◆悟りを求めない人の談話室No.35◆
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
悟りを求めない人や、悟りを徹底的に棄てたい人が
気楽に、思ったことを書くスレです。
どんな宗教の方でもOKです。悟りの修行をしている方もお気軽にどうぞ!
雑談、独り言、名言、格言、気づき等。
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い
※荒らしはスルー、あぼーんしてくださいね。
前スレ
◆悟りを求めない人の談話室No.34◆
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1611405801/ >>702
>空は空のレシピであって
>空そのものではないからね。
言語も空(性)だけどw 再掲しておくか
↓
場末の酔っ払いが人生論を語る様な基調で仏教語りを始めたところで、論理的に反証されれば居場所もなくなるわなぁ😃 酔っ払い!?鹿野園さん!?私のことかああああああ
ああああああああああ >>707
狂乱してごめんなさい。鹿野園さん、私は貴方様に関心があります。魅力的なので >>657
鹿野園氏の書き込みも、「わざと反対のことを言って、確認している」のでは?
・・・・と疑ったことはありませんか? さっきネット上で十牛図読み返したけれど、やはり古文・漢文はいいね。。
ぼくは、古文も漢文もあまりできなかったし、いまだにできんが、やはり、日常的に使う言葉じゃないのがいい。。
文語、古語と言うのはいい。外国語であるというのもいい。。
おしゃべりしている脳とは違うところ使うんだと思うんだよね。。
だから、読んでいると、一種の沈黙が生じるというか、言語的な抵抗が生じるというか、他なるものに触れている感覚がある。。
それがいいのだと思う。。
もちろん、中国の祖師方の漢詩が優れている、文章表現がすばらしい、と言うのもあるんだろうけれど。。 改めまして>>603
瓦礫も仏性については>>607の通り仏性の巻の一番最後に書かれています。
「正法眼蔵」仏性の巻の最後は有名な両頭倶動のミミズの禅問答から始まっています。
長沙景岑和尚の会に、竺尚書(高官の職名)問う「蚯蚓ミミズ斬れて両段(二つ)と為る。両頭倶に動く、未審イブカシ、仏性阿那(どちら)箇頭にか在る。」
師云く「莫妄想。」
書云く「動くをば争奈イカガせん何。」
師云く「只是れ風火(四大の要素)未だ散ぜざるなり。」
(現代語訳)
長沙景岑和尚の道場にあって、竺という名の尚書(高官の職名)が問うた。「ミミズが切られて二つになり、両頭がともに動いています。そこで疑問があるのですが、仏性はどちらの側にありますか」と。
師が言った、「妄想する莫(なか)れ」
尚書が言う、「動いているのはどうしますか」
師が言った、「それは生命活動を維持する風火(地水風火の四元素)がまだ分散していないだけのことだ」 >>713の箇所からズズーと略して仏性の巻の本当に最後
又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。
生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。
風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。
たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。
しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。
(現代語訳)
また、仏性は生きている間だけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく少聞薄解(認識不足)である。
生のときも有仏性であり、無仏性である。死のときも有仏性であり、無仏性である。
風火の散/未散を論ずるから、仏性の散/未散が問題になるのだ。
仮に風火の散じたときも、仏性有であり、仏性無である。仮に風火が未散のときも、有仏性であり、無仏性である。
それなのに、ミミズの動/不動によって仏性が在/不在になったり、人間が認識できるか否かによって仏性に不思議な働きがあったり/なかったりし、人間が感知するか否かによって仏性であったり/なかったりする――といった誤った考えに固執するのは外道のすることだ。
無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。
さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。
向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。また委悉すや。
三頭八臂。
(現代語訳)
無始の大昔より、愚人たちの多くは認識主体をもって仏性とし、本来の人間だとしてきた。笑止千万である。
もうこれ以上仏性を語るに、贅言多言を要しないが、ずばり言えば仏性とはそんじょそこらにある牆壁・瓦礫(しょうへきがりゃく)である。
さらに言えば、「仏性とはそもそも何であるか?」としか言えない。どうだ、分かったか。
頭が三つに臂(ひじ)が八本。そんな化け物に出会ったような顔をするんじゃないよ。
※牆壁・瓦礫…垣と壁・瓦と小石 >>621
これですかね?
「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察
鳩摩羅什訳
二〇 涅槃の実際と、世間の際と、是の如き二際は、毫釐の差別無し。
※毫釐(ごうり):ほんの少し。毫は少数の単位一万分の一、釐は少数の単位千分の一。
青目(しょうもく・ビンガラ)の注釈によると、「一切の法は(自性として)不生不滅であるが故に世間(輪廻)と涅槃は区別なし」、「世間と涅槃との実際と無生の際とを究竟まで推求したが平等にして認識できないが故に毫釐の差別無し」とのことです。
この偈を更に理解するには龍樹の空七十論から
[ものが]存続する、生起する、消滅する存在する、存在しない、劣っている、同等である、すぐれている[等と言う]ことを、仏陀は世間の常識(言説)として説かれるのであるが、真実として[説かれたの]ではない。(第1偈)
[自我]はない、「無我」はない、「自我かつ無我」もない。だから名称は何もない。なぜかというと、名称であらわされる事物(法)はすべて涅槃と同じく実体(自性)が空であるから。(第2偈)
更には大智度論巻・第四十一(上)
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron41-50/Daichidoronn41a.htm?20210314-2246
に詳しく説かれてあります。 >>58
ブッダは輪廻は否定してはいませんね。
輪廻する人生は苦しみであると否定して輪廻からの解脱は説いていますが…というか輪廻からの解脱が釈迦仏教の目的であったと言えると思います。
証拠として
まずは以前もご紹介させていただいた
中部経典 第117経 『聖道経』 八正道と四十効果
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29096929
より
[正しい見方]
「比丘たちよ、このなかで正しい見方が最初にくる。では、比丘たちよ、どうして正しい見方が最初にくるのか。誤った見方を誤った見方と知り、正しい見方を正しい見方と知っているとき、その人は正しい見方をしている。
では、比丘たちよ、誤った見方とはなにか。
『施し物は存在しない、供え物は存在しない、捧げ物は存在しない、善悪の行為の果報は存在しない、この世は存在しない、母は存在しない、父は存在しない、自然発生する生きもの(化生)は存在しない、
この世やあの世のことをみずからはっきりと知り、じかに見て開示できるような、正しく道を行ない、正しく道を修めた沙門やバラモンは世間に存在しない』
というのが、比丘たちよ、誤った見方である。
あの世というのは来世とするのが一般的な解釈ですね。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
(スッタニパータ)
来世はないとするのは誤った考え方である、というのがブッダの説法です。
次には色々ありますが、有名なこちらが輪廻を信じていた証拠として挙げるに相応しいと思います。
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
(ダンマパダ)
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/damma-all-text.htm
これはブッダが菩提樹の木の下で正覚を得た時に詠んだ感興偈と言われています(私の推論ですが、恐らくはブッダが「私は悟った時に思わずこう言う詩を読んだんだよ」と仏弟子に語った偈(詩句)だと思います)
家の作者は四諦の中の集諦、つまり苦の原因である「渇愛」とされます。 >>642
ブッダはアートマンはないとははっきりとは言いませんでしたし、また輪廻の主体はアートマンであるとも言ってないですね。
ちなみに苫米地英人さんですが、懐かしの色即是空スレでもこの方は語られていましたが、私もこの方の般若心経の解釈はおかしいと思います。
苫米地英人さんもスマナサーラ氏と同じく上位概念と下位概念を用いて空即是色はおかしいとし、その彼が修正された般若心経では
色即是空 (しきそくぜーくう)
空即是色 (くうそくぜーしき)
*空包摂色(くうほうせつしき)
*空包摂無(くうほうせつむ)
となっており、数学者?らしく照合にこだわったのか*の二行が補足・註釈されていますが
空は色や無の上位概念ではないので空包摂色や空包摂無はおかしいですし、更には空は有や無を否定したものなので空包摂無は特におかしいと思います。 >>680
とりあえずサブでスマホ購入したのでカスタマイズして安全が確認出来る迄しばしお待ちを >>684
それは欲求不満の野良にでもぶちまけてやってください 笑 >>696
全然常人と対等になれてないのに認識違いも甚だしいな
発達遅れさん >>700
毒親の事なんて思い出したくも有りませんよ >>701
論理的な整合性ですね
一見曖昧で矛盾してる様に見えても理解が進むと言葉同士が矛盾しない空白の中間領域が有るのに気付くんですよ >>703
俺がお前並みに勘違いしてたら同じように集中砲火を浴びて悟りスレを追い出されてたよ
そういう客観的な自己認識が出来ないし したくないだけだろ?
