坐禅と動中の工夫15
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
吸う息と吐く息と両方意識します。
スゥーハァースゥーハァーと息になり切って行きます。
最初は苦労しますが一息に徹し切るほど意識せずとも余念が入らないようになります。
また、一息に徹し切るほど一息が意識できません。
この徹し切るところが只管打坐です。
また念が出ても次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになるのもいいです。
そして、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
念が出る前のところにいる感じです。
これが正念相続です。
また、坐禅をして楽になってもそこに安住する事なしに楽に流されないよう息を離さないようにして楽を切って行きます。
こうやってなんの苦楽もなく皮一枚中身がらんどう空っぽになって行きます。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
徹し切った姿が只なんです。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
これが仏道の一本道です。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今だけのことを真剣にやる。
前スレ
坐禅と動中の工夫14
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1616920012/ ま、俺は法を得ただの、わしは悟りをひらいたのだの、そういう奴はパチモンって言う事なんです😦 >>988
どれも間違っている
アートマンが無いも間違い
アートマンが有るも間違い
仏教の無我の本当の意味を教えよう
「無」がアートマンで有る
以上 >>989
お主が一番パチモンなのでござるよ
自覚しなされ! >>973
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ君の前提から間違った解釈を長文でダラダラ書かれても読まないよwww
君の自己満なダケwww
経典の解説読んだ方がイイよ
>>656
>>495
>簡単に言うと、「Aは空である」 という言い方は間違ってる
>「Aは空である」 という言い方は間違いで、実際には、「Aは無である」という方が正しい。
とか、キチガイの沙汰だよw
そもそも「Aは空である」という表記は小空経を始め般若経典に数多にあるし、空も無もサンスクリットのスーニャの訳語であるのが殆どだから。
つまり、お前は「Aはスーニャである」は間違いで、「Aはスーニャである」という方が正しいって言ってるの。 カレーを知らない人間がカレー食べたという人間はパチモンです、と妄想しています。。w その論理で行くと、お釈迦さまは、自分は目覚めたものである=悟ったものである、と言ったんだから、パチモンということになるね。。
外道ですね。。w >>992
>空も無もサンスクリットのスーニャの訳語であるのが殆どだが
無色無受想行識
ナ(無) ルーパム ナ(無) ヴェーダナー ナ(無) サンジュニャー ナ(無) サンスカーラ ナ(無) ヴィジュニャーナム
無眼耳鼻舌身意
ナ(無) チャクシュフ シュロートゥラ グラーナ ジフヴァー カーヤ マナーンシ
消えろ、糞野郎。
テメーも二度と出て来るな。 >>995
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ空でしょうwww
Wikipediaより
>仏教における空(くう、梵: śūnya [シューニャ]または梵: śūnyatā [シューニャター]、巴: suññatā [スンニャター][1])とは、
一切法は因縁によって生じたものだから我体・本体・実体と称すべきものがなく空しい(むなしい)こと[2][注釈 1]。
空は仏教全般に通じる基本的な教理である[2]。
>「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」 -- 『スッタニパータ』1119偈
>「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経) >>996
空小経
『世尊は「よく憶えている。私は以前も今も(pubbe ca etarahi ca)空住に多く住している。例えばこの鹿子母講堂は象・牛・馬について空(suJJa)、
金・銀について空、女・男の集まりについて空である。しかし比丘サンガについては不空(asuJJatA)である。
あなたたちもそこにないものについては空であると見(iti yaM hi kho tattha na hoti, tena suJJaM samanupassati)、
そこに残っているものはこれはあると知りなさい(taM santaM idam atthI ti pajAnAti)。』
>例えばこの『鹿子母講堂は』← 象・牛・馬について空(suJJa)、金・銀について空、女・男の集まりについて空である。
『中阿含』190「小空経」
『たとえばこの鹿子母堂には象・馬・牛・羊・財物・奴婢はなく空であるが、
比丘衆は空ならざるが如しである。もしこの中に無なれば空と見るが、余りあれば真実有と見る。
これを真実空を行じて顛倒せずという。』
>鹿子母堂には象・馬・牛・羊・財物・奴婢はなく空である
>「〜はなく空である」 ←何が → 鹿子母堂
もう二度と出て来るな
気色の悪い糞ヤロウ 空が理解できれば天才である。
空は欠如ではない。996. >>996
鹿子母堂 は空(からっぽ)である
(なぜなら) 象・馬・牛・羊・財物・奴婢 がないから。
>>996
>牛についていえば空(欠如)である
この糞バカは、この文章を見て、「牛の中が欠如している」 と思ってる
ちがう、
>この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。
講堂の中において、牛が欠如している(=講堂の中に牛がいない) >『たとえばこの鹿子母堂には象・馬・牛・羊・財物・奴婢はなく空であるが、
>比丘衆は空ならざるが如しである。もしこの中に無なれば空と見るが、
>「もしこの中に無なれば空と見るが」
「この中(鹿子母堂の中)に無なれば(何もなければ)、空と見るが」 このスレッドは1000を超えました。
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