【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1607853920/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、
日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります。
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。 結局、小乗教の信者は「人を救うことに消極的です」
君がまわりの1000人の人に聞いてみるといいです。
「俗人が他人を救おうなんておこがましい」と思うが君はどう思う?とね。
恐らく、「そう思う」と答える人間は、自己中な小乗教信者以外は数える程の少数しか居ないと思うよ。
それが厳然たる事実であり、本然的な自然の法理だと思う。
要するに、小乗教信者が「人を救うことに消極的」な教えに執着するのは、「自分にとって都合が良い教え」だからに他ならない。
だって、他のことに煩わされず、自分だけの修行に専念できるからです。
そのようにして、自分の立場を正当化して安心したいだけの話なのです。
しかし、釈尊は法華経に於いて明確にそのような「他人を顧みず自利に執着する衆生」=(声聞・縁覚の二乗)は永遠に成仏出来ないどころか、必ず来世は地獄に堕ちると断言している。
よくよく思索されるがよい。 自分にとって何が一番大切なのか —- 死に臨んで、それがはっきりする。
あるアメリカの母親の話を聞いた。脳卒中で倒れ、数週間、昏睡状態が続いた。
しかし、死の直前に彼女は、はっと目を開けた。そして急に笑頗になって、何か見えないものに手をさしのべた。
彼女は、まるで赤ん坊でも抱くようなしぐさをして、下を向いた。実に、うれしそうで、幸せな顔だった。そのままの格好で息を引き取った。
実は、彼女は初めての子どもを、出産してまもなく亡くしていたのです。
その後で、五人の子どもを産み、皆、立派に育った。彼女は生前、亡くした子のことは話そうとしなかったそうだ。
しかし、死の間際に、お母さんはその子に出会い、その子を抱いて死んでいった —- 残された子どもたちは皆、そう確信したという。
〈M・キャラナン/P・ケリー著『死ぬ瞬間の言葉』中村三千恵訳、二見書房〉
臨死体験で有名なのは、いわゆる「走馬灯」体験です。
死に臨んで、一生の出来事が、パノラマのように次々に浮かび上がってくるというのです。
仏法から見れば、九識のうちの第八識である「蔵識」、すなわち「阿頼耶識」に刻まれた一生の業(身口意の行い)が、一気に浮かび上がってくるという見方もできる。ともあれ、臨終は「人生の総決算」なのです。 日蓮大聖人
「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」
釈尊も生まれてまもなく母を喪い、幼いころから死について考えていた。大聖人も幼少期から「死」を見つめておられた。
<通解>
〈日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、念願したことなのだが「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。
風の前の露は譬えもなお及ばない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。
それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」
ある囚人は、こんな体験をしたという。
彼は刑務所内の病棟に入りたくて、病気になるために何度も石鹸を食べた。ねらい通り、病気になったが、度を越してしまった。
七転八倒の苦しみのなかで、彼の目の前をパノラマのように自分の人生が駆け抜けていった。彼は長い“犯罪人生”の一コマ一コマを体験し直すのです。
そして驚くべきことに、自分が人に与えた苦しみを、今度は、そっくりそのまま自分が味わうことになったという。
〈スーザン・ブラックモア著『生と死の境界 —- 臨死体験を科学する』由布翔子訳、読売新聞社〉 自利に生きる人生には、何も残らない。
人の為に生きるときに、その善業は永遠に残る。 うむ
ここに癌は発生していないし、発生する予兆も無い。うむ
キリスト教スレと、この差は何なんでしょう。基礎基本 足元刈られる。
地に足つけた考えでいないと足元刈られる。 足元刈られる。
自分の基盤となる基本となる所
刈られる。無くなる。
や
わかったか
無くなってわかったか。 人は産まれたときから
その環境での常識やレールを歩かされる
思考のない洗脳の中のような人生
なんの為に生きてるのか
疑問に思うのは人が頭を使えば当然わいてくる疑問
その生きる目的は死を見つめてこそ
解が導き出されると解いたのが仏教
仕事だってなんだってそう
なんでもやり始めてすぐに理解できる者なんていない
仏教を学び始めてから
一体何年経てばその答えに行き着くのだろうか?
産まれてすぐにでも
学べていたらと今は思う ブッダって厳しいから、信仰や神様とかに逃げたい気持ちは分かる
俺も逃げたいときよくある わかる
俺も知り合いがタロットやってたから興味本位でやっちゃったもん
やっぱり占いの結果って妄想を掻き立てるねアレは
でも世俗の人間にとってはちょっとした景気付けにはなると思ったよ(自分も十分に世俗だけどw)
しかしやっぱり占いって執着し易いし思わず自分を見失なってしまうね
占いは仏道修行みたいに自分を見失なうことに対してなかなか喝を入れてくれないからね
悪徳占い師に当たったらヤバい理由を身を持って理解した良い機会だったよ 常に今死んだらを
考えてみる
今死んだら自分の人生に
後悔はないのか
常に問うてみる
このままじゃ終われない 今なにが起きても
良いことがおきても
悪いことがおきても
今死ぬのなら
どんなことも大した事ない
その中でも1番大切にしたいことが
見えてくる 今まで今死んだら後悔するような人生をずっと送ってきたからそういう想いが湧き上がるのだろう しかし、自分がどれだけろくでもなく、存在だけで迷惑だと気づくけども
そのろくでもないのに、自分は正義だ自分は正しい、天上天下唯我独尊思考して生きてるんよな
とつくづく思う
まあ、万人が万人ともそうで、己の正義を振りかざしとる間違いなくに
浄土真宗思想みたいに、
己はろくでもなく存在してるだけで迷惑だ。ぶっちゃけ悪人です。そして阿弥陀の本願力を信心するので、自分がカスだと分かったから必ず救われた
もう、完全に幸せ
ってなりたいわホンマ 行動が変わらんのは真宗じゃないぞ
何ともして、人になおされ候うように、心中を持つべし(蓮如)、悔いる心を旨とせよ(親鸞)
だからな
慙愧の心が無かった、と自覚するまでになって初めて悪人正機の機が成立したってことなんだ その通り