人が他人をおかしいと判断する時に最もそれが顕著に現れるのが言葉だし 場面に合わない奇妙な言語表現をしてるのに自分で気付いた方がいいんだが 実物よりも偉くて利口な自分を信じて振る舞うから 他人が見たら莫迦がキ印にしか見えないんだよな
これだけ何人もから指摘されてるのに頑として自分の欠落してる部分を認められないのは どっか狂ってるからだぞ
それがその辺で止まるのか 更にイかれて周囲を困らせるのかは知らんけど 定期的に心理検査を受けた方がいいレベルだよ >>724
人妻にあれこれ言ったって仕方ないだろ。君は言葉を駆使しているだけで実は何にも知らないんだよ。
つうか早く彼女作りなよ。
心の従属には愛が必要さ。
頑張って。 >>721
あなたの苦しみには負けるけどね。常人とか対等とかいう言葉を使うとはね。それだけあなたがその概念で生きてるってことかな?そういう概念を取り去って今ここに生きなければダメなのよ。リアルの人間をよく観察すれば、常人などどこにもいないし、対等の関係など無い。みんなどこかズレてる。それが個性なんだ。真言氏は一日どれくらいの人と喋ってるの?その人たちと私を比べてるだけだとしたら、まだまだ経験則は足りないんじゃないか。もっと腹を割って野良を知らないと、ダメだよ。もっと野良に質問しないとね。あなたは言いっぱなしだからさ。お前はこうだ、あーだ、ってね。野良に質問して分からないことを分かるようにしないと野良に対して悟れないよ。決めつけることは、悟りではなく、ただ満足したいだけなんじゃない?常人とか対等とか、あやふやな基準を作ってしまえば真実とかけ離れたものになる。それは仏道から外れるでしょ。真言は真言のペースで生きてください。
他人のことではなく、
自分のしなかったこと、自分の欠点を観ていくのが仏教だから、これ以上私のことをあーだこーだ観るのは道から外れた行為だ。だからこのレスでこのやりとりは終わりにする。
雑談ならオーケーだよ。
昨日はハヤシライスでした、あなたは?とかね。
では今日もお元気で(^-^) >>715
ありがとう。
疑問があるんだけど
クラマジュが輪廻を世間と訳したのか。
中論にはそこに行く行のやり方も述べられているよね。
後、維摩経、確か天女のところ。
文字も涅槃、あなた方文字を離れるなんて10万年早いのよ。
悪い、少々創作してしまったw
(^^)ノシ みなさん、ありがとうございます。
実は、私はスッタニパータや、中論の貼り付けを読んでも、
ほとんど理解できないか、誤解しているようです。
多分、真言宗氏のレスを読んでも、半分以上は
理解できていないか、誤解しているような気がします。
例えば、今、曹洞宗を勉強しているのですが、
読んでいる本は、
「我が家の仏教 曹洞宗」四季社 です。
あと、辞書代わりに(つまみ読みとして)
曹洞宗の常識 中野東禅著
まあ、「引きこもり宗教学者」の野次馬根性を
昇華させるために読んでいるような感じです。 >>724
俺がお前並みに勘違いしてたら同じように集中砲火を浴びて悟りスレを追い出されてたよ
自分で立てたスレから逃げる奴もいるけどなw
悟りスレは魑魅魍魎が跋扈しているからなw
(^^)ノシ >>718
>>私もこの方の般若心経の解釈はおかしいと思います。
私も「おかしい」と思います。理由も、同じです。 野良はまだ若いんだからさ。
これからさ。
バカの壁
有為の壁
無為の壁
磨くしかないのよ。
仏の家業よ。
(^^)ノシ >>717
原点に戻りますと、
私は、このスレで、お釈迦様の精神分析をして楽しんでいるようです。
その理由を分析してみました。
恐らく、私が10年間ハマった斎藤一人教では、
「知っていることは、惜しみなく教えてあげなさい」が是とされていたので、
お釈迦様が「無記」とした態度に、私が違和感を覚えているからだ
・・・と思います。 >>729
ウチの寺、曹洞宗だけど阿弥陀様が鎮座しております。
修證義は在家むけでございます。
道元だけでは多分曹洞宗はすたれていますね。
佐々木閑氏は上座部と大乗を分けていますが私が思うに龍樹も道元も釈迦ルネッサンスですね。
(^^)ノシ >>733
>お釈迦様が「無記」とした態度に、私が違和感を覚えているからだ
無記なんていわれると知りたくなるのが人情よ。
聖道門を歩くの。
オレは浄土門もいいと思う。
詳しくないけど。
阿弥陀様におまかせよ。
もといお釈迦様におまかせよ。
(^^)ノシ 空包摂色(くうほうせつしき)
空包摂無(くうほうせつむ)
せつ
〖摂〗 (攝) セツ ショウ(セフ)・とる
1.
とる。もつ。とりおこなう。
「摂取・摂受(せつじゅ)(しょうじゅ)・摂理・包摂」
2.
かねる。兼務する。かわる。
「摂政(せっしょう)・摂関・摂家(せっけ)・摂行・兼摂」
よくわからないけど
空は色、無を包摂しているのか。
知らんかったw
空即空
空っぽって言ったら空っぽ。
カムイ君攻められてたな。
カムイ君アホだけど、
とりあえずカムイ君、
禪道法話集にのっとっている。
同じ一門だからな。 レス番がわからないけど、
くろくんありがとう。
道元は権威とか権力とか嫌いなんだろうな。
孤高の人よ。
でもありがたい。
その行為が受け継がれている。
(^^)ノシ 私もそろそろ新しい本が欲しくなってきた。読書はいいね。
禅においては、すべてはおこないのなかにあるのだ。あれこれ思いをめぐらすことのなかにではない。
「禅への鍵」 >>713-714
瓦礫も仏性の件
私が常日頃から思っているのですが、
今、椅子に座ってパソコン入力しています。
床は、椅子の細い足に踏んづけられています。
床は、「痛い」とも言わずに私の体重の負荷を受けています。
床と椅子の間に、自分の足が挟まったとします。
痛くて我慢できません。
床って偉いなあ・・・
去年、私の体内に存在した素粒子も、数年後には
どこかの新築住宅の床材に取り入れられる可能性もあるでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=Dl70P0HrD9w >>737
生きていたかw
年なんだからお体をご自愛してくだませ。
(^^)ノシ >>735
>>無記なんていわれると知りたくなるのが人情よ。
ある意味、そこんところが「悟り」かもしれませんね?
