輪廻転生と解脱
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>>1
全ての仏教徒の最終目標だもんな
>>2
やめようと思ってもやめられないのが輪廻転生
その輪から脱出することが解脱=成仏
そのための行いが仏道修行
かつてはオウム真理教というエセ仏教のカルト教団が
ヨガや瞑想などオウム式修行が解脱の1番の早道という宣伝文句で信者を集めてどんどん出家させてた >>3
煩悩を無くせば、解脱出来ると仏教は説いてるみたいですが、ちがうのではないかと思ってます。
煩悩故に自分の意思で生物が誕生してきているのならば、殺される為に生まれてきたかのような無数の生き物の誕生の説明がつかないので。 >>3
バラモン教は梵我一如を悟れば解脱できると説いているようです。その為に瞑想していたらしいです。
梵我一如の悟りが解脱に繋がる理屈が全然わからないです。 解脱しておかないと、せっかく死ぬほど苦しんで死んでも、死に損なうと思ったので、このスレを建てました。
というのも、私の考えでは、生前と死後は等しいからです。生前=死後だからです。
わたしは死後に生前同様の無に戻るので、また生まれる見込みだからです。 わたしは生前=死後=無だと考えているけども、バラモン教やヒンドゥー教や仏教やキリスト教では、心身二元論を採用していて、魂は肉体から自立して存在できると考えているようです。
ですが、わたしは幽体離脱した経験もないし、先祖の霊と交信したこともないので、どういう根拠で心身二元論が採用され、信じられているのか全然わかりません。
自分なりに考えつつ先人の足取りを少しずつ調べていこうと思います。 今は道路遊びも騒音もないけど
昨日と今日の夕方に久しぶりに道路で遊ぶ子供の叫び声を聞いたからか
夜になってからやろうとした作業が何も手につかない
これ毎日続くのかな
親が出てきて頻度も多くなるのかな >>7
バラモン教=「霊魂はある」「霊魂が輪廻転生している」という教え
仏教=「霊魂は無い」「霊魂は無いが輪廻転生はある」という教え キリスト教=「人間にだけ霊魂はある」
「輪廻転生は無い」「人生は一回こっきり」
「人間の運命も来世も全ては唯一絶対神の計画のうち」
「イエスキリストを神の子救い主と信じた者だけがあの世でパラダイスに行ける」
「神と人とが契約することでこの世でも神の救いにあずかれる」 >>9
記憶を失うのは同じだから、どっちでも、私にとっては変わりのないことだという気がしますね。記憶力はあっても経験不足の胎児、乳幼児のころでも私は存在していなかったし、自意識は記憶と経験に依存してる気がするからです。
記憶を失えば、乳幼児的な自我が残るかどうかに関わらず、私は消滅するでしょう。 胎児のころから今までの自分の同一性を信じられる人ってほぼいないと思います。私などは、中2の頃の自分とオッサンの自分の同一性も信じられないぐらいです。中2の頃の自分が自分だったことは覚えているけども、今の自分とは違う。他人みたいなものです。
私は自意識をもった変わりゆくものです。変わらないのは自意識だけ、デカルトのいう我は存在するということだけが確かかなと思います。これすらも、デカルトは死ぬまで人並み以上の記憶力を保持していたでしょうが、記憶力の劣化により、薄れ、ぼやけていき、不確かになっていくでしょう。 凡庸な脳の持ち主であれば、精神は脳の劣化によりいずれ思春期ならぬ思秋期を迎え、さらには幼児化し、さらには乳幼児化し、物心を失い、さらには胎児化し、無くなるでしょう。
幼児の頃から痛々しい自意識を持ってた脳がよく発達している人もいるようですが、そういう人は、何か脳梗塞などで壊さない限り死ぬまで痛々しい心のままで大変でしょうね。 輪廻転生はするでしょうが、たまたま優秀な脳をもつ知的生命体に生まれかわりさえしなければ、許容範囲かなと思えてきました。
私が発生するのは人間か宇宙人、知的生命体においてだけだと思われるし、それは地球上では少ないし、幼児の頃から老衰で死ぬまで私が存在し続けられるほど高度に発達した個体はさらに少ない。
輪廻転生に関してはあんまり心配しなくて良さそうです。 可能性が低くても関係ないか。転生するのに時間がどんだけかかっても私にとっては関係ないわけで。やっぱりキツい。 運が悪いと、乳幼児から老害まで、80年も痛々しい心のまま存在することになる。
痛すぎる。痛い心の存在期間は平均的な人で50年ぐらいかな。許容できないな。50年でもキツいw
自分の死の許容の方が輪廻転生の許容よりは難易度が低い気がする。
だって死ぬ主体が不確かなんだからね。私だと思ってるだけで、私が存在していると思ってることだけが確かで、哲学的にも科学的にも存在してるとはいえない空虚な虚像なんだから。存在してるのは、存在してるという思いだけ。死ななくても寝るだけでいちいち消える儚き思いだから。私の人生は思い出に過ぎない。大事にするようなものではないんだけど、地震が来ると心も揺れ動くw 大きく揺れると心も大きく揺れ動く。
自己保存本能の方が私の存在より確かだ。デカルトは地震の経験があんまりなかったんだろうな。ビビるってまじで。 とりあえず机上の死の許容という課題からクリアしたいと思います。机上でないとなると、自己保存本能に左右されない自由な精神になるという無理ゲーなので。老衰死する前にでもならなきゃ土台出来そうもない難易度。 >>19
思春期前までは世界との一体感があった気もします。やはり中2ぐらいから痛々しくなりました。あの辺りから壁を築き始め、内に込もって悶々としだしますからね。よく恥ずかしくなかったものです。
中2病をしっかり癒さないことには解脱どころではないと思います。 前世、前々世の記憶はないが、胎児の時の記憶もなく、乳幼児の時の記憶もなく、幼児の頃の記憶もほぼなく、小学生の時の記憶は多少は残っており、正直いって基本的に覚えてない。日記でも書いてない限り大概過去のことなんて忘れるものです。
過去生の記憶がないことを根拠にして輪廻転生を否定するのは無理ですね。
輪廻転生の何が受け入れ難いのかというと、私が永久に苦しむことです。記憶も残らないので、チートも出来ずに、経験をいかせずに、永久に苦しむことがです。
大体の生き物は弱肉強食のこの世で殺される運命ですが、食い殺された記憶を持たずに転生するというのは、良いことでもありますが、それでも繰り返し食い殺されるのは許容しがたい運命です。
輪廻転生する魂があるとすれば、それは胎児の頃の私、物心ついた後から中2以前の私、中2以後の私に共通する何者かです。
それが輪廻転生するからといって、私の知ったことではないという気がしますね。それが人間に転生したにしても、中2以後に私が発生する可能性は低いでしょう。
されど永久に転生を繰り返すならば、いずれは再度発生するだろうし、再発生までの間の時間は再発生した私にとっては意味のない時間であり、主観的には、私の消滅後、私は即時再生することになる。 今世の私が、中2病を完治させ、無くなり、ちゃん付けに相応しいおじいちゃんになったとしても、いつの日か私が再発生する見込みである以上は私の問題は解決しない。
不滅の霊魂だの、真我だの、あるいは凡我一如の我などが、永久に転生し、お互いに殺したり殺されてたりし続ける不治の病にかかってるのは構わないのですが、その残虐な輪廻に、私という中2病的なるものが巻き込まれるのは大問題なんです。
お前は自分さえ良ければいいのか、他人に迷惑をかけるなと言ったり言われたりするこの中2的なる者にとっては大問題なんですよね。
そんなものに二度と巻き込まれない方法はないものか。 死後に引き継ぐのは因縁、業であると明確にいってるよ。
だから、仏教徒であれば不善を避け、善行為を行うのが正道。
今生で解脱を得られずとも、徳を積んで次に繋がるなら、無駄ではない。
しかし、実際は思っているよりもひどい状況だと思うよ、中二病が恥ずかしいとか
言ってられないくらい。とある阿羅漢が自分の屍でタイの国土が埋まるといって
いたのを思い出したけど。あと
「無明(煩悩)と輪廻の消滅は、同時に起こる」
これも明確にいってる。 自分以外の生き物に煩悩まみれであれば、自分だけ知恵をつけたり修行したりして、それから解放されたつもりになったところで、また生まれますから、煩悩を個人的に無くすのは無理でしょう。
チベットのダライラマみたいに数限りなく転生しては人々を果てしなく地道に指導し続けたところで蜘蛛の糸みたいな希望しか見えない。
自分だけ煩悩から解放されればいい、自分だけ解脱できれば良いっていう中2病的志向では、絶望的ですね。 悟った人達は全体の霊位を少しずつ上げていくっていうことをしてきたんだろうな。まだ普通に中2病になる卑しい段階なんだけどw 阿羅漢の解脱を信じていない、尊敬出来ないってこと?
だとしたら、仏法から外れていくのは無理ないよね
なんらかの思い込みや執着を手放すのも、重要な修行のひとつ 生物界全体の霊位を上げるべく、善いカルマを積み重ねまくっていけば、転生を繰り返すごとに微妙に自分の霊位も全体と共に上がり、いつの日か解脱が可能になるという希望はあると思います。
それまでは阿羅漢と見なされた人も、何に生まれかわるかわかったものじゃないと思いますね。 来世以降の自分の霊位は生物界の平均的な霊位を上げるカルマを積み重ねていかない限りは上がるわけもないと思います。
今世で自分を霊的に高めようとするのは良いことでしょうが、個人的な霊位は、来世の生まれつき霊位の決定には関係ないのではないかということです。 自分の死の許容を目指すことは、エゴイズムと矛盾しません。
人は、フリーザになることも、ドラゴンボールで不老不死になることも出来ずに、死ぬからです。
死ぬというどうしようもない定めによって、無闇に苦しむことは、エゴイストとして未熟だからです。エゴイストたるものは、己の死を受容できるようにならねばならないのです。
とはいえ自分の死の受容の達成は、エゴイズムと矛盾するかもしれませんが。
自分の死を許容している人が、エゴイストとして生活するのは考えにくいからです。 回避不能の死がある世界では、エゴイストはいずれ絶望と恐怖等に苛まれつつ、殺されます。
死にたくないのに死ぬので、殺されるのと変わりはありませんので。
回避不能な死を、せめて許容するのが利己的です。
利己的な動機で自分の死を許容するなんていう無理難題を解決するとなると、まずはエゴイズムから脱却することで、不可能事を可能事に変換する必要があるのかもしれない。 回避不能の死がある世界では、エゴイストはいずれ絶望と恐怖等に苛まれつつ、殺されます。
死にたくないのに死ぬので、殺されるのと変わりはありませんので。
回避不能な死を、せめて許容するのが利己的です。
利己的な動機で自分の死を許容するなんていう無理難題を解決するとなると、まずはエゴイズムから脱却することで、不可能事を可能事に変換する必要があるのかもしれない。 エゴイストのままでは、死の許容は無理ゲーで残念ですね、。残念すぎる。
自分に執着しないというのも、自分の死の許容同等に無理な話だ。そんなんでやっていけるか不安になる。
だいたいが利己主義が、そもそも、死の恐怖や不安から自然に発生するものではないのかと。
死を許容するという無理ゲーをクリアするために、利己主義脱却が必要でも、利己主義脱却の為には死を許容するという無理ゲーをクリアする必要があるのではないだろうか。 なかなかいいスレタイだ
不二の境地に無いと人は無明に迷う
不二の境地に無いと人は救いには至らない
世界はそのように出来ている
そして世の中の多くはそれを知らない アートマンが統覚機能にあるとき
統覚機能が動いたり、瞑想したりするとき、
あたかも動いているかのようであり、瞑想しているかのようであるとみえる。
船に乗っている人にとっては岸に生えている動かない木が動くかのように見えるように、
輪廻している人にとっては
輪廻しないアートマンが輪廻しているという誤った考えが起こる
(シャンカラ) バラモン教も 最終的には 一切すべてのものの解脱成仏を 目的としている。
永遠に輪廻していかなくてはならないとする考えかは 当時のバラモンの誤りか またはDSのうそだろう。
ただ違いは 釈迦は 人間の苦の救済を優先にして教えてくれた。
一つの世界のことであるから ゴールは同じ。
朝鮮バンパイアたちの版の中で こうした議題を扱うのは 難しいだろう。
彼らは 転生しない場合があるからである。 「宗教名目による悪徳商法―日弁連報告書にみるその実態と対策 」
日弁連は1987年7月と翌1988年3月の2度にわたって、霊感商法の実体とその対策について提言する詳細な報告書を公表した。
第二 実体
この提言で対象とする典型的な事例を10種類選択して紹介する。いずれも弁護士や消費者センター等の相談窓口に寄せられることが多いものばかりであり、事件を担当した弁護士や被害者から直接事情徴収してまとめたものである。・・・
8)教祖の著作を書店で見て、この教団(法人格はない)に関わりを持つ人が多い。悪霊を払って善良を呼び開運すると銘打った除霊の儀式(5万乃至数十万円)や、
有料の気学や、やせる・美人になる・金持ちになる等の各種講演会、秘法等のイベントなどに若い人を中心に多数参加している。
子供の病気等の悩みを解決するためには除霊をしないといけない、といわれて、
教祖や教団内の資格を持った幹部の儀式、鑑定などを度々受けたため、多額の出損となったという事案を初めとして、相当数の被害相談がある。』 私の身体も心も瞬間瞬間死んでは生まれる
瞬間瞬間死んでいく私は死と同時に他の生命の糧となって生まれ変わっていく
物質の死は他の生命の糧となり、心は言葉や行動となって他の生命へ影響する
生命を捧げてくれた生き物たちは瞬間瞬間私という生命に生まれ変わっていく
その物質の死は私の血肉になり、その心は言葉や行動となって私に影響する
私を巡るこの円環こそが輪廻であり、まさに今この瞬間輪廻転生が起こり続けている
だからこそ私は無常無我であり、無常無我であるからこそ輪廻転生が成立するのだ 過去のあらゆる生命の執着によってあなたは産まれた
最初細胞一つだったあなたは生滅を繰り返して五感を得、周りを見渡し思考と解釈を繰り返した
やがて私という幻想が産まれた
周りもたくさんの私という幻想ばかりだから、そのまやかしの中で生きていくためにあなたにも私という概念が必要だったのだ
生命一切を大きな川に喩える
過去の生命の業によって川に五感と思考を持った石をあなたが置く
石は流れに淀みを作る
この淀みがあなただ
もともと一つの川の中にあたかも別人格のような淀みが無数に立ち上がる
淀み同士は憎しみ愛し嫉妬し執着し干渉しあって次の淀みを作っていく
この淀みが次のあなただ
この生命の連鎖が輪廻である
あなたは産まれた時点で執着の産物なのだからすでにこの苦しみの只中にいる
これを何度繰り返すのか
石を取り除けばほら川があったことも思い出せない もう少し進めました
過去のあらゆる生命の因果によってあなたは産まれた
最初細胞一つだったあなたは生滅を繰り返して五感を得、周りを見渡し思考と解釈を繰り返した
そのうち私という幻想が産まれた
周りもたくさんの私という幻想ばかりだから、そのまやかしの中で生きていくため(苦しみ続けるため)にあなたにも私という概念が必要だった
生命一切を大きな川とする
過去の生命の業によって決まった形の石がこの川の決まった位置に置かれる(業で置かれるのであるから形も位置も自分で決めた、と同義である)
水の流れは石の形に応じた淀みを作る
この淀みが今生のあなただ
周りを見ればもともと一つの川の中にあたかも別人格、別人種、異種別、異性のようなあなたならざるように見える淀みが無数に渦巻いている
淀み同士は憎しみ愛し嫉妬し執着し干渉しあって次の淀みを作っていく
この淀みが次のあなただ
この永遠に続くように見える生命(苦)の連鎖が輪廻である
あなたは産まれた時点で因果の産物なのだからすでにこの苦しみの只中にある
ただひとつ、あなたの石を取り除けば淀みも川があったことも、時間すらも思い出せない
ただ有るのは今という瞬間と横一列に並んだあなたと同じ無数の生命という現象だけである
以上、今の私の進捗でした 因縁により現象が起こる
現象を受け取った私は現象を理解し、行動する
行動は現象となって次の因縁になる
業は世界を認知するときのバイアスのようなものだ
今までの幾人もの私に似た生命が他の生命に与えてきた途方もない因縁の結果、今もう一度現れた私の認知にも脈々と受け継いできたバイアスが再生したのだ
世界の受け取り方にバイアスがあるのだから、何も考えずに生きていたらバイアスに支配され、また悪業を繰り返した結果、輪廻してしまう
解脱とはこのバイアスに気付き、一つ一つそれを剥がし文字通り世界をあるがままに見ることだろう
業を無くす方法は、受けた因縁に対してそれに関係するすべての生命がその因縁への執着を無くすような行動を取ることだろう
因縁が何かの問題であれば関わる生命が納得するような道、単にwinwinの解決策という浅い話ではなく問題だと思っていた事がそもそもの意味を解かれてみんなの心から消えてしまうようなそういう道だろう
そういう行動を繰り返すことで心のエネルギーのクセ=業を小さくして行きやがてそこから脱する時が来るのかもしれない
進捗でした 悟ったか悟ってないか結局は輪廻への理解で推し量れる
無常無我は全ての基本でとても大事だし皆が頭で正しいと思っているけれど、そこから発展した輪廻に全ての生命が巻き込まれてるという自覚があるかどうか
輪廻がないという人は悟っていないし、仏教は輪廻があるから仏教なのだと理解していない
たまに日本の坊主が輪廻は科学的にあり得無いから如来を信じて全てを任せろなんて言うが、まーあんなのは仏教思想の正反対であり輪廻を理性で理解しきれなかった生臭坊主の戯言だと思う
因縁があるから必然業があり、業があるから必然輪廻があるのだ
この基本的な構図をあやふやにしてはいけない 細胞が瞬間死んで生まれていく
何の計画も無く自己複製し続けるのでは無く明らかな因が意識された
私という生命体を顧みてどこに執着があるのか、認知の癖、考え方の癖、行動の癖それらは無数の前世から引き継いで発現したものである
引き継ぐというと普遍の魂があるかのように誤解を生じるが、そうではなく過去の私に似た生命が振る舞った行動を因とする果が今生の私という現象をリアルタイムで結実させ続けているという状況がただあるだけである
こう意識すると業なるものは99%運命論であり、ほんの1%の間隙を縫って私という生命の救済を自らの心と行動で成し遂げなければならないということになる
大変に難しい事だけど意識すらしなかったら業は100%私を支配し続け、宿命的に全く同じ業を重ねてしまうだろう 業に支配された幻の世界での我を消すことによって、業がないあるがままの世界での我を確立する
修行とはそういう心の独立作業のように思われました 釈迦は輪廻転生から解脱した境界を、悟り
・涅槃だとした。それを成仏というわけだ。
しかし、大乗仏教では、そのような見解を持たない。
大乗仏教では、解脱の意味が本来のものと違ってしまった。 悪業は苦果を招き、善業は楽果を招く、という因果な法則に異議はないが、
封建時代の善悪と、民主時代の善悪とで、解釈が違う場合も多いだろう。
その場合の苦果や楽果は、どうなるのかな。 >>48
大事なのは悪業も善業も「果」をもたらすということです。果はすなわち輪廻の枠組みの中での果であり、これも諸行無常であり、果は次の因縁となって輪廻にとどまります。仏教はこの善悪の価値判断軸に疑問を持ってその二元論から脱出せよと教えてくれているように思います。ヘーゲルの弁証法のアウフヘーベンのようなイメージを勝手に抱いております。 修行が完成し、悟りを得たものだけが一人称として私と言えるらしい。お経でもブッダが一人称で語ったものは特別視される。これをどう解釈するか。
業と因縁の世界にいる者は諸行無常であるからこの世界では私は本質がない。
では業の世界で滅私を遂げた者は業のない世界で確固たる私を確立するのか?
そんな別世界があるのかはたまた今見えている世界に重ね合わせるように別のレイヤーが存在しているのか?
悟りとは幻の私を消し、真の私を確立することなのか? 悟り(笑)なんてものよりもまず宗教という妄想から目を覚まそうぜ 辻褄の合う輪廻転生
人間の体に住む細胞と共生してる細菌やバクテリアは
死ぬと糞尿となって土と同化し、人間の体は残る
日本国に住む人間は
死ねば焼かれて灰や骨は散骨したり、骨壷に
入ったりして最終的に土と同化し日本国は残る
そして全人口がいなくなり国が全て滅び
地球が死の星となっても太陽系の一部として残る
このように輪廻転生 転生輪廻とは
死んで『あの世』とやらに還った霊魂(魂)が
この世に何度も生まれ変わるのではなく
肉体が死んで自己意識が拡大した時に
『同化した生命の寿命』になる
これが本来の輪廻転生である 手塚治虫は大きな集合体みたいなのを考えてそれが続いていくみたいな感じで書いてるな
大きな集合体の一部が目や感覚を与えられて、それが生き物かと >>54
解脱を求める欲はお釈迦さんは認めてるよ
それが無いと修行者は何をモチベーションにするの 行動には限界があるが
心はいつでも自由奔放だから
解脱する必要など無い >>58
解脱しなくとも
解脱する以前からそう思い そう言える
自由があるということです 誤:解脱する以前
正:解脱という言葉が作られる以前 >>11
死は概念ではなく状態と理解できれば
生きながら死ねることに気づけるので
死の許容・受容を課題とする必要がない インド・チベット密教で解脱した人を「天空を行く人」と呼ぶ理由がわかった気がする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています