◆悟りを求めない人の談話室No.35◆
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悟りを求めない人や、悟りを徹底的に棄てたい人が
気楽に、思ったことを書くスレです。
どんな宗教の方でもOKです。悟りの修行をしている方もお気軽にどうぞ!
雑談、独り言、名言、格言、気づき等。
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い
※荒らしはスルー、あぼーんしてくださいね。
前スレ
◆悟りを求めない人の談話室No.34◆
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1611405801/ 今日、私、書いたレス全部に返レスすることは求めておりません。
しかし、下記ブログについてのツッコミをよろしくお願いいたします
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541 >>725
お前全体を知る必要は無い
その薄っぺらい言葉に現れたものから判断すれば事足りる
みんなから軽く扱われてる事実で自身を知ればいいだけだし 虚勢は全て透けて見えてる >>730
魑魅魍魎というか道を間違えておかしくなった人の集まりだから 笑 >>745
それって、家の掃除にも当てはまるね。
来月は、本格的に家の掃除に取り組むつもり。
禅宗のノリで
いったん、離れます >>733
分析出来ない物事を常住か断滅かのどちらかでお答えくださいと言われたら黙るしかないと思いますよ
認識された時にだけ現れるものが常住な訳がないし 断滅ならそもそも現れる訳がないのですから それ以上は言い表し様がなかった筈です >>736
漢文だから語順が逆で 空は〜に包摂されると読むんだと思います >>746
多分原始経典をそれほど読まれてないだけだと思いますよ
この経典ではこう言ってるのに別の経典ではああ言ってるのはどういう事だろう という所から始まるけど 必ず両方を矛盾させない理解がある筈だと信じて進めば誤解してたのは自分だった という所に行き着きますから >>747
彼処は来るなと言われる人程長居して関係ない事を書き連ねてはグダグダにしてしまいますからね
初期サンガなら間違いなく追放されてた人達だし 或いはそういう人達もダイバダッタの様に一派を形成して仏教を複雑化させてたのかも知れませんね >>750
特にツッコむべき所はないですね
前世はたまたま幾つか観る事が出来たけど それは世界の構造でしかないし エネルギー不滅の法則がある以上は輪廻が有っても特に問題ないし 無くても問題は有りません
ただ有ると仮定すると無数の苦しみが心に蓄積されて歴史を超えた精神的外傷として残り続けるから理由の解らない恐怖症等の症状となって現れるというだけです
西洋医学に基づいた催眠療法では精神的外傷の原因に遡って一つずつ解消して行くやり方をするけれど 仏教はもっと直接的に苦の原因を受けてである自己の存在に見いだして個我の解消で解決するだけですからね
我が無ければ如何なる苦痛も受け得ない となります
但し自己の喪失を恐れなければの話ですが 我々が自己という幻想にしがみついて永遠に存在しようとしてる限り肉体の限界を超えた輪廻が起こり続けるのだとすれば 自己への執着を取り除けば何も残らず 苦楽も共に消滅する筈です
つまり苦しみから逃れるには幸福への渇望も共に捨てなければならない となる訳です
その為には感情や感覚の振幅も極力小さくして行ってゼロに近付ける必要が有りますけどね
欲と執着が無くなれば苦しみもなくなり 束の間の幸福も消え去りますが不幸という訳でもなくなります ただどちらかに分別出来ない状態に止まるのが本来仏教の目指す無上の境地という訳です >>748
補足
今日は、昼間っぱらから(今から)風呂に入る日でした。
風呂から上がって寝るまでにパソコンをすると、
頭痛がするので、明日、書きます。 >>748
ティクナットハンのブッダ伝を買おうかしら。 >>753
うん、にてるね。
農業は時期があるからちょっと追われるんだよね。家の掃除はいつでも出来るから、明日でいいや、が続いちゃう 笑 >>759
ブルーライトが原因かな?
私はスマホのブルーライトカットしてる。あんまり見過ぎると眠れなくなる原因になるらしい。 >>714
>さらに言えば、「仏性とはそもそも何であるか?」としか言えない。どうだ、分かったか。
訳おもしろいですね。。w >>727
鳩摩羅什訳の中論では世間という言葉がよく使われていますが、輪廻の意味で使われたのは第25章の
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
涅槃は世間と、少分の別も有ること無く、世間は涅槃と、亦た少分の別も無し。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
涅槃の実際と、世間の際と、是の如き二際は、毫釐の差別無し。
とその鳩摩羅什訳ではその前後に置かれてある青目の註釈だけだと思います。
あとは世間は世界や普通に世間という意味で使われているようです>鳩摩羅什中論
一方、輪廻の方は中論の第27章のこちらの偈では
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
法若し定んで来たる有り、及び定んで去る有らば、生死は則ち無始なり、而れども実に此の事無し。
鳩摩羅什は輪廻に対して生死の名字を当てています。
サンスクリット原文ではどうなっているのかは存じません。
っていうか、口語で訳されているサンスクリット原文の方も中論も龍樹の書いた原文ではなく(原文は失われている)、チャンドラキールティの註釈者「プラサンナパダー」にある中論サンスクリット原文と呼ばれるもので、龍樹の中論とひょっとしたら違うところがあるかもしれないと言われていると思いました。 >>727
>後、維摩経、確か天女のところ。
>文字も涅槃、あなた方文字を離れるなんて10万年早いのよ。
天曰く、『言説も文字も、皆解脱の相あり。所以は何となれば、解脱とは、内にあらず外にあらず両の間に在らず。文字も、また内にあらず外にあらず両の間に在らざればなり。
この故に舍利弗、文字を離れて解脱を説くこと無し。所以は何となれば、一切の諸法は、これ解脱の相なればなり。』
ですかね?