だから「金を溜め込んでいる老人から金を巻き上げることで経済面でも社会面でも立派なことをしている」と本気で思っているような半グレ詐欺グループメンバーは悪人正機の対象外となる
要は確信犯はダメってこと 悪人正機ねぇ。
<マイペディアより抜粋>
「浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の根本思想。《歎異鈔(たんにしょう)》に〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉とある。
善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,阿弥陀仏に救われるとした。
すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対他力の思想につながる。」
テラワダ信者は「自己の能力で悟りを開こうとしている」よね。「仏に頼ろうとする気持が薄い」というのは確かだが、「他力本願」び思想は人間をダメにする。
そもそも「阿弥陀仏」自体が実体の無い仮の仏なんだもん。
それにキリスト教じゃあるまいし、なんで一切衆生に「悪人」などのレッテルを貼るんだろうね。親鸞は本当にアホか?と思うよ。
ウィキで調べると親鸞は天台宗より得度し、最澄(法華宗)によって開かれた叡山(比叡山延暦寺)に学んだとある。
法華経に学びながら師である釈迦如来を忘れて阿弥陀仏に帰着するとは本当にアホという以外にない。
法華経の一切衆生は「本来皆仏」という事が理解出来ていなかったんだろうね。
いずれにしても、念仏もテラワダも人間をダメにする厭世思想である点で共通している。 厭世思想じゃない仏教は最早仏教ではないだろw
ヒンドゥー教や仏教を騙る新興宗教ならいざ知らず 釈迦はなぜ悟りを求めたのか
先ずはそこから勉強し直しなさいな >厭世思想じゃない仏教は最早仏教ではないだろw
その考えが、そもそも仏教じゃないんだよ。
まさに、「小乗教的発想」と言うわけだ。
仏法は釈迦が勝手に作った「法」では無く、本来「万物生成の宇宙根源の法」は無始無終として久遠元初より存在する「法」だ。
これをここでは「妙法」としよう。
その「妙法」を悟ったゆえに釈尊は「仏」の境涯を得たわけだ。
すなわち、妙法を人として体現した存在を「仏」という。
ゆえに「法を見る者はわたしをみる。わたしを見る者は法を見る。」となる。
ここまでは、おk?
野に咲く美しい一輪の花。
これもまた妙法の働きであり、力用であるよね。
太陽があり、月があり、惑星があり、銀河あり
全宇宙同じ法則によって運動している。
これもまた妙法の働きと言えよう。
じゃ、同じように人間はなんでこの世界に生まれてくるの?
前スレでは、誰ひとりこの問いに答える者はいなかった。
要するに釈尊は「生老病死」「成住壊空」これらはすべて「妙法の働きと悟った」わけだ。
ゆえに「仏」となれた。
仏法は「生命は永遠である」これを大前提に説かれてあるのは周知の事実だ。
釈尊が無智の衆生に方便として説いた教えが「小乗教」である。
そこでは、無明を断ずれば「輪廻」も無くなると説く。
こここで考えてみよう。
小乗教では人間の苦しみの根本の因は「無明」(煩悩)である。
それを断ずるのが仏道修行と言うのだが、じゃ、そもそも最初からこの世界の生まれてくる必要は無いではないでしょうか?
人間として生まれてくるから「煩悩」が生じるのであって、最初から生まれてこなければ、煩悩を生じることも無ければ「無明も糞も無い」と言うことになりはしませんか?
その矛盾をどう説明できますか?
「妙法」の働きは生命発生の条件が整えば、「野に咲く美しい一輪の花」のように、この世界に生命体として誕生するのです。
何のために人間はこの娑婆世界に生まれてきたのか、法華経の答えは「衆生所遊楽」
すなわち、この世界を楽しむために生まれて来たと説くのです。
決して、死を求めて生きるのではないのです。 仏法は宇宙と生命の法則を完璧に説き明かしている。
人間の宿命、生死の問題を解決する大法である。
観念でも無い、現実に根ざし社会をリードしゆく哲学である。
ゆえに仏法はいかなる思想・哲学よりも奧が深い。 妻帯した僧としては、浄土真宗の祖・親鸞が有名
親鸞は毎日かあちゃんとエッチしまくっていたのだろう。
それで「悪人正機」とか都合の良いことを言っている。
この考えは、その後「悪事を働いても、一遍「ナンマンダブ」と唱えれば阿弥陀仏によって救われる」という誤った思想を
人々に植え付けることになる。 欲があるから苦しむし
その欲が満たされれば一時的な喜びになる
満たされすぎれば
それもまた苦しみになし
一時がすぎればまた欲の苦しみのが始まる
人は苦しむために生きている
誰もが皆、お釈迦様の言われた修業
精進出来ればいいがそう簡単にはいかない
それなら今ある欲を捨てさせるには
南無阿弥陀仏と唱えることで
足ることを知るという考えは
あながち間違いではないのかも知れない
今に感謝することで
欲を無くし苦しみからの解放を
簡単に手にする事ができる wikiで調べて立場のわからん人の言葉で満足って人も面白いな
検索で自分の先入観を満足させる以上の答えなんて出てこないよ
だいたい自分の好きな結論を探すだけだし 誰だって自分が正義
これは変わらん
正信偈も
「俺の信じるこの教えだけは正しい」やろ
イスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も同じこと思って信じてるわ
既成の宗教信じてないのも、既成の宗教信じない俺かっこいい正義って信じてるわ >>127
事実に基づく事であれば、誰が書こうが関係ない。
むしろ、スマ爺のように経典に基づかない自説を軽々しく信頼する方が危険だと思うよ。
>>128
>誰だって自分が正義
その通り、だからこそ、自分の信じるものに確信を得るために、他の宗教あるいは、思想・哲学等を比較検討してその優劣を精査すべきだと思うね。
前提として本気で人生の指針となるべき思想を求めるならば...の話ではあるが。
もっとも、そういうものに、そもそも関心が無いのなら、ドップリ浸からず「宗教オタク」のスタンスで軽い感じで傍観していれば良い。 えー
仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうというは、自己をわするるなり。
自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
ですやんか
そもそも自分が正義な世界観で視界を塗り固め強固なものににしていくって方法論は、我執から離れよっていう仏教の(だいたいの)共通スタンスとは間逆なものだと思いますぜー
態度を学ぶんですよ態度を
阿弥陀も薬師も大日も真如法性の形容詞に過ぎないのですわよ そもそも、仏教の高低浅深を考察する際に、「正義」とかはあまり関係ないよ。
要は、真実の教えであるかどうか。という事だ。
じゃ、何をもって「真実」と言えるのだろうか?
その基準は何か?
それは英オクスフォード大学のウィルソン社会学教授の言葉に要約される。
すなわち
「宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和の為こそある。」
さらに、宗教の比較・検証のために
『「人間を強くするのか、弱くするのか」、「善くするのか、悪くするのか」、賢くするのか、愚かにするのか』という尺度が求められる。
余談だが、「正義」の定義はその国の思想、宗教、国民性などにより様々に変化する。
愚かな指導者に率いられれば、戦争に於いて他国を侵略し滅ぼす事さえ「正義」となる
なぜ、そうなってしまうのか?
それは、一人ひとりの思想に、生命尊厳主義、人間主義の哲学が欠けているからに他ならない。
「如何なる人間であろうとも、本来仏であり生命は尊厳である」※
この思想を全面的に主張しているのが「仏教」といえる。
ゆえに、幸いなことに仏教間に於ける大規模な宗教戦争は人間の歴史の中でただの一度も無い。
創価学会に於ける「広宣流布」とは、まさに、こうした思想を世界中の人々に教え伝えるの運動に他ならない。 以上の事を踏まえて、念仏宗の厭世思想は
「人を強く賢くするのか」と考えてみるがいい。
◆苦しみの世界であるこの娑婆世界からはやくオサラバして極楽浄土へ逝きたい。
◆苦の世界から一刻も早くオサラバしたい人間が「友の幸せ」や「世界の平和」など眼中にあるわけが無い。
結局、念仏は人を弱く愚かにすると言うことが分かる。
釈尊は「法華経」に於いて「釈迦の教えを捨てて阿弥陀仏を唱え法華経を信じない者は無間地獄に堕ちる」と説いている。 >132
少なくともそれは親鸞の浄土真宗の説明ではないよ
「もしは因もしは果、一事として 阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることあることなし」
なんで
これから頂く所縁を全て仏縁として頂くよ、
吐く息吸う息食べるものも飲むものも会う人遭う人全て無量無数の仏様のご縁だよ
が親鸞的な念仏になるんだ
何しろ念仏してるのが阿弥陀、つまり無数の諸仏、如来の方なんで、それに頷くから妙好人みたいな人が出来上がっちまうんだ
ていうかそもそもここはテーラワーダスレなんでしょ?
大乗側がここに来るんなら大乗仏典以前の言葉で大乗仏教を説明しようって試みをぜひお願いしたいっすよ
自分の宗派の決めゼリフだけで語られても、他宗の人々には知らない外国語の説明書見させられてるのとあんま変わんないっす >>133
そもそも、君は浄土真宗に信者であり日頃から「なんまいだぶ」とか唱えているのかね?
@知識だけで自らは実践はしていない。
A毎日「なんまいだぶ」を唱えて拝んでいる強信者である。
@なら、実践していない机上の空論なので議論してもムダだと思う。
Aなら、必ず現象が顕れる。
では、その現象の特徴を下記に挙げる。
1)普段から無気力である。
2)早く死んで苦しみの無い極楽へ逝きたいと常々思っていいる。
3)内臓疾患を患っている。
どうだろうか?
>大乗側がここに来るんなら大乗仏典以前の言葉で大乗仏教を説明しようって試みをぜひお願いしたいっすよ
君の「大乗仏典以前の言葉」で親鸞を説明しているの? よく文章を推敲しないで書いたから
「へんな文章」になっている。(笑
スマン。 ん?
四諦八正道、五蘊、五戒、十二縁起とかが瞑想主体の原始仏教的なアレでしょ
念仏に関しては方便と法身の関係とか五念門のあれこれとか先達が考えに考えて下さってるだけあってハードルはわりと低いというか
「凡夫である人間は五蘊、常に思い込みで物を考えてるので
四顛倒、常でないものを常と思いなし、楽でないものを楽、我でないものを我、浄でないものを浄となし、全てをかえって苦の原因としている」
「いつもの誤解と思い込み、認知の歪みを仏智に基づき自覚、精査、修養して改めていくことができるならば、いつかついにはその苦の原因を絶つことができる」
が仏教の基本的な構造、でいんだよね?
五蘊を自覚する場が真宗風に言うと念仏に遭う場、仏法に向き合う場ということになるんだけど、真宗は特に在家仏教で五蘊からなかなかしぶとく離れようとせず、五蘊と離れず仏法が一生ついて回る身になる
これが一応の現生往生というものの形
にしても親鸞自身の立場は臨終待つことなし、来迎頼むことなしなんだわ
娑婆からオサラバしたいが親鸞とか言ってる時点で色々仏教史の基本的なことも知っておいて欲しいっていうか‥
まあ、自分も言葉足らずで人のこと言えないっすけど やっぱり浄土思想って完全にキリスト教と瓜二つだな〜と改めて思った
宗教の収斂進化が起こったか
進化宗教学みたいな学問ないのかな?笑
日本でキリスト教が普及しなかったのはやはり浄土宗・浄土真宗が既にニッチを埋めてたからだと俺は勝手に思ってる
各々の気根に応じて心を安らかにし得る宗教と、それを可能たらしめる宗教の多様性は大切にしなければならないのかもな >>136
>君は浄土真宗に信者であり日頃から「なんまいだぶ」とか唱えているのかね?
の答えを知りたい。 >やっぱり浄土思想って完全にキリスト教と瓜二つだな〜と改めて思った
キリスト教が大乗仏教を真似たんだろうな。 >やっぱり浄土思想って完全にキリスト教と瓜二つだな〜と改めて思った
景教が唐やらの新仏教に影響を与えた話はよく聞くからね
馬小屋で生まれたキリストの話が輸入されて厩戸皇子の話になったとか >君は浄土真宗に信者であり日頃から「なんまいだぶ」とか唱えているのかね?
折に触れて、という答え方になるかね
念仏してる、常に回向してるのは無量、無数、那由多の如来の方なわけで
こちらは一回称えたからどうとかたくさん称えたらどうとか言う立場には無いです
法華経にも常不軽菩薩とか大事な菩薩さんいるやん? 絶対他力でいえば念仏唱えるのも念仏唱えられないのも同じように自分の力(選択)ではないから
念仏唱えたらどうなるって話ではなくそもそも自分という個人には何ひとつ一切何もできないと分かるための道
それがわかるため、自分という個人の概念を喪失するために、個人の概念を薄れさせる念仏を唱えるという方法をとっているだけ
自力の禅宗の一休も浄土真宗を認めているように個人という概念をいかに取り去るかを自力でやるか他力としてやるかの方法論の違いでそれらは同じ
それを観察によって行うテーラワーダの止観も目的は同じ >そもそも自分という個人には何ひとつ一切何もできないと分かるための道
「一切何もできないと分かるための道 」と言いながら、「自力」を認めている矛盾。
>自力でやるか他力としてやるかの方法論の違いでそれらは同じ
矛盾を抱えながら論点を変えて「同じ」とか言うのは、よく分かりませんね。
結論から言えば、そうした考えは人間から活力を奪い、無気力にする邪教と言える。
キリスト教が人々を頭から「罪人」とするのと変わらない。
また、他力という点で同じである。
自分の外に「神」や「仏」を置いて、自分自身を「神の僕」、「無能の凡夫」と卑下して生きる。
そもそも「人間は本来無能である」とは、どの経典に書かれてあるのだろうか?
そしてそれが、「釈尊が仏教を説いた本意」なのだろうか?
まるで「法華経」に説かれる教えとは正反対の考えだと言える。
親鸞は天台宗で「法華経」を学んだはずなのに、どうしてこんな邪説を説いたんだろうね。
法然の選択集にしろ、親鸞の歎異抄にしろ、まったく経文によらず、自分勝手な議論を立て、
あるいは、師匠の言った事だからといって、盲信しているにすぎない。
ここに、正邪の別はきわめて明瞭ではないか。
日ェ上人はその著「依義判文抄」に「文証無きは悉く是れ邪義なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らざるは之を用ゆべからざるなり」と述べられている。
テラワダですら、パーリ仏典を依経としているのに
文証もないような宗教が、どうして正しいといえるか、正邪を論ずる前に、宗教としての資格をすでに失っているといわざるを得ない。
親鸞は「法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[1]」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。」※ウィキ
とある。
師匠を誤ったな。 法然や親鸞に大きな影響を与えたとされる「源信(慧心)」は日本の浄土教の祖と称された。
法然が浄土信仰に転ずる動機となったのが慧心の「往生要集」である。
慧心は、比叡山第18代座主慧恵大師の弟子で、教相を重んずる檀那流に対して、観心を重んずる慧心流を立てた学僧である。
「往生要集」は表面的に見れば浄土宗を宣揚しているようであるが、
その大文第十の問答料簡の中の第七、諸行勝劣の念仏と法華経の一念信解の功徳を比べて、
一念信解の方が念仏三昧より百千万億倍勝ると結論している。
すなわち、「往生要集」は法華経がいかに勝れているかを説くために著したものである。
だが、これには、なお念仏的な臭さが残っており、それに気づいた慧心は、権少僧都の職を辞任してまで、前非を悔い、
さらに「一乗要訣」を著わして、法華最勝の義を鮮明に論じているのである。
これを法然が読みきれず、単に浄土宣揚の書と受け取ったのは、法然がいかに無智であり、浅学であったかを証明するものといわざるをえない。
あるいは、己義を荘厳するために、都合のよい所だけをとったのであろうか。
そして、その愚かな「法然」の弟子が「親鸞」というわけだ。 浄土真宗は方法論が違うだけで、「禅宗」も「テラワダ」も最終目的は同じ?
同じ悟りを得る?
それは釈迦の教えを根拠に述べたものでしょうか?
あるいは、あなたの勝手な自説、己義なのでしょうか? 浄土真宗を色々調べてみるとおもしろいな。
親鸞の死後200年、浄土真宗は、念仏踊りで民間を風靡した時宗、早くから室町幕府や権力者と結託した法然系浄土宗の隆盛に押されて、細々と伝えられたに過ぎなかった。
これを北陸・大阪に急激にひろめ、組織化して、念仏王国を築いたのは、本願寺8代目と称する蓮如である。
蓮如が父存如の跡を受けて、法主になったのは43歳の時であった。
当時、京、東山大谷の本願寺系は真宗の中でも、下野の高田を本拠とする専修念仏派、三門徒流などに押されて、滅亡寸前のありさまであった。
蓮如は85歳で死ぬまで5人の妻を迎え13男14女という多くの子をもうけたが、生活は苦しく、着るものには、袖口に絹をつけただけの紙衣で、子供たちも養い子に出さなければならなかった。
日蓮大聖人曰く
「末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
邪宗教を信仰すれば最後は哀れなものだな。
それにして、小乗坊主は生涯独身なのに、浄土宗の坊主は一夫多妻なんだな。
妻が5人、子どもが27人ってオイ!
ビッグダディを超えてるよね!(笑 >自分という個人の概念を喪失するために、個人の概念を薄れさせる念仏を唱えるという方法をとっているだけ
そんな人間がビッグダディ超えなんだもん。
自分を喪失するぐらいに女のことばかり考えていたんだな。(笑 自分が個人であるという概念を喪失することとどういう内容の思考が生じるかは関係ないでしょう
個人という概念を持っていれば思考をしてるのが自分個人だと思ってしまうが、個人という概念がなくなれば思考は全体の中で自動的に生じている
浄土系の言い方をすればあらゆることは自分が行っているのではなく仏がすべて行っている
このようなことは実践を通してあきらかになることで言葉の理屈でどうこう言えることではないでしょう 一夫多妻ではないのだな
奥さんとは全て死に別れ
蓮如は姉小路家や畠山氏の娘とか、一応ええとこの娘をもらっててその後関係も続いてるので、悪いようには扱ってないんでねーのとは思う >>150
言ってる事が、ほとんどあなた自身の勝手な持論でしょ。
そーゆうのって、ほんと意味が無いですよ。(笑
>浄土系の言い方をすればあらゆることは自分が行っているのではなく「仏」がすべて行っている
まず、
@根拠となる仏典をどうぞ。
Aここでいう「仏」って誰を指すの?
くれぐれも、「ぼくの考える最強の浄土教」なんて言わないでね。(笑
>個人という概念を持っていれば思考をしてるのが自分個人だと思ってしまうが
なるべく禅やテラワダに同調し、共感を得ようとする思惑は読み取れるが、
浄土宗の思想とはぜんぜんかけ離れていると思うよ。(苦笑
とりあえず、@Aの質問の答えを聞きたい。 教学上の納得をしたいならご自身で経典を勉強すればよろしい
自分や世界について何の疑問もなくなるようにあきらかにしたいなら実践すればよろしい
他人から何らかの答えを聞いたところで自分や世界について何も解決しないのだから 瞑想始めて一年にならんのでまだまだ赤ん坊だが
初期に、歩く瞑想中に意味不明に感謝の気持ちが沸いて来たり
瞑想中に天啓のように、法話や経典で聞き流してたことが
まさにそうだ
ってなったりあったが、今じゃただ瞑想してるだけって感じ
マインドフルネスで、スポーツ選手の練習に例えてるけども
ゲームに例えたら、すぐに上がっていくレベル1と10ははっきり違うけど
上がりにくくなる10と15、15と20とかそんな違って感じない
てなってんだろうな
瞑想レベルが今5とかだとして、そら0〜5の変化はすごいけど
レベル上がりにくくなって、5と6、6と7の変化って
ゲームだと呪文やスキルも新しく出ないし分からんって
つか、0〜5のレベルアップの変化に驚いてしまって、瞑想に過度の期待抱いてるんだろうな今 >>153
750年前に、日蓮に依って悉く論破されているし、
なにせ、日本の浄土教の祖である「源信」でさえ、「法華最勝」と言ってんだから。
「浄土信仰」などを今更学んでも時間のムダでしょう。
あなたの話によると、実践すれば、無気力かつ「無能な凡夫」となりさがるようですから、まっぴらゴメンですよ。(笑
「なぜ、浄土信仰が間違っているか」なら、いくらでも教えて差し上げますよ。(笑 まあ、自分の論拠が根拠の無いものだって気付いてはじめて他人の言葉ってのも聞こえてくるもんなのだわ
それまでは親の言葉も他人の言葉も先達の叱責、本人が信仰する如来の歎きでさえ心地よいBGMと同じ
中二病と一緒なので仏様でもなけりゃ親友以外は生暖かくほっときましょう 因縁がそろったら、誰でも桃太郎になるし
桃太郎も因縁がそろったら、他の誰かがなった桃太郎を愚かな奴だ困った奴だとなる 八正道を進めるにあたって
神や他力は確かに邪魔になるな まとめ。
時代を問わず、人は最悪な事態が続くと、自分のいる環境、社会に絶望し、“もう、何をしてもだめだ”との思いをいだき、
“この苦しい現実からなんとか逃れたい”と考えてしまいがちなものだ。
そして、今いる場所で、努力、工夫を重ねて現状を打破していくのではなく、投げやりになったり、受動的に物事を受けとめるだけになったりしてしまう。
その結果、不幸の連鎖を引き起こしていくことになる。
それは、鎌倉時代における、「西方浄土」を求める現実逃避、「他力本願」という自己努力の放棄などと、軌を一にするとはいえまいか。
いわば、念仏思想とは、人間が困難に追い込まれ、苦悩に沈んだ時に陥りがちな、生命傾向の象徴的な類型でもある。
つまり、人は、念仏的志向を生命の働きとしてもっているからこそ、念仏に同調していくのである。
大聖人は、念仏破折をもって、あきらめ、現実逃避、無気力といった、人間の生命に内在し、結果的に人を不幸にしていく“弱さ”の根を絶とうとされたのである。
大聖人は叫ばれている。
「法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり」と。
南無妙法蓮華経と唱え、信心に励むところが、成仏へと至る仏道修行の場所となるのだ。
自分の今いるところを去って、どこかにいくのではない。
この荒れ狂う現実のなかで、生命力をたぎらせ、幸福を築き上げていく道を教えているのが日蓮大聖人の仏法である。 スレタイの
ブッダの教えも瞑想の実践も
ほとんどこのスレで触れられないのね 衆生身心御書に曰く
「この法華経も人々の機根により、時により、国により、弘める人により、さまざまに変わっているのを等覚の菩薩でもこのことを知らないと思われる。
まして、末代の凡夫がどうして知ることができようか。
しかし、たとえば人の使いにも三種の人がいる。
一人は非常に賢(さか)しく、
一人は愚かでもないがまた賢くもなく、
一人は極めて愚かであるが確かである。
この三種の使いのうち、
第一の使いは過ちがない。
第二の使いは第一の使いほどではないが少し賢しいので、主人の言葉に自分の言葉を添えるから最も悪い使いとなる。
第三の使いは極めて愚かであるゆえに、自分の言葉を交えず、極めて正直であるから主人の言葉を違(たが)えず、第二の使いよりもよい使いとなり、
どうかすると第一の使いよりも勝れた使いとなるのである。
第一の使いをインドの四依にたとえ、
第二の使いを中国の人師にたとえ、
第三の使いを末代の凡夫のなかでも、愚癡であるが正直の者にたとえるのである。」等云々
要するに仏教を学ぶことは悪いことでは無いが、何事も中途半端じゃいけないという事だ。
そして我見に走らず、小乗であろうと大乗だろうと、必ず経典を根拠に仏教をきわめて行くことが大事だと言う事だな。
法然や親鸞、そしてサル爺のように経典を無視したら、もはや仏教ではない。
それでは趣味の延長線上にある「仏教オタク」たちの観念の遊戯でしかない。 暑さのせいで集中できない状態を集中できないと分かればいいどころじゃないぐらい集中できないので
歩く瞑想の時間短縮
瞑想のために冷房いれるとか、それこそおかしいから
暑さによって、酒や薬物やったようにまともな状態じゃないので出来ないから短縮ってのを受け入れる 仏教系宗派が釈迦の仏教として成立してるどうかってのは、原始仏教の四法印とかを構造として内包してるかどうかってのが重要なんかなって気がする
仏法無我を説かないなら他の思い込みを正当化する一般的な宗教となんも変わらない 中道ってすご感覚的で乱暴な言葉ではあるけど、自分の仏法に執着してる書き込みとか見かけるとあーなるほどなーこれかー、ってなるよね 自分の仏法というか
自己解釈が先入観で汚染されていることに気付かない人 こうでなければいけないと思うこと自体が
執着だろう
どの道でも正しければいいのよ
心はもっと自由だよ 先入観とか執着というのは
>原始仏教の四法印とかを構造として内包してるかどうかってのが重要
>仏法無我を説かないなら他の思い込みを正当化する一般的な宗教となんも変わらない
とかいう固定概念
>どの道でも正しければいいのよ
という自己解釈
みたいな事を言うんだと思う。
こういう事を言う人間に共通していることは
「自語相違」という事だね。しかもそれすら本人は気付いていない。
それは何故か? 邪宗教に染まりきって、素直に物事を思索できないからです。
いわゆる、法華経に説かれる
「毒気深入(どっけじんにゅう)失本心故(しっぽんしんこ)」と言うわけです。
「先入観」とか「執着」が「無い」といえるのは、下記の用件を満たしたときに始めて言えることなんです。
@他の思想、哲学、宗教を比較検討して明確な優位性を証明出来るとき。
A理屈では無く「現実性」、すなわち、個人的な主観や妄想ではない、万人が納得出来る「現証」が認められるとき。
これに対して、なんの根拠(経典)も他宗の比較検討も無く、「自分が良いと思うから正しい」と言うのは凡夫の知恵による曖昧な判断でしか無い。
いわゆる「ぼくの考える最強の○○」的な思想です。
もし、僅かでも仏教に対し「求道心」があるのなら、もっと様々な仏の教えを学んで、比較検討し精査した上で結論を出すべきだと桃太郎は考えるのです。 >>158
自分の後ろにある背後にある
補助的な役割を邪魔とか。
経験がないのだろう。
危機的状況での危機一髪とか
ひらめきとか 導きとか
経験がないのだろう。
ぺらぺらですね 自分で自力で出来る事を知る
ちっぽけさを自覚する
この段階だろうか
多分
ならば影響は無用ですね。
精進精進 訓練鍛錬 励もう 偽薬とは、本来治療効果を持たない(有効成分を含んでいない)薬。
プラセボともいう。 主に治験(臨床試験)において、開発中の薬の有効性を調べる際に使用される。
本来、なんの効果も無いのに「先入観」によって、あたかも効果があるように思えてしまう。
テラワダ信者に於ける「涅槃悟りました」とか簡単にいうような「ナンチャッテ覚者」もそうした部類に入ると思う。
本人以外に証明のしようが無いという点が最大のポイントだね。 >>169 >>170
言ってる事が「抽象的」過ぎてよくわかんないよ。(笑
主張は具体的に分かり易く書かないと、「放置レス」になるよ。 経典や啓典により伝えられている事
それに沿った考え行動をし、それにより起こった経緯経過感じた事思った事経験体験。君達は皆無だな。無いのかな。
さて次の準備するか。では >>173
>それが空とか呼ばれるものでは?
ちがうよ。
「究極の悟り」は言語道断しているので、言葉では言い表されないが、決して特別なものではない。
教えそのものが「空」であり説明出来ないものであれば、釈尊はそもそも教えは説かない。
ムダであるからだ。
釈尊が膨大な教えを説いたのは、悟りに導く「助縁」と言えよう。
そして、弟子はその「助縁」をもとに修行を積み、はじめて「釈尊の本意」を悟ることになる。
しかしながら悟ったからと言って、修行が完成する訳では無いし、そもそも、悟りの終着点があるわけでも無い。
分かり易く言えば、飛行機が空の上に舞い上がったからと言って「エンジン」を止めることの無いようなものです。
アスリートが金メダルを取ったからと言って練習をやめてしまえば、どうなるか論を待つまでも無いことですね。 勤行って瞑想になっとる?
いつだったか、NHKで見た仏教をたどるか何かでタイの仏教の回で
一般生活してる人たちが、仕事帰りに寺に行って
「なななななななな・・・・・・・・・・」
って唱え続けてる瞑想してるってあった
中にはトランス状態で踊りだしてる人もあった
念仏も題目も、マントラ瞑想の一種とは思うけど
仏教って結局、教えを踏まえたうえでの何らかの瞑想が必要とは思う
瞑想だけでは瞑想でしかないが、教えをあれこれ研究したりあーだこーだ議論したり解釈したところでwiki読んで物事分かった奴みたいな状態でしかなく、仏教は進まんのでは >wiki読んで物事分かった奴みたいな状態でしかなく、仏教は進まんのでは
そう!。そこが一番重要な点だよ。
だから、私は何度も、「個人の主観や妄想ではなく、実践すれば現実がどう変わるのか」
いわゆる「現証」が宗教の高低浅深を見極めるうえで最も重要だと言ってきた。
そうした現証に目を背け「空」だの「無我」だの「この世界は凡夫の目に映った妄想」だの
言ってても仕方が無いし何も変わらないだろう!と主張している。
諸法実相、ありのままの現実の中に「宇宙根源の法」(妙法)を悟ったのが仏なんだよ。
分かりやすく言えば、我が「生命」が、本来の「宇宙根源の法のリズム」に合致する。
そうなれば、この世の「生」を自在に遊戯していける。
それを可能にするのが「南無妙法蓮華経」という唱題行なんだよ。
では、学会員さんは「南無妙法蓮華経」と唱えるとなんの悩みも苦しみも無くなるのか?と聞かれれば
「そうではない」と答える。
釈尊ですら、悩みや苦しみはある。
ところが生命は歓喜に満ちている。
ここが「凡夫」と「仏」の違いだと言えよう。
それはいったいどういう事かと言えば、例えばオリンピックのアスリートの気持ちを考えれば少しは参考になるだろう。
頂点を目指し、過酷な練習の過程で苦しみもあり挫折もあるかもしれないが、彼らは目標に向かって進む人生の中で
苦しいことも楽しいこともひっくるめて極めて充実した一日一日を過ごしている。
大聖人曰く
「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。いわゆる、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」
生きていること自体楽しくて仕方が無い人生を歩める。
これが真実の仏法の偉大な力用と言えよう。 もう一つ言い忘れたことがある。
>生きていること自体楽しくて仕方が無い人生を歩める。
この事自体は大変素晴らしいことではあるが、
しかし現実が「自分が願った通り」に変わって行かなければ意味が無い。
「ああ、充実した人生だ」と言いながら、現実が少しも変わらないのであれば、たんなる観念論だ。
一生貧乏、一生病気ばかりしている、それでいて「あぁ人生が充実している」と言ってもウソぱちに過ぎない。
正しい仏法を実践すれば、必ず思い通りの人生を歩める。
この桃太郎が実証済みだ。 >>170
間違ってるかもしれないけど、テーラワーダの人だと
「私と関係なく、因縁がそろえば勝手に果が出てくる」とか
そんな見え方になってるイメージがある
やれるとこだけやっておいて、あとはなるようにしかならんだろうと思っているような感じの 個人には自由意志があるのかとか何かを選択できるのかとか行為者であるのかということにも関することだよね
そもそも行為って判断から生じるわけだけどじゃあ判断を自分は自由に選択できるのかって話になる
みんな自分で判断してるつもりでも実際は自分はこう思うとかこう考えるとか思いが勝手に生じてるよね
みんな自分が思ってるんじゃなくて思わされてる
自分では自分が思ってるつもりでも実際は思いが勝手に生じててそれを自分が思ってると誤判断してるだけ
自分を冷静に細かく観察していけばそれがわかってくる
そもそも他力っていうのも神様や他の存在があるってことじゃなくそういう全てが自動的だという全体性のことだと思うんだけど >>181
けど、それってまるでキリスト教みたいに「神の味噌汁」的な発想じゃないかな?(古っ!
人間の運命が神様によってあらかじめ決められていて、自分ではどうすることも出来ないって感じなのかな?
人類は神や仏様の手のひらの上でドラマを演じているだけの存在なのかな?
もし、それが真実なら人は「努力」ってものをしなくなるのでは?
そうすると、あらゆる修行も無意味だね。
私は、そうは思わないけどね。(笑
>自分を冷静に細かく観察していけばそれがわかってくる
と、そう思わされている。
という事になるね。君の理論で言えば。
それが正しいかどうかも分からないという事だよね。
自分の思いを信じられない以上、根拠は何もないんだから。 もちろん現われる思いは全てそう思わされている
あらゆる根拠だと思えることもそれが根拠だと思わされてる
では苦や悩みの元となる思いや根拠という現象だけでしかないのか
これは現象という世間ではない出世間の涅槃に関する話
思いや根拠という主客関係から現れる現象一切ではないことに関する話
テーラワーダは根本的に涅槃に関しての教えだから思う思わない根拠があるない正しい間違っているのような話ではないので
思いや根拠でないことをどうしてそう言えるのかというが知りたいなら実践してくださいとしか言いようがないですね
言葉にしても矛盾を含んだ説明にしかならない
修行は個人という観点からはするべきだと言えるし全体性から言えばそもそも修行している個人がないので修行するしないということがない
禅では悟りは偶然起こるが偶然を起こすよう努力するというような言い方もする
努力はあるし努力はない だんだん話が面倒臭くなってきたな。(笑
たぶん君自身、思考が混乱して何言ってんだか理解していないと思うよ。
>これは現象という世間ではない出世間の涅槃に関する話
世間と出世間では「現象」が違ってくるのですか?初耳です。(苦笑
仏典のどこにそんなことが書いてあるの?
そもそも、仏法の真理にそのような分別は存在しない。
凡夫と仏、世間、出世間、あるいは様々修行の段位、すべては弟子を修行させるための方便です。
分別すること自体が妄想と言える。真理は無分別なのです。
君の主張はまるで、話にならないな。 >>184
気を引こうと必死だな。(苦笑
お疲れ様です。 自分が次に思うことを思わないようにすることができるか
次に判断することを判断しないようにできるか
次に思うことを思わずに違うことを思うことができるか
思いを自分で選べるか
それだけでもしつこく観察し考察すれば分かるべきことが分かってきます
実践すれば分かることが分かり実践しなければ分かることも分からないでしょう 桃太郎はずっと自己満足の世界から外に出ないことを選んだんだな
そういう幸せな選択もアリなのかなあ
自分の宗派の言葉でしか喋らない人たちの中、いわゆる教団内でヨイショしあってると多幸感に包まれるよね、という日蓮系の話も分からんでもないんだ
教団内の言葉でしか喋らんからその外だと周囲が珍獣を見るような目でしか見てくれないっていう今の現状も不憫は不憫だけどね 他人とレスバトルすると、必ず双方が精神的にダメージを受ける
勝った負けたの次元の話ではない
積み重なっていくと、心は必ず歪んでいく
悪口は最初に自分自身を傷付けるという釈尊の言葉通り
相手をやり込めたとか、勝ったとか喜んでいる場合ではない
自分自身を守りたいと思う者は争うべきではない
ただスルーするべき それがけ論でなかなか心がもやもやして
完全スルーとかできないのよね
修行が進んでるかどうかが、ネットへの書き込みと、意味不明なあおりや人格攻撃その他マウントを受けた時に自覚できるってのは便利だけども 本来、宗教は、人間の幸福のために、社会の繁栄のために、世界の平和のためにこそある。
宗教の復権とは、宗教がその本来の使命を果たすことであり、それには、宗教の在り方を問い続けていく作業が必要となる。
自らの不断の改革、向上があってこそ、宗教は社会改革の偉大な力となるからだ。
宗教者が、自ら信奉する教えに対して強い確信をいだくのは当然であり、それなくしては、布教もできないし、その教えを精神の揺るがぬ柱としていくこともできない。
大切なことは、その主張に確たる裏付けがあり、検証に耐えうるかどうかということである。
確かな裏付けのない確信は、盲信であり、独善にすぎない。
日蓮大聖人は「法華経最第一」とし、その法華経の肝要こそが南無妙法蓮華経であると宣言された。
そして、確かな根拠を示さずに法華経を否定する諸宗の誤りを、鋭く指摘していった。
それをもって大聖人を、独善的、非寛容、排他的などという批判がある。
しかし、全く的外れな見方といえる。
大聖人は、比叡山など各地で諸宗諸経の修学に励み、文証、理証、現証のうえから、それぞれの教えを客観的に比較研究して精査し、結論されたのだ。
つまり精緻な検証を踏まえての確信である。
また、仏教の真実の教えとは何かについて、広く論議し、語り合うことを、諸宗の僧らに呼びかけ続けてきた。
そして「智者に我義やぶられずば用いじとなり」と、かりに自分以上の智者がより正しく深い教えを示すのであれば、それに従おうと明言されているのだ。
そこには、宗教こそ人間の生き方、幸・不幸を決する根本の教えであるがゆえに、徹して独善を排して真実を究明し、公にしていかなければならないという、真摯な探究、求道の姿勢がある。
同時に、破られることなど絶対にないとの、大確信に基づいた御言葉であることはいうまでもない。
堅固な宗教的信念をもって、開かれた議論をしていくことと、排他性、非寛容とは全く異なる。
理性的な宗教批判は、宗教の教えを検証し、また向上させるうえで、むしろ不可欠な要件といえる。 >>191
ネットで攻撃する人は相手のことなんか見えてない
心の中で作り上げた虚像に対して攻撃してる
それを見る人も、攻撃者のことを勝手に想像して、それに対して怒ってる
たかが数十文字で何が伝えられよう
瞑想でよく観察してみればそれが分かってくると思う
自分自身を怒らせるような虚像を自ら作り上げて怒ってるなんて不毛ではないか
そしてそれによって自ら心を歪めていくことも有害無益 自分の心に反する意見を言う人間は、みんな「自分を攻撃する人」に見えるもんだよ。
「自分の信じるものを否定されたくない」その強烈な思いが無意識に働きかけ自己防衛本能が
仮想の敵を作り出す。
仮想的な敵を心の中に投影させるだけならまだしも、これが度を過ぎてくると、現実に於いて敵を排除しようとする。
この典型がISISやオームのような思想だ。
結局、自分自身を冷静に客観的に観察できず、すべては「敵」に見えてくる。
自分の心が歪んでいるのに、それすらも気付かないし、気付こうともしない。
そして、だれも怒っていないのに、被害者妄想で、架空の敵を作り上げ
一番、修羅(怒り)の心を露わにしているのは自分自身だと言うこともたぶん気付いていないだろう。
瞑想でどんなに観察してみても、その心に写るものは、結局自分に都合のよい景色でしかない。
なぜ、このような誤った方向に進んでしまうかと言うと、何度も言うように「他の思想、哲学を見ない」からだ。
※いや、見たくないという表現か適切か。
比較検証、精査、現証、一切やらないからだ。
仏教の歴史は古代の昔から、小乗、大乗にかかわらず「真実の仏法」を求めて、仏法を様々に解釈し主張し、
※部派仏教
それらをお互いに議論しあい、切磋琢磨しながら、長い年月を得て淘汰され現在の仏教体系が完成された。
そこには「敵」とか「味方」なんて考えは入り込む余地は無い。
自分より優れた教えを説く法師がいれば潔く弟子となり、教えを請うたものである。
それが厳然たる仏教史なのです。
そこには、「どちらが上に立つか」とか、そういう低次元な話では無く、弟子の純粋な求道心しかなかったのです。
もし、かつての弟子が議論する相手を「敵」とみなし、排他的に議論を一切拒んでいたら
それらはISISのような盲信、独善となり、今のような仏教体系は存在しなかったであろう。 まあ、桃太郎ももちろんそうだけども
書いてないことを書いてると決めつけて意味わからんこと言いだすもんな
大体ネットって、書いてないことを書いてると妄想暴走してるの多すぎるわ 別に自分のことを誹謗中傷するのは構わないのだが、昨今よく見られる露悪的表現によってそれを見た第三者が傷つき、酷いときには自殺したり通り魔を起こしたりする現実が納得ならんのよな。
確かにこんな思いも所詮は我を張っているだけに過ぎないのだが、その手の露悪的書き込みを論破せずにスルーするのは間接的に他者を害していることになるのでは?と……
見切りをつける的確な基準が分からん
まさにこの世はドゥッカ(苦)なのだなぁ まぁ、禅定していけばそのうち中道が見えて来るのだろうけどさ。 >>197
露悪的表現が的外れであることを指摘するだけでいいのでは
論破とか相手をやり込める必要はないと思う
レッテル(ネト○ヨとかキ○オタ)とか貼りたがる人は、
判断の保留ができず単純な「答え」に飛び付いてしまう人なのだろう
相手を見ようとしているのではなく、特定の単語や表現に反射的に反応してるだけだから
過去にそう見なした人の言動を、今相手をしている人に当てはめて勝手な人物像を作り出し、それに対して攻撃してる
そういう人の書き込みを真に受ける必要は全くない >>199
それを真に受ける第三者が不憫で仕方ないって話よ 解脱、有余涅槃を成就してもそのあとはどうやって生きるの?ってのがテーラワーダ最大の疑問 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています