マインドフルネスPart.42
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
※他者批判のためだけにレスをしないようお互い心がけましょう。
※(日本における)テーラワーダ理論はパラダイムの狭いものなので、あくまで参考程度に。
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネスPart.41
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1621071844/ >>501
ゾーンとかフローとかいう単語は多分あまりここの人には好まれないと思いますが
さしあたって、そういった理想状態を渇望するならばマインドフルネスでは実現しないと思います
スポーツ選手などもゾーンを狙うのではなく結果的にゾーンに入るのではないでしょうか
次ですが、マインドフルネスの効果が疑われるのは>>2
のような事情によることだと推測します
個人的にはそれらは好転反応のようなものと捉えてます
マインドフルネスの始祖であるお釈迦様は四諦というのを説きました
全ての仏説は四諦について語ってるとお釈迦様自身言ってますが
まず苦諦なんですね、一切皆苦を知るんです
だから、2のようなことで効果を疑うのは早計なのです どんな一流のアスリートでもなんの準備もなしに結果を残せないように
なんの準備もなしに高度な瞑想をするのは無理なんじゃないかな
素質がある人以外は
戒律を守るってのは自尊心をもてるようにしたり、心に余裕をもつように
するための環境づくりなんだと思うけど
そのように日ごろからの習慣づけってのは大切だと思うよ >>501
集中だけで一瞥体験や忘我状態のサマーディはあるかもしれないけど、自我を観察してそれが実はなかったと気が付かなくてはならない。そうなれば止即ち観となる。
1000人に一人もいないかと。
>>506
一応読んでてワロス アスペ尊師が残した有名な言葉があります。
在宅山下オタクの最強の技とはなにかと問われ、こう答えました。「テンプレに個人的に排除したいものを入れて最初から排除してしまうことです」 >>503
塩田先生にとってはそれは理想なのではなく現実でしょう
そういう具合になろうとしてもなった人はほとんどいないのでは?
藤平さんとかは近い感じでしょうかね
ともかく渇望からは生じてこないことだと思います ブラームスにとってこの考えは単なる哲学的な思弁ではない。彼は、自分の作曲が生じてくる源泉である独特の体験を説明しようとしている。
心が静まり、はっきり目覚める体験
ブラームスは何を表現しようとしているのだろうか。彼の表現から想起されるのは、高次の意識状態──つまり、悟り──について語ったマハリシの説明である。
マハリシが超越意識と呼んだもの──日常体験している目覚めの意識、夢、眠りとは区別される第四の意識状態──を体験する。
そのとき心は静寂な落ち着いた状態になり、それ自身の内側ではっきりと目覚めている。
感覚も想念も感情もなくなり、ただ純粋な意識のみだけを体験する。このとき脳の機能は秩序立って統合され、身体は深くリラックスしている。
この状態のとき私たちは、想念の源、すなわち創造性と知性と至福の無限の宝庫を体験している。
そのとき私たちは、目覚め・夢・眠りの意識状態と、枠のない意識状態とが共存するのを体験し始める。
そして、内側深くで体験していたものが途切れることなく持続する。そうなったとき、私たちは、想念の源にある創造性と知性の無限の大海をいつでも利用できるようになる。
さらにマハリシは次のように説明する。
通常の目覚めの意識では、想念が発生しても、それが心の「表面」に到達するまで、私たちはその想念を自覚しない。
しかし、高次の意識状態では、想念が発生した瞬間にそれを自覚するようになる。その瞬間の想念は最も強力であり、想念の源にある無限の創造的知性が十分に染みこんでいる。
ブラームスの言葉は、たしかに、このマハリシの説明と同じ方向を指している。
ブラームスの言葉によれば、時々彼は「超意識」の状態を体験し、そのとき彼の心は「全能なるもの」の領域に入っていく。
ブラームスの感覚によれば、存続していくであろう主旋律が彼のもとにやってくるのは、「無限なるものと調和している」ときなのである。
そして、この状態こそがすべての創造的天才の源泉である、と彼は信じている。
https://maharishi.or.jp/tm-wave/archives/6360 >>511
私は高度な瞑想というのは興味がないのでなんとも
ビジネスライクにリラックスしたり集中できたりできるように
活用しているだけなのでなんとも
手に人と書いて飲んだり、お茶飲んだりすると安定するっていいますよね
他にはルーティンをしたりと自己暗示にもっていくためのきっかけも
日ごろからの行いに左右されたりすると思います。 >>505
その恍惚感は芸術家にしばしば?あるようだよね。今読んでる本にもヤナーチェクにもあったと書いてあるのを読んだところ。
しかし、苦諦に辿り着かないとまた苦がやってくる。創作ってのは苦がないとできないものだし。
否定はしないけど、仏教と芸術は別ジャンルということになるね。
しかし、また一つ別の見方をすると、どの道でも極め尽くせば最後は同じ所にたどり着くものだと思う。芸術でも。
でも、道の途中で或る法を得たなら、最後はそれは使い古した法として棄てなければならない。音楽なら音楽を 絵画なら絵画も棄てる。仏教も最後は仏法も棄て去る。 >>505
こちらはどうかなぁ
その高揚感、恍惚感は捨てられるようでないとマインドフルネスは無理ですからね
通じやすい言葉で言うと執着しないということです
良いもの悪いものを選り好みしないということに繋がります
塩田さんの相手を友達と見えてる、主客のない世界というのは良し悪しを区別しないから実現すると思いますよ 至福体験を求めるならばマインドフルネスはちょっと違うのかなと思います
TM迷走とかに行った方が良いのかもしれません
マインドフルネスでもそれは起きてきますが、あくまで無常、苦、無我です
捨てた後にも起きてくるものですがそれは無我=「私ではない、わたしのものではない」です たしかに高揚感、恍惚感はちがうかもしれませんね
ですが、高揚感、恍惚感は集中を前提としていますので
マインドフルネスではないとは言えないでしょう それにしても、テーラワーダのことをなにか言うと怒るのに、スマ長老のことは誰も養護しないんだね。
メーテルのご主人でも来てるのかな?
メーテルのいけ好かない原因の張本人が?w テーラワーダ、禅なんて話してないのに唐突感あったw
テンプレ変えたければきちんと筋の通るように提案してくれればいいのに
ヒステリックにワーワー言われても、どうせわたしかウサに気に障ることを言われたかなんかの私怨で
テーラワーダにかこつけて騒いでるんだなくらいにしか思わないです 家族で一緒に5ちゃんねる大変そうw
>>520
だよねえ。なんでいきなり
ここはテーラワーダを否定するスレですか?と話の脈絡もなく言ってくるのか謎だったw
だからなんで突然怒ってるのかその方に聞いて差し上げたんですが? 身心変容技法研究会 研究年報 第1号
町田宗鳳 声の力と意識変容体験
禅と念仏
一般に、自己に内在する真我を主体的に見極めようとする禅と、絶対者としての阿弥陀仏の救済力に全面的な信服を置こうとする浄土教は、同じ仏教の中において、まったく異なる伝統を継承するものとみなされてきた。
しかし果たして、そのような見解が有効かどうかは、再吟味を要する。
鈴木大拙は、『浄土系思想論』の中で指摘しているのは、浄土教信仰の核心にある六字の名号も、禅的境涯の典型的表現である一喝も、「無分別の分別」という一点においては、まったく区別がつかないということである。
また、大拙は「霊性の自覚」という言葉を好んで使ったが、その霊性が自覚されるのは、まさに「無分別の分別」という意識変容体験においてであり、そこにいたる道筋が禅であろうが、念仏であろうが、問題とはならない。
宗教的行の本質は、分離した心と体の再融合にある。
それは没我的な体験を通じて「心身一如」といった心理状態に至らないと、肯定的感情や法悦としてのエクスタシーが生まれてこないからである。
イスラム教のスーフィーは、ズィクルという特殊な呼吸法や回旋舞踊を使って、神との一体感に浸ろうとする。
意識変容体験をもつ上でポイントとなるのは、単純な身体運動を反復することにある。坐禅でも、呼吸に集中しており、通常よりも回数は激減するものの、単純で深い呼吸の反復によって、禅定に入っていく。
発声もまた、一種の身体運動とみなすことができる。
声明や念仏も、それが集中的に反復されるうちに、高周波音が発生し、その微細振動が脳におよび、それが脳内物質の分泌やα波の促進に役立つことが解明されている。
その時、湧き出てくる肯定的な感情が、「否定的記憶」の消去に効果があるわけである。
真言宗においてもっとも重要視されている『理趣経』の「十七清浄句」は、露骨な性的表現に満ちているが、そこでは男女の愛も清浄なる菩薩の境地であるとされている。
それは、宗教体験が性的なエクスタシーと区別がつかないぐらい深いものであることを示している。
http://waza-sophia.la.coocan.jp/nennpou.htm テーラワーダももちろんスマ長老にたいする罵倒も不快ですね
自分が自分がで周りのことに気づかない人も同様です。
瞑想は雑音を排して意識を集中させる訓練ですから
他人のことが見えなくなるんですよ
だから他人の注意にも無関心になる人が多い
セルフィッシュな人になるんです。
だからこその戒律であり、自因自果であり、慈悲の瞑想であるのに
それすら自己の世界で完結させる人がいかに多いことか 身心変容技法研究会 研究年報 第1号
町田宗鳳 禅と念仏は別のものではない
浄土宗の方では、別時念仏と言って五日間ぐらい、朝から晩まで木魚をたたきながら念仏するわけです。
初めのうちは、足が痛いとか、眠いとか、退屈だという感覚に襲われますが、一日、二日たつと、非常に軽快に、それこそ、タッタッタという感じで口をついて念仏が出てきて、空を駆けるような心境にまで行ってしまいます。
スポーツで言う、ゾーンに入るとか、ハイになるという感覚のところへ入っていきます。
座禅も、慣れていないうちは、足を組んで、足が痛いとか、寒いとか、そう思っていますけれども、
実際に、禅定にすとんと落ちると安楽の法門で、何というか、無重力空間に漂うような感覚になるんですね。そのへんで、念仏と座禅に共通するものがある。
アプローチは違うんですけれども、すとんと落ちてしまったところは、もうボディーが消える、エゴが消える世界ですから、どちらから入っても、すごく楽しいわけです。安楽の法門です。スポーツに集中しているのと同じです。
ここから、臨済宗の雲水が悟りを開いていく段階を一〇コマ漫画で表した「十牛図」の話をします。
第7図に来ると、牛が消えてしまうわけです。あれだけ大事にして必死の思いで追いかけてきた牛が消えるんです。
ここから、本当の意味での自己の主体性が芽生えてくる。あるいは、本当の意味の信仰が芽生えてくると言ってもいいんですね。
それまでの牛というのは、「私は禅です」とか、「私は念仏でやります」、「題目でやります」と、そういう牛に振り回されている。
『臨済録』で臨済が「随所に主となれば、立所皆真なり」と言っています。
どこでも、自分の主体性を見失わなければ、すべての場所、トイレにおろうが、車を運転していようが、どんな場所でもそこが「立所皆真なり」というわけです。
ここから本当の自分の人生が始まると言ってもいいし、ある人は、ここから信仰が始まると。
第8図の「人牛倶忘」という、空の世界、無の世界ですね。
だから、お念仏から行ってもいい、題目から行ってもいい、座禅から行ってもいいし、それを全部取っ払って、金もうけから行ってもいいんです。何でもいい。
人間、真剣勝負なら。ここですよ、ここで救われるわけです。
http://waza-sophia.la.coocan.jp/nennpou.htm >>522
よく言ってるのですが、浄土系と道元禅師の仰ってることは全く同じところが肝心要なのです >>523
その慈悲の瞑想やってる貴方が嫌なんだってよ
貴方の奥様 悪人正機、参禅は同じことですから
煩悩具足の凡夫である自分を仏に投げ入れるということです
そこがサマーディの入り口です
至福体験などを求めることからはゾーンやフローは起きてこないだろうというのは
その事実からです
金儲けの真剣勝負じゃダメですねw 十牛図とは
十牛禅図とも言い、牛を主題とした十枚の絵で禅の悟りに至る道筋を表したものとなっております。
1.尋牛 (じんぎゅう) :牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2.見跡 (けんせき) :牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3.見牛 (けんぎゅう) : 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4.得牛 (とくぎゅう) :力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5.牧牛 (ぼくぎゅう) :牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6.騎牛帰家 (きぎゅうきか) : 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7.忘牛存人 (ぼうぎゅうぞんにん): 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8.人牛倶忘 (にんぎゅうぐぼう):すべてが忘れさられ無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9.返本還源 (へんぽんげんげん) :原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10.入?垂手 (にってんすいしゅ) :街で暮らす。悟りを得て童子から布袋和尚の姿になっている修行者が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
https://www.e-kotto.com/topics/1218-jyuugyuuzu-new.html >>527
正直、真宗はちがうと思いますけどねえ
真宗は念仏を称えることをかつてはしていましたが
今は称えていません、単なる哲学ですよ。
頭で考える無分別の分別が何になるというんです このテンプレのテーラワーダ部分って単にスレを立てた人の個人的見解だよね >>531
あなたの旦那さんはどんな人なんですか? 糖質の人今度は旦那が〜とか言い出しててわろたw
朝から晩まで5ちゃんに張り付いてたらこんなになるんだな 何でもいいけど、夫婦でちゃんと話し合ってほしいなあ
慈悲の瞑想やってるご主人の態度が気に入らなくて、慈悲の瞑想ができなくなっちゃったんだって。 自分勝手に一人でテンプレ作って開き直ってるということは、ここはスレ立て人のバカッターアカウントみたいなものということですか 普段はほとんどアスペと糖質が書き込んでる糞スレだからね >>532
一口では語れませんね。
残念ながら...
>>526 にも答えてあげといて下さい。
慈悲の瞑想やってないと。 >>523
ここに居るということは皆毒を飲んでいるようなものなのよ
克服したと勝ち誇っていても所詮口だけ
ムカつくこと書いてたとしても、それは書き手が毒されているせい
読み手も毒されてはいるのだけど
正常な状態でない人が正常でないことを書くのは仕方がない >>541
そうですね。どこか病んでいるような方ばかりです。
こんなスレに迷い込んだ私もそんな原因があったのでしょうね 自分勝手で我が儘し放題のエゴの塊アスペさん
&
いつもビクビクしていて疑心暗鬼の塊ウザいさん >>537
スレのテンプレなんかただの>>1の書いた文章に過ぎない
5ch自体のルールじゃないので何の拘束力もない
5chのスレは5chの所有者のものであって>>1の所有物じゃない >>549
拘束力は無くともスレの方向性は示されてると受け取られますよね
テンプレのテーラワーダの部分を外したら1にとって気にいらない人が帰って来たけど、戻したら1の自分勝手な思いが通じて撃退出来たとご満悦な様子だったじゃないですか
>>443 自分が批判され始めたら
※他者批判のためだけにレスをしないようお互い心がけましょう。
と何回も貼る
そういう自分がテンプレで他者批判してるのに? 煽りで変なこと言ってるのかと思ってたけど本当に病気の人かもしれないからみんなスルーしたほうがいい
宗教だの瞑想だのは精神が危うい人が寄って来がちだし人によっては本当におかしくなってしまう場合もある >>551
わたしが攻撃対象になる前から横レスで貼っていますから
君の事実誤認です 良道さん曰く、
どんどん批判して下さい
喜んで受けて立ちます 真宗が念仏を唱えなくなったかどうかは知らないけれど、
もしもそうだとしたら、真宗の信者または日本の一般大衆の瞑想(心の成長)が進んでるからだろう。 >>556
事実誤認です
>>560
メーテルは一法庵のコメント欄に書いたりしないの? >>562
書き込んでみましょうか?
例えば、こんな感じでどうでしょう?
マインドフルネスや只管打坐に入る為に前段階として、ワンダルマ・メソッドをするというのが長年の私の理解だったのですが、逆だったのでしょうか? >>562
事実誤認じゃなくて、自分にとって都合の良いように記憶の書き換えを行って、自分好みの映画を見てるだけでしょ
とにかく自分勝手だから ここの人たち全然マインドフルネスの効果なくてワロタ >>563
それは批判ではなく質問なのではと思いますがw
書かれるのであればご自由にどうぞ
わたしの理解を求めてるのならば
これまではワンダルマからの只管打坐ということは度々言われていたし
ワンダルマ以前に只管打坐であることも度々言っています
日常からそれらまでマインドフルネスは一貫しますね
>>565
まずあなた自身にそれが言えるのでは? >>566
「それ、あなたの印象ですよね?」(西村ひろゆき) >>567
自分勝手な都合のよい映画を見てるんじゃないというなら、具体的にいつのスレのどこで書いたのか言ってくれよ
過去スレ見たってそんなの見つからんけど 息をするように嘘を吐く
捏造や歪曲といった作為的な行為が大好きなお方 >>567
日常からそれらまでマインドフルネス
それは只管作務のこと?
禅にマインドフルネスはないのでしょ >>567に補足
山下さんはメソッドよりもまず微細感覚(意識)の瞑想ということを提唱していた
十年前から
去年は、もうビリビリからはメソッドなしで只管打坐だけでもいいとも言ってました
二重構造の理解があればですね
最近はもう少しはっきりと、只管打坐(無条件降伏)、メソッド、只管打坐
のサンドイッチなんだと言ってる訳ですね
ここで言葉のあるところもないところもマインドフルネスですが
メソッドを入れないとマインドフルネスということが何を示してるのかが禅僧たちにはわからない
道元禅師こそマインドフルネスだったということが理解できない
そうして日本の禅の世界がマインドフルネスをよくわからずに馬鹿にしてるうちに
カバットジンに先を越されてしまってる訳です
マインドフルネスを提唱している禅僧ティクナットハンが来日してから二十五年ですからね >>573
道元禅師はマインドフルネスでしょう
しかしその教えが形骸化してしまっていたからマインドフルネスという言葉に出会った時に
藤田さんも山下さんもさっぱりなんのことを言ってるのかがわからなかったわけですね
ネルケさんもビジネス禅の流れとして捉え誤解していた 道元のマインドフルネスぶりはすごいよ
ネットの現成公案読むだけでもあたまさがりまくりんぐ
心理学や哲学より仏教がより真理をハッキリ示しているのは言わずもがなだけど
仏教は修行のため敢えて言わないという方便もあるので、補助的に心理学や哲学も触れてみてなるほどねーとなるんだけど
道元はそのへんもうまい具合に触れている 山下さんはネット上で瞑想についての議論をすることは好ましくないって言ってるし
道元は他人に何か聞かれてもすぐに答えるようじゃ駄目って言ってるけどね
山下さんや道元の言うことと全く違うことやってる人達のスレだな 自分で考えるかしばらく即反応するのやめてみたらわかるんじゃん? そういうのも自分で考えてみようね
ま、それ言うと思ってたので答えてあげるけどわたしは道元褒めてる人達に道元の言うことと違うことやってんねーと言ったまでで
わたし別に道元いいと元々言ってないですし道元の言うことに沿う立場でもないので
道元は細かい事決めすぎてたり法華経褒めてたりところどころ微妙〜 >>574
微細感覚(意識)の瞑想
右の手の平がビリビリしないと、「ニュー・アース -意識が変わる世界が変わる」のエックハルト・トール氏の言うThinking Mindが落ちて、マインドフルネスにも只管打坐にも入れないのですね。
ビリビリするにはノーメソッド。
只管打坐30年しかないわけですね。 分からない人に聞いても答えは返ってこないよね。それが答え。
道元のことは褒めてないよ?褒めるような立場にないですのでw
マインドフルネスがすごいと言ってるだけ 同じところをグルグル回ってて
実に滑稽だし鬱陶しい
どっか5chでない場所で
存分にやってくれたまえ >>584
メーテルはビリビリでませんか?
そこが抜けてるとただの議論になってしまうのですが
参禅、無条件降伏、悪人正機が入りの只管打坐ですから
それがないと三十年坐ってダメでしたということになるでしょう
私見ですがどんなメソッドでもよほど外れてなければ八週間程度でそこはクリアすると考えています
それには毎回失敗し続けてるということに気づいてることが重要だと思いますよ
こういったことは意識の外から起きてくることですから
そこで起きてきたことは、落ち着きであると同時に
煩悩具足の凡夫であることが徐々に見えてくるということです
そこで右手だけでもビリビリは出るはずです ビリビリというのは単純にわかりやすい印だということもひとつにはありますが
本当はかなり深いことです
維摩居士や道元禅師のいう不可思議とはビリビリのことではないのかな?と思ったりします ビリビリも出ない人には夢の話にしか見えないということか
そいつは困ったね メーテルは瞑想を進めたいわけじゃないのだと思う
ある人に認められたくて瞑想とかマインドフルネスに興味を持ってるだけ >>589
内観をビリビリとしか表現せず、掴もうとするのは貧しい 単に内観ということではないのですけどね
> メーテルはビリビリは出ませんか?
というのは出ないと決めつけた話ではありませんから誤解なきよう
出るなら出るでいいですし
出ないなら出ないでいいですよ
それを隠して話すと爪先だった単なる議論になってしまうので 無条件降伏、意識の外からくる、という話をしているのに
なぜか、掴もうとする、という読替えがされてますな ビリビリなんてヨガや気の練習やってりゃ誰でも感じられるけどなぜ初期経典にビリビリが書かれてないかをちゃんと考えたほうがいいと思うけど
本当に必要なことならちゃんと経典に記されているしそれが記されてないならどうしてなのか
山下さんは修行の一環でヨガを導入してるからビリビリビリビリ言ってるけどさ >>600
仏陀は当たり前だから言わなかっただけじゃないですかね?
ブッダダーさんは書いてますよ 本当に必要なことは経典に書かれていてそれをちゃんと考えていて知っているのに、はて?どうしてなのか? >>555
あなたは自分にとって都合のよい嘘っぱちの物語を作成してるだけのインチキ野郎ですよね >>598
本当にビリビリだけですか?
人により時により状況により様々でしょう
限定すれば人参をぶら下げてしまう
ミスリード
調えて待ってあとはお好きなままに...
あと、ビリビリの中で「地・水・火・風」と三回唱えれば、透明な身体となって光の世界に飛ぶのでしたね
それからがマインドフルネスの始まりと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています