりは大切ですし、誰かから言われた一言で 心が救われることもありますよ。決してテーラワーダは他人の不幸に無関心ではありません。 でも、結局は、自分の心の操縦は自分でやるしか無いです。瞑想の場合それが顕著。 試しに自分の奥さんの心をコントロールしてみてください。 安倍一味と一緒で、なんか答えてるようで答えてないのよな桃太郎 これで逃げてないとかいうからおそろしいわ 自民党支配下の国会なら、桃太郎も同じく通じるんやろうね >>63 最後の文は意味不明なのでスルーしますが >大乗の理念としてすべての人を救う。理念としては素晴らしい 心からそう思っているのなら、何故、「ISISの本拠地に乗り込んでみろ!」 なんて言葉が出てくるんですか? これこそ理解不能ですよ。 それに >そればかり言ってる桃太郎氏に対して、現実的にそれを言うんだったら って、「そればかり言ってる」のに何か問題でも、不都合な事でもあるのですか? 世間には私以外にも、平和を望んでいる人々は数多くいます。 そのような人達に対してあなたは「現実それを言うんだったら ●●やってみろ!とか●●戦地に行ってこい!」とか ふざけた極論を言って善良な人々を見下すような事をするの? あなたに聞きます。 前スレの最後の方で 「俗人が他人を救おうなんておこがましいとは思わないんだろうか 」 という意見がありましたが、あなたもそう思いますか? なるほど、つまりあなた方はこう言いたいんですね 縁なき衆生は度し難し イシャはどこだ! と なるほどなるほど >>俗人が他人を救おうなんておこがましいとは思わないんだろうか? 別におこがましいとは思いませんよ。出来る範囲で助けてあげれば良いと思います。 ただ、悟って救済するとなると、テーラワーダでは自力救済という事になります。 自分で瞑想して自分の心の垢を見つけて理解して取るしか無いからです。 他人の心のコントロールは本人でない限り不可能だからです。 >>67 >別におこがましいとは思いませんよ。出来る範囲で助けてあげれば良いと思います。 その通りです。私もそう思います。 困っている人、苦しんでいる人をみたら、自分の出来る範囲で助けてあげれば良いのです。 大切なことは「助けられる」とか「助けられない」とかじゃなく、 苦しんでいる人をみたら助けてあげたいという、その「心」こそが大事だと思います。 もちろん言葉だけで行動が伴わなければ意味がありませんけどね。 それでもまだ「俗人が他人を救おうなんておこがましい」などと言ってる人間よりか遙かにマシです。 皆さん創価学会ってたいへんですね なるべく遠ざけましょうね 中国に脅かされてる人々に対してはだんまりの創価学会 日本が人権問題に態度を鮮明にできないのは公明党のせい なんか今日「自分と思っている”自分”」が生じては滅しているってのに触れた気がしたわ はっきりそうだってなったわけじゃないけど 「あーはっきりそうだってなったら、なんかあるなぁ」 っては、感じたわ はよはっきり感じたいわ 桃太郎ってさ、一応書き込みで怒り狂ってるってないけど 大好きとかを超えた、池田、公明党、創価学会をけなされたらやっぱ怒り狂うの? それとも、見下して 「かわいそうなやつらだ・・・」 みたいなそういうやりすごしなん? 好きとか、本気で傾倒してるものって、人間を簡単に発狂させて ただでもろくでなしなのにもっとどうしようもなくさせるからな 完全に信奉してる、まで行かなくても、好きって状態自体がすでに狂ってるのかもしれんな やっぱり小乗教は人間をダメにする。 悟りを求めながら、現実は、その人間性、また人としての品性はまったく逆行している。 >>72 なんか、自分が怒り狂っている事実さえ理解出来ていない。 論に詰まると、本論とまったく関係の無い事を持ち出して、マウント取ったり人格攻撃のオンパレード これで、「慈悲の瞑想」とか「涅槃を得た」とか平気でいっているんだから、呆れてものも言えない。 間違った教えを信奉すれば、結局、最後はこういう、おろかな生命境涯になっていく。 以前にも私が言ったとおり、信ずる対象を誤ると人間性はおろか人生そのものを不幸にしていく。 いや 人格攻撃してるのお前やん 自覚なしで人格攻撃してるんならもう言う言葉がないわ それに意味が分からん 俺「桃太郎って怒り狂ってるように見えないけどもさぁ、怒り狂うとかの場合どうしてるの?」 桃太郎「お前は怒り狂っている愚者だ(←ただの人格攻撃)」 例にならんけど、簡潔につまんだら 「桃太郎ってどうなの?」 「お前は愚者だ」 なんで言葉のやり取り発生できないの? まあ、言葉通じないならもういいけど 次は、 言葉通じていないのはお前だ 日本語でおk 日本語に不自由 日本語が不安定 外国の方かな? とか言って来ないでよね >>75 いや、逆だよ、むしろ君のコメントに感謝している。 だって、>>73 の私の主張を見事に君が証明してくれているからね(苦笑 いつまでも子どもポイ事ばかり言っていると皆に笑われるぞ。 >>76 創価学会が中国に虐待されてる可哀相な人々を見捨ててる件についてコメントどうぞ ※以下ウィキぺペデイアより引用 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ジャータカ(本生譚(ほんしょうたん)) 釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語である。十二部経の1つ。 パーリ語経典経蔵小部に収録されている。 紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。 パーリ語仏典には22篇に分けて計547もの物語がジャータカとして収録されている。 尸毘王(しびおう) 「釈迦の前世である慈悲深い尸毘王は、ある時バラモン僧のために両眼を布施した。 そのバラモン僧は帝釈天で、両眼を元に戻したという説話。 なおこれは南伝の説話で、北伝では、鷹に追われた鳩を救うために、王が鳩と同じ分量の自分の肉を切り取って鷹に与えた。 鷹は帝釈天、鳩は毘首羯摩天で、王の慈悲心を量った。」 雪山童子(せっせんどうじ) 「『涅槃経』に説く。釈迦の前世である童子が無仏の世にヒマラヤで菩薩の修行をしていると、羅刹が諸行無常・是生滅法といったので、その残りの半句を聞くために腹をすかせた羅刹のために、 生滅滅已・寂滅為楽の半句を聞き、木石などに書き残して投身した。投身した刹那に羅刹は帝釈天に姿を戻し、童子の身を受け止めて、未来に仏と成った時に我らを救い給えといった、という説話。」 薩埵王子(さったおうじ) 「捨身飼虎(しゃしんしこ)で知られる。『金光明経』などに説く。釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った。」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私は中でも「月の兎」の物語が大好きだ。※手塚治虫の漫画「ブッタ」にも書かれてあった物語です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。 3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。 しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。 自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。 その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。 月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 釈迦の前世はみな菩薩道だと分かる。 「俗人が他人を救おうなんておこがましい」という低級思想とはまったく正反対だと言う事が分かる。 「悟らないのに人は救えない」という考えも同じだ。 自分の安穏を差し置いて、「苦しんでいるものや他者のため身を犠牲にして救い守る」という菩薩道の姿がすべての物語に於いて一貫している。 テラワダ信者はこれをしっかり見習うことだ。 そうでなければ、>>77 のような、お子ちゃまレベルの「ナンチャって覚者」になって貴重な人生を終わることになるよ。 スマ長老はテーラワーダのアビダンマの論書についてはアビダンマッタサンガハという簡略化されたテキストは読めるけど長大なパーリ論蔵は読めないというか読まないそうな >>79 自分の信仰に都合の悪いことには何も答えないってわかってたけどやっぱりその通りだったな ウイグルやチベットの人たちに創価の菩薩道は捧げられないどころか見捨ててるんだからな 自分は覚者なんかじゃないしまだまだ知識だけだけど羊頭狗肉で口だけはあんたや創価の方だと思うよ 福田行誠って明治時代の浄土宗の高僧がこう言っていたらしい 近頃は仏法を世のために説くべしという者がいる。 私は言いたい。釈尊が地位も名誉も捨てて山に入り修行されたのは、 はたして世の為だったのか。本来、世を厭うて修行するのが仏法ではないか。 どうしてこの法を以て世のために説くことができようか。 ただし、その余徳で自然に民を利し世を益することまで妨げる物ではないが。 自分は仏教はこういうものだと思うし創価の姿勢は全くお話にならないと思う もう一度聞くけど中国に虐殺、虐待されてる人たちを見捨ててる創価学会に菩薩心は存在しないの? >>81 全くこの通りだ チベットウイグルに対する意見を聞きたい 池田教とでも名乗ればいいのに女々しく破門された日蓮に縋ってるのもなんとも言えないね 池田もまあ輪廻のうちに苦しんでるでしょうから大変ですねと思いますけどね 輪廻はまあ、俺個人の解釈で納得できるけど 死んだ後の地獄と、生まれ変わりがどう言われても不可能 でもブッダが、「輪廻と言うか生まれ変わり」ってしか思えない発言してる部分あったりするよな 死後の地獄もスッタニパータでブッダの言葉で言われてる いや、ブッダと言えど、死んだ後の何者かと交信したこともないしできないやろがと 別に「死んだらどうなるのー?」が気になって仕方がないという意味ではない 「ブッダがなぜそんなおかしいこと言ってるんだ?」ってなる 「ブッダが言ってるんだから死んだ後の地獄はあるのだ」って”疑”が一切ないとか、とりあえずなれんわ 他の部分は疑わない、だけどどうしても死後の地獄は疑う にしかなれんわ ここで言う「死」は、生命としての死じゃなく一瞬一瞬の我の死だとごまかしても ブッダ「コーカーリヤは悪口いったので、悪性腫瘍で死んで地獄へ行きました」 の説明にはならない >>86 もちろん自分にはないけど六神通の宿命通、天眼通がそれに相当するんじゃないかな ここで預流果になったって言われてる人いたけど神通って得られたのかな? ブッダの尊称で世間解(Lokavidū)というものがありまして、仏の十徳の中では 「...有情の世界・現象の世界・空間の世界を知ることによって世間解であり、...」 とあります。我々の理解を遥かに越えていると言え、当然地獄の有情についても よく解っていたはずだと思いますね。 盲人が「色なんか無い」と言われても、目の見える者からすれば、「有るんだけど」と しか言いようがない様なものだ。 桃太郎を見ると創価学会がいかに人を狭量にするのか分かりますね 身の回りに創価信者がいたらなるべく距離を取りましょうね 神通は悟ってなくても出る人は出るみたいだし悟ってもほとんど出ない人もいるみたいだよね 三明とかは悟れば出ると言われてるみたいだけど経典などでもそんな簡単に使ってる人いないし阿羅漢くらいなっての話かな また、ブッダの他の尊称で明行具足というものがありますが仏の十徳の中では 「...三明・八明・十五行を具えることによって明行具足(Vijjācaraṇasampanno)であり、...」とあります。 三明:(1) 天眼智 (2) 宿住念智 (3) 漏尽智。 八明:(1) 観智 (2) 意所成神変智 (3) 神変智 (4) 天耳智 (5) 他心智 (6) 宿住念智 (7) 天眼智 (8) 漏尽智。 こんだけ神通(超能力)あれば解るんじゃねって話。 >>81 佐々木閑氏もよく主張されてるけど、やはり仏教は「心の病院」なのだな。 仏教は「世間における有り難い脇役」 これが本来の在り方なのだろうね 連投スマヌ "Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi."は英訳では"I go to the Buddha as my refuge."だからな。 都議選は公明の匂いがする候補には入れないようにしましょうね 桃太郎みたいな独善が政治に関わると碌なことがないですからね >>79 スマナサーラさんは 物語はあくまで物語だって言ってるし そんな物語を信じていたら 本当のブッタの教えを知る事は出来ないよ やっと、都議も終わり一息つける。(笑 また、盛り上げてあげようかな。 桃太郎が出ないとすぐに過疎るスレだからね。(笑 >>96 >都議選は公明の匂いがする候補には入れないようにしましょうね なーに言ってんだか。 そもそも、世俗を捨てたようなスマ信者が選挙なんか行くわけないでしょ。(苦笑 悟りという妄想に執着し社会を良くしようなんて眼中にないんだから。 テラワダ(スマ爺派)の本質がまったく分かってないね。 東京都議「公明完勝!」おめでとう! わははは。 >>97 >スマナサーラさんは物語はあくまで物語だって言ってるし スマ爺を信じちゃいけないよ。 だから邪師、「悪知識」というんだよ。 釈迦如来が意味も無い物語を数多く弟子に教え伝えるわけが無い。 そして、それらの集大成が弟子によって編纂され記録として今でも残っている。 その事をよくよく思索するべきですね。 涅槃経に曰く 「一闡提(いっせんだい)有り羅漢の像を作し空処に住し方等(ほうとう)経典を誹謗す、 諸(もろもろ)の凡夫(ぼんぷ)人見已つて皆(みな)真の阿羅漢是(こ)れ大菩薩なりと謂(い)わん」等云云(とううんぬん) <現代語訳> 「どうしても仏法を信心することができない一闡提があり、羅漢の姿をして、静かな山寺などに住み、大乗方等経典を誹謗している。 多くの凡夫は、その邪悪なる人を見て、真の阿羅漢であり、大菩薩であろうというであろう」と書かれてある。 まさに「スマ爺」の事だよね。 釈尊は何千年も前からこういう「悪知識」が末法の世に現れ、 愚かな衆生を欺し不幸にするであろう事を預言されていたんだね。 <雪山童子> 昔、雪山童子という人がいた。雪山という山で外道の法を通達したけれども、いまだ仏法を聞かなかった。 その時一人の大鬼神がいて説いていうには「諸行は無常であり、是れ生滅の法である」等と。 大鬼神は、ただ八字だけを説いて後の偈(げ)を説かなかった。 そのとき雪山童子は、この八字を得ておおいに悦んだが、その心境は、あたかも半分の如意珠を得たようで、また、花が咲いて果がならないのに似ていた。 そこで、童子は残りの八字を聞きたいといった。そのとき大鬼神は「私はこの数日間、飢えていて、正念を乱しているから後の八字を説くことができない。食を与えよ」といった。 そのとき童子は「あなたは何を食とするのか」といった。 鬼は「私は人の温かい血や肉を食とする。私は飛行が自在にでき、わずかの間に四天下をめぐって尋ね求めるけれども、温かな血や肉は得がたい。 それは、天が人を守られるゆえに、人に罪がなければ殺害することが難しいからである」と答えた。 童子のいうには「私の身を布施としてかの八字を習い伝えよう」と。 鬼神のいうには「お前は智慧があり、たいそう賢い。私をだますのであろう」と。 童子の答えていうには「瓦や礫が金銀に換えられるとしたらこれを換えないものがあろうか。 私がむだにこの山で死ぬならば、鴟梟虎狼に食われて少しの功徳もない。わが身を後の八字に換えるならば糞を飯に換えるようなものである」。 鬼のいうには「私はいまだ信じない」。 童子のいうには「証人を立てよう。過去の仏も証人にたてられた大梵天王、釈提桓因、日天、月天、四天も証人にお立ちになるであろう」。 こうして、ようやく鬼神は「後の偈を説こう」といった。 童子は、身につけている鹿の皮を脱いで座に敷き、踞跪合掌して、鬼神に「この座にお着きください」と請うた。 大鬼神がこの座について説くのには「生滅滅し已って、寂滅を楽とする」と。 童子は、この偈を習い学んで、あるいは木、あるいは石等に書き付けて、わが身を大鬼神の口に投げ入れられた。 この童子が今の釈尊であり、かの鬼神は今の帝釈天である。 続き 童子はその偈を所々に書き付けてから高い木に登り、我が身を投げた。 羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏すると説き、姿を消したという。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる