幾度か触れましたけど、仏教は基体と作用の別を説かないんです。

勿論、それは西田のいう絶対者や絶対者の自己否定である個物にも言える訳で、限定された我々が非限定(絶対者)の作用に同化する時、両者は一如、二而(絶対者と個我)不二(作用において)だと思うんです。

それ故に、成り切るとか禅宗では方便されると思うんです。