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541
釈迦はいくつかの物事を無記としました。
無記とは議論するべきでない、考えてもしょうがない物事を指します。
https://www.youtube.com/watch?v=WoLl46V8AlQ
分かっちゃいるけど、辞められませんね。 >>741
床も経年劣化でございます。
体も経年劣化でございます。
今までありがとうでございます。
(^^)ノシ
亀やワニは経年劣化しないみたいです。 昨日はやっと畑仕事を少しやった。
なにか種を蒔こうと思ってね。
嫌だなあ、もう少し暖かくなってからにしようかなと思って先延ばしにしてきた放置畑の隅っこから草むしり。
ところが、やればやるほどじわじわやる気が出て来る。私ってこういう性格なのね、と苦笑する。
やらなきゃイヤイヤ言ってるのに
やるとやる気が湧いてくるんだ。
農業は勢いだね。
思いなんかほっといて長靴、手袋、鎌持ってとりあえず出ればいい。
隙間時間を使おうね。 >>723
読解力の低い私は、「一見曖昧で矛盾してる様に見えて」の領域から先に進めない
状態なのでしょうね。
浄土真宗が一番、私に合っているのでしょう。
>>722
私の母親も、少し毒親っぽいのですが、
暇があったら、ボチボチ書く予定です。 >>720
お互いに、【全宗教】悟りスレよりも、野良さんスレのほうが
書きやすいですね。 私は、悟りを求めないので、
お釈迦様の精神分析をして楽しんでいるのですが、
何故、辞められないか、夕方から書く予定です。
暇な人は、突っ込んで遊んでください。 >>725
人妻が仏法を求めて何になる?
仏教では渇愛は捨てられるものなのに基本が解ってないからアホな事しか言えないんだよ
それに女に男を愛する心は元からない 有るのは己の保身だけ 保身の為なら夫も子供も捨てられるのが女という生き物なのは世の莫迦女共が証明してるだろ?
条件付きで期限付きなのが人の愛で それも境遇次第で如何様にも変わる キリスト教が言う様な無条件の愛と赦しなど色界には在りゃせんよ
だから天国に行きたがるんだろうが 仮に行けても其処にも条件と期限が有る
永遠の愛など何処にもなく 幻想を信じて彷徨う愚か者がいるだけだ
甘美な幻想は仏教には無用
虚妄を認識出来ないなら仏教を語るのは止めとくんだな 今日、私、書いたレス全部に返レスすることは求めておりません。
しかし、下記ブログについてのツッコミをよろしくお願いいたします
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541 >>725
お前全体を知る必要は無い
その薄っぺらい言葉に現れたものから判断すれば事足りる
みんなから軽く扱われてる事実で自身を知ればいいだけだし 虚勢は全て透けて見えてる >>730
魑魅魍魎というか道を間違えておかしくなった人の集まりだから 笑 >>745
それって、家の掃除にも当てはまるね。
来月は、本格的に家の掃除に取り組むつもり。
禅宗のノリで
いったん、離れます >>733
分析出来ない物事を常住か断滅かのどちらかでお答えくださいと言われたら黙るしかないと思いますよ
認識された時にだけ現れるものが常住な訳がないし 断滅ならそもそも現れる訳がないのですから それ以上は言い表し様がなかった筈です >>736
漢文だから語順が逆で 空は〜に包摂されると読むんだと思います >>746
多分原始経典をそれほど読まれてないだけだと思いますよ
この経典ではこう言ってるのに別の経典ではああ言ってるのはどういう事だろう という所から始まるけど 必ず両方を矛盾させない理解がある筈だと信じて進めば誤解してたのは自分だった という所に行き着きますから >>747
彼処は来るなと言われる人程長居して関係ない事を書き連ねてはグダグダにしてしまいますからね
初期サンガなら間違いなく追放されてた人達だし 或いはそういう人達もダイバダッタの様に一派を形成して仏教を複雑化させてたのかも知れませんね >>750
特にツッコむべき所はないですね
前世はたまたま幾つか観る事が出来たけど それは世界の構造でしかないし エネルギー不滅の法則がある以上は輪廻が有っても特に問題ないし 無くても問題は有りません
ただ有ると仮定すると無数の苦しみが心に蓄積されて歴史を超えた精神的外傷として残り続けるから理由の解らない恐怖症等の症状となって現れるというだけです
西洋医学に基づいた催眠療法では精神的外傷の原因に遡って一つずつ解消して行くやり方をするけれど 仏教はもっと直接的に苦の原因を受けてである自己の存在に見いだして個我の解消で解決するだけですからね
我が無ければ如何なる苦痛も受け得ない となります
但し自己の喪失を恐れなければの話ですが 我々が自己という幻想にしがみついて永遠に存在しようとしてる限り肉体の限界を超えた輪廻が起こり続けるのだとすれば 自己への執着を取り除けば何も残らず 苦楽も共に消滅する筈です
つまり苦しみから逃れるには幸福への渇望も共に捨てなければならない となる訳です
その為には感情や感覚の振幅も極力小さくして行ってゼロに近付ける必要が有りますけどね
欲と執着が無くなれば苦しみもなくなり 束の間の幸福も消え去りますが不幸という訳でもなくなります ただどちらかに分別出来ない状態に止まるのが本来仏教の目指す無上の境地という訳です >>748
補足
今日は、昼間っぱらから(今から)風呂に入る日でした。
風呂から上がって寝るまでにパソコンをすると、
頭痛がするので、明日、書きます。 >>748
ティクナットハンのブッダ伝を買おうかしら。 >>753
うん、にてるね。
農業は時期があるからちょっと追われるんだよね。家の掃除はいつでも出来るから、明日でいいや、が続いちゃう 笑 >>759
ブルーライトが原因かな?
私はスマホのブルーライトカットしてる。あんまり見過ぎると眠れなくなる原因になるらしい。 >>714
>さらに言えば、「仏性とはそもそも何であるか?」としか言えない。どうだ、分かったか。
訳おもしろいですね。。w >>727
鳩摩羅什訳の中論では世間という言葉がよく使われていますが、輪廻の意味で使われたのは第25章の
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
涅槃は世間と、少分の別も有ること無く、世間は涅槃と、亦た少分の別も無し。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
涅槃の実際と、世間の際と、是の如き二際は、毫釐の差別無し。
とその鳩摩羅什訳ではその前後に置かれてある青目の註釈だけだと思います。
あとは世間は世界や普通に世間という意味で使われているようです>鳩摩羅什中論
一方、輪廻の方は中論の第27章のこちらの偈では
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
法若し定んで来たる有り、及び定んで去る有らば、生死は則ち無始なり、而れども実に此の事無し。
鳩摩羅什は輪廻に対して生死の名字を当てています。
サンスクリット原文ではどうなっているのかは存じません。
っていうか、口語で訳されているサンスクリット原文の方も中論も龍樹の書いた原文ではなく(原文は失われている)、チャンドラキールティの註釈者「プラサンナパダー」にある中論サンスクリット原文と呼ばれるもので、龍樹の中論とひょっとしたら違うところがあるかもしれないと言われていると思いました。 >>727
>後、維摩経、確か天女のところ。
>文字も涅槃、あなた方文字を離れるなんて10万年早いのよ。
天曰く、『言説も文字も、皆解脱の相あり。所以は何となれば、解脱とは、内にあらず外にあらず両の間に在らず。文字も、また内にあらず外にあらず両の間に在らざればなり。
この故に舍利弗、文字を離れて解脱を説くこと無し。所以は何となれば、一切の諸法は、これ解脱の相なればなり。』
ですかね?
超訳の方だと
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima026.html
ですね(^。^) >>759
頭痛には良性と悪性が有るので頻繁に起こる様なら検査を受けた方がいいですよ
お大事になさってください >>733
>お釈迦様が「無記」とした態度に、私が違和感を覚えているからだ
二一 入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕,〔世界は〕有限であるかどうかなど,また 〔世界は〕常住であるかどうかなど,〔それらの〕もろもろの見解は,ニルヴァーナと,後(未来)の限界と,前(過去)の限界とに,〔仮に〕依拠して立てられているものである。
※ 入滅後において〔世尊は存在するかどうか〕…ニルヴァーナ
〔世界は〕有限であるかどうか…後(未来)の限界
〔世界は〕常住であるかどうか…前(過去)の限界
二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。
二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
二九 あるいはまた、一切のものは空であるから、<常住>などの諸見解は、いずれが、どこで、だれのために、何故に起こるのであろうか。
三〇 一切の【誤った】見解を断ぜしめるために憐憫をもって正しい真理を説き給うたゴータマにわれは今帰命(きみょう)したてまつる。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530389
龍樹菩薩いわく、一切のものが空なのだから有と無とか生と滅とかの見解は戯論になるから、ということのようです。
ブッダは四諦は私にとって確定的な事柄だから説く、無記のことは私にとって不確定だから説かない、と言ってもいます(長部「ポッタパーダ経」) >>734
うちの氏寺ではない曹洞宗の寺での葬式に参列したら、その寺の和尚は法話のなかで「これから◯◯様は仏弟子となって、そのあと西の方にある極楽浄土に行かれます」というようなことを言ってました。
まあ、在家への法話だからそれで良いと思いましたが。 >>741
>去年、私の体内に存在した素粒子も、数年後には
>どこかの新築住宅の床材に取り入れられる可能性もあるでしょう。
ビッグバン以来質量とエネルギーの総和になると変わらない素粒子で般若心経の不増不減を説明されてた方がいました!
同じく色即是空はE=mc2乗で
瓦礫にも仏性というのは、元々インド大乗涅槃経では「一切衆生悉有仏性=一切の衆生は悉く仏性を有す」が、道元において「一切衆生悉有仏性=一切は衆生(生きている)、悉有(三界の全宇宙)は仏性なり」に変換されたからですが、
そこには中国華厳宗の草木成仏から日本において発展した「草木国土悉皆成仏」の思想も絡んでいるのでしょうね。
日本の八百万の神といった山や岩や木や石に神が宿ってるという思想と草木成仏が融合して、草木国土悉皆成仏や道元流の一切衆生悉有仏性になったのではないかと、色々な本を読んでるうちに(笑)そう思うようになりました。 >>770
UPさせていただいたのは
よくわかる曹洞宗 重要経典付き
著: 瓜生中
でした >>736>>755
昨夜は楽しようとして「苫米地 般若心経」でググって出てきたサイトから
>>718
の苫米地英人氏の修正版般若心経をUPしましたが、実は私はブックオフで税込420円で購入した(←言わなくていい)苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」は持っているのです。
正直あまり読んでなかったのですが(^^;)、今日本棚から出して当該箇所を読んでみたら苫米地流般若心経は昨夜UPさせていただいたのとは違っていました(苦笑)。
とりあえず、当該箇所を全文書き起こしてみました。
(以下、苫米地英人「お釈迦様の脳科学」より引用)
『般若心経』を添削
さらに『般若心経』には形式だけではなく、言ってる内容にも問題があります。
もっとも顕著なのは「色即是空 空即是色」という有名な一節です。
これは中国語の倒置法で、色と空がまったく同じであると強調されているのです。
「色」とは物質(有)のことです。物質に対応する概念は「無」です。
「空」とはすでに説明した通り、有と無の両方を含む上位概念です。
ですから、「色即是空」は、「物質とは空である」という意味になり、間違いはありません。
しかし、その後に続く「空即是色」は「空とは物質である」という意味になり、問題があります。
「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
抽象度の異なる概念をイコールで結ぶときは、その順番により意味がまったく違ってきます。
「空即是色」は単なる倒置法の強調で許される範囲を超えているのです。
こうした間違いが起こるのも、『般若心経』を書いた人が空をわかっていなかったからと推測されます。
ここで『般若心経』の「色即是空 空即是色」を正しく書き直してみましょう。
量子論では、有と無は表裏一体であり、まったく別々のものではないことが証明されました。
ですから、「色は無である」「無は色である」も成り立つでしょう。
色即無 (色=物質は無である)
無即色 (無は色=物質である)
空包摂色(空は色=物質の上位概念である)
空包摂無(空は無の上位概念である)
これがより正しい『般若心経』です。
こう書き直せば、空の概念を正しく解説したことになります。
これ以外の、「観音菩薩が言いました」や「ギャーテーギャーテー」は不要です。 苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」での
第6章 煩悩はコントロール可能 での
『煩悩は大きくすればいい』
というのは密教の大欲と全く同じことが書かれていますね。
密教ではなく「私は人とは小さな煩悩ではなく、大きな煩悩を持つべきだと考えています」と自分の考えとして書いていますが。
(他の章では密教について触れている箇所もあります。第7章のタイトルは「密教の超能力と方便」です。大欲については書かれてないと思いますが)
とりあえず、『煩悩は大きくすればいい』の方を書き起こす気力は最早ないので、同じことを説いている密教の大欲についての解説サイト。
http://www.hashikura.or.jp/blog/?p=2984 >>763
はい、ひろさちや氏の訳です。
https://www.zen-essay.com/entry/bussyou11
↑のサイトだとその箇所は
仏性とは何か。
さて、少しはわかっただろうか。
仏性は論理で理解するものではない。
この世界、仏性のあらわれでないものは何1つとして存在しないのである。
と訳されています。
「どうだ分かったか」ではなく「さて、少しはわかっただろうか。」と控えめになっていますね(笑)
また委悉すや…委悉とは「物事を事細かに詳しくすること。」だそうです。 眠いのでざっと書きますが、
煩悩は小さい方がいいかな。
大きな煩悩とは大志のことか?
と思えば納得がいくけど…
パワフルなひとほど、煩悩にも打ち勝てそうですしね。 >>770
職場に私の「農業の先生」がいますから今年は彼女から情報を得たり、
去年は習慣的に雑然と作っていた面もあるので、計画的に作りたいし
農業メモをきちんとつけてかないと行けませんね。
農業も規律にそって行われてたんですね。私もそう言うのが出来上がるとイヤイヤも減ってくるかなw >>772
>こうした間違いが起こるのも、『般若心経』を書いた人が空をわかっていなかったからと推測されます。
間を抜かしてたのはかの有名な、
玄奘さまです。
故意でしょうね。 >「観音菩薩が言いました」や「ギャーテーギャーテー」は不要です。
ここが一番重要です。
(^^)ノシ >>772
>「犬は動物です」とは言えますが「動物は犬です」は間違いなのと同じです。
立川武蔵先生も中論解釈でおなじことをおっしゃてましたね。
たとえは花ですが。
(^^)ノシ 横からだけど、S長老の誤謬としてI先生やW先生、H先生が反証されてるし、苫米地のそれも長老の誤謬と同じって事で自分的には解決してます。
余談だけど苫米地と佐藤優好かないw >>764
>>765
うろ覚えなので助かります。
ありがとう。
それにしても超訳の天女はいいね。
惚れちゃいますw
(^^)ノシ >>768
うちの氏寺ではない曹洞宗の寺での>葬式に参列したら、その寺の和尚は法話のなかで「これから◯◯様は仏弟子となって、そのあと西の方にある極楽浄土に行かれます」
お亡くなりになってから修行ですか。
いや、大変そうです。
(^^)ノシ >>769
確か、永平寺は白山ひめ神社の氏子だと思います。
道元さんが碧巌録がわからないので、たまたま白山さまに手を合わせたら碧巌録がわかったとか。
うろ覚えです。
間違っていたらごめんなさい(>_<)
(^^)ノシ >>769
仏性=空性と観るならば一切成仏も間違いではないでしょうね 一切即仏 仏即一切
ビッシと決めてみました。
(-_☆)
受け売りです。
(^^)ノシ 一切即仏 仏即一切
ビッシと決めてみました。
(-_☆)
受け売りです。
(^^)ノシ >>760
3年くらい前、NHKの教育テレビ「こころの時代」で
ティクナットハンを2回連続で特集していたのを見ました。
芯の強そうな方だという印象を受けました。
情弱な私にとっては、雲の上の方ですね。 >>761
なんやかんやで、寒いパソコンルームは、半年くらい
掃除をしていない。
来月、しようかな。 >>762
>>766
ありがとうございます。
眼鏡を変える前は、パソコンを長時間すると、すぐに
頭痛がしましたが、
眼鏡を変えてからは、入浴後のパソコン作業をしなければ、
長時間、パソコン作業をしても頭痛がしなくなりました。 >>754
お釈迦様が「無記」とされた事項については、
お釈迦様も白黒つけられなかった事項なのでしょうね。
または、お釈迦様の頭の中で、白黒ついていても、
万人に説明するのが困難なので、諦めたという可能性もあります。 >>756
私はどうも「解脱したい」という欲望が無いので、
原始仏教を学ぶ意欲が湧かないためか、
原始経典を目で追っても頭に入ってきません。
対機説法なので、自分のレベルに合った浄土真宗で
良いかな?・・・という感じです。
まあ、私見では無量寿経も絶対視していませんし、
親鸞聖人の解釈もおかしいと思っています。
この件については、同じ意見の人が現れたら、
仲良く「馴れ合いトーク」したいと思います。
それまでは、
「解脱したい人」の精神分析をしています。 >>757
こちらのスレは2軍なので、私のような読解力の低い人間でも
根気よく相手をしてくださるので、助かっています。 >>758
では、私が突っ込んでみましょう。
https://anond.hatelabo.jp/20150117173541
体感できない、観察できないのだとしたら、釈迦の言うことを盲目的に信じるしかありません。
しかし、釈迦は「盲目的に信じる」という態度を否定していました。
信仰よりも実践を重んじたのです。
↑
釈迦を信じていないのに、釈迦の言うことを実践するってアリなの?
普通に考えて、
釈迦は、「信仰のみ」ではなく、「信仰と実践を求めた」のでしょうね。 >>767
>>龍樹菩薩いわく、一切のものが空なのだから有と無とか生と滅とかの見解は戯論になるから、ということのようです。
>>ブッダは四諦は私にとって確定的な事柄だから説く、無記のことは私にとって不確定だから説かない、と言ってもいます(長部「ポッタパーダ経」)
龍樹菩薩も議論の結果、振り返って「戯論だったなあ・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と感想を述べているのでしょうね。
お釈迦様も、「6年間の脳内議論」の結果、「不確定だったなあ・・・・(いくら考察してもわかんねえや)」と、悟ったと推測します。 >>769
さて、道元禅師は、「一切の衆生は悉く仏性を有す」なら、修行なんて不要なのでは?
という疑問を解決するために、武者修行したらしいですね。
私と同じです。親近感が湧きます。 >>776
お疲れ様です。
【ジョージ・ハリソン インタビュー 1979】
より
(当時人気だったパンクロックをけちょんけちょんに貶すなどした後に)
インタビュアー「レコーディングをしていないときは、どのようにして過ごしているのですか。」
ジョージ「家にいて庭仕事をしている。鋤(すき)や鍬(くわ)を使うってほどじゃないけど、庭を掘り返して、そこに木を植えたり。
庭はいいね。ガーデニングがもたらしてくれる喜びはたまらないよ。
ある意味じゃ瞑想に通じるものがある。正気を失うほど夢中になって、泥の中で這いつくばりながら、すべてを悟ったような気持ちになれるんだ!
あとはたいてい、オリビア(妻)や赤ん坊と一緒に過ごしているよ(以下略)」
農作業での作務も想の境地まで高められるのかもしれないですね(一般には作務は「動中の工夫」などと呼ばれていますが)。
とはいってもガーデニングと農作業では使う筋肉の量が大きく違うと思うので、ジョージも家庭菜園始めようとしてもし鋤や鍬を使って土起こしなどして正気を失うほど夢中になっていたら、次の日は筋肉痛になって酷い思いをしたかもしれません(笑) >>798 続き
ということで、
>>776の野良さんのような農業に携わる方のご苦労があって私たちの目の前に食事が運ばれてくるのであり、まさしく
■五観の偈
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(一、この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をいたします。)
なわけですね。
だから米一粒とて無駄にはできません。
(以下、井沢元彦「逆説の日本史――鎌倉仏教と元寇の謎」より引用)
華厳宗はこの南都六宗の中では、最後に伝来したものだ。華厳は「識」や「空」に関する理論(法相宗や三論宗)が「存在の認識」という点を重大視しているのに対し、むしろ宇宙の構造について述べている。
一即多(いっそくた)というのが、その代表的な思想である。それはよく米粒によって説明される。
ここに一つの米粒があるとする。それは自体宇宙の存在に比べたら実に他愛のないものに思われがちだが、よく考えてみればこれは太陽の恵み、大地の恵みによって生まれた、かけがえのないものである。
しかもそれが今、目の前にあるということは、多くの人間や輸送手段を経て運ばれてきたわけで、人間世界の営み(文明)がその一粒の中に集約されている。
これが「一」が同時に「多」であり、逆「多」は「一」であるという考え方だ。すなわち「一即多」である。
当然この世の出来事は「一即多」である以上、無限に関連し合って次々に新しい結果をうむことになる。これを重々無尽(じゅうじゅうむじん)という。
また、すべての人間は本来「仏性」つまり悟りを開く素質をもっていることにもなる。なぜなら、華厳経によればこの世界においては、完全に他から独立したものはない(重々無尽)。それゆえに、すべての迷いも悟りとどこかでつながっていることになる。
簡単に言えば「悟りにつながらない迷いは無い」のである。
したがって、いわゆる地獄や餓鬼道も、それ自体独立した世界ではなく、仏の一つの相としてとらえられることになる。 >>772
おお、苫米地英人「お釈迦さまの脳科学」を持っていらっしゃいましたか!!
それなら、話が早い。
実は、私は6年前、アダルトDVDのレンタルを辞めるために、
自作エロ小説で抜いてみよう!と企画しました。
すると、1日中、ムスコが勃ちっぱなしになってしまい、
3か月後、下腹部が1日中、痛くなってしまいました。
前立腺肥大を疑い、泌尿器科を受診したら、
オナニーのし過ぎとの診断でした。
で、週1のアダルトDVDレンタル生活に戻したら、治癒しました。
多分、苫米地氏も、佐藤優氏も、精力絶倫なのでしょうね。
だから、鹿野園氏に嫌われるのだと分析しています。>>780 >>772
冗談はさておき、厳密に言うと、
色即是空 空即是色 受想行識亦復如是
とは
色即是空 空即是色
受即是空 空即是受
想即是空 空即是想
行即是空 空即是行
識即是空 空即是識
を省略した記述ですので、
色即無
無即色 も違和感があります。
五蘊皆無・・・のみでOK!でしょうね。
(倒置法で強調する必要無し)
ただし、「五蘊皆無」が正しいか、私にはわかりません。 前置きが長くなりましたが、本題です。
「五蘊皆無」をサイクリック宇宙論のイメージ図で解説してみます。
https://www.bttp.info/pickup/penrose-ccc/
↑
「現在の宇宙」と「以前の宇宙」をつなぎ合わせた
砂時計のようなイメージ図があります。
このうち、「現在の宇宙」と「以前の宇宙」の部分が五蘊であり、
「質量のない量子の世界」が無だろうと思います。
で、仮に宇宙が複数あれば、
無数の「宇宙」とその隙間を、「空」と表現しているのでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています