◆悟りを求めない人の談話室No.35◆
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悟りを求めない人や、悟りを徹底的に棄てたい人が
気楽に、思ったことを書くスレです。
どんな宗教の方でもOKです。悟りの修行をしている方もお気軽にどうぞ!
雑談、独り言、名言、格言、気づき等。
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い
※荒らしはスルー、あぼーんしてくださいね。
前スレ
◆悟りを求めない人の談話室No.34◆
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1611405801/ >>757
こちらのスレは2軍なので、私のような読解力の低い人間でも
根気よく相手をしてくださるので、助かっています。 >>758
では、私が突っ込んでみましょう。
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。
しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
信仰よりも実践を重んじたのです。
↑
釈迦を信じていないのに、釈迦の言うことを実践するってアリなの?
普通に考えて、
釈迦は、「信仰のみ」ではなく、「信仰と実践を求めた」のでしょうね。 >>767
>>龍樹菩薩いわく、一切のものが空なのだから有と無とか生と滅とかの見解は戯論になるから、ということのようです。
>>ブッダは四諦は私にとって確定的な事柄だから説く、無記のことは私にとって不確定だから説かない、と言ってもいます(長部「ポッタパーダ経」)
龍樹菩薩も議論の結果、振り返って「戯論だったなあ・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と感想を述べているのでしょうね。
お釈迦様も、「6年間の脳内議論」の結果、「不確定だったなあ・・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と、悟ったと推測します。 >>769
さて、道元禅師は、「一切の衆生は悉く仏性を有す」なら、修行なんて不要なのでは?
という疑問を解決するために、武者修行したらしいですね。
私と同じです。親近感が湧きます。 >>776
お疲れ様です。
【ジョージ・ハリソン インタビュー 1979】
より
(当時人気だったパンクロックをけちょんけちょんに貶すなどした後に)
インタビュアー「レコーディングをしていないときは、どのようにして過ごしているのですか。」
ジョージ「家にいて庭仕事をしている。鋤(すき)や鍬(くわ)を使うってほどじゃないけど、庭を掘り返して、そこに木を植えたり。
庭はいいね。ガーデニングがもたらしてくれる喜びはたまらないよ。
ある意味じゃ瞑想に通じるものがある。正気を失うほど夢中になって、泥の中で這いつくばりながら、すべてを悟ったような気持ちになれるんだ!
あとはたいてい、オリビア(妻)や赤ん坊と一緒に過ごしているよ(以下略)」
農作業での作務も想の境地まで高められるのかもしれないですね(一般には作務は「動中の工夫」などと呼ばれていますが)。
とはいってもガーデニングと農作業では使う筋肉の量が大きく違うと思うので、ジョージも家庭菜園始めようとしてもし鋤や鍬を使って土起こしなどして正気を失うほど夢中になっていたら、次の日は筋肉痛になって酷い思いをしたかもしれません(笑) >>798 続き
ということで、
>>776の野良さんのような農業に携わる方のご苦労があって私たちの目の前に食事が運ばれてくるのであり、まさしく
■五観の偈
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。)
なわけですね。
だから米一粒とて無駄にはできません。
(以下、井沢元彦「逆説の日本史――鎌倉仏教と元寇の謎」より引用)
華厳宗はこの南都六宗の中では、最後に伝来したものだ。華厳は「識」や「空」に関する理論(法相宗や三論宗)が「存在の認識」という点を重大視しているのに対し、むしろ宇宙の構造について述べている。
一即多(いっそくた)というのが、その代表的な思想である。それはよく米粒によって説明される。
ここに一つの米粒があるとする。それは自体宇宙の存在に比べたら実に他愛のないものに思われがちだが、よく考えてみればこれは太陽の恵み、大地の恵みによって生まれた、かけがえのないものである。
しかもそれが今、目の前にあるということは、多くの人間や輸送手段を経て運ばれてきたわけで、人間世界の営み(文明)がその一粒の中に集約されている。
これが「一」が同時に「多」であり、逆「多」は「一」であるという考え方だ。すなわち「一即多」である。
当然この世の出来事は「一即多」である以上、無限に関連し合って次々に新しい結果をうむことになる。これを重々無尽(じゅうじゅうむじん)という。
また、すべての人間は本来「仏性」つまり悟りを開く素質をもっていることにもなる。なぜなら、華厳経によればこの世界においては、完全に他から独立したものはない(重々無尽)。それゆえに、すべての迷いも悟りとどこかでつながっていることになる。
簡単に言えば「悟りにつながらない迷いは無い」のである。
したがって、いわゆる地獄や餓鬼道も、それ自体独立した世界ではなく、仏の一つの相としてとらえられることになる。 >>772
おお、苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」を持っていらっしゃいましたか!!
それなら、話が早い。
実は、私は6年前、アダルトDVDのレンタルを辞めるために、
自作エロ小説で抜いてみよう!と企画しました。
すると、1日中、ムスコが勃ちっぱなしになってしまい、
3か月後、下腹部が1日中、痛くなってしまいました。
前立腺肥大を疑い、泌尿器科を受診したら、
オナニーのし過ぎとの診断でした。
で、週1のアダルトDVDレンタル生活に戻したら、治癒しました。
多分、苫米地氏も、佐藤優氏も、精力絶倫なのでしょうね。
だから、鹿野園氏に嫌われるのだと分析しています。>>780 >>772
冗談はさておき、厳密に言うと、
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
とは
色即是空 空即是色
受即是空 空即是受
想即是空 空即是想
行即是空 空即是行
識即是空 空即是識
を省略した記述ですので、
色即無
無即色 も違和感があります。
五蘊皆無・・・のみでOK!でしょうね。
(倒置法で強調する必要無し)
ただし、「五蘊皆無」が正しいか、私にはわかりません。 前置きが長くなりましたが、本題です。
「五蘊皆無」をサイクリック宇宙論のイメージ図で解説してみます。
https://www.bttp.info/pickup/penrose-ccc/
↑
「現在の宇宙」と「以前の宇宙」をつなぎ合わせた
砂時計のようなイメージ図があります。
このうち、「現在の宇宙」と「以前の宇宙」の部分が五蘊であり、
「質量のない量子の世界」が無だろうと思います。
で、仮に宇宙が複数あれば、
無数の「宇宙」とその隙間を、「空」と表現しているのでしょう。 >>786
あとは、無理をしなくなったかも。
去年より。
いらんものは作らないぞ。 >>791
私は因みに視力回復を盲信してて
眼鏡を弱めに作ってあります。
運転免許はギリギリ合格してますから大丈夫ですけど。
ピントぴったりに矯正すると
眉間がムズムズするし
度が進んでしまったときの落胆が少なくて済むのです 笑 >>774
ありがとうございます。
ちさひろやさんの訳の方が、偉そうな感じが出ていて面白いです。。w
高祖禅師様にたいして、偉そうとか言っちゃいけないんでしょうが、
やはりどことなく原文読んでいても、偉そうな感じはありますよね。。w >>805
私は、運転する時は、度が強い眼鏡をかけています。
度が強い眼鏡を1日中かけると、疲労困憊になるからです。
30年前に作った眼鏡が壊れて、6000円で同じ度数の眼鏡を作って
かけたら、パソコン時の頭痛が収まりました。
多分、ブルーカット仕様のレンズなのでしょうね。 >>768
大本山總持寺は、元々は石川県にあったものを火事により
神奈川県に移転した経緯があり、大本山永平寺も福井県にあります。
石川と福井は、浄土真宗が盛んな地域ですから、
少なからず影響を受けたのかもしれませんね。 >>772
今日、、苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」の、
「輪廻転生」と「霊魂」に関する記述だけを読んでみました。
苫米地英人氏は、「輪廻転生」と「霊魂」を否定していますが、
私の感想は、「輪廻転生」と「霊魂」は、あるかないかわからない。・・・です。
お釈迦様も、「輪廻転生」と「霊魂」を否定したかったけれど、
確証を得られなかったのでは?・・・・と私は、妄想しています。
理由については、明日から書きます。 ミックスリスト - 日本財団
https://www.youtube.com/watch?v=Ct9ohS4qwew&list=RDCMUCr_QXzIXVxPUcErwMPlhaiw&start_radio=1&t=60 >>773
『煩悩は大きくすればいい』につては、私好みの思想ではありません。
どちらかと言えば「足るを知る者は富む」という言葉が好きです。
老子ですね。 セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/ >>798
私もパンクはよく分かりませんが
ジョージ、けなすような人に見えないのに…(^-^;)
ジョージのベストアルバムは持ってますよ。マイスイートロードが聴きたくてね。
そういや、次女を背負って這いつくばり草刈りをした頃のことを思い出しました 笑
寝かしつけて夜もやったよね。蚊に食われながら。
まじ正気じゃなかったわ 笑笑
農作業が瞑想に通じる…どっかで誰かが同じこと言ってたような気がしますが >>777
玄奘三蔵がタクラマカン砂漠を渡っている時に砂漠の亡霊に襲われたのですが、般若心経を唱えたら亡霊は退散したというような伝説がありましたね。
ちなみに般若心経は一切の事物(一切法)の空を説くことで執着を滅することが説かれていますが、亡霊もそれで現世への執着がなくなり元の世界へ帰るというのを聞いたことがあります。
また亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
しかし
最初に『般若心経』を漢語訳したのは玄奘三蔵だとされています。
しかし、玄奘は中国からインドへお経を取りに行く際、「『般若心経』を唱えながら向かった」とも伝えらているのです。
玄奘訳の『般若心経』は、鳩摩羅什訳の『般若心経』とともに「仏教的」ではないのです。
もしかすると玄奘は、サンスクリット語から中国語に訳したのではなく、中国語からサンスクリット語に訳したのかもしれません。
さらに『般若心経』が仏教の経典と考えにくいのはお経としての形式が間違っているからです。
(苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」)
※苫米地氏が般若心経を仏教的ではない、お経としての形式が間違っているとしている理由
・「如是我聞」で始まってないから
・観自在菩薩という修行中の菩薩が悟りを開いた阿羅漢のサーリプッタに説法しているという立場を考えるとあべこべなことをしているから
・釈迦が禁じた呪文(マントラ)が書かれているから(ここで苫米地氏は般若心経のギャーテーギャーテーの呪文はシュメール語ではないかという仮説も立てています)
・空即是色の件 >>814
また亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
→少なくともテーラワーダ仏教では亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
(パーリ小部「餓鬼事経」などから) >>778
真言はサンスクリットの正規の表現ではない上、色々な解釈が可能であるため定説はない。
仏教学者の渡辺照宏説、中村元説、宮坂宥洪説など、異なる解釈説を行っている。
福井文雅は、本経の核心部は心呪の効能を説く後半部と心呪自体であると主張している。
佐保田鶴治も同様の観点から、般若心経は密教のお経であり、全部を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せばよいとしている。
1992年アメリカのジャン・ナティエ(Jan Nattier、当時インディアナ大学準教授)により、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという偽経説が提起されているが、これには原田和宗や石井公成による詳細な反論がなされている。
(Wikipediaの般若心経のページより)
苫米地氏はアメリカのジャン・ナティエと同じような説ですね。
ちなみに、私事ですが色即是空スレに参加させていただいてたときに、「玄奘三蔵や空海、道元、盤珪、白隠といった高僧が般若心経に何の疑問も示さずに受け入れて解説を書いたりしているのに苫米地氏はそういった高僧にケチつけているのでしょうか」みたいなことを書いた覚えがあるようなないような(笑) >>779
スマナサーラ氏はここは果物で例えていました。
「バナナは果物」ですは正しいが「果物はバナナです」はおかしい、だったかな(バナナでなく林檎だったかもしれませんが)。
大般若経の一つ『摩訶般若波羅蜜経』の注釈本である大智度論では
何を以っての故に、舎利弗、是の色の空は、色に非ずと為し、空を離れて色無く、色を離れて空無く、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。
受想行識の空は、識に非ずと為し、空を離れて識無く、識を離れて空無く、空は即ち是れ識、識は即ち是れ空なり。
乃至十八不共法の空は十八不共法に非ずと為し、空を離れて十八不共法無く、十八不共法を離れて空無く、空は即ち是れ十八不共法、十八不共法は即ち是れ空なればなり。
(巻第四十三(上))
と解説されています。
「是の色の空は、色に非ずと為し」は金剛般若経にも見られる論理展開ですが、不一不異ということですね。
「色の空は、色という実体には非ずと為し」という感じになりますでしょうか。
ちなみに先ほどこんなサイトを見つけました。
即非の論理の誤り
http://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub45.html
(一部抜粋)
大拙の多くの仏教の新理論や新解釈の中でも、金剛般若経の「即非の論理」なる新解釈には唖然とするばかりである。大拙は、金剛般若経の
「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、是を般若波羅蜜多と名づく」を勝手に、
「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、故に般若波羅蜜多である」
と言い換えて、Aと非A、肯定と否定が同一であると主張し「即非的自己同一」なる自説を唱えたのである。
しかし、これはあきらかな誤解釈で、「是を般若波羅蜜多と名づく」と、「故に般若波羅蜜多である」とではその意味合いはまったく違うものになる。
「故に般若波羅蜜多である」ならたしかに、「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)」に帰結した文脈になるが、「是を般若波羅蜜多と名づく」なら、「即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)」に結論した文脈になる。
まだ全部を読んでないのであとでじっくりと読んで思惟したいと思います。 >>781
天女はしれっと言いました。
「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」
シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」
天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」
シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。
「こ、これはオミソレいたしました・・・
貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」
天女は答えました。
「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
だからこそ、このように弁じることができるのです。
だってそうじゃない?
何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima026.html
この天女とシャーリプトラ(サーリプッタ、舎利弗、舎利子)との問答のなかでの天女の説法?には大乗仏教のエッセンスが込められていますね。
ちなみにスマナサーラ氏は、維摩経がサーリプッタ尊者の侮蔑の原点となった、みたいなことを「般若心経は間違い?」の中で書いていました。
この天女は(特に超訳の方は)大変痛快ですが、スマナサーラ氏の言うことも確かにと思います。 >>782
四十九日の間仏弟子となって修行して、仏となって極楽浄土に住むことになる、ですね。
凡夫からでも仏になれる日本の仏教はなんと素晴らしいのでしょう!!
そのためには遺族は四十九日の間、初七日を始めとして七日ごとに法要したりしないといけないわけですね。 >>783
そうでしたか、ありがとうございます。神仏習合ですね。
やはり日本版アニミズムである「八百万(ヤオロズ)の神」思想は、日本の仏教に多大なる影響を与えているようですね。
親鸞さんも一遍さんも神社参りをしていました。
が、浄土真宗では戦後からつい最近まで神棚を捨てるように檀家に勧めたりしていたようですが…
浄土真宗と神棚
http://tenshin.or.jp/archives/10374
>もう10年以上前ですが、本願寺のムーブメントとして「神棚を下ろせ」「位牌はダメ」「法名は3文字」という浄土真宗の儀式の正解を伝えてきた側面が強かった。
>そのことは正義であるために、否定することが難しかったが、そこには、1つ抜けていることがあった。
>それは、相手の気持ちを伺うこと。
>そして、昔は、神社とお寺は一緒に存続したが、神仏分離令にて神社とお寺は分けられた、神棚はダメだという概念は数十年の歴史から生まれた来たことであります。 >>784
よろしかったら詳しく教えてくださいm(_ _)m >>799
食べてるとき、よくその内容を思い出すようになりました。
食べる資格がある分だけ働いたかな?とね。とくに昼休み。
迷いと言いますが私たちはいかにムダな気持ちが多いことでしょう。
振り返ると思わなくても良かったような念が沢山です。そういう時は、雑念がなさそうな人を思い浮かべてなりきるのがいいと思い、今日はそれをやってました。 >>807
6000円の眼鏡で頭痛が治るなんて、ラッキーですね!
私もそろそろ新調したいな。
いまのは敢えて地味な印象に見せるような眼鏡だからな。
あの頃の私は、引っ込み思案だったのだ。 >>825
同じ度数で作っても、眼鏡枠の大きさが違うと、
焦点がズレて目が疲れます。
それで1度失敗して、今、使っている眼鏡は、
30年前の眼鏡と全く同じ大きさの眼鏡枠を選んで買いました。
チラシでは3980円でしたが、乱視が入っているので
2000円、追加されました。 >>797
確かにそれまで常識とされていた教え(道元さんにとっては本覚思想)に疑問を満足のいく答えを求めて行動していく
というのはエロ和尚さんと同じスタンスですね(^_-)
ブッダの場合はブッダ自ら「私の教えを盲目的に信じるのではなく、教えられたことを自ら実践して確認しなさい」とまで丁寧に教えています(^_-)
477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。
(スッタニパータ) >>801
若いですね(笑)
>>802
>ただし、「五蘊皆無」が正しいか、私にはわかりません。
ます、苫米地心経では倒置の必要なしは私も同意します。
五蘊皆無は苫米地心経では正しいかもしれませんが、一般の般若経典群の考え方からすると法(事物)の無は認められず非有非無が空なので正しくはないと思います。
般若心経(など)の
無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。
などはあくまで是故空中が前提です。
無分別である空の世界では五蘊や六根(眼耳鼻舌身意)などの一切の法はないということですが、更に詳しくは
是故空中。無有色無有受想行識。(無無色無無受想行識。)が本当なのですが、くどくなってお経よリズムが乱れるのと、まず有るという実体視を崩す方を優先させるので、()内は省略される、のかもしれません。
是故空中。 >>803
うーん
「ブラックホールは重力子や光子などの粒子を放射することによって、ゆっくりと質量とエネルギーの一部を失っていき、最後には蒸発して消えてしまう」という「ホーキング放射」
これがエネルギー保存の法則に反しないのか私は物理学者じゃないので分かりませんがどうなのでしょう?
あと、「宇宙の変遷を経ても痕跡が残り続けるのは納得できない」という否定意見が出るのは私から見ると至極当然のように思えますが、やはり私は物理学者でないのでよく分かりません。
今のところは私はこの問題についてはこれ以上は無記かな。
>で、仮に宇宙が複数あれば、
>無数の「宇宙」とその隙間を、「空」と表現しているのでしょう。
ここにだけ言及させていただくと、空は空でも虚空の方になるのではないかと思います。
虚空
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA >>806
どういたしまして(^。^)
はい、ひろさちやさんの方が原文のニュアンスには違いと思います(笑)
確か明治になってから編纂された修証義などもどこか偉そうですしね(笑) >>775
>>811
真言宗など密教の大欲は曹洞宗で言えば発菩提心に置き換えられる感じになるかと思います、私見になってしまいますが。
って発菩提心ってなんぞやとなるので簡単に解説させていただくと
『修証義』第四章「発願利生」
菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。
(現代語訳)
菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
僧侶であろうとなかろうと、天人でも人間でも、苦しい境遇でも幸せな境遇でも、「お先にどうぞ」の心を起こしましょう。
この「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)す」つまり「発菩提心」が密教でいう大欲で、大欲とは欲望を修行救済に使いましょう、ということになるかと。
曹洞宗の仏性思想とはまた違った如来蔵思想などに裏付けされたのが大欲だとも思いますが(断定はしません)
>真言密教では、次のように欲をとらえています。
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
>「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
>「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
>「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
http://www.kurusonzan.or.jp/information/shingon.php
あ、曹洞宗には大欲という言葉はないですよ。 >>813
ジョージはビートルズのメンバーの中でも一番の皮肉屋だし他のミュージシャンを貶していますよ(笑)
パンクロックの他には、U2、マドンナ、スパイスガールズ、オアシスなんかもディスっていました。
(例えば「オアシスなんてくだらない、つまらない。あんなの聞くんだったらボブディランを聴いてる方がよほど良い。だいたい現在の音楽は皆自己顕示欲に根ざしている、そこがくだらないのさ」とか)
愚痴っぽいのも特徴的でビートルズ時代はアイミーマイン、ソロになってからはワーワーというポールへの愚痴ソングを書いたりしています(苦笑)
それでもそんなジョージが私は好きですが(^_^;)
草刈りは草刈り鎌が磨がれてないと疲労は倍になりますね。
でも今は草刈機があるから楽になっていますよ、流石に夜は草刈機は煩くて使えませんが。
というのも、幼少のころフランダースの犬でネロが大鎌を振って草刈りをしていたのを見た記憶があるからですが、今にして思うとあれはさぞ疲れると思います。草刈機を使っても草刈りは疲れるからです。 >>824
私もまず、華厳の一即多(一即一切とも)の思想から一粒の米でも残さず食べるようになりました。
もっとも戦前から戦後貧しい時期は、華厳思想関係なく一粒残さず食べるのは当たり前だったそうです(そりゃそうだ)。
その華厳思想の重々無尽により迷いは志ざしがあれば悟りへと繋がりますので、迷い自体は気にせずに迷いを悟りにしていこうという「志し」の方を念じておくのが良いのかもしれませんね。
それを常に念じていれば煩悩即菩提となりそうです。
野良さんも昨日、雑念がない人を思い浮かべて成り切る、という小悟かもしれませんが何か得られたようで何よりです。
小悟というと失礼ですが、これも重々無尽によって大きな悟りへと発展していく可能性もあると思いますよ(^。^) 夜中に目が覚めてしまったので
>>817
>即非の論理の誤り
>http://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub45.html
>(一部抜粋)
>大拙の多くの仏教の新理論や新解釈の中でも、金剛般若経の「即非の論理」なる新解釈には唖然とするばかりである。大拙は、金剛般若経の
>「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、是を般若波羅蜜多と名づく」を勝手に、
>「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、故に般若波羅蜜多である」
>と言い換えて、Aと非A、肯定と否定が同一であると主張し「即非的自己同一」なる自説を唱えたのである。
>しかし、これはあきらかな誤解釈で、「是を般若波羅蜜多と名づく」と、「故に般若波羅蜜多である」とではその意味合いはまったく違うものになる。
>「故に般若波羅蜜多である」ならたしかに、「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)」に帰結した文脈になるが、「是を般若波羅蜜多と名づく」なら、「即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)」に結論した文脈になる。
についての考察をしてみました。
私は鈴木大拙の本は一冊も読んだことがないですが、金剛般若経なら持っているので金剛般若経での表現を確認してみたら確かに
「AはAに非ず、故にAと名づく」
の表現が圧倒的に多かったです。
般若経の真意からしても、(赤ん坊などは除かれると思いますが)人は分別を言葉でするので、空なるものを分別するために言葉で名づく(名付ける)というのが正しいと思います。
このスレに最初に来た時に
☆功徳は功徳に非ず、故に功徳である
とやってしまった私ですがこれも実際には
☆功徳は功徳に非ず、故に功徳と名づく
が正しい言い回しですね。
意味としては
☆功徳には功徳という実体(自性)はない、故に世俗での分別のために功徳と名付ける
という意味でしょう。
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは(言語による)分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
(中論第一八章) スッタニパータより人間の言葉による分別について(再掲)
600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。
601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはない。かれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。
602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。
606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、
610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm >>826
それにしても安いですねえ。
1万前後が普通かと思ってました。
式典が続くので新調してもいい頃かも知れません。
マスク装着や寒暖差のある部屋への行き来により曇っては拭くを繰り返してきたので、小傷が結構あります
眼鏡屋さんによるとこれぐらいは仕方がないと言ってましたがね。 >>831
なるほど。そういう良い意味でしたか。小さな欲をお先にどうぞの欲に変えるっていいですね。今日も実践していきたいです。 >>832
人は見かけに寄りませんね。
ジョージははポールが羨ましかったんでしょうか。
オアシスはカッコいいけどずっと聴いてると、みんな同じに聴こえてきます。それでも、昔友達と填まりましたよ。ドントルックバックインアンガー聴くと懐かしい。
草刈りは何度も手を切って痛い思いしています。雑念が入ると絶対切りますから、義務的に無心にならないと危険です。とくに誰かのことを恨みながら草刈りしてるとてきめんに手を切ります。ただ行為のみに集中ですね。
それでコツを掴んでいくんですよね。今ではほとんど切らなくなりました。体に行為を染みこませればいい訳で自転車とおなじように。
あらゆることが、そんな風に体で行えてると嬉しいです。
草刈り機はまだ恐くて使えないです。主人の仕事ですw >>833
幸いなことに、私の仕事の指導者が柔和で穏やかで怒らず、落ち着きを持った方なので、絶対私の持ってしまったものを持っていない人だなと思うので、見本にしたいわけです。穏やかなんだけど、口調に厳しさがあって、気が引き締まります。
あと15才若ければ、惚れていたかも知れませんが、年齢的にすぐに仕事モードに戻れます。便利な年齢になったものです 笑
こういう穏やかでそつが無い人はなぜかブッダに雰囲気が似てます。体型もね。泰然としてるんですよ。彼も仕事上で何か悟ったのかも知れません。 >>797
>道元禅師は、「一切の衆生は悉く仏性を有す」なら、修行なんて不要なのでは?
道元禅師は修行した結果、
悉有とは仏性であり、
その、悉有のうちのー群を衆生(ここでは人と同義)という。
このときには、衆生の内も外も、仏性の悉有である。
いま仏性によって存在された有は有無の有でない。
悉有といわれるときの、
その有とは、さらに始め・終りがある有でもなく、
もともとからあるという有でもなく、
そのままに有となる有、などでもない。
いわんや、緑から生じる有や、
迷妄の心認められる有ではない。心・境性・相等には無関係である。悉有はまるごと抜け落ちている。
だ。そうどす。
(^^)ノシ 人の想いで表現されているものと
そうでないものとの違いや
輪郭をはっきりさせておこうと
するのは癖になってるな 仏は不滅、仮に滅不滅を説く。
これは、妙法蓮華経如来寿量品偈
我時語衆生
常在此不滅
以方便力故
現有滅不滅
何かオレの思っているより、
漢文はインパクトがあるな。
(^^)ノシ >>818
ありがとう。
>何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」
誰かさんに言ってやりたいわw
(^^)ノシ >>808
わたしは黄檗宗の影響かと思っています。
当時の中国では、禅と浄土がー体になっていたと思います。
ある意味純粋な禅は日本のほうかもしれませんしね。
黄檗宗はいちばん最後に日本にはいってきました。
真新しさを感じたのかもしれません。
(^^)ノシ >>829
>>今のところは私はこの問題についてはこれ以上は無記かな。
私も、同意見です。
というか、>>211の動画で、しっくり来ました。 >>827
>>(道元さんにとっては本覚思想)に疑問を満足のいく答えを求めて行動していく
とりあえず、道元禅師の言われたことは、こんな感じだと解釈しています。
↓
http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zazen21.html
(この悟りは、人々に豊かに備わってはいるが修行しないと現れない。
悟らなければ、悟りがどういうものかを体得できない) >>831
>>菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
これについては、私の信条とは相容れないものがあります。
「幸せでない者が、どうやって他人を救えるの?」と、問いたくなります。
今は私は斎藤一人教信者を辞めていますが、
斎藤一人氏は、「自分が幸せになってから、初めて、他人を救えるのだ」
と言っていました。
この点では、斎藤一人氏の考えを支持します。 *空(くう):二つの意味がある。
1.無我(むが)
あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)
2.平等(びょうどう)
物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。
特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。
自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)
*無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。
何故かと言うと、その人は既に持っているからである。
人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。
※所得(しょとく)とは執著し分別するの義。
無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。
*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。
また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。
仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。
そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という >>845
そうでしょうね。念仏禅らしいですから。
http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/BAKUSYUSHI.html >>849つづき
>>「幸せでない者が、どうやって他人を救えるの?」と、問いたくなります。
この論点の前に、「救い」とか「救われる」とは、
具体的にどういう現象なのか?
・・・について、書き込みたいと思います。
花粉症で体調がイマイチなので、気が向いたら書きます。
今後、体調がイマイチの時は、雑談モードになりますので、
よろしくお願いいたします。
(もしかしたら、6月のテーマになるかも?)
一旦、離れます。 >>837
はい、チベットの仏教僧曰く
「ブッダの教えをまとめると、顕教、密教、ゾクチェン、三種の教えがあります。
顕教では放棄します。善を集積し、悪を捨て去ります。
密教の修行では、放棄する必要はありません。悪を善に変化させます。イメージにより変化させます。例えば、毒を捨て去る必要はありません。毒に薬を混ぜ、毒を無効化すれば無害になります。密教は変化の道です。
ゾクチェンには、放棄も変化もありません。自己解脱の道です。何もしないことです。放棄も変化もせず、そのままにしておきます。
例えば他人に危害を加えなければ、自分が危害を被ることはありません。無調整にしておけば自発的に解放されます。
一方対象に働きかけると煩悩が発生します。そして、怒りなどの煩悩が増大していきます。
思考の後を追わずそのままにしておけば消え去ります。」
一応その動画
https://youtu.be/AdaAvc44-3A
とのことです。
あとは実践していくうちに真に身についてくるのでしょうね! >>838
一言でいえばジョージはポールのワンマンなところが嫌だったようです。
その様子は映画Let It Beの中でも暴露されていました。
(そのシーンですが、0:58の短い動画です)
https://youtu.be/dGJeAcoiiGY
アイミーマインは自己中ポールの「僕僕僕」にうんざりして書いた曲。
ワーワーはワーワー煩いポールへの当てつけソングです。
ワーワーの歌詞と日本語訳(Wah-Wahとはワウペダルというエフェクターに口煩いポールのことを掛け合わせたジョージ流の皮肉です)
http://s.kota2.net/1615955926.jpg
なお、My Sweet Lordの歌詞も載ってますが、ここでのLord(神)はもちろんキリスト教ではなくヒンドゥー教の神ですね。
シフォンズのデビュー曲&大ヒット曲のHe's So Fineのパクリであるとして訴えられ、敗訴してしまいましたが…
He's So Fine
https://youtu.be/rinz9Avvq6A
まあ確かにクリソツ(死語?)ですね(笑)
オアシスはビートルズをリスペクトしていたのは知っていますが、そのイマジンみたいな曲とワンダーウォールの2曲しか存じ上げません(^_^;
草刈りはよけいな邪念が入らないようにマントラを唱えながら刈っていくといいかも…というのは冗談で歌(鼻歌も含む)など歌いながら刈るというのも邪念を防ぐ一つの手立てかもしれませんね。
でも野良さんのように雑念が入ったら行為に戻るというのが瞑想の基本で他にも応用が利きそうで、それができればそれが良いとも思います。
読経が瞑想と同じというのも読んでるうちに雑念が入ったのに気づいたらまた読経に念を戻すというのもありますね、私の日々の経験からすると。 >>850
すべての生き物を幸福にするプログラムってあるんですね。 >>839
そうですか、身近に見本になる人がいるというのは大変恵まれたことですね。
良かったですね(^。^)
見本会い難しがたし、いますでに会う、仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心(ししん)に三宝(さんぼう)に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と ともに、大道(だいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発おこさん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生と ともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依しててまつる。まさに願わくは衆生と ともに、大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切無碍(むげ)ならん。
ですね(少し違う↓)
http://shohonji.biz-web.jp/privacy.html >>792
例えば素粒子の観測で時間を計ろうとすると距離が計れず 距離を計ろうとすると時間が計れないという話が有りますが 真理というのは同じようにどちらかに分ける事が出来ないので どちらかに分けられる前提での質問には答えようがないのだろうと思います
仏教の宇宙論から考えても宇宙そのものが常住ではないし 断滅でもないのだから如来の死後も同じ様に常住か断滅かに分けると捉えられないのだろうと思います
如来如去 来るが如く 去るが如く ですから 龍樹の「去ったものは去らない」という言葉が補完していると思います >>793
私も解脱したいかどうかは曖昧ですが 解脱がどういう事なのかについては知りたかったので般若心経から龍樹を経て原始経典へと遡ったり戻ったりして ようやくそれぞれの言葉の意味が分かりました >>794
二軍というか荒らしが主役のスレだから荒れにくいんですよ
仮に誰かが荒らしに来てもピントのズレた返答が主役から返って来て何のこっちゃなりますからね 笑 >>858
ご教示いただき、ありがとうございました。
ひとまず、>>296の3月のテーマは終了します。
しばらくは、このスレで雑談することにします。 >>795
カーラーマ経に有る様に自らで確認してない事を信じてはならないし 別の経典では向こう岸に渡るには信仰の筏は捨てられるべき乗り物ですから 絶対的な信仰は必要なく 先ずはやってみようという事でいいのだと思います
盲信か不信かの両極端にならずに半信半疑で進むのが中道だと考えれば筆者の言いたい事は判ります >>860
私は お布施に関わる煩悩を昇華させるために
このスレを利用している荒らしなので、
3月13日に法事を済ませた関係上、
自然に消えるかもしれません。 >>802
空は単独では存在せず 色を通してのみ観測出来るので両者は不二だと考えられます >>863
>>半信半疑で進むのが中道だと考えれば筆者の言いたい事は判ります
まさに、そのとおりですね。
私も、「お釈迦様の脳科学」苫米地英人著については、
半信半疑で読んでいます。
真言宗氏にも、お勧めの1冊です。 >>865
空については、>>803のようなイメージを持っています。 >>803
前にも言ったけど 純粋な意味での無は存在しません 無が存在するなら無有という事になるので無という存在が有るじゃないかとなり ならば無を出して見せよと達磨大師に詰められます
反対に純粋な意味での有も宇宙の構造から見て成立しません 絶えず現れては変化して消えて行くので常住とは言えないし 消えたままで何ものも生成されないという事も無いので断滅とも言えません
宇宙そのものが常住でも断滅でもないので集合と離散 消滅と発生のサイクルが成り立つのですよ
永遠の存在なんて永遠に現れないとでも言う様なおかしな表現になりますが それが真理でしょう >>849
>菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
これについては、私の信条とは相容れないものがあります。
一般人はゆとりがなければ、
何で、こんなことをしているんだ。
になります。
自問の渦にまきこまれますからね。
修行ですw
磨くことは仏の家業なり。
(^^)ノシ >>836
>>式典が続くので新調してもいい頃かも知れません。
お子さんの入学式とか、入園式のことですか? >>868
・・・・というわけで、曹洞宗氏>>829も私>>847も、
「空については無記にしよう」とうことになってしまいました。 >>814
私は逆に般若心経の読経中に初めて不動明王が現れて ビックリしましたよ
姿は見えなかったけど掴まれた腕の熱さと背中の伽楼羅炎が当たったらしくて 供花と仏壇の一部が焦げたのは圧巻でした
目の前で菊三輪がジューっと鳴った後にグニャ〜ってなりましたね >>821
一切皆空で草木悉皆成仏で有るならば仏の本質は空で有り 身体に空性を有する我々は皆仏性で有るとなり 貴方も私も皆身に空性たる仏性を宿す者で有るとなります その観点に立てば上行菩薩(だったかな?)が人々にあなた方は皆仏になる身ですと言い続けたという物語も辻褄が合って来ます
現在の我々は仏と仏でないものに分けられない存在ですが 仏でない身も心も削り取ってしまえば仏として完成し空帰依を成し遂げる可能性が元から備わっているという事にもなりますね >>854 続き
以前お話しさせていただいた「守破離」ですが、ジョージのギターにとってはMy Sweet Lordで聴けるようなブルースっぽくないスライドギターはジョージのオリジナルと言えるもので、離の段階に入っていると思います(曲自体のパクリ云々はともかく)。
守が初期のロカビリーやカントリー、チャックベリーなどの模倣(とは言ってもジョージ独特の個性はやはりあり)、破がクラプトンと出会ってからのブルージーなギターで、Let It BeやAbbey Roadなどはその手のギターで弾かれています。
さて、ジョージのBeatles時代の傑作であるWhile My Guitar Gently WeepsやSomethingは、そこでのポールのベースもまたロック史上に残る名演なのですが、ジョージは出しゃばりすぎだとしてこれらのベースプレイが気に食わず、ソロになってからそれらの曲を演るときはベースをガラッと変えていました。
流石にTaxmanのベースはそのままですけどね。
Something bass
https://youtu.be/1d1Od9ybPN4
私はこのbassは曲にすごく合ってると思うのですが(笑) >>844
それにしても天女の舎利弗への説法?はちょっと気にはなりますね。
>>818
>「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
>解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
>文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」
文字(言葉)を離れて解脱を解くことはできない、は龍樹も中論で述べている通りですが、
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
(「中論」第二四章 四つのすぐれた真理の考察)
>言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
>解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
>文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから
これがイマイチ分かりません。
1113 「物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人の智を、わたしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」
(スッタニパータ)
と同じく考えて良いのでしょうか?
つまり、天女も名称と形態が消滅して内によ外にも(その間にも)何も存在しないと観じて解脱している、と? >>846
日本に限らず仏教は神による啓示がないので、中国でもチベットでも東南アジアでも元の釈迦仏教とは違ってますね。
土着の宗教と混合したり。
日本は特に鎌倉仏教以降の易業化で他国の仏教に比べて仏になりやすい仏教になっているという特徴はありそうですね(っていうか、空海以降人は生まれながらにして仏という流れになっていますが)。 >>848
そうですね!
そしてそのサイトでは追記に良いことが書いてあると思いました。
追 記
道元著『正法眼蔵 坐禅儀』には、
<< 坐禅は習禅しゅうぜんにはあらず、大安楽の法門なり、不染汚ふぜんなの修証しゅしょうなり >>
という一文がある。
例えば“習字”というと、文字を正しく、美しく、速く書くための手段である。
坐禅は、精神統一や瞑想のための手段としての“習禅”ではない。命と心を開放する安心あんじんの教えの門である。不染汚心ふぜんなしん(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。悟りの上での修行を信じ、確かめ続けていくということである。
不染汚心ふぜんなしんで坐るということはどういうことであろうか。私は次のように理解している。
坐禅には、今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停やめ「ただひたすら坐る」ことである。
これは、坐禅のときだけではなく、「ただひたすら掃除をする」、「ただひたすら提唱(法話)を聞く」、「ただひたすら音楽を聴く」、「ただひたすら歩く」など、日常生活においてもできることがあると思う。 >>849
確かに釈迦仏教だと
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
(ダンマパダ)
ですが、道元さんにおいては
『修証義』第四章「発願利生」
衆生を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ) 、是れ則ち薩垂(さった)の行願なり
(中略)
利行(りぎょう)というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧(ぜんぎょう)を廻らすなり、窮亀(きゅうき)を見、病雀(びょうじゃく)を見しとき、彼が報謝(ほうしゃ)を求めず、唯単(ただひと)えに利行に催おさるるなり、
愚人(ぐにん)謂(おも)わくは利侘(りた)を先とせば自らが利 省(はぶ)かれぬべしと、爾(しか)には非ざるなり、利行は一法なり、普(あまね)く自侘(じた)を利するなり。
(現代語訳)
みんなを救うには四つの智慧があります。一つ目は与えること、二つ目は優しい言葉、三つ目は思いやり、四つ目は共に生きることです。これを菩薩は実践しているのです。
(中略)
思いやりとは、分け隔てなく他の人のためになる手立てを考えることです。弱った亀や雀を助けた人は、見返りを求めず、ひたすら相手のためによかれと思って助けたのです。
愚かな人は、他の人のためになることを優先すると、自分の分がなくなると思うものですが、そうではありません。思いやりとは、自分と相手両方のためになるのです。
となっております。
いわゆる自他不二という思想ですね。
ブッダさんと道元さん、どちらの教えの方により共感するにしても、それを実践することが尊いのだと思います。 >>871
了解しました。
ブッダがあれだけ色々な人から
『永遠であるsassatoのは世界である』
『永遠でないasassatoのは世界である』
『有限なるものantavāは世界である』
『無限なるものanantavāは世界である』
『命と身体は同じである』
『命と身体は別である』
『如来は死後に存在する』
『如来は死後に存在しない』
『如来は死後に存在しかつ存在しない』
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』
を訊かれても答えなかったということを私も尊重したいと思います。
私が物理学者や天文学者なら何らかの仮説を出すのかもしれませんが、残念ながら私にはそんな頭もないですしね(苦笑)
明日の売上ですらどうなるか分からないのに(涙) >>881
ところで、何を売っている方なのですか? >>874
常不敬菩薩「我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず、所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」ですね。
(上行菩薩は日蓮さん曰く日蓮さんの前世の菩薩です)
さて
「中論」第二二章 如来の考察
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530025
金剛般若経
須菩提、佛に白して言う「世尊。佛の、阿耨多羅三藐三菩提を得たまふは、無所得なりと為すや」。「かくの如し、かくの如し。須菩提よ、我、阿耨多羅三藐三菩提に於いて乃至、少しの法も得べきもの有ること無し、是れを阿耨多羅三藐三菩提と名づくるなり。
また次に須菩提よ、是の法は平等にして高下有ること無し。是れを阿耨多羅三藐三菩提と名づくるなり。我も無く、人も無く、衆生も無く、寿者も無きを以て、一切の善法を修すれば、則ち、阿耨多羅三藐三菩提を得る。
須菩提よ、言ふところの善法とは、如来、『善法に非ずと説きたればなり。是を善法と名づくなり』
ーーーー
救う者も空、救われる衆生も空、救われて到達する境地も空である。
また身相をもって仏を見てはならない。あらゆる相はみな虚妄であり、諸々の相は相に非ず、と見るならば如来を見る、と。
なるほど
・仏性即空
・如来即空
で一切が仏性であるので一切は如来となり一切成仏となりますね。
ありがとうございました! >>882
職種アパレルです。コロナ禍もろ被りですTT >>884
アパレルでも、コロナの前から通販拡大方針をしていた会社は
何とかやっているような噂を聞いていますが、
どうなんでしょう?
皆が通販にシフトすると、そこでも競争がありますし。 >>885
通販だと価格競争が厳しくなるし人件費が余計に掛かるしそれなりのバーチャルモールだとリベートも高いしであまり良い話は聞きませんが、
それでもヤフーショッピングや楽天やAmazonにはあれだけの衣服が販売されてますから上手くやっていってる人もたくさんいるのでしょう。
また常に競争の中に身を置かれることによって時流を知ることができるのも大きなメリットのようです。
でも私はいまからネットに参入する予定はありません(^_^;) >>873
あーそういう体験は私にはないですね、霊感の弱さ故かも?
とは言っても、昔宝珠さんってコテハンの方から天部の神々を粗末にすると呪われたりバチが当たったりすると聞いたので、家の中のお稲荷さん(荼枳尼天由来のお稲荷さんなのかは不明ですが)のお供物とかは欠かさぬようにはしています。 >>887
>>400に書いてありましたね。
明日は早起きしないといけないので、寝ます。
おやすみなさい。 もうそう言う季節だな。
早い。
今日、墓参りに東京に行った。
疲れた。
そろそろ道元さん特集でもやろうか。
彼はヤッパ天才よ。
八歳で倶舎論を読むという。
道元さん有部を肯定してますね。
大智度論も読んでますね。
供養諸仏を何気によんでいる。
根幹は諸法実相。
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