超訳の方だと
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima026.html
ですね(^。^) >>759
頭痛には良性と悪性が有るので頻繁に起こる様なら検査を受けた方がいいですよ
お大事になさってください >>733
>お釈迦様が「無記」とした態度に、私が違和感を覚えているからだ
二一 入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕,〔世界は〕有限であるかどうかなど,また 〔世界は〕常住であるかどうかなど,〔それらの〕もろもろの見解は,ニルヴァーナと,後(未来)の限界と,前(過去)の限界とに,〔仮に〕依拠して立てられているものである。
※ 入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕…ニルヴァーナ
〔世界は〕有限であるかどうか…後(未来)の限界
〔世界は〕常住であるかどうか…前(過去)の限界
二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。
二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
二九 あるいはまた、一切のものは空であるから、<常住>などの諸見解は、いずれが、どこで、だれのために、何故に起こるのであろうか。
三〇 一切の【誤った】見解を断ぜしめるために憐憫をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命(きみょう)したてまつる。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530389
龍樹菩薩いわく、一切のものが空なのだから有と無とか生と滅とかの見解は戯論になるから、ということのようです。
ブッダは四諦は私にとって確定的な事柄だから説く、無記のことは私にとって不確定だから説かない、と言ってもいます(長部「ポッタパーダ経」) >>734
うちの氏寺ではない曹洞宗の寺での葬式に参列したら、その寺の和尚は法話のなかで「これから◯◯様は仏弟子となって、そのあと西の方にある極楽浄土に行かれます」というようなことを言ってました。
まあ、在家への法話だからそれで良いと思いましたが。 >>741
>去年、私の体内に存在した素粒子も、数年後には
>どこかの新築住宅の床材に取り入れられる可能性もあるでしょう。
ビッグバン以来質量とエネルギーの総和になると変わらない素粒子で般若心経の不増不減を説明されてた方がいました!
同じく色即是空はE=mc2乗で
瓦礫にも仏性というのは、元々インド大乗涅槃経では「一切衆生悉有仏性=一切の衆生は悉く仏性を有す」が、道元において「一切衆生悉有仏性=一切は衆生(生きている)、悉有(三界の全宇宙)は仏性なり」に変換されたからですが、
そこには中国華厳宗の草木成仏から日本において発展した「草木国土悉皆成仏」の思想も絡んでいるのでしょうね。
日本の八百万の神といった山や岩や木や石に神が宿ってるという思想と草木成仏が融合して、草木国土悉皆成仏や道元流の一切衆生悉有仏性になったのではないかと、色々な本を読んでるうちに(笑)そう思うようになりました。 >>770
UPさせていただいたのは
よくわかる曹洞宗 重要経典付き
著: 瓜生中
でした >>736>>755
昨夜は楽しようとして「苫米地 般若心経」でググって出てきたサイトから
>>718
の苫米地英人氏の修正版般若心経をUPしましたが、実は私はブックオフで税込420円で購入した(←言わなくていい)苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」は持っているのです。
正直あまり読んでなかったのですが(^^;)、今日本棚から出して当該箇所を読んでみたら苫米地流般若心経は昨夜UPさせていただいたのとは違っていました(苦笑)。
とりあえず、当該箇所を全文書き起こしてみました。
(以下、苫米地英人「お釈迦様の脳科学」より引用)
『般若心経』を添削
さらに『般若心経』には形式だけではなく、言ってる内容にも問題があります。
もっとも顕著なのは「色即是空 空即是色」という有名な一節です。
これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。
「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。
「空」とはすでに説明した通り、有と無の両方を含む上位概念です。
ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり、間違いはありません。
しかし、その後に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味になり、問題があります。
「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
抽象度の異なる概念をイコールで結ぶときは、その順番により意味がまったく違ってきます。
「空即是色」は単なる倒置法の強調で許される範囲を超えているのです。
こうした間違いが起こるのも、『般若心経』を書いた人が空をわかっていなかったからと推測されます。
ここで『般若心経』の「色即是空 空即是色」を正しく書き直してみましょう。
量子論では、有と無は表裏一体であり、まったく別々のものではないことが証明されました。
ですから、「色は無である」「無は色である」も成り立つでしょう。
色即無 (色=物質は無である)
無即色 (無は色=物質である)
空包摂色(空は色=物質の上位概念である)
空包摂無(空は無の上位概念である)
これがより正しい『般若心経』です。
こう書き直せば、空の概念を正しく解説したことになります。
これ以外の、「観音菩薩が言いました」や「ギャーテーギャーテー」は不要です。 苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」での
第6章 煩悩はコントロール可能 での
『煩悩は大きくすればいい』
というのは密教の大欲と全く同じことが書かれていますね。
密教ではなく「私は人とは小さな煩悩ではなく、大きな煩悩を持つべきだと考えています」と自分の考えとして書いていますが。
(他の章では密教について触れている箇所もあります。第7章のタイトルは「密教の超能力と方便」です。大欲については書かれてないと思いますが)
とりあえず、『煩悩は大きくすればいい』の方を書き起こす気力は最早ないので、同じことを説いている密教の大欲についての解説サイト。
http://www.hashikura.or.jp/blog/?p=2984 >>763
はい、ひろさちや氏の訳です。
https://www.zen-essay.com/entry/bussyou11
↑のサイトだとその箇所は
仏性とは何か。
さて、少しはわかっただろうか。
仏性は論理で理解するものではない。
この世界、仏性のあらわれでないものは何1つとして存在しないのである。
と訳されています。
「どうだ分かったか」ではなく「さて、少しはわかっただろうか。」と控えめになっていますね(笑)
また委悉すや…委悉とは「物事を事細かに詳しくすること。」だそうです。 眠いのでざっと書きますが、
煩悩は小さい方がいいかな。
大きな煩悩とは大志のことか?
と思えば納得がいくけど…
パワフルなひとほど、煩悩にも打ち勝てそうですしね。 >>770
職場に私の「農業の先生」がいますから今年は彼女から情報を得たり、
去年は習慣的に雑然と作っていた面もあるので、計画的に作りたいし
農業メモをきちんとつけてかないと行けませんね。
農業も規律にそって行われてたんですね。私もそう言うのが出来上がるとイヤイヤも減ってくるかなw >>772
>こうした間違いが起こるのも、『般若心経』を書いた人が空をわかっていなかったからと推測されます。
間を抜かしてたのはかの有名な、
玄奘さまです。
故意でしょうね。 >「観音菩薩が言いました」や「ギャーテーギャーテー」は不要です。
ここが一番重要です。
(^^)ノシ >>772
>「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
立川武蔵先生も中論解釈でおなじことをおっしゃてましたね。
たとえは花ですが。
(^^)ノシ 横からだけど、S長老の誤謬としてI先生やW先生、H先生が反証されてるし、苫米地のそれも長老の誤謬と同じって事で自分的には解決してます。
余談だけど苫米地と佐藤優好かないw >>764
>>765
うろ覚えなので助かります。
ありがとう。
それにしても超訳の天女はいいね。
惚れちゃいますw
(^^)ノシ >>768
うちの氏寺ではない曹洞宗の寺での>葬式に参列したら、その寺の和尚は法話のなかで「これから◯◯様は仏弟子となって、そのあと西の方にある極楽浄土に行かれます」
お亡くなりになってから修行ですか。
いや、大変そうです。
(^^)ノシ >>769
確か、永平寺は白山ひめ神社の氏子だと思います。
道元さんが碧巌録がわからないので、たまたま白山さまに手を合わせたら碧巌録がわかったとか。
うろ覚えです。
間違っていたらごめんなさい(>_<)
(^^)ノシ >>769
仏性=空性と観るならば一切成仏も間違いではないでしょうね 一切即仏 仏即一切
ビッシと決めてみました。
(-_☆)
受け売りです。
(^^)ノシ 一切即仏 仏即一切
ビッシと決めてみました。
(-_☆)
受け売りです。
(^^)ノシ >>760
3年くらい前、NHKの教育テレビ「こころの時代」で
ティクナットハンを2回連続で特集していたのを見ました。
芯の強そうな方だという印象を受けました。
情弱な私にとっては、雲の上の方ですね。 >>761
なんやかんやで、寒いパソコンルームは、半年くらい
掃除をしていない。
来月、しようかな。 >>762
>>766
ありがとうございます。
眼鏡を変える前は、パソコンを長時間すると、すぐに
頭痛がしましたが、
眼鏡を変えてからは、入浴後のパソコン作業をしなければ、
長時間、パソコン作業をしても頭痛がしなくなりました。 >>754
お釈迦様が「無記」とされた事項については、
お釈迦様も白黒つけられなかった事項なのでしょうね。
または、お釈迦様の頭の中で、白黒ついていても、
万人に説明するのが困難なので、諦めたという可能性もあります。 >>756
私はどうも「解脱したい」という欲望が無いので、
原始仏教を学ぶ意欲が湧かないためか、
原始経典を目で追っても頭に入ってきません。
対機説法なので、自分のレベルに合った浄土真宗で
良いかな?・・・という感じです。
まあ、私見では無量寿経も絶対視していませんし、
親鸞聖人の解釈もおかしいと思っています。
この件については、同じ意見の人が現れたら、
仲良く「馴れ合いトーク」したいと思います。
それまでは、
「解脱したい人」の精神分析をしています。 >>757
こちらのスレは2軍なので、私のような読解力の低い人間でも
根気よく相手をしてくださるので、助かっています。 >>758
では、私が突っ込んでみましょう。
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。
しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
信仰よりも実践を重んじたのです。
↑
釈迦を信じていないのに、釈迦の言うことを実践するってアリなの?
普通に考えて、
釈迦は、「信仰のみ」ではなく、「信仰と実践を求めた」のでしょうね。 >>767
>>龍樹菩薩いわく、一切のものが空なのだから有と無とか生と滅とかの見解は戯論になるから、ということのようです。
>>ブッダは四諦は私にとって確定的な事柄だから説く、無記のことは私にとって不確定だから説かない、と言ってもいます(長部「ポッタパーダ経」)
龍樹菩薩も議論の結果、振り返って「戯論だったなあ・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と感想を述べているのでしょうね。
お釈迦様も、「6年間の脳内議論」の結果、「不確定だったなあ・・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と、悟ったと推測します。 >>769
さて、道元禅師は、「一切の衆生は悉く仏性を有す」なら、修行なんて不要なのでは?
という疑問を解決するために、武者修行したらしいですね。
私と同じです。親近感が湧きます。 >>776
お疲れ様です。
【ジョージ・ハリソン インタビュー 1979】
より
(当時人気だったパンクロックをけちょんけちょんに貶すなどした後に)
インタビュアー「レコーディングをしていないときは、どのようにして過ごしているのですか。」
ジョージ「家にいて庭仕事をしている。鋤(すき)や鍬(くわ)を使うってほどじゃないけど、庭を掘り返して、そこに木を植えたり。
庭はいいね。ガーデニングがもたらしてくれる喜びはたまらないよ。
ある意味じゃ瞑想に通じるものがある。正気を失うほど夢中になって、泥の中で這いつくばりながら、すべてを悟ったような気持ちになれるんだ!
あとはたいてい、オリビア(妻)や赤ん坊と一緒に過ごしているよ(以下略)」
農作業での作務も想の境地まで高められるのかもしれないですね(一般には作務は「動中の工夫」などと呼ばれていますが)。
とはいってもガーデニングと農作業では使う筋肉の量が大きく違うと思うので、ジョージも家庭菜園始めようとしてもし鋤や鍬を使って土起こしなどして正気を失うほど夢中になっていたら、次の日は筋肉痛になって酷い思いをしたかもしれません(笑) >>798 続き
ということで、
>>776の野良さんのような農業に携わる方のご苦労があって私たちの目の前に食事が運ばれてくるのであり、まさしく
■五観の偈
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。)
なわけですね。
だから米一粒とて無駄にはできません。
(以下、井沢元彦「逆説の日本史――鎌倉仏教と元寇の謎」より引用)
華厳宗はこの南都六宗の中では、最後に伝来したものだ。華厳は「識」や「空」に関する理論(法相宗や三論宗)が「存在の認識」という点を重大視しているのに対し、むしろ宇宙の構造について述べている。
一即多(いっそくた)というのが、その代表的な思想である。それはよく米粒によって説明される。
ここに一つの米粒があるとする。それは自体宇宙の存在に比べたら実に他愛のないものに思われがちだが、よく考えてみればこれは太陽の恵み、大地の恵みによって生まれた、かけがえのないものである。
しかもそれが今、目の前にあるということは、多くの人間や輸送手段を経て運ばれてきたわけで、人間世界の営み(文明)がその一粒の中に集約されている。
これが「一」が同時に「多」であり、逆「多」は「一」であるという考え方だ。すなわち「一即多」である。
当然この世の出来事は「一即多」である以上、無限に関連し合って次々に新しい結果をうむことになる。これを重々無尽(じゅうじゅうむじん)という。
また、すべての人間は本来「仏性」つまり悟りを開く素質をもっていることにもなる。なぜなら、華厳経によればこの世界においては、完全に他から独立したものはない(重々無尽)。それゆえに、すべての迷いも悟りとどこかでつながっていることになる。
簡単に言えば「悟りにつながらない迷いは無い」のである。
したがって、いわゆる地獄や餓鬼道も、それ自体独立した世界ではなく、仏の一つの相としてとらえられることになる。 >>772
おお、苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」を持っていらっしゃいましたか!!
それなら、話が早い。
実は、私は6年前、アダルトDVDのレンタルを辞めるために、
自作エロ小説で抜いてみよう!と企画しました。
すると、1日中、ムスコが勃ちっぱなしになってしまい、
3か月後、下腹部が1日中、痛くなってしまいました。
前立腺肥大を疑い、泌尿器科を受診したら、
オナニーのし過ぎとの診断でした。
で、週1のアダルトDVDレンタル生活に戻したら、治癒しました。
多分、苫米地氏も、佐藤優氏も、精力絶倫なのでしょうね。
だから、鹿野園氏に嫌われるのだと分析しています。>>780 >>772
冗談はさておき、厳密に言うと、
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
とは
色即是空 空即是色
受即是空 空即是受
想即是空 空即是想
行即是空 空即是行
識即是空 空即是識
を省略した記述ですので、
色即無
無即色 も違和感があります。
五蘊皆無・・・のみでOK!でしょうね。
(倒置法で強調する必要無し)
ただし、「五蘊皆無」が正しいか、私にはわかりません。 前置きが長くなりましたが、本題です。
「五蘊皆無」をサイクリック宇宙論のイメージ図で解説してみます。
https://www.bttp.info/pickup/penrose-ccc/
↑
「現在の宇宙」と「以前の宇宙」をつなぎ合わせた
砂時計のようなイメージ図があります。
このうち、「現在の宇宙」と「以前の宇宙」の部分が五蘊であり、
「質量のない量子の世界」が無だろうと思います。
で、仮に宇宙が複数あれば、
無数の「宇宙」とその隙間を、「空」と表現しているのでしょう。 >>786
あとは、無理をしなくなったかも。
去年より。
いらんものは作らないぞ。 >>791
私は因みに視力回復を盲信してて
眼鏡を弱めに作ってあります。
運転免許はギリギリ合格してますから大丈夫ですけど。
ピントぴったりに矯正すると
眉間がムズムズするし
度が進んでしまったときの落胆が少なくて済むのです 笑 >>774
ありがとうございます。
ちさひろやさんの訳の方が、偉そうな感じが出ていて面白いです。。w
高祖禅師様にたいして、偉そうとか言っちゃいけないんでしょうが、
やはりどことなく原文読んでいても、偉そうな感じはありますよね。。w >>805
私は、運転する時は、度が強い眼鏡をかけています。
度が強い眼鏡を1日中かけると、疲労困憊になるからです。
30年前に作った眼鏡が壊れて、6000円で同じ度数の眼鏡を作って
かけたら、パソコン時の頭痛が収まりました。
多分、ブルーカット仕様のレンズなのでしょうね。 >>768
大本山總持寺は、元々は石川県にあったものを火事により
神奈川県に移転した経緯があり、大本山永平寺も福井県にあります。
石川と福井は、浄土真宗が盛んな地域ですから、
少なからず影響を受けたのかもしれませんね。 >>772
今日、、苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」の、
「輪廻転生」と「霊魂」に関する記述だけを読んでみました。
苫米地英人氏は、「輪廻転生」と「霊魂」を否定していますが、
私の感想は、「輪廻転生」と「霊魂」は、あるかないかわからない。・・・です。
お釈迦様も、「輪廻転生」と「霊魂」を否定したかったけれど、
確証を得られなかったのでは?・・・・と私は、妄想しています。
理由については、明日から書きます。 ミックスリスト - 日本財団
https://www.youtube.com/watch?v=Ct9ohS4qwew&list=RDCMUCr_QXzIXVxPUcErwMPlhaiw&start_radio=1&t=60 >>773
『煩悩は大きくすればいい』につては、私好みの思想ではありません。
どちらかと言えば「足るを知る者は富む」という言葉が好きです。
老子ですね。 セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/ >>798
私もパンクはよく分かりませんが
ジョージ、けなすような人に見えないのに…(^-^;)
ジョージのベストアルバムは持ってますよ。マイスイートロードが聴きたくてね。
そういや、次女を背負って這いつくばり草刈りをした頃のことを思い出しました 笑
寝かしつけて夜もやったよね。蚊に食われながら。
まじ正気じゃなかったわ 笑笑
農作業が瞑想に通じる…どっかで誰かが同じこと言ってたような気がしますが >>777
玄奘三蔵がタクラマカン砂漠を渡っている時に砂漠の亡霊に襲われたのですが、般若心経を唱えたら亡霊は退散したというような伝説がありましたね。
ちなみに般若心経は一切の事物(一切法)の空を説くことで執着を滅することが説かれていますが、亡霊もそれで現世への執着がなくなり元の世界へ帰るというのを聞いたことがあります。
また亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
しかし
最初に『般若心経』を漢語訳したのは玄奘三蔵だとされています。
しかし、玄奘は中国からインドへお経を取りに行く際、「『般若心経』を唱えながら向かった」とも伝えらているのです。
玄奘訳の『般若心経』は、鳩摩羅什訳の『般若心経』とともに「仏教的」ではないのです。
もしかすると玄奘は、サンスクリット語から中国語に訳したのではなく、中国語からサンスクリット語に訳したのかもしれません。
さらに『般若心経』が仏教の経典と考えにくいのはお経としての形式が間違っているからです。
(苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」)
※苫米地氏が般若心経を仏教的ではない、お経としての形式が間違っているとしている理由
・「如是我聞」で始まってないから
・観自在菩薩という修行中の菩薩が悟りを開いた阿羅漢のサーリプッタに説法しているという立場を考えるとあべこべなことをしているから
・釈迦が禁じた呪文(マントラ)が書かれているから(ここで苫米地氏は般若心経のギャーテーギャーテーの呪文はシュメール語ではないかという仮説も立てています)
・空即是色の件 >>814
また亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
→少なくともテーラワーダ仏教では亡霊・幽霊は餓鬼界から人間界に来た有情とされているようです。
(パーリ小部「餓鬼事経」などから) >>778
真言はサンスクリットの正規の表現ではない上、色々な解釈が可能であるため定説はない。
仏教学者の渡辺照宏説、中村元説、宮坂宥洪説など、異なる解釈説を行っている。
福井文雅は、本経の核心部は心呪の効能を説く後半部と心呪自体であると主張している。
佐保田鶴治も同様の観点から、般若心経は密教のお経であり、全部を繰り返すのは無駄であって、最後の明呪だけを繰り返せばよいとしている。
1992年アメリカのジャン・ナティエ(Jan Nattier、当時インディアナ大学準教授)により、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという偽経説が提起されているが、これには原田和宗や石井公成による詳細な反論がなされている。
(Wikipediaの般若心経のページより)
苫米地氏はアメリカのジャン・ナティエと同じような説ですね。
ちなみに、私事ですが色即是空スレに参加させていただいてたときに、「玄奘三蔵や空海、道元、盤珪、白隠といった高僧が般若心経に何の疑問も示さずに受け入れて解説を書いたりしているのに苫米地氏はそういった高僧にケチつけているのでしょうか」みたいなことを書いた覚えがあるようなないような(笑) >>779
スマナサーラ氏はここは果物で例えていました。
「バナナは果物」ですは正しいが「果物はバナナです」はおかしい、だったかな(バナナでなく林檎だったかもしれませんが)。
大般若経の一つ『摩訶般若波羅蜜経』の注釈本である大智度論では
何を以っての故に、舎利弗、是の色の空は、色に非ずと為し、空を離れて色無く、色を離れて空無く、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。
受想行識の空は、識に非ずと為し、空を離れて識無く、識を離れて空無く、空は即ち是れ識、識は即ち是れ空なり。
乃至十八不共法の空は十八不共法に非ずと為し、空を離れて十八不共法無く、十八不共法を離れて空無く、空は即ち是れ十八不共法、十八不共法は即ち是れ空なればなり。
(巻第四十三(上))
と解説されています。
「是の色の空は、色に非ずと為し」は金剛般若経にも見られる論理展開ですが、不一不異ということですね。
「色の空は、色という実体には非ずと為し」という感じになりますでしょうか。
ちなみに先ほどこんなサイトを見つけました。
即非の論理の誤り
http://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub45.html
(一部抜粋)
大拙の多くの仏教の新理論や新解釈の中でも、金剛般若経の「即非の論理」なる新解釈には唖然とするばかりである。大拙は、金剛般若経の
「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、是を般若波羅蜜多と名づく」を勝手に、
「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、故に般若波羅蜜多である」
と言い換えて、Aと非A、肯定と否定が同一であると主張し「即非的自己同一」なる自説を唱えたのである。
しかし、これはあきらかな誤解釈で、「是を般若波羅蜜多と名づく」と、「故に般若波羅蜜多である」とではその意味合いはまったく違うものになる。
「故に般若波羅蜜多である」ならたしかに、「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)」に帰結した文脈になるが、「是を般若波羅蜜多と名づく」なら、「即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)」に結論した文脈になる。
まだ全部を読んでないのであとでじっくりと読んで思惟したいと思います。 >>781
天女はしれっと言いました。
「あら、そんなことないわ。言葉も言葉を使った説明も、みんな解脱そのものといっていいハズよ。
解脱は、内にもなければ外にもないし、内と外の間にあるのでもないわ。
文字もまた、内にも外にも、その間にもないわけだから、文字を離れて解脱を説くことはできないのじゃないかしら?」
シャーリプトラ:「えーっと・・・解脱って、淫欲とか怒りとか迷いとかから離れることじゃなかったのでしたっけ?」
天女:「ああ、それはまだ悟りもしないのに「悟った」などと思い上がっている人のために、仏があみ出した説明よ。(笑)
思い上がりの全くない人に対しては、仏は「淫欲・怒り・迷いがあることこそが解脱なのだ」と説明しているわ。」
シャーリプトラはぐうの音も出ないほどやっつけられてしまいましたが、何とか言葉をしぼり出しました。
「こ、これはオミソレいたしました・・・
貴女の弁説は完璧です。素晴らしいのひとことです!
それにしても天女さん、貴女はいったいどんな奥義を誰から授けられたのですか?」
天女は答えました。
「奥義ですって?私はいまだかつて何も授けられたこともなければ、得たこともないわ。
だからこそ、このように弁じることができるのです。
だってそうじゃない?
何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima026.html
この天女とシャーリプトラ(サーリプッタ、舎利弗、舎利子)との問答のなかでの天女の説法?には大乗仏教のエッセンスが込められていますね。
ちなみにスマナサーラ氏は、維摩経がサーリプッタ尊者の侮蔑の原点となった、みたいなことを「般若心経は間違い?」の中で書いていました。
この天女は(特に超訳の方は)大変痛快ですが、スマナサーラ氏の言うことも確かにと思います。 >>782
四十九日の間仏弟子となって修行して、仏となって極楽浄土に住むことになる、ですね。
凡夫からでも仏になれる日本の仏教はなんと素晴らしいのでしょう!!
そのためには遺族は四十九日の間、初七日を始めとして七日ごとに法要したりしないといけないわけですね。 >>783
そうでしたか、ありがとうございます。神仏習合ですね。
やはり日本版アニミズムである「八百万(ヤオロズ)の神」思想は、日本の仏教に多大なる影響を与えているようですね。
親鸞さんも一遍さんも神社参りをしていました。
が、浄土真宗では戦後からつい最近まで神棚を捨てるように檀家に勧めたりしていたようですが…
浄土真宗と神棚
http://tenshin.or.jp/archives/10374
>もう10年以上前ですが、本願寺のムーブメントとして「神棚を下ろせ」「位牌はダメ」「法名は3文字」という浄土真宗の儀式の正解を伝えてきた側面が強かった。
>そのことは正義であるために、否定することが難しかったが、そこには、1つ抜けていることがあった。
>それは、相手の気持ちを伺うこと。
>そして、昔は、神社とお寺は一緒に存続したが、神仏分離令にて神社とお寺は分けられた、神棚はダメだという概念は数十年の歴史から生まれた来たことであります。 >>784
よろしかったら詳しく教えてくださいm(_ _)m >>799
食べてるとき、よくその内容を思い出すようになりました。
食べる資格がある分だけ働いたかな?とね。とくに昼休み。
迷いと言いますが私たちはいかにムダな気持ちが多いことでしょう。
振り返ると思わなくても良かったような念が沢山です。そういう時は、雑念がなさそうな人を思い浮かべてなりきるのがいいと思い、今日はそれをやってました。 >>807
6000円の眼鏡で頭痛が治るなんて、ラッキーですね!
私もそろそろ新調したいな。
いまのは敢えて地味な印象に見せるような眼鏡だからな。
あの頃の私は、引っ込み思案だったのだ。 >>825
同じ度数で作っても、眼鏡枠の大きさが違うと、
焦点がズレて目が疲れます。
それで1度失敗して、今、使っている眼鏡は、
30年前の眼鏡と全く同じ大きさの眼鏡枠を選んで買いました。
チラシでは3980円でしたが、乱視が入っているので
2000円、追加されました。 >>797
確かにそれまで常識とされていた教え(道元さんにとっては本覚思想)に疑問を満足のいく答えを求めて行動していく
というのはエロ和尚さんと同じスタンスですね(^_-)
ブッダの場合はブッダ自ら「私の教えを盲目的に信じるのではなく、教えられたことを自ら実践して確認しなさい」とまで丁寧に教えています(^_-)
477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。
(スッタニパータ) >>801
若いですね(笑)
>>802
>ただし、「五蘊皆無」が正しいか、私にはわかりません。
ます、苫米地心経では倒置の必要なしは私も同意します。
五蘊皆無は苫米地心経では正しいかもしれませんが、一般の般若経典群の考え方からすると法(事物)の無は認められず非有非無が空なので正しくはないと思います。
般若心経(など)の
無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。
などはあくまで是故空中が前提です。
無分別である空の世界では五蘊や六根(眼耳鼻舌身意)などの一切の法はないということですが、更に詳しくは
是故空中。無有色無有受想行識。(無無色無無受想行識。)が本当なのですが、くどくなってお経よリズムが乱れるのと、まず有るという実体視を崩す方を優先させるので、()内は省略される、のかもしれません。
是故空中。 >>803
うーん
「ブラックホールは重力子や光子などの粒子を放射することによって、ゆっくりと質量とエネルギーの一部を失っていき、最後には蒸発して消えてしまう」という「ホーキング放射」
これがエネルギー保存の法則に反しないのか私は物理学者じゃないので分かりませんがどうなのでしょう?
あと、「宇宙の変遷を経ても痕跡が残り続けるのは納得できない」という否定意見が出るのは私から見ると至極当然のように思えますが、やはり私は物理学者でないのでよく分かりません。
今のところは私はこの問題についてはこれ以上は無記かな。
>で、仮に宇宙が複数あれば、
>無数の「宇宙」とその隙間を、「空」と表現しているのでしょう。
ここにだけ言及させていただくと、空は空でも虚空の方になるのではないかと思います。
虚空
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA >>806
どういたしまして(^。^)
はい、ひろさちやさんの方が原文のニュアンスには違いと思います(笑)
確か明治になってから編纂された修証義などもどこか偉そうですしね(笑) >>775
>>811
真言宗など密教の大欲は曹洞宗で言えば発菩提心に置き換えられる感じになるかと思います、私見になってしまいますが。
って発菩提心ってなんぞやとなるので簡単に解説させていただくと
『修証義』第四章「発願利生」
菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。
(現代語訳)
菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
僧侶であろうとなかろうと、天人でも人間でも、苦しい境遇でも幸せな境遇でも、「お先にどうぞ」の心を起こしましょう。
この「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)す」つまり「発菩提心」が密教でいう大欲で、大欲とは欲望を修行救済に使いましょう、ということになるかと。
曹洞宗の仏性思想とはまた違った如来蔵思想などに裏付けされたのが大欲だとも思いますが(断定はしません)
>真言密教では、次のように欲をとらえています。
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
>「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
>「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
>「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
http://www.kurusonzan.or.jp/information/shingon.php
あ、曹洞宗には大欲という言葉はないですよ。 >>813
ジョージはビートルズのメンバーの中でも一番の皮肉屋だし他のミュージシャンを貶していますよ(笑)
パンクロックの他には、U2、マドンナ、スパイスガールズ、オアシスなんかもディスっていました。
(例えば「オアシスなんてくだらない、つまらない。あんなの聞くんだったらボブディランを聴いてる方がよほど良い。だいたい現在の音楽は皆自己顕示欲に根ざしている、そこがくだらないのさ」とか)
愚痴っぽいのも特徴的でビートルズ時代はアイミーマイン、ソロになってからはワーワーというポールへの愚痴ソングを書いたりしています(苦笑)
それでもそんなジョージが私は好きですが(^_^;)
草刈りは草刈り鎌が磨がれてないと疲労は倍になりますね。
でも今は草刈機があるから楽になっていますよ、流石に夜は草刈機は煩くて使えませんが。
というのも、幼少のころフランダースの犬でネロが大鎌を振って草刈りをしていたのを見た記憶があるからですが、今にして思うとあれはさぞ疲れると思います。草刈機を使っても草刈りは疲れるからです。 >>824
私もまず、華厳の一即多(一即一切とも)の思想から一粒の米でも残さず食べるようになりました。
もっとも戦前から戦後貧しい時期は、華厳思想関係なく一粒残さず食べるのは当たり前だったそうです(そりゃそうだ)。
その華厳思想の重々無尽により迷いは志ざしがあれば悟りへと繋がりますので、迷い自体は気にせずに迷いを悟りにしていこうという「志し」の方を念じておくのが良いのかもしれませんね。
それを常に念じていれば煩悩即菩提となりそうです。
野良さんも昨日、雑念がない人を思い浮かべて成り切る、という小悟かもしれませんが何か得られたようで何よりです。
小悟というと失礼ですが、これも重々無尽によって大きな悟りへと発展していく可能性もあると思いますよ(^。^) 夜中に目が覚めてしまったので
>>817
>即非の論理の誤り
>http://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub45.html
>(一部抜粋)
>大拙の多くの仏教の新理論や新解釈の中でも、金剛般若経の「即非の論理」なる新解釈には唖然とするばかりである。大拙は、金剛般若経の
>「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、是を般若波羅蜜多と名づく」を勝手に、
>「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)、即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)、故に般若波羅蜜多である」
>と言い換えて、Aと非A、肯定と否定が同一であると主張し「即非的自己同一」なる自説を唱えたのである。
>しかし、これはあきらかな誤解釈で、「是を般若波羅蜜多と名づく」と、「故に般若波羅蜜多である」とではその意味合いはまったく違うものになる。
>「故に般若波羅蜜多である」ならたしかに、「般若波羅蜜多とは、仏説く(A)」に帰結した文脈になるが、「是を般若波羅蜜多と名づく」なら、「即ち般若波羅蜜多に非ず(非A)」に結論した文脈になる。
についての考察をしてみました。
私は鈴木大拙の本は一冊も読んだことがないですが、金剛般若経なら持っているので金剛般若経での表現を確認してみたら確かに
「AはAに非ず、故にAと名づく」
の表現が圧倒的に多かったです。
般若経の真意からしても、(赤ん坊などは除かれると思いますが)人は分別を言葉でするので、空なるものを分別するために言葉で名づく(名付ける)というのが正しいと思います。
このスレに最初に来た時に
☆功徳は功徳に非ず、故に功徳である
とやってしまった私ですがこれも実際には
☆功徳は功徳に非ず、故に功徳と名づく
が正しい言い回しですね。
意味としては
☆功徳には功徳という実体(自性)はない、故に世俗での分別のために功徳と名付ける
という意味でしょう。
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは(言語による)分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
(中論第一八章) スッタニパータより人間の言葉による分別について(再掲)
600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。
601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはない。かれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。
602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。
606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。
607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、
610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm >>826
それにしても安いですねえ。
1万前後が普通かと思ってました。
式典が続くので新調してもいい頃かも知れません。
マスク装着や寒暖差のある部屋への行き来により曇っては拭くを繰り返してきたので、小傷が結構あります
眼鏡屋さんによるとこれぐらいは仕方がないと言ってましたがね。 >>831
なるほど。そういう良い意味でしたか。小さな欲をお先にどうぞの欲に変えるっていいですね。今日も実践していきたいです。 >>832
人は見かけに寄りませんね。
ジョージははポールが羨ましかったんでしょうか。
オアシスはカッコいいけどずっと聴いてると、みんな同じに聴こえてきます。それでも、昔友達と填まりましたよ。ドントルックバックインアンガー聴くと懐かしい。
草刈りは何度も手を切って痛い思いしています。雑念が入ると絶対切りますから、義務的に無心にならないと危険です。とくに誰かのことを恨みながら草刈りしてるとてきめんに手を切ります。ただ行為のみに集中ですね。
それでコツを掴んでいくんですよね。今ではほとんど切らなくなりました。体に行為を染みこませればいい訳で自転車とおなじように。
あらゆることが、そんな風に体で行えてると嬉しいです。
草刈り機はまだ恐くて使えないです。主人の仕事ですw >>833
幸いなことに、私の仕事の指導者が柔和で穏やかで怒らず、落ち着きを持った方なので、絶対私の持ってしまったものを持っていない人だなと思うので、見本にしたいわけです。穏やかなんだけど、口調に厳しさがあって、気が引き締まります。
あと15才若ければ、惚れていたかも知れませんが、年齢的にすぐに仕事モードに戻れます。便利な年齢になったものです 笑
こういう穏やかでそつが無い人はなぜかブッダに雰囲気が似てます。体型もね。泰然としてるんですよ。彼も仕事上で何か悟ったのかも知れません。 >>797
>道元禅師は、「一切の衆生は悉く仏性を有す」なら、修行なんて不要なのでは?
道元禅師は修行した結果、
悉有とは仏性であり、
その、悉有のうちのー群を衆生(ここでは人と同義)という。
このときには、衆生の内も外も、仏性の悉有である。
いま仏性によって存在された有は有無の有でない。
悉有といわれるときの、
その有とは、さらに始め・終りがある有でもなく、
もともとからあるという有でもなく、
そのままに有となる有、などでもない。
いわんや、緑から生じる有や、
迷妄の心認められる有ではない。心・境性・相等には無関係である。悉有はまるごと抜け落ちている。
だ。そうどす。
(^^)ノシ 人の想いで表現されているものと
そうでないものとの違いや
輪郭をはっきりさせておこうと
するのは癖になってるな 仏は不滅、仮に滅不滅を説く。
これは、妙法蓮華経如来寿量品偈
我時語衆生
常在此不滅
以方便力故
現有滅不滅
何かオレの思っているより、
漢文はインパクトがあるな。
(^^)ノシ >>818
ありがとう。
>何かを「得た」とか、誰かに「承認してもらった」なんていうのは、とんでもない勘違いヤロウのいうことですもの。」
誰かさんに言ってやりたいわw
(^^)ノシ >>808
わたしは黄檗宗の影響かと思っています。
当時の中国では、禅と浄土がー体になっていたと思います。
ある意味純粋な禅は日本のほうかもしれませんしね。
黄檗宗はいちばん最後に日本にはいってきました。
真新しさを感じたのかもしれません。
(^^)ノシ >>829
>>今のところは私はこの問題についてはこれ以上は無記かな。
私も、同意見です。
というか、>>211の動画で、しっくり来ました。 >>827
>>(道元さんにとっては本覚思想)に疑問を満足のいく答えを求めて行動していく
とりあえず、道元禅師の言われたことは、こんな感じだと解釈しています。
↓
http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zazen21.html
(この悟りは、人々に豊かに備わってはいるが修行しないと現れない。
悟らなければ、悟りがどういうものかを体得できない) >>831
>>菩提心を起こすということは、自分が幸せになる前に、みんなを救おうと誓って修行することです。
これについては、私の信条とは相容れないものがあります。
「幸せでない者が、どうやって他人を救えるの?」と、問いたくなります。
今は私は斎藤一人教信者を辞めていますが、
斎藤一人氏は、「自分が幸せになってから、初めて、他人を救えるのだ」
と言っていました。
この点では、斎藤一人氏の考えを支持します。 *空(くう):二つの意味がある。
1.無我(むが)
あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)
2.平等(びょうどう)
物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。
特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。
自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)
*無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。
何故かと言うと、その人は既に持っているからである。
人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。
※所得(しょとく)とは執著し分別するの義。
無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。
*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。
また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。
仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。
そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています