◆悟りを求めない人の談話室No.35◆
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
悟りを求めない人や、悟りを徹底的に棄てたい人が
気楽に、思ったことを書くスレです。
どんな宗教の方でもOKです。悟りの修行をしている方もお気軽にどうぞ!
雑談、独り言、名言、格言、気づき等。
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い
※荒らしはスルー、あぼーんしてくださいね。
前スレ
◆悟りを求めない人の談話室No.34◆
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1611405801/ >>919 続き
仏教の因果論について
相応部経典>因縁篇>第一 因縁相応>第二 食品
[一八] 第八 ティンパルカ
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=27402447
ゴータマ、苦楽は自分が作るのか。
ティンパルカ、そうではない。
ゴータマ、苦楽は他者が作るのか。
ティンパルカ、そうではない。
ゴータマ、苦楽は自分が作り、かつ他者が作るのか。
ティンパルカ、そうではない。
ゴータマ、苦楽は自分が作るのでもなく、他者が作るのでもなく、原因なく生じるのか。
ティンパルカ、そうではない。
ゴータマ、苦楽はないのか。
ティンパルカ、苦楽はないのではない。
ティンパルカ、苦楽はある。
(中略)
ティンパルカ、「感受と感受する者とは同じである」というような、あなたが先に言った「苦楽は自分が作る」とは、私は言わない。 (※常見に陥るため)
ティンパルカ、「感受と感受する者とは異なる」というような、感受に重圧された者が言う「苦楽は他者が作る」とは、私は言わない。 (※断見に陥るため)
ティンパルカ、これら二つの極端を離れて如来は中によって法を説く。
無明によって行がある。行によって識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生によって老死愁悲苦憂悩がある。これが全苦蘊の集である。
無明があまりなくないこと・離貪・滅によって行の滅がある。行の滅によって識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生の滅によって老死愁悲苦憂悩の滅がある。これが全苦蘊の滅である。
このように言った時、遊行者ティンパルカは世尊にこう言った。「ゴータマ、素晴らしい。ゴータマ、実に素晴らしい。・・・私を優婆塞として・・・帰依します」
※相応部では他にもカッサパさんなどがブッダに対して全く同じ質問をして全く同じ回答をされています。 >>922
テーラワーダ仏教は今ある仏教の中では一番厳密な無我論に立ってると思います。
大乗仏教になると仏性や如来蔵や阿頼耶識などアートマンに近い概念が出てきますしね。
(それらをアートマンと混同するなかれとは説かれますが)
あと、大乗涅槃経になると如来にはアートマンがあることを認めたと思おます。 >>924
>あと、大乗涅槃経になると如来にはアートマンがあることを認めたと思おます。
>>924
>あと、大乗涅槃経になると如来にはアートマンがあることを認めたと思います。 疑問があるんだけど。
私が永平寺元管長の文章を要約して
無分別無執着無功徳おのずと回向する。としている。
意味合いはわかるのだが、
この回向は無為法による因果なのか。
因果というのは有為法だと思っている。
基本的なことでごめん。
(^^)ノシ もう一つあった。
宝珠氏の名前がでていたな。
その宝珠氏だが、
このように言った。
無我だから輪廻する。と。
当時悩みましたわ。
思いだすと頭がおかしくなるわw
(^^)ノシ >>926
???
無為法による因果って意味が分からないけど。 >>927
無我輪廻説の事であれば業感縁起の事ですか? >>926
有為ですね。
因果によって生滅するものが有為です。
逆に言えば有為は因果なしには生滅しません、ですからそれ自体としては不生不滅です(因果なしに生じたり滅したりはしない)。
五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。
(「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察)
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
(ダンマパダ)
このつくられたもの、形成されたものが有為で、それは無常で苦ですよ、と。
一方無為はつくられたものではないもののことですが、であるが故に無常や苦ではないということになります。
また無為は少なくとも釈迦仏教では涅槃の言い換えでした。
相応部無為相応 「身至念経」(『相応部』43-1)
では比丘たちよ、いかなるものが無為なのでしょうか。
比丘たちよ、貪欲の滅尽、瞋恚の滅尽、愚痴の滅尽。
比丘たちよ、これが無為といわれるのです。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn43/sn43c01.htm
増支部では同じ説法で無為という言葉が涅槃に変わっただけのものがあります。 >>928
>無為法による因果って意味が分からないけど。
創作です。
例えば、因果応報なんていうじゃないですか。
(^^)ノシ >>927
シャンカラやラマナ・マハルシは真我(アートマン=ブラフマン)に対する無知(無明)が輪廻の原因としていますね。 >>931
なんとなく想像が付きました。
因果の連鎖から離れてるのが無為法です。
そうした無心の行為は有為法に分類されますが、有因無果という事です。 >>930
では回向と言う言葉は有為なんですか?
(^^)ノシ >>934
言葉は全て人によってつくられたものなので有為です。 >>933
>『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
>そうした無心の行為は有為法に分類されますが、有因無果という事です。
これだと矛盾しませか。
(^^)ノシ >>936
構成要素とは五蘊(色受想行識)だと思うんですけど、五蘊は無(非)我でして、それが縁起してるって事では? 不生不滅って、すべて=空が不生不滅なんじゃないの?
現象は、生滅するんじゃなかろうか? 「業の行為者は存在しない。行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。
構成要素のみが生起し続ける。これが真理であり、正見である」
(清浄道論 Visuddhi Magga) >>935
天いわく、
文字も解脱なんとか。
だそうですが、やはり有為ですか。
(^^)ノシ 経典を見て、輪廻か解脱か考えてもわからんのじゃないかな?
逆にどっちも忘れたら、わかるかもしれない。。w
今、この瞬間、輪廻とか解脱とかあるだろうか? >>943
>後、維摩経、確か天女のところ。
>文字も涅槃、あなた方文字を離れるなんて10万年早いのよ。
これは私の創作です。
こちらは読み下し文です。
天曰く、『言説も文字も、皆解脱の相あり。所以は何となれば、解脱とは、内にあらず外にあらず両の間に在らず。文字も、また内にあらず外にあらず両の間に在らざればなり。
この故に舍利弗、文字を離れて解脱を説くこと無し。所以は何となれば、一切の諸法は、これ解脱の相なればなり。』
これは、曹洞宗氏があげてくれました。
つばめ通信堂さんですね。
追伸
スマホのギガ数を使いきっていますので返事がおくれます。
よしなに。
(^^)ノシ >>912
>習うより慣れろ、ですわよ。
どこの事言ってるの。
本スレですか?
飽きました。
(^^)ノシ >『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
これをですね、
無我だから輪廻する。に当てはめると、
輪廻は行為になってしまうように感じてしまいます。
(^^)ノシ >>946
無自性の時、因果はどの様に説明をするんですか。
(^^)ノシ >>946
無自性の時、因果はどの様に説明をするんですか。
(^^)ノシ 無職のおっさん
お昼だよ〜♪
無職のおっさん
お昼だよ〜♪
無職のおっさん
お昼だよ〜♪
30 歳 で 職 歴 な か っ た ら ア ウ ト だ よ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1608709162/l50 そろそろ仕事に行く準備をしますので、またあとでね。
(^^)ノシ >>920
サイケデリックでしたか!
サイケデリックじゃないと思って違う言葉を探していました。
ありがとうございます。 >>948
まぁ、そうですね。
行為=業でしょうし、業に余力があれば後々に残る訳ですから。 私は働くことが
手足を動かすこと
だったりする
人の思いに組み込まれずに
手足を動かすことで
お金がもらえたりする
という感覚はある >>947
ただ起こるがままにってこと。
本スレが飽きちゃったの? 因果っていうけど、果が生じてその因果のサイクルは終了するんです。
ただ、余力がある場合はその因果が異熟しながら相続してくんです。 右脚小指の付け根あたりに
断続的に激痛が走る。
ちゃんと靴を履いていないからだし、 もともと解脱しているのに、なぜ輪廻してしまうのか?
それは自分の不注意、ということだね。。w >>945
>>877で私が書いたことですね。
その後の考察(というか答え調べ(笑))で以下が見つかりました。
まずは有名なバーヒヤ経(小部「ウダーナ」に収められています)
「バーヒヤ、見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。
そのときあなたは、外にはいない(対象に捕らわれないという意味)。内にもいない(心の中にも執着・煩悩が生まれないという意味)。外にも、内にもいないあなたはどちらにもいない(解脱の状態)。
それは一切の苦しみの終わりである」
https://j-theravada.net/dhamma/kantouhouwa/kantou035/
余談ですが、ここでのスマナサーラ氏の説法では改めましてダンマパダの「文学的に美しい詩を千以上聞くよりも、心を清らかにする偈をひとつ聞く方が優れているのです」に共感しました。
そして、この偈の出典がバーヒヤ経にあることも…
と思って今、正田大観訳のダンマパダを見てみたらちゃんとそう書いてありました。
8.2 バーヒヤ・ダールチーリヤ長老の事例
101.(101) たとえ、もし、千の詩偈あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-2.html
これで内外の大体の意味は分かりました。
天女は内外中と言ってますが、つまりはどこにもということでしょう。
1103 師(ブッダ)は答えた、
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。
(スッタニパータ)
そして、ここでいきなり答えのようなものが書いてあるサイトですが、こちらになります。
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/2563
訳が違ってますがサンスクリット原文訳なのかもしれませんね。
あとそのサイトでは例の即非の理論(>>834-835)にも言及があります、ってかその説明に維摩経を使っていますね。
>文字を離れて解脱があるわけではない、
「色即是空 空即是色」の空は何かを離れてあるわけではない、にちょっと似てますね。 >ただ起こるがままにってこと。
銀わんに雪をもり。
明月に鷺をかくす。
類してひとしからず。
混ずるときんばところをしる。
ο支点、何を申す。 もともと解脱しているのに、なぜ輪廻するのか?
他に瞞ぜらるるが故なり、ということだ。。 坐禅のみならず、禅修行すべて是、ということでしょう。。 >>932 自己レス
マハルシの場合
質問者 輪廻転生は真実でしょうか。
マハルシ 無知が存在するかぎり、輪廻転生は存在する。本当は輪廻転生など全く存在しない。今も、今までも、そしてこれからも。これが真理である。
質問者 ・・・魂とはヒンズー教の教義が示すように、何度も何度も生まれ変わる実体なのでしょうか、それともそれは単なるサンスカーラ(仏教の行=形成力、形成されたもの)、精神的傾向の集合体にすぎないのでしょうか?
マハルシ 真我は永遠に存在し、影響を受けない。転生する自我はより低い次元、つまり想念の次元に属している。それは真我実現によって超越されるのである。
質問者 生命と再誕生への渇望の原因とは何でしょうか。
マハルシ 真の再誕生とは自我として死に、霊性として再生することである。これがイエスの磔と復活の真意である。
霊性、真我、源のなかに溶け去り、身体としての感覚が消え去るまで、新しい身体はつねに手に入るだろう。放り投げられた石は再び源に戻り、落ち着くまでつねに動きのなかにある。頭痛は頭痛が起こる以前の状態に戻るまで苦しみを与え続ける。
生命と再誕生への渇望は、絶対的な存在、サットである生命の本質そのもののなかに本来備わっている。本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽りの同一化によって、意識はそのはかなさと同化してしまう。それが誕生と言う連鎖をもたらしたのである。
だが、いかに果てしなく身体が転生を繰り返そうとも、いつかは終焉がおとずれ、唯一永遠の真我に明け渡す時が来るのだ。
https://blog.goo.ne.jp/wyatt999/e/7b8e29c8e564d0bfaebea9b11277e5c9 熟睡が肉体に依存していることなので
肉体が無いなら眠たくならないということなのかな?
というか思考や感情も脳に依存してるし
よくわからない領域になるね
とにかくあちら側よりこちらのほうが居心地良いから
輪廻しているという話になる アートマンは悟っている
罪の無い状態らしい
それならエゴとか肉体に依存してる
自我は何なのか?みたいな話になりますよね
それらはゴミのように要らない物なのか?
あるいは精製されたら宝石になるのか?
よくはわからない
ただ悟るとそれらを探求する自我は無いから
探求する行為が意味のないものとはいえる 悟るというのはよくわからない話になるんですよね
まあ、それ言ってたら全部がよくわからないけど
生物は人類まで進化して何故に生きているのか探している
その答えが意識が外側に向いていたら悟れない
完全に矛盾してるんですけどそうなんですよね
わからないなあとはつくづく感じてますけど
先人が示した生き方を尊敬しながら遣えるといった
リスペクトは大切でしょうね 途中で送信してしまったみたいだけど、仕事中断続的に足が痛かった。
右脚が弱く、基本的に力が入らない。ただ歩いてるだけの足だ。だから負担がかかるのだろう。
なんで今まで左足の真似をしてこなかったのだろうと思う。
気がつくと左足ばっかり働いている。
気づく範囲で歩くとき力が平等になるように意識しよう。まあ無理なんだけど意識だけね。 >>979
ヴェーダーンタ学派ではブラフマン(=アートマン)以外の自我や輪廻はブラフマンが創り出したマーヤということになりますね。
大乗仏教では自我や輪廻は縁起に依るもので空になります。
ちなみに釈迦仏教以来捨てるべきものは
「比丘たちよ、わたしは汝らのために一切を捨棄することについての教えを説こうと思う。それを聞くがよい。
比丘たちよ、では、いったい、一切を捨棄する教えとはなんであろうか。
比丘たちよ、眼は捨棄するがよく、色(肉体)は捨棄するがよく、眼の認識は捨棄するがよく、眼の接触は捨棄するがよい。また、すべてこの眼の接触を縁として生ずるところの受(感覚)の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものを、これを捨棄するがよいのである。
また、耳は捨棄するがよく、・・・鼻は捨棄するがよく、・・・舌は捨棄するがよく、・・・身は捨棄するがよく、・・・
意は捨棄するがよく、・・・法(観念)は捨棄するがよく、意の認識は捨棄するがよく、意の接触は捨棄するがよく、また、すべてこの意の接触を縁として生ずるところの受の、あるいは楽なる、あるいは苦なる、あるいは苦でも楽でもないものをも、これを捨棄するのがよいのである。
比丘たちよ、これが一切を捨棄する教えである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7052102.html
と六根・六境・六識の十八界は捨てるのが良いとのことで、また別のお経では五蘊は悪魔と観じることで五蘊を厭い離れ貪りを離れて解脱するように説いています。
摩羅
南伝 相応部経典23-1 摩
漢訳 雑阿含経6-10 摩
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7052002.html
最後の
「大徳よ、では、いったい、なんのために涅槃するのでありましょうか」
「ラーダよ、それは問うことはなはだ過ぎたりというものである。そなたは問うに限界があるということを知らないらしい。
ラーダよ、この清浄の行をいとなむ所以は、ひとえに涅槃にいたらんがためであり、涅槃こそはその究極であり、その尽くるところなのである」
の問答が良いですね(笑) >>919
>『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』(清浄道論Visuddhi Magga)
一二 行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。
(「中論」第八章 行為と行為主体との考察)
龍樹の方は行為も行為主体の相依性で説明していますね。
そして相依性(つまり空性)ですから行為も行為主体も真実(自性、本質)としては存在しない、と。 >>983
右脚を支えてます笑
お前も左脚支えろよって思いますね 体が変化してきたってことだよね。
それに伴って、行動や習慣を変えてく必要がある。 悟ってるとき自我がないのなら
悟りを求めてる自我は必要ないってことなのね。
他人と話してるとき、自分と他人という分けている観念を無くす。
お湯に角砂糖が溶けて行くみたいに身を任せる。
自我がどうしても出てきちゃうものならこの世界を助ける、奉仕するようにシフトしていきたいよね。 靴屋でコーヒーを頂いた時、
気を使って飲んでしまったけど
「もういらん」と心の声が聞こえて半分残した。
ちょっとした勇気である。 >>982
その話を昨日考えてたのですけど
結局わかるようでわからないような話ですね
ラマナ・マハルシさんいわく
深い眠りでは誰でも悟っているらしいのです
しかし目覚めつつあると
例えば蚊に刺されてたとかあるわけなんです
ブーンブーンと蚊はしつこいですよ
その時点でマーヤーは立ち現れてるということなのかなと
それが気にならない
深い眠りのように気付きもしないのが悟ることなら
ちょっとやそっとでは理解できない
精神的な次元が違うような気はしましたね 『清浄道論』(しょうじょうどうろん、パーリ語:Visuddhimagga, ヴィスッディ・マッガ、「清浄-道」)は、5世紀頃に書かれた上座部仏教の代表的な注釈者であるブッダゴーサ(仏音)の主著であり、上座部仏教圏における最高権威の実践綱要書。大寺(マハーヴィハーラ)派であるブッダゴーサが、2-3世紀に成立した無畏山寺(アバヤギリ・ヴィハーラ)派の実践綱要書『解脱道論』を底本にしつつ、諸典籍を参照しながらまとめ上げたものとされる
知らんかった。
(^^)ノシ >>985
それでは譬えによって説明しましょう。
譬えば二本の足が互いに相依りて立っているとしましょう。 立った右足によって立った左足があり、立った左足によって立った右足がある。
それと同じように、名色に依りて識があり、識に依りて名色があるのです。
そして、その名色に依りて六処があり、六処に依りて触があり、触に依りて受があり、 受に依りて愛があり、愛に依りて取があり、取に依りて有があり、有に依りて生があり、 生に依りて老死がある
…… これらがつまり、全苦蘊の集なのです。
もしそれらの二本の足の一つを取り去れば、もう一方はふらつき倒れてしまいます(杖や義足などを用いない限り)。
それと同じように、名色の滅に依りて識の滅があり、識の滅に依りて名色の滅があるのです。
そして、その名色の滅に依りて六処の滅があり、六処の滅に依りて触の滅があり、 触の滅に依りて受の滅があり、受の滅に依りて愛の滅があり、愛の滅に依りて取の滅があり、 取の滅に依りて有の滅があり、有の滅に依りて生の滅があり、 生の滅に依りて老死の滅がある
… これらがつまり、全苦蘊の滅なのです。
『名色は自作ではありません、そして他作でもありません。 自作にして他作でもなく、そしてまた、自作でも他作でもなく無因生でもないのです。 〈名色はそれらのどれにも該当しません〉 識に縁りて名色があるのです』
『識は自作ではありません、そして他作でもありません。 自作にして他作でもなく、そしてまた、自作でも他作でもなく無因生でもないのです。 〈識はそれらのどれにも該当しません〉名色に縁りて識があるのです』
というのは喩えるなら二本の足のようなものです。 >>984
ブッタゴーサと龍樹をガチンコさせたくなった。
真言宗氏がわるいのですw
(^^)ノシ >>986
私も酒にはめっきり弱くなりましたね。
後々のことを考えると日本酒一合でも飲まない方が良いくらいに(あくまで私の話)。 >>987
>悟りを求めてる自我は必要ないってことなのね。
悟りを求めるのは発心とか発菩提心とか言われますが、曹洞宗の場合…
修証義 第四章 発願利生
菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。
其(その)形 陋(いや)しというも、此(この)心を発(おこ)せば、已(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父(じふ)なり、男女(なんにょ)を論ずること勿(なか)れ、此れ仏道極妙の法則なり。
若(も)し菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)して後、六趣四生(とくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其(その)輪転の因縁 皆菩提の行願(ぎょうがん)となるなり、
然(しか)あれば従来の光陰は設い空(むなし)く過すというとも、今生(こんじょう)の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、
設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚(な)お廻らして衆生の成仏得道に回向(えこう)するなり、或は無量劫(むりょうごう)行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、但(ただ)し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。
(現代語訳)
菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
僧侶であろうとなかろうと、天人でも人間でも、苦しい境遇でも幸せな境遇でも、「お先にどうぞ」の心を起こしましょう。
外見が悪くても、この心さえ起こせばもうみんなの先生です。子供でも僧侶を教え導き、みんなの慈愛あふれる父親となります。性別は関係ありません。これが仏教の正しい法則なのです。
菩提心を起こしてから、地獄から天国までさまざまな生き物に生まれ変わっても、その生まれ変わりの縁がみな悟りのための修行となります。
したがって、これまで無駄に過ごしてきたとしても、この生命が終わらないうちに急いで誓いをたてましょう。
もう仏になるのに十分な力があるとしても、さらにその力をみんなの悟りのために向けるのです。無限に長い時間、みんなを救い続け、自分はいつまでも仏にならないという菩薩もいらっしゃいます。
https://tgiw.info/weblog/2012/02/3_13.html
※ 自未得度先度佗…自分は彼岸にいかなくても他の人をまずは彼岸に渡すこと >>987
>自我がどうしても出てきちゃうものならこの世界を助ける、奉仕するようにシフトしていきたいよね。
そうですね(^。^) >名色に縁りて識があるのです
名色は名色の位があり識は識の位があり。
要するに勝ってに出てくるんじゃないですか。
名色に縁りて識があるのです
(^^)ノシ >>990
うーん、その境地その例えは悟ってない私でさえ分かるような分からないような(笑)
真我(アートマン)論では昔から
私たちの右の眼のなかにはインドラと呼ばれる人間(プルシャ)がいて、彼の向く方向にしたがって認識は生じる。このプルシャがすなわちアートマンだ。
インドラすなわちアートマンには次の3つの状態がある。
1つ目は目覚めてこの世にある状態、2つ目は熟睡して彼方の世界にある状態、そして3つ目はこの世とあの世の間、すなわち夢の状態だ。
このようにアートマンは現世と熟睡の間を行き来する。
このアートマンが無力化すると、人間の諸機能はアートマンへと集まってくる。彼はもはや物を見ることができず、何かを聞くこともできない。
そしてアートマンは人間の身体から上へと出て行き、それにしたがって気息と全ての機能も上へと出ていく。
こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。
欲望をもつ人の場合、アートマンは世界に執着しつづける。だが欲望を持たない場合、あるいは、それが満たされた場合、諸機能が上へと出て行くことはない。彼はブラフマンそれ自体となり、ブラフマンに到達するのだ。
(ヤージニャヴァルキャ)
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-upanishads/
睡眠と真我には深い関係があったようですね。
また、この時代は(少なくともヤージニャヴァルキャにとっては)シャンカラ以降とは違って輪廻の主体はアートマンですね。
>こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。 >>919
>自在力もなく
結構重要なポイントですね?
生き物は全て自ら存在する力を持たないから死に物になる訳だし 我々の観測出来る範囲内に永遠の存在者=自在力の主は存在しないのですから
創造神 大梵天でさえブッダに生死を見られてますからね >>993
ブッダゴーサさんよりも龍樹の方が古いのですが、思想としてはブッダゴーサさんはアビダルマ哲学で法有(とは言っても説一切有部のような三世実有・法体恒有ではなく、経量部の現在有体・過未無体と同じような考え)、龍樹は法有を否定した法空の思想に立脚していますね。
どちらの思想でも、信じて発心して真面目に実践すれば悟れるのだと思います(多分)。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 15日 20時間 47分 38秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。