阿含宗という宗教 322
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前スレ
阿含宗という宗教 321
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1612150409/ 俱舎論では、見道位の刹那を預流向の聖者、見道位をマスターしたら預流果の聖者で、次に修道位の修行に入る、としている。が、この考えで行くと、阿羅漢の無学道は涅槃の境地とされているから、阿羅漢向と阿羅漢果の区別がつけられないことが、分かるかね? 阿羅漢向も阿羅漢果も阿羅漢だ、という深山説では、向と果の意味がなくなるね。
無学道は、阿羅漢の涅槃の境地だとされているからさ、無学道のどこそこまで行ったら阿羅漢向、などということは出来ない。
だから、阿羅漢向は阿羅漢ではないのだよ。 桐山靖雄の愛人だった
i川さんは今、どうしてますか?
阿含宗を相手取った裁判では
勝訴したようですから
毎月の例祭には、参加してるんでしょうね? 神や仏がいるのなら、なぜ阿含宗のようなインチキ宗教が次から次と出て来るのでしょうか? >>101
ま〜だ言っている。
深山氏は《阿羅漢向・阿羅漢果》と《阿羅漢》を混ぜて使ってはいけないと言っている。
ホラ吹き野郎は黙ってろ。 釈迦に守護霊、守護神はいません。
釈迦は屋敷浄霊をしません。
釈迦は守護霊、守護神を授けません。
釈迦の説法は無料です。 ㋰
仏教的な四字熟語を覚えて語っても意味はありません
その言葉に力があると思うのは間違いです
仏教熟語を賢察するのは学者の仕事でそれ以上以下もありません
初期の釈説のとおり善い行いをした方が 真理に近づくと思います
行いにこそ真理がある
そこでもろもろの無常を知り次への道しるべとなります
若い時分 桐山さんは漢語言葉に誘導され呪文の効果を期待した
それが近道で簡単だと考えたからでしょう
初期仏典の釈説に解脱なる言葉も涅槃という標語も使用されていません
まして因縁ゲダツなど微塵もない
釈説は 善なる行いを生真面目に説き 行いの重要性を知らしめていました
漏尽解脱や解脱智見を騙っても そこに善なる行い無き者に果報などありません 自演乙さん、
今日も、アラカンポ先生が96-101と延々と書き連ねたが、意味がわかりましたか?
阿含宗の説でもない自分教を滔々と並べて自己満足に耽っている。
自演乙さんとも議論になっている業(カルマ)についてです。
まずは基本を何度も学びましょう
岩波仏教辞典二版の299ページを開いてください。
そこに「業」の説明があり、「業と輪廻」「業の分類「業と縁起」と
三つの項目に分けてかなり長い説明があります。
自演乙さんも学校で学んだように、長い説明の文章はまず冒頭のまとめが結論です。
業(岩波仏教辞典)
「原語の基本的意味は,<なすこと><なすもの><なす力>などで,
<作用><行為><行為対象><祭祀>などを表す語としてインド思想一般で広く用いられた.」
重要なのは冒頭に書かれた上記のまとめです。
「業と輪廻」「業の分類「業と縁起」の説明は上記のことを前提としている。
この説明で難しいことは何もありません。
業(カルマ)とは「行為」であることは、あまりに明瞭です。
その後のどんな説明も、「業=行為」であることを前提として理解するべきです。
ここまでの指摘は仏教の議論ではなく、国語の文章読解の問題です。 >岩波仏教辞典の「業」の項目の説明には、
>業→「輪廻転生をあらしめる一種の力」とある。(>>97)
自演乙さんは上記の記述が岩波仏教辞典二版にあるかどうか調べてください。
ありません。
つまり、アラカンポ先生のような、知ったかぶりの愚か者たちが
勝手な解釈をするから、二版でカットされたのでしょう。
しかも、彼は前後を省略して書いているから、これが釈迦仏教の
業の説明なのか、後世の説明なのかわからない。
上記が「業」の説明にあるなら、「業=行為」という
最初のまとめを前提として読むべきです。
業には行為という意味しかありません。
阿含宗みたいにカルマ解脱なんて言ったら、行為解脱ですよ。
日本語として意味が通じない。
「カルマを切る」は「行為を切る」です。
「行為を切る」って、自演乙さんは意味がわかりますか?
いかに阿含宗が仏教からかけ離れたオカルトか、カルマ一つを
取り上げてもよくわかります。 >>99神も仏も名無しさん2021/03/08(月) 11:27:52.95ID:WF4RoPw4
>阿含仏教では漏尽解脱だけでは阿羅漢ではない。
自演乙さん、ごらんなさい。
アラカンポ先生は桐山さんの説さえも否定している。
「漏尽解脱とは、漏(煩悩〉がすべて尽きた状態ですから、完全解脱、つまり成仏したということです。」
(『仏陀の真実の教えを説く[上]』67頁)
桐山さんは漏尽解脱は完全解脱だと書いているのに、
信者のアラカンポ先生は違うという。
阿含宗と関係ない話はこれだけではありません。
解脱知見を得ないと阿羅漢になれない、という彼の珍説もそうです。
解脱した後だからこそ解脱したことを確認できるはずなのに、
こんな当たり前のことが彼の頭では理解できない。
確認しないと解脱しないんだそうです。
もちろん、桐山さんはこんな愚かな説は唱えていません。
一事が万事この有様で、アラカンポ先生は阿含宗の説でもなく、
もちろん仏教でもない我説を延々とここで垂れ流す。
スレの主旨と違うことや、阿含宗の教義と違うことを書くなと
言われても、馬耳東風、傍若無人。
それだけではなく、彼はものすごく根性が悪い。
私の書き込みに因縁を付けて、何度否定しても、
誰が否定しても、しつこくしつこく絡んでくる。 >>101神も仏も名無しさん2021/03/08(月) 11:47:09.99ID:WF4RoPw4
>阿羅漢向も阿羅漢果も阿羅漢だ、という深山説では、向と果の意味がなくなるね。
104さんが書いているように、私は「阿羅漢向・阿羅漢果」と「阿羅漢」は
同列に取り扱うべきではないという主張ですから、
これらを混ぜたようなことを書くはずがない。
私が何度か、議論の経緯を説明し反論しても、底意地の悪いアラカンポ先生は
絶対に嫌がらせを止めない。
一時、この件を書かないと言い出したが、なあに、そんな言葉はすぐに
忘れて、また執念深く、嫌がらせを始めた。
驚くほど根性が悪い。
自演乙さんに見てほしいのは、阿含宗の信者の有様です。
アラカンポ先生はおそらく三十年以上の行歴を持つ先達様です。
自分では因縁が一つ切れて、はっきりとシュダオンだと宣言している。
宣言こそしていないが、神通力を一つ持った阿那含だと自惚れている。
その聖者様が、こちらが書いてもいないことを、抗議しようが、
説明しようがおかまいなしに、嫌がらせのために何年でも上記のように書きこむ。
これは聖者どころか、人間としても最低です。 >>101神も仏も名無しさん2021/03/08(月) 11:47:09.99ID:WF4RoPw4
>阿羅漢向も阿羅漢果も阿羅漢だ、という深山説では、向と果の意味がなくなるね。
自演乙さんに質問するが、あなたもアラカンポ先生のような底意地の悪い嫌がらせを
何年にもわたり、毎日のように繰り返しますか?
だが、これが阿含宗で三十年以上も信仰してきた先達様の生の姿です。
桐山さんの話では、人智を越えた力で人間を変えてしまうという話だった。
その結果が、どんな汚い事をしてでも勝たないと気の済まない根性の
捻じれた人間ができあがった。
自然に徳ができて、「おのずと人の上に立つ」とあるが、
現実のアラカンポ先生は、人の上どころか、嫌われて、周囲に誰もいない。
自演乙さんはどう思いますか。
アラカンポ先生は、阿含宗によってこのような底意地が悪く、品性の
卑しい人間に変えられたと考えますか。
それとも、彼は元々そういう人間であり、阿含宗の修行は何の役にも
立たないどころか、彼の元々の無知と慢心と恥知らずを増やしただけと考えますか? >>96 神も仏も名無しさん 2021/03/08(月) 11:03:31.29 ID:WF4RoPw4
>仏教辞典の初版だろうが二版だろうが、表現が変わろうともその内容は同じだね。
その通りです。部分的な割愛があったりしても基本線は変わらはずがありません。
だから岩波仏教辞典の煩悩の項についてもたとえ初版であっても
深山さんがほとんどすべて示した第2版と内容は同じはずです。
あなたが単にほんの一部の文章を出してごまかしているに過ぎません。
汚い男だ。人間のカスと言われただけがある。
今回の大乗仏教の件に関してはあなたに対してますます幻滅を感じましたよ。
あなたは自分自身が書いていたことを否定したも同然ですからね。
本当に何の信念もないんですね。
実を言うとあなたは自分教なんてものすら持っていない。
単にその場しのぎで適当なことを書いている暇つぶしに過ぎない。
あなたは煩悩の大乗仏教における説明のところで、
「煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが大乗仏教の求めるさとりにほかならない」
と書いたわけだが、もし大乗仏教のところにこれが書いてあるとすると、
それはそれ以前の初期仏教時代からも引き継がれているものなのであるが、
実はこの短い文章の中にあなたが示していた小解脱と大解脱があることになるんですよ。
つまり「煩悩の束縛を脱する」が煩悩解脱で、あなたは小解脱とした。
しかし悟りはそれだけではない。「真実の認識を得る」これがいわば心解脱に対する慧解脱とでもいうもので、
あなたはこれを大解脱だと主張していたんですよ。
煩悩を脱するだけではなく智慧を得るのが大解脱なんだとあなたは言っていた。
その智慧を得るというのはまさにこの真実の認識を得るということなんですよ。
私は真実の認識を得る智慧というのもおろか、痴、癡という煩悩を脱する話に結局はなるし、
あるいは煩悩解脱の原理を如実に悟るということでもあるわけだから、
実は小解脱も大解脱もそんな区分はないとこちらはしたのだが、
とにかくあなたは智慧を得るのが煩悩解脱よりも上を行く大解脱としたのを忘れてしまっている。
いや、忘れてもない証拠に五分法事なんかを出して解脱知見を得ることが第解脱だなんて言っている。
解脱知見も真実の認識を得ることも結局変わらないんですよ。
だからそっちの話に持っていかないで、実はこれは大乗仏教の悟りだなんてしたのは、
あなたいったい今まで何を主張していたんですか?全く信念のない人ですねと言いたい。 岩波仏教辞典の「解脱」→「原始仏教では修行者の理想は煩悩を滅し尽くした阿羅漢の姿である」との説明を読んで、煩悩滅が阿羅漢だと思うのは、初級クラスです。
その次に、五分法身を備えることが必須条件、と書いている。それを理解して中級クラスね。 漏尽解脱だけでは悟りにならない。
最正覚(sambodhi=三菩提)とは三明(解脱智)のことだと阿含経に書いてある(どの経かは教えない、各自探して見てね)。
三明(解脱智)は、解脱した後に生じると釈迦は説いている。だから正見≠漏尽解脱、です 仏教辞典に書いてあることは、素直に受け取ることです。
岩波仏教辞典の「滅」の説明→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃」と、ある。苦滅、業滅、が悟りであり、涅槃だと書いてあるね。辞典に逆らうの? 煩悩滅を不必要だというのではないよ。
煩悩滅だけでは不十分だと言っているのですよ。誤解の無きように。
仏教辞典に、「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟り」と、あるように、阿含仏教は、苦滅業滅も説く、と言っているのです。 >>115〜118
ま〜たホラ吹き野郎が必死になってホラ吹いているわ。 >>118
ではアナタは煩悩滅の行を行ったのかい?
必要なんでしょ、そしてこれが出来なければ苦滅業滅もできないということになりますよね
そして煩悩滅の行もバカにはできない、そして段階があるべきですね
なら煩悩滅を果たした者は聖者のどの位置なのですか?シュダオンですかね?
はっきり答えろ!おろかもんが!仏教バカにしてるんかオマエはよ! 此処に投稿するというのは、菩提心を起こすほどの人、>>120
怒らずして日々の瞑想行を継続すべきです。
線香一本は凡そ30分此れを一単位として二つ、三つ、四つと読経の後には
瞑想の法座を得るように心がけましょう、ふかさわさんとゆび氏は全くやる気が
ない人ゆえそれなりの末期が御座います。合掌 >118 神も仏も名無しさん 2021/03/09(火) 14:29:00.17 ID:UdS21i9x
>煩悩滅を不必要だというのではないよ。
>煩悩滅だけでは不十分だと言っているのですよ。誤解の無きように。
>仏教辞典に、「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟り」と、あるように、阿含仏教は、苦滅業滅も説く、と言っているのです。
そうです。私が今回指摘したのはまさにその点においてです。
あなたは本来そういう主張のはずであった。
ところがその主張を貫き通すことができず、今回大乗仏教なんかを出すという、下手くそな話に持って行ったのです。
煩悩を滅するという話は大乗仏教以前の釈迦仏教の時代に始まっていることを否定することは絶対に出来ません。
それをまるであたかも大乗仏教こそが煩悩を滅する話なんだと、手な話に持って行ったのが問題だったのです。
釈迦仏教から大乗仏教になっても相変わらず煩悩の問題は否定することなく、
これは克服の対象でありました。
しかし大乗仏教はそちらの方向よりも煩悩即菩提の思想に見られるように、
すごくその点緩くなったと言えます。
それよりもあなたの大好きな苦しみからの救いという方に力点を置いたのです。
だから全く逆なんです。
釈迦仏教で煩悩滅が最高ではなく苦の滅が究極の目的であるならば、
なぜ大乗仏教はそれを失くしたというのですか?
それをちゃんと根拠を見せてくださいよ。そんなものがあるわけない。
むしろ逆で釈迦仏教では悟りを重視していたのを、大乗仏教では悟りよりも救いを重視したのですから、
あなたの好みは本来こちらのほうにあっているはずだ。 >>118 神も仏も名無しさん 2021/03/09(火) 14:29:00.17 ID:UdS21i9x
>煩悩滅を不必要だというのではないよ。
>煩悩滅だけでは不十分だと言っているのですよ。誤解の無きように。
>仏教辞典に、「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟り」と、あるように、阿含仏教は、苦滅業滅も説く、と言っているのです。
あなたが煩悩滅を最高としないで智慧を得るとか苦滅とかを究極とするのは、
あなたの自由かもしれないが、実はこのスレではそんなことを論じているのではない。
解脱とは煩悩解脱+智慧も入れてあげましょうか、ではあっても、桐山因縁解脱というものがないのです。
桐山因縁解脱とは病気にならないとか事故に遭わないとかお金に困らないとか夫婦円満で離縁などしないとか
そういう俗世間における幸福が得られると言う話です。
これが実は釈迦仏教の解脱にも大乗仏教の解脱にもないのです。
俗世間の福というものは説かれるが、それは解脱は全然別の話です。
桐山さんでも究極には死んだ後もはやどこにも生まれ変わらない輪廻の滅も示してはいます。
しかし現世において不自由しないというそんな話は仏教の解脱にはないのです。
こちらはその点をごまかさせないのです。
だから煩悩の滅だけじゃないなんて話ではなくて、桐山因縁解脱なんてものはないとそこに反論してみなさい。
繰り返し言うが桐山因縁解脱は輪廻が滅する話ではなく現世に信頼を得ていながら受ける幸福のことです。
実はこれを少なくとも釈迦は説いていない。
解脱はそこに置いていない。
だから苦の滅という語句を目にしただけで自分勝手な想像をしなさんなというのだ。
苦の滅を解いた釈尊は老いて病にかかって死んだではないですか。
これのどこが苦の滅だ?
しかし釈尊は苦の滅を果たしたんですよ。
それを考えた時、苦の滅というのはあなたの考えているような話ではないと分かります。
そしてその苦の滅は実は煩悩を亡くしただけでそのまま得ることができるのです。
だからこれは悟りの領域です。
そんなに難しい悟りでもありませんよ。
しかしこんな簡単な悟りも分からないあなたには想像もできないでしょう。 自演乙さん、
今日も、アラカンポ先生が114-118と延々と書き連ねたが、意味がわかりましたか?
何か難しそうな話を羅列しているが、そもそも阿含宗とどう関係しているのかわからない。
それもそのはずで、関係ない。
桐山さんの主張さえも否定して我説を並べているだけです。
何よりも、私やユビキタスさんの反論を完全に無視して、
同じ主張を繰り返し繰り返し書きこんでいる。
自演乙さんも読む時や自分が書き込む時は、それが阿含宗の教義と
どう関係した話なのかを常に念頭に置くことです。
でないと、ここにいる三人の信者のように糸の切れたタコみたいになる。 >>117神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 14:15:05.47ID:UdS21i9x
>岩波仏教辞典の「滅」の説明→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃」と、ある。
自演乙さんは、滅の上記の説明のどこにも因縁解脱などないのがわかりますよね。
上記の「業」とは行為のことであり、阿含宗のいう桐山カルマの話ではありません。
カルマを断ち切るという意味ではない。
岩波仏教辞典の上記の説明は特別なことを述べているのではなく、
煩悩からの解放を述べているにすぎない。
煩悩とはそれ自体が出てくるのではなく、煩悩は行為(業)に現れる。
身口意の三つの行為の中に煩悩は現れる。
だから、釈尊はその行為に現れて来る煩悩を断ち切るように述べているのです。
業(行為)に煩悩を現さないのだから、「業のはたらきが停止した」状態であり、
身口意の三業のどこにも煩悩が現れていないから、解脱であり、悟りであり、涅槃です。
辞典の説明は当たり前の煩悩解脱(漏尽解脱)の説明です。
だから、どこにも因縁切りもカルマ解脱もありません。
自演乙さんに見てほしいのが、引用された文章は、煩悩解脱の説明にすぎず、
因縁解脱も業解脱も一言出てこないのに、
アラカンポ先生は因縁解脱が証明されたかのように錯覚している点です。 >>117神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 14:15:05.47ID:UdS21i9x
>岩波仏教辞典の「滅」の説明→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃」と、ある。
私が彼の引用に対して125のような説明するのは初めてではありません。
何度も何度も説明しても、アラカンポ先生は読まない、理解できない、記憶できない。
そして、同じ意味不明の主張をして、いかにも自説の根拠を
得たかのように錯覚して、「素直に受け取ることです」とお説教する。
これを彼は十年以上も繰り返している。
彼は現実世界でも、何年でも自説を唱え続けるから周囲はウンザリして黙る。
すると彼は自分が勝利したと錯覚する。
アラカンポ先生は恥知らずだから、負けを知らないのです。
自演乙さんも、阿含宗の掛け声の「必ず勝つ!」と叫んで、
アラカンポ先生のように負け知らずの恥知らずになりたいのですか。 >>121
いえいえ深山さんとユビキタスさんが気に食わない、いつもボコられる
ってんで、悔しくてマメにここに投稿されるあなたには負けますからw
たまに覗くと、あいかわらず進歩のない投稿して深山さんとユビキタスさんに
叩かれて・・・バカじゃないのと、あまりにバカすぎて腹も立ちますわwww
30分以上の瞑想座禅しようともこれじゃあ〜
妄想と瞑想は別物ですよ 妄想で議論してもそりゃボコボコにされますわw >>115神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 13:56:29.13ID:UdS21i9x
>岩波仏教辞典の「解脱」→「原始仏教では修行者の理想は煩悩を滅し尽くした阿羅漢の姿である」との説明を読んで、煩悩滅が阿羅漢だと思うのは、初級クラスです。
>>117神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 14:15:05.47ID:UdS21i9x
>仏教辞典に書いてあることは、素直に受け取ることです。
自演乙さんは、アラカンポ先生の上記の二つの文章を読み比べてください。
115では、岩波仏教辞典の説明を否定し、
117では、岩波仏教辞典の説明を素直に受け入れろとお説教している。
アラカンポ先生は、自説に合わない岩波仏教辞典の説明は否定し、
その二十分ほど後には、屁理屈が並べられる文章は、他人に受け入れろと説教する。
ご都合主義もここまで露骨だと笑うしかない。
しかも、相変わらず、どこにも因縁解脱が出てこない。
「素直に受け取る」というなら、出でこないこともまた素直に受け取るべきです。
自演乙さんも、あなたの先輩であるアラカンポ先生の助言を受け入れて、
岩波仏教辞典を「素直に受け取る」ことです、
因縁解脱や破滅のカルマなんて仏教にないことを「素直に受け取る」ことです。 >>116神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 14:09:25.08ID:UdS21i9x
>漏尽解脱だけでは悟りにならない。
>三明(解脱智)は、解脱した後に生じると釈迦は説いている。
自演乙さんは上記の二つの文章を読み比べてください。
一行目では煩悩を切っただけでは解脱(悟り)ではなく、
漏尽通で解脱を確認してから解脱だと言い、
二行目では、漏尽通である三明は解脱した後に生じると述べているのだから、
漏尽通で解脱した前に解脱したと述べている。
一つの書き込みの中に正反対のことを書いている。
これがアラカンポ先生の頭の中です。
つまり、ただただ負けたくない一心で、その場しのぎに書きまくっているだけです。
すでに何度も述べているが、桐山さんは解脱知見を得てから
解脱するなんて言っていない。
「戒・定・慧・解脱・解脱知見」ですから、誰が見ても、
解脱知見の前に解脱している。
だが、アラカンポ先生によれば、解脱知見で解脱するのだそうです。
ご覧のように、ただ負けたくない、勝ちたいという一心だけで、
阿含宗の教義でもなく、小学生でも首をかしげるような
主張を滔々とまくしたてるのが、自演乙さんのお仲間のアラカンポ先生です。 >>121神も仏も名無しさん2021/03/09(火) 19:33:31.01ID:HFbtGFgx
>怒らずして日々の瞑想行を継続すべきです。
自演乙さんに御紹介するのは初めてだと思いますが、
121が宝生創価センセです。
瞑想の話をしているから、一見、阿含宗と関係しているかのように
見せかけているが、良く読んでください。
阿含宗に関係した話は一つもない。
ただ、他人に瞑想しろとエラっソウにお説教しただけです。
桐山さんの説いた瞑想の話は一つも出てこない。
それも当然で、彼は桐山さんから瞑想を習ったことがない。
これが宝生創価センセの一大特徴で、
・阿含宗の教義はほぼ出てこない、
・桐山さんが修行としてしろと言ったことはほぼしたことがない、
・我流宗教で批判側にお説教をくり返す、
などで、他にも十年来の慢性病をいくつか持っていて、
時々、発作のように繰り返しますから、その内、ご紹介します。
宝生創価センセは桐山さんへの罵声もたくさんあります。
自演乙さんも大変ですよね。
アランカンポ先生、宝生創価センセなど、あなたのお仲間は
信者としては使い物にならないような連中です。
それは当然で、彼らはボン行さえもろくにしたことがない連中です。 煩悩滅だけでは小解脱と桐山さんと同じことを言うアラカンポ先生だが、
彼の煩悩滅嫌いは異常とさえ言えますね。
たとえ小解脱であろうと煩悩滅は解脱として否定されることのない話なんですよ。
それは絶対に必須であるし。
桐山阿含宗の教義においてもそうのんだから、ならばそれはもっと尊ばれるべきものじゃないですか?
しかしそれよりももっと上があるのだと桐山さんが説いてアラカンポ先生も信じていてもね。
ところがどうもアラカンポ先生の書き込みを読んでいると、煩悩滅自体をバカにしているところがある、というよりも、
煩悩滅なんて絶対にやりたくないという気持ちがありありと見えています。
これは彼の本音でしょうね。
人間として生まれたのだから欲望のままに人生を楽しみたい。
何で煩悩を減らしたり無くしたりしなければならないのだ?でも釈尊はそれを説いている、
じゃあ仕方なくそれをやるしかないか、というよりもなるべくやらなくて済む方法を考えている。
そしてまずは我見を断つことが大切だと言って、実は自分が一番我見を示しているのだがw
その段階に留まって絶対に煩悩を減らしていくなんてことはしようとしない。
だから絶対に仏教には向かない人です。
阿含宗というご利益を餌にする商売の客になることには向いているかもしれないが、
実はそれもケチだからあまり関わり合わないし。 仏教辞典の日本語を読み取れない深山くんは議論するレベルにはない。
岩波仏教辞典の「縁起」の説明の中に、
「初期仏教のさとりは滅とか解脱と表現され、縁起の滅した世界とされた」と、ある。
先ず「縁起の滅した世界」を理解することだ。 で、岩波仏教辞典の「滅」の説明には、
滅→「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃」と、ある。
「初期仏教のさとりは滅とか解脱と表現され」であったから、この苦悩滅、業のはたらき滅は初期仏教のさとりのことだと分かるだろ? この「苦悩滅、業のはたらきの停止(滅)」というのが、さとり=縁起の滅した世界、ということです。このように、仏教辞典の説明には一貫性があるのです。深山くんみたいに、煩悩滅という大乗仏教の求めるさとりしか知らない者には理解不能だが。だから深山織枝なのだ。 岩波仏教辞典に、ちゃんと、「初期仏教のさとりは縁起の滅した世界とされた」と書いてあるだろう。縁起=因縁、滅=解脱、という仏教の基本を知る者は、縁起の滅=因縁解脱、だと馬鹿でも分から話しなのです。 >>132〜135
ま〜たホラ吹き野郎が必死になってホラ吹いている。
阿含宗の因縁解脱とは、運命の星のことだろ。
桐山が脳梗塞になっただろ、あれを阿含宗では『脳障害の因縁』という。
桐山夫人がガンになっただろ、あれを阿含宗では『ガンの因縁』という。
な〜にが因縁解脱だ、全然、因縁切れてないだろ。 反論された内容を少しも考慮しないで同じことをグダグダ書いてんじゃねーよ。(アラカンポ先生)
自演乙さん、あなたのお仲間、阿含宗の信者仲間にはこんな奴がいるんですよ。
だからあなたが彼のような存在を批判側の自演だとみなす気持ちもよくわかります。 自演乙さん、
>>132-135のアラカンポ先生の書き込みをごらんください。
火曜日に私から>>124以降で、彼の主張の間違い、反論、そして自己矛盾まで
指摘されて、そこから二日たつと、彼の頭からこちらからの反論が
きれいに脱落しただけでなく、自分が自己矛盾を起こして大恥を
書いたことも忘れて、また同じ主張を始めた。
知性も良識もないのがわかります。
アラカンポ先生が縁起滅を19(3/3)に書いて、24で私が反論した。
だが、無視して、また31で同じ主張を繰り返し、
しかたないので、私が38でもっと丁寧に反論した。
だが、無視して、また56(3/6)で同じ主張を繰り返し、
しかたないので、ユビキタスさんが63で反論した。
だが、無視して、また132(3/11)で同じ主張を繰り返した。
わずか二週間の間に、批判側の反論を無視して、同じ主張を四回繰り返した。
何一つ新しい材料も、具体的な反論もなく、ただ同じ主張を繰り返しただけです。
こういうのを議論とは言わず、アラカンポ先生のは吠えると言います。
しかも、彼の無駄吠えはこの二週間だけではありません。 >201 :準シュダオン:2009/08/10(月) 10:05:15 ID:ybulEK.c0
「・・さとりは滅とか解脱と表現され、縁起を超越し縁起の滅した世界と
された」と。
準シュダオンとは、アラカンポ先生の昔のハンドルです。
自演乙さんは、日付けを見てください。
今から12年前です。
これ以降、彼は毎年、この件を何度となく書きこんだ。
例えば、下記は五年前のアラカンポ先生の書き込みです。
>713 : 名無しさん2016/09/19(月) 06:22:57.14 ID:JhzQqvA/
>岩波仏教辞典→「初期仏教の悟りは縁起の滅した世界」。
12年前に、すでに同じ主張をしていて、以後、12年間、
ずっと今回のように、
・相手の反論を完全無視して、
・同じ主張をひたすら繰り返す。
自演乙さんがこれをされたらどうですか?
何をどう反論されようが馬耳東風で、無視して、12年間同じ主張を繰り返す。
こんな人が職場や道場にいたらどうでしょう。 「・・さとりは滅とか解脱と表現され、縁起を超越し縁起の滅した世界とされた」
1.この文章は部派仏教の説明
>>38に引用したように、辞典では明瞭に初期仏教と部派仏教の
説を区別して書いています。
「この段階までの縁起説」とは、部派仏教の説明で、
釈迦仏教(初期仏教)ではありません。
2.阿含経に根拠がない
「縁起の滅した世界」が本当に解脱や涅槃だというなら、
初期仏教である阿含経にそのような釈尊の言葉があるはずです。
だが、ありません。
これを見ても、「縁起の滅した世界」など釈迦仏教の教法ではありません。
3.阿羅漢は縁起に支配されていた
解脱が「縁起の滅した世界」なら、大目連が前世の悪業の報いで、
異教徒に襲われて入滅したことの説明がつかない。
解脱した後も「悪業を為した→悪業の報いを受けた」という縁起が
成り立っていますから、大目連にとって縁起は滅していません。
4.「縁起の滅した世界」≠「縁起を滅するのが解脱」
部派仏教も解脱を「縁起の滅した世界」と表現しているだけで、
縁起を滅するのが解脱だとは言っていません。
「縁起の滅した世界」には「縁起を滅するのが解脱」という意味はない。
あくまでも、解脱した後の世界を縁起が成り立たないと述べているだけです。
5.阿含宗とは因縁の意味が違う
阿含宗では縁起(因縁)をカルマや運命という意味で用いているが、
仏教の因縁にはそんな意味はありません。
縁起の意味が違うのだから、「縁起の滅した世界」は阿含宗の因縁解脱の根拠にはなりません。
以上のように、「縁起の滅した世界」には因縁解脱という意味はありません。 「・・さとりは滅とか解脱と表現され、縁起を超越し縁起の滅した世界とされた」
自演乙さんは>>140の項目を読んだだけでも、縁起滅が因縁解脱だ
などという主張が成り立たないことはおわかりでしょう。
もちろん、桐山さんはアラカンポ先生と違い、縁起滅を因縁解脱
と主張したことはありません。
縁起こそが釈迦仏教の基本です。
縁起(因縁)は切るものではなく、理解するものです。
縁起が成り立つからこそ、仏教では解脱できる。
A「煩悩→苦」
これが釈尊が大発見したことで、輪廻を含めた苦の世界に
我々がいるのは煩悩があるからだという主張です。
そして、Aという縁起が成り立つなら、次の縁起も成り立つ。
B「煩悩がない→苦がない」=解脱
釈尊の有名な言葉に、
「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る。」
というのがあります。
これほど縁起が重要なのは、AとBによって解脱できることを
釈尊が説いたからです。
それほど重要な縁起を切るなど、どれほど愚かなことか
分からないのは仏教を理解していないからです。 A「煩悩→苦」
B「煩悩がない→苦がない」=解脱
これらの縁起が成り立つからこそ解脱できるのですよ。
その縁起(因縁)を切る?
縁起を切ってしまったら、AもBも成り立たないから解脱できない。
これでは釈迦仏教は崩壊、消滅です。
因縁(縁起)切り、因縁解脱なんて、どれほど無知な表現か、これだけでもわかる。
仏教を理解していない連中のタワゴトです。
煩悩からの解放こそが解脱だという釈尊の発見に多くの出家が飛びついた。
なぜなら、誰も確認できない桐山カルマのような神秘力を、
誰も確認できない成仏力などという不思議な力で切るのではなく、
煩悩という誰もが言われればわかる物を、
本人が八正道を実践することで切るのだという。
瞑想の達人でないとわからないような神秘的な話ではなく、
誰でもわかる煩悩を、神や教祖の力に頼るのではなく、自力で解脱するのだという。
実践するのは容易ではないが、内容は普通の知性があれば理解できます。
自演乙さんはいかがですか。
まだ釈尊が因縁切りや因縁解脱を説いたと思いますか? ところで毎年今頃発表される週刊新潮や週刊文春の阿含宗の星まつり広告記事の案内はまだでしょうか?
私は今年こそ昨年は38万人も参拝者があったところを、今回は新型コロナウイルスの感染拡大防止のために
参拝者を抑えて開催をしたというところをアピールするチャンスだと前々から書いています。
そういう意味で週刊新潮や週刊文春の記事に注目もしているのですがそもそも掲載されるのでしょうかあるいは緊急事態宣言が京都府も真っ最中だった時期に開催したことに対して掲載を遠慮しているかあるいは出版社の方で差し止められているかなんてことはないでしょうか?
そもそも先月2月の例祭辺りでは護摩木の本数とか参拝者数とか発表されているのではないかと思います。
私は阿含宗のアプリを取り入れてもないし今後も取り入れない予定ですが、
その辺はちゃんと発表があったのでしょうか?
阿含宗のホームページを見ても本来ならば大々的にトピックとしてお知らせがあってもいいものを全くないのですが。
どなたか信者さんで今年の参拝者数を聞いている人はいないでしょうか?
何度も繰り返し言いますが、今年は参拝者数が少なければ少ないほど成功したと言えるのです。
教団にそういう価値基準があるかどうかは別として。 週刊新潮も週刊文春も本日発売された3月18日号に掲載されているかどうかは、
そもそも教団側の事前のアピールがないのでどうなんでしょうか?
ならば3月18日発売の3月25日号にでも出るのでしょうか?
この辺も少し注目してみたいです。
毎年掲載されているから今年も掲載されるのが常ですよね。
もちろん広告記事ですから阿含宗側が広告掲載料を支払って出してもらうのですが。 昨年は3月18日発売の週刊文春や週刊新潮に星まつり広告記事が出ました。 ちなみに昨年この広告記事のことが阿含宗のブログに予告編として掲載されたのが3月5日のことでした。
こんにちは
第47回 阿含の星まつり特集記事が各誌に掲載予定です。
・週刊文春 3月18日発売号
オールカラー4p(星まつり本文+池上季実子さんレポート)
池上季実子さんが行く
「星まつりと開運の旅」レポート掲載!
https://ameblo.jp/agonpublicinfo/entry-12579917714.html
・週刊新潮 3月18日発売号
全5p(カラー1p モノクロ4p) そもそも阿含宗のアプリは
申し込みの段階で
会員or非会員の振り分けがある為
非会員にはほぼほぼ
利用価値無しのしろものでした
ので
削除しました。 あるいは現在1都3県ではまだ緊急事態宣言が解除されていない状況なので、
解除を待って4月頃に掲載なんてことも考えられます。
これは教団と出版社の協議によって。 昨年はその週刊誌の広告記事の中における新型コロナウイルスの話も、
参拝者が減ったくらいの話でしかありませんでした。
このウイルスがここまで拡大することを全然予期できていなかったのではないかと思われます。 例祭をネット参拝もしている信者さんだったら知っているのではないですか?
2月例祭で参拝者数の発表はありましたか?
自演乙さんどうなんでしょうか? あと当日参拝者数ですが、今年は本来1桁台まで正確な数字を出すぐらいじゃないと駄目ですね。
というのは他のスポーツなどの有観客イベントも5000人が上限とか制限されている中で、
正確にカウントして3075人とかそういう正確な数字を示すのが義務と言えるからです。
それは行政に対しても世の中に対してもそのように報告すべきだと思いますね。
私は批判側の中で唯一この緊急事態宣言下において京都花山での星まつりの開催を肯定した人間です。
ただしやるからには感染防止対策を十分にということで、他の団体もやっているごくごく当たり前の条件を示しました。
ですから参拝者数も誤差があっても構いませんが、1桁まで報告できるようでないと、本気でやったとみなされませんね。 なんでも金で勲章と名誉博士号を買い漁る阿含宗の実態!
阿含宗が米国で設立した『日米アゴン友好財団』が
平成三年四月末、京都総本山の建立式開催を機会に
「国際警察庁協会」(I.A.C.P)の役員五人を夫人と
ともに日本に招待、一行は三日間、新潟と京都を旅行した。
その際阿含宗の桐山管長が全員に現金三千ドル(約41万円)
から約一万二千ドル(約160万円)の入った土産袋を手渡した。
うち三人はすぐ現金を返したが三千ドルを受け取った
サザード長官と、一万ドル(140万円)と三十万円を受け取った
ニューヨーク市警のブラウン長官(IACP会長)は帰国後、
小切手で返却したと主張している。
NECの顧問である一柳博志氏が関係する阿含宗がI.A.C.Pの
役員に利益供与したことが、職務に関連する企業などからの
贈物収受を規制する「利害抵触法」に違反する疑いを招くこと
になりました。その結果サザード長官は引責辞任し
NECの一柳氏と関本NEC社長はI.A.C.Pの名誉会員資格を
取り消されることになりました 未来を予知できる大聖者!開祖桐山靖雄と関わった
ばっかりに
サザード長官と、NECの一柳氏と関本NEC社長は
悲惨なことになってしまいましたね!
阿含宗は少しは責任を感じたらどうですか!
愛人のi川さんに渡すお小遣いがあるなら、
迷惑かけた人たちに賠償金でも支払うべきでしょう!
それとも、利用価値の無い人間はポイ捨てですか? >>0152 ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2021/03/12 08:59:18
> 例祭をネット参拝もしている信者さんだったら知っているのではないですか?
> 2月例祭で参拝者数の発表はありましたか?
例祭と朔日縁起の配信で告知されたのですがねえ。
掲載は 3/18 発売の文春と新潮でゲストは舞の海秀平氏。もう少し後の Japan Times(日付忘れた)にも掲載予定だそうです。
ブログ、アプリ、このスレの四人組(?)揃って沈黙してるのはとうしてなんでしょうかね
星まつりは参拝者数とかゴマ本数とか数字だしてなかったような気がします。 >>158
ありがとうございます。
来週18日の両誌の内容を読んでみます。
私はかねがね今年は参拝者数をそれこそ千人台におさえて、その実数を報告することこそ、
緊急事態宣言下の対応として自慢にもなりませんが、堂々の世間に示すネタだと提唱しているのですが、
果たしてそのような記事であるかどうかですね。
アラカンポ先生は毎年この週刊誌に掲載されることを自慢するくせに例祭にも出ない
(ネット配信すら視聴しない)のですね。 煩悩がないからといって苦がないとは言えない。過去に為した悪業の報いがいつ来るか、分からないからだ。
しかし、苦がないことは煩悩もないことを意味している。煩悩があれば、苦がないことはあり得ないからだ。 岩波仏教辞典の「縁起」の項目には、沢山の説明がある。「初期仏教時代の縁起説は、十二支縁起説が代表的なものであった」との説明があるし、「さとりは滅とか解脱と表現され、縁起を超越し、縁起の滅した世界とされた」との説明もある。 で、初期仏教のさとりとされる「滅」の説明には、「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃は滅」と、辞典にある。
この苦悩が消滅して業のはたらきが停止した状態を、縁起の滅というわけです。縁起の代表的な十二支縁起説の滅、というわけです。 仏陀の真実の教えを説く・中巻のP159から、「因縁因果の法則を超越する成仏法」という題で、等見品が解説されている。
これが「縁起の滅」というさとりのことです。
因縁因果と縁起とは同じ意味だ、と、岩波仏教辞典の縁起の項目にも書いてあるね。 岩波仏教辞典には、初期仏教のさとりは縁起の滅した世界であり、それは苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りのことだと、説明に一貫性があります。
それは、桐山師の説く、因縁因果の法則を超越する成仏法、と意味内容が全く同じです。 縁起=因縁、滅=解脱、なのですから、
縁起滅=縁起解脱=因縁滅=因縁解脱、ということです。
で、岩波仏教辞典は初期仏教のさとりに縁起滅の語を採用し、桐山師は因縁解脱の語を採用したわけです。その意味内容は同じですね。 縁起の滅、因縁解脱、
どちらにしても、その内容を理解する頭があるか、ないかの問題なのです。 >>166
全然違うだろ。ホラ吹き野郎!
阿含宗の因縁は運命の星だろ。
桐山が脳梗塞になった、これを阿含宗では『脳障害の因縁』という。
桐山夫人がガンになった、これを阿含宗では『ガンの因縁』という。 >>168
たぶん彼(アラカンポ先生)は桐山さんの示したガンの因縁なんてその実信じてもないんですよ。 そして
桐山が愛人のi川から裁判で訴えられた、これを阿含宗では『色情の因縁』という。 自演乙さん、
>159-163、166-167のアラカンポ先生の書き込みをごらんください。
・相手の反論を完全無視して、
・同じ主張をひたすら繰り返す。
と私が>>139で書いたそのままです。
「縁起滅」の話も「業のはたらきが停止」も、今回だけでも
>>140などで私はすでに何度も反論しているが、私の反論には何もなく、
アラカンポ先生はただ同じ主張を繰り返す。
自演乙さんには知らないだろうが、私の世代でいうと、
アラカンポ先生のような人を「針の飛ぶレコード」といいます。
自演乙さんが140を指摘されたら、どうですか。
個々について反論を試みるか、反論できないなら、
同じ主張を繰り返すことはしませんよね。
それが普通の知性のある人の反応です。
だが、アラカンポ先生は違う。
まるで何事もなかったかのように、この数週間、そしてこの十数年、
同じ主張ただただ繰り返す。
つまり、議論が成り立たない。
実は、程度や内容に差はあるが、ここにいる三人は全員がこのパターンです。
自演乙さんが4人目になることもかまいませんよ。 >[981]如来の子孫 08/07/25 14:46 18TZXoMZvv
>どうだい、青柿くん、私の見事な推理!私の知能は高いだろう?フフ。
自演乙さんは上記を見てください。
「如来の子孫」はアランカンポ先生です。
彼は自分で「知能が高い」と思っているのです。
>>140を指摘されても、理解も記憶もできない彼が「知能が高い」のだそうです。
慢心もここまでくるとなかなかすごい。
縁起滅についても、>>140を指摘されたら、普通の知性と記憶力のある人なら、
縁起滅を因縁解脱だと主張するのは無理だと理解する。
だが、アラカンポ先生の頭では>>140の指摘はきれいに脱落して、
一つも残っていないから、何の矛盾もない。
だから、167では「理解する頭があるか、ないか」だと他人にお説教をする。
人並みの理解力や記憶力もないのに、本人は「知能が高い」と
信じ込んで、相手を小馬鹿にしているのだから、手がつけられない。
結局、165のユビキタスさんの反応がそうであるように、
誰もアラカンポ先生を相手にしなくなる。
すると、アラカンポ先生は自分が勝利したと確信する。
「絶対に勝つ」を彼は実践してきた。
これが彼の現役時代からの人生の縮図で、周囲は本当に迷惑したから、
彼の周囲には誰もいない。
本人は神通を持つ阿那含だと自惚れているが、阿含宗の信者を含めて、
彼の周囲には誰もいない。 自演乙さんは、朔日護摩の合言葉で「必ず勝つ」を叫んでいるのですか?
最近は6行に増えて、「我、聖師と共にあり」なんてのがあるそうですね。
自演乙さんはまだ若いと言っていい世代なのに、
あんなふうに、みんなで一緒に叫ぶことに、ためらいとか、
恥ずかしいとか、みっともないという感覚はないですか?
朔日護摩は1980年代後半から始まったから、今から30数年前です。
1980年代後半の信者でさえも、あれを一緒に叫ぶのをためらう人たちがたくさんいた。
どうしてだと思いますか?
三十数年前でさえも時代錯誤だったからです。
ああいうやり方は1970年代までの、学生運動や新入社員の研修と
称する洗脳教育では良く使われていた。
スローガンを叫ぶことで、全員が一丸となって、自分を犠牲にしてでも
目標達成のために努力するというやり方です。
簡単に言うと、軍隊方式です。
だが、1970年代も後半になると、シラケ世代と呼ばれる人たちが
主流になり、ああいうやり方は時代錯誤になってしまった。
そこに、時代の流れが読めなかった桐山さんが一昔前のやり方を持ちだした。
だから、時代がかったやり方に信者の中には苦笑いした人たちがいた。 自演乙さんは世代が違うから、あんな変なスローガンを叫ぶことに
違和感がないのでしょうね。
仏教では一緒になって拳を振り上げながら叫ぶなんて、ありえない。
ましてや釈迦仏教なら、そんなことをするのは禁止です。
王様が釈尊と弟子たちのいる所を訪ねると、物音一つしないので、
自分を騙し討ちにしようとしているのではないかと疑ったほどです。
こういう釈尊が「必ず勝つ!」なんて叫んだと思いますか?
自演乙さんも「必ず勝つ」ためには、アラカンポ先生の真似をして
批判側の指摘はもちろん、学者たちの解説も無視して、
○○の一つ覚えのように、同じ話を何年でも繰り返すしかない。
アラカンポ先生は恥知らずだから、こういう行為が恥ずかしくなく、
何年でも続けられる。
自演乙さんもまずここにいる三人のように恥知らずになることです。
仏教のカルマとは「行為」という意味しかない。
あなたがどんなに頑張って探しても、桐山さんの空想にすぎない破滅のカルマが
阿含経や学者の解説の中に出て来るはずがない。
だが、自演乙さんは、霊障による破滅のカルマを阿含宗は釈迦の成仏法の
焚き火で消滅させて、地球を救っているとまだ信じているのでしょう?
もしそうなら、アラカンポ先生の一人目の弟子になれそうです。 >>173 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2021/03/14(日) 19:33:25.84 ID:pDTbOE6b
>あんなふうに、みんなで一緒に叫ぶことに、ためらいとか、
>恥ずかしいとか、みっともないという感覚はないですか?
>三十数年前でさえも時代錯誤だったからです。
>簡単に言うと、軍隊方式です。
>だが、1970年代も後半になると、シラケ世代と呼ばれる人たちが
>主流になり、ああいうやり方は時代錯誤になってしまった。
これは当時からそう感じましたね。
そもそもその1970年代に出た変身の原理とか念力で書いてありませんでしたっけ?
よその教団がマスゲームとかやって自分を鼓舞したりしてごまかしていることを馬鹿にしていた。
それよりも桐山教団のそれはより現代的なシステマティックな技法持っているかのように書いていた。
ところが蓋を開けて見ると所詮マスゲームじゃありませんか。
しかもマスターベーションゲームと言ってもいいような話です(笑)
話は変わるが、関東別院でファミリーの活動をしている時担当の職員がG田職員だった。
この人がデール・カーネギーの話し方教室をもとに指導を進めていた。
カーネギーの話し方教室の本を買って読んで布教に役立てる試みで、
関東別院に集まったファミリーメンバーで2分間スピーチとかやった。
誰をお導きすることを目標として、そのためにどういうことをするとか。
しかしカーネギーの本は「話し方教室」よりも「道は開ける」の方が心の琴線に打たれました。
それもそのはずでカーネギーの本は古今東西の哲学や心理学から宗教、仏教も含めるでしょう、
そういったもののエッセンスが込められているからです。
その当時は私も本当に苦しい生活をしている時で、苦しさを乗り換えるためにどうしたらよいか悩んでいた。
カーネギーの道は開けるの本に書いてあったのは、まず不安になることがあって、
そういう不幸は実際に起こるものと想定する。
そしてじゃあその不幸は実際に起こったら自分はどうなるかと考える。
殺されるのか?財産を失わればならないのか?そこまでは落ちることはないのか?
そういったものも考えた上で最悪の不幸は起こるものだと想定して、あとは覚悟を決める、
そういう話ですね。
ですから桐山さんの話とは全然別のもの、逆のものだなと感じました。
むしろ釈迦仏教のそれに近いものだと思いましたよ。
思ったのは後に退会して釈迦仏教を知ってからですが。 アラカンポ先生は実際のところ桐山因縁なんて信じていないでしょう。
だって桐山因縁なんて透視してもらったこともないわけですからね。
それでも長年自分が生きてきた中では、自分はこういう因縁があったのかもしれない、
なんて私でも誰でも思いつきますよね。
それでもなんとか生きている。今生活が成り立っている。
そしたら後のことなんか心配する必要もないではありませんか。
もちろん長年生きて来ようがこの先にはどんな不幸が待っているのかわかりません。
それは退会した私でも同じですよ。
私は桐山因縁なんてものは信じないけれども、しかし今日明日にどんな不幸が待っているか
一寸先は闇であることは誰だって共通ではありませんか。
しかしそれでも普通の人は気にせず頑張って生きてますよ。
だから私も頑張って生きるだけの話ですよ。
何も因縁切りなんてことをあくせくする必要もない。
それは結局アラカンポ先生だって同じじゃないですか。
だから道場にも行かない、例祭にも出ない、因縁切りに必須とされている積徳のための梵行なんて絶対にやらない、
時には勤行だってサボる。
もはや脅迫機能もこの人には効いてないんですね。
つまり桐山因縁を決して信じていないということになります。
そういう意味では他の信者さんもこれを見習って方がいいのかもしれません。
だとすると会費を払うだけ馬鹿馬鹿しいですから退会するのが一番なんですけれどもね。 時には勤行すらってサボるというのはアラカンポ先生が自分で、まるで自慢するかのように書いていた話ですからね。
もう我にとってはそのような境遇に至っていると、まるで因縁がかなり切れているかのように勝手に書いている。
もちろん教団のを認めない桐山さんが生きていても認めない話です。
しかしどうせ道場にもろくに行かないし教団とコミュニケーションを取ってるわけでもないので、
もう自分勝手教にしてるわけですから、桐山阿含宗の教義とか実践とかどうでもいいんです。彼にとっては。 私は信者時代中途挫折の因縁が強いと勝手に思っていました。
と言うよりも入行の動機が自分が持っている中途挫折の因縁を切るというものでしたから。
自分は絶対にそれが強いのだと思い込んでいました。
ところが中途挫折の因縁なんてものはないことがわかりました。
自分はなかなかしぶといと思いました。
未だににこのスレにも書き込んでいますしw
また信者時代は割と離職や転職を繰り返していたのが、退会をしてからは、
結局幸か不幸か(笑)今の職場に勤務し続けて20年以上になりますし。 ★《※第二の仏陀(笑)桐山猊下が愛人エロ皮さんをナンパした時の告白御霊諭レター》★
【御霊諭】平成元年5/4 色★千景
報告書を読んで君の純粋な気持ちと布教の情熱に感心した。
今までにも熱心な信者や弟子が沢山現れたがその中で君は数少ない一人だ、
「釈迦が桐山靖雄を出現させるために現れた」などという表現は非常に鋭いと思う。
私自身そう思っているが自分では言えない。
今までにこういうことを言ったのは君が初めてだ、君が男であったらとてもよいのだが
女性でも女性でなければできない役がある、弟子になって命がけで修行する気があるなら
弟子にしてあげてもよい。見込みがあると思う、今働いてる所は即時にやめなさい
「抱かれるか殺されるかどっちかにしろ」とか
「☓☓☓☓」などという男の出入りする不浄の場所に君を置いておけない、
良い結果は生じない私が働く場所を紹介してあげる、東京でも仙台でもどこでもよい
又私の法話が十分に聞けるチャンスのある働き場所を紹介する、
私は七月の名古屋例祭が終わったらその夜東京へ帰る、八日(月)の午後、面接する。
但し、道場では君にだけ会うと君がねたまれるから私の修行場所があるから
そこで面接する、打合せをする。私の秘密電話を教える、
その電話に私の方から君にかけることのできる電話番号を入れておきなさい
(今夜にでも)
まず、○○ー○○○ー○○○○へかける(プッシュホン式でなければダメ)交換手が出て
暗証番号を聞くから☓☓☓☓☓☓☓と答えなさい、プッシュホンで押せばよい(口で答えるのではない)
あとは交換手の指示に従って話せばよい又は私は名古屋の名古屋東急ホテル(○○○ー○○○ー○○○)に
六日の夜泊まる、君も名古屋へ泊まって夜十一時頃私の部屋へ電話をしなさい、
その電話で打合せをしてもよい、
東急ホテルでなくてもよいが要するに人に聞かれないで私に電話をかけられる所に泊まればいいわけだ、
翌日七日、午後に東京で面接する、今夜にでも秘密電話にどうするか報告しておきなさい、
名古屋で泊る費用を同封しておく。
(桐山原稿用紙直筆鉛筆》
★★猊下ヒューヒュー\(^o^)/ 昔の公衆トイレには、しばしば落書きがあった。
ここのスレッドも、世間からは、昔の公衆トイレ落書き情報、程度にしか見られていないことを知るべし、ですよ。 岩波仏教辞典の「縁起」の項目に、
「初期仏教時代の縁起説は〜云々〜続く部派仏教時代には〜云々〜しかしこの段階までの縁起説は〜云々〜さとりは〜縁起の滅した世界とされた。大乗仏教に至って、さとりの世界も空〜云々」と、説明がある。 「初期仏教時代の縁起説は〜云々〜続く部派仏教時代には〜云々〜しかしこの段階までの縁起説は〜云々」と、ある。(〜云々は私の挿入、それ以外は辞典の原文のまま)
「しかしこの段階までの」とあるから、初期仏教から部派仏教までの段階と、分かるだろう? 「しかしこの段階までの縁起説は」と、「しかしこの段階の縁起説は」とでは、意味が違う。
「この段階までの」と、「この段階の」とでは意味が違うわけです。で、仏教辞典には「この段階までの」と、ある。つまり、初期仏教から部派仏教の段階までの、という意味ですよ。 深山くんは、仏教辞典の初期仏教から部派仏教までのさとりは、縁起の滅した世界、の説明に、それは部派仏教のさとりのことだ、と言った。日本語の理解不足だよ。私は、深山くんは、部分的な発達障害者だと思う。これは悪気で言うのではないよ。 普通の人なら、「この段階の」と「この段階までの」との違いが分かるだろう。
「初期仏教時代の縁起説は云々、続く部派仏教時代には云々、しかしこの段階までの」と、辞典にあるから、初期仏教から部派仏教までをさすわけです。これを深山くんは理解出来ない。 セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
https://aziz-mbacke-majalis.netlify.app/ 深山くんが、四向四果の仕組みを、何十年も理解出来ないわけも分かったです。 >>186神も仏も名無しさん2021/03/17(水) 08:09:17.67ID:nhPzM8p8
>つまり、初期仏教から部派仏教の段階までの、という意味ですよ。
自演乙さん、
186は因縁解脱についてのアラカンポ先生からの反論です。
自演乙さんは彼の文章を読んで「おお!釈迦仏教には因縁解脱があった!
アラカンポ先生がその証拠を出した」と激しく納得しましたか?
その証拠とは上記だというのです。
岩波仏教辞典のたった一行にある学者の解説に難癖を付けて、
それが因縁解脱の証拠だというのです。
だが、因縁解脱も縁起解脱も出てこない。
一つ目は「しかしこの段階までの」の「この」とは何を指すのかという国語の問題です。
自演乙さんは「この」に何を当てはめますか?
誰が読んでも「しかし部派仏教段階までの」です。
本文では、初期仏教と部派仏教を明瞭に分けて説明しているのだから、
部派仏教ではこのように考えられていたという意味です。
しかも、私が>>140の2〜5で指摘したのは、この国語の解釈の話だけではない。
それだけなら、アラカンポ先生のように強引な解釈も可能でしょう。
彼の説が成り立たない事を、>>140の2〜5のように十数年前から
繰り返し指摘しているが、今回がそうであるように、反論は何もない。
反論できないから、1の解釈の話をするしか、彼には方法がない。 桐山靖雄管長猊下の後継者
寿美子副管長はお元気ですか?
実娘の寿美子副管長は、阿含宗で
どういう立ち位置なんですかね?
実父が愛人囲ってる事実を知って家出した? >>140
2.因縁解脱は阿含経に根拠がない
これはアラカンポ先生の、そして阿含宗にとって致命的な理由です。
「縁起の滅した世界」が本当に解脱や涅槃だというなら、
初期仏教である阿含経に頻繁に出てくるはずです。
縁起解脱が解脱なら、釈尊は繰り返し「縁起を滅しなさい」「縁起を
切りなさい」「解脱とは縁起を滅することである」と説いたはずです。
だが、阿含経にこのような言葉は一言も出てきません。
なぜなら、釈尊の言う解脱とは縁起を滅することではなく、
煩悩を滅することだからです。
煩悩を滅するように説いた経典は山のようにあるが、
縁起を滅するように説いた経典など一つもありません。
「しかしこの段階までの」の「この」に初期仏教が含まれないことは、
単なる国語の解釈ではなく、このように根拠を示しているのです。
「縁起の滅した世界」が解脱だというなら、釈尊の言葉として
阿含経から引用するべきです。
因縁解脱、縁起解脱、因縁切り、縁起切りと書いてある阿含経を引用すれば良い。
これがもっとも簡単で説得力がある。
だが、アラカンポ先生は引用できない。
なぜなら、そんな経典は存在しないからです。
だから、学者の言葉尻をとらえて、吠えるしか方法がない。 3.阿羅漢は縁起に支配されていた
解脱が「縁起の滅した世界」なら、解脱者には縁起が成り立たないはずです。
大目連が前世の悪業の報いで、異教徒に襲われても死ぬはずがない。
だが現実は「悪業を為した→悪業の報いを受けた」という縁起が成り立っている。
釈尊には「毒キノコを食べた→食あたりになった」という縁起が成り立った。
二人の阿羅漢には縁起が成り立ち、彼らは縁起に支配されていた。
この事実を見れば、解脱が「縁起の滅した世界」など嘘だとわかる。
「飯を食っていない→腹が減った」という縁起が成り立たないなら、
解脱者は飯を食わなくても腹が減らないことになる。
阿羅漢に縁起が成り立たないなら、暴行を受けてもケガをせず、
毒キノコを食べてもなんともないことになる。
阿羅漢はオバケですか?
悟りや解脱が「縁起の滅した世界」などでないことはこれを見れば十分です。 4.「縁起の滅した世界」≠「縁起を滅するのが解脱」
「縁起の滅した世界」という表現は因縁解脱という意味ではありません。
アラカンポ先生の国語解釈のインチキ、すり替えです。
下記の岩波仏教辞典の学者の解説は、解脱した後の世界のことを
「縁起の滅した世界」と述べているにすぎない。
縁起を滅することが解脱だとは述べていないのに、
アラカンポ先生はそのようにすり替えて解釈している。
「しかしこの段階までの縁起説は,迷いの世界(有為(うい))のみを説明するものであり,
悟りの世界(無為)は縁起の中に含まれなかったから,
悟りは滅(めつ)や解脱(げだつ)と表現され,縁起を超越し縁起の滅した世界とされた.」
部派仏教は解脱した後の世界を「縁起の滅した世界」と表現しただけです。
解脱とは縁起を切ることである、縁起を滅することである、という意味ではありません。
アラカンポ先生は、それをまるで、縁起を滅することが解脱である
かのように嘘の解釈をして、すり替えて誤魔化している。
例えば、海外では日本円は通用しないから、日本円が滅した世界です。
では、海外に行くのに日本円を滅して、つまりゴミ箱に捨てて行くのですか?
日本円が通用しないことと、日本円を捨てることでは意味が違う。
部派仏教は、海外では日本円が通用しない、と述べているだけで、
海外に行くのに日本円を捨てろ、とは述べていない。
この例えを見れば、アラカンポ先生の解釈がいかにデタラメな
すり替えかわかります。 5.仏教と阿含宗では縁起(因縁)の意味が違う
これがアラカンポ先生のゴマカシ、すり替えの一番目です。
つまり、前提のゴマカシです。
学者のいう縁起(因縁)には、阿含宗のようなカルマや運命という意味はありません。
仏教の因縁にはそんな意味はありません。
縁起(因縁)の意味が違うのだから、「縁起の滅した世界」は阿含宗の因縁解脱の
根拠にはなりません。
根拠とするなら、まず仏教の縁起(因縁)にカルマや運命という意味が
あるという証拠を示すべきです。
もちろん、出せるはずがない。
自演乙さんに良くみてほしいのは、仏教や阿含経には因縁解脱や因縁切り
などないし、そもそも因縁(縁起)の意味が違う点です。
二重三重に阿含宗はオカルトなのです。
桐山さんでさえも出せなかった因縁解脱の証拠を信者が出せるはずがない。
阿含宗は解脱という仏教の基本中の基本さえも間違っているのに、
それが完全仏教とはお笑いです。 >>182神も仏も名無しさん2021/03/17(水) 07:02:20.11ID:nhPzM8p8
>ここのスレッドも、世間からは、昔の公衆トイレ落書き情報、程度にしか見られていないことを知るべし、ですよ。
自演乙さん、上記をごらんなさい。
アラカンポ先生によれば、彼の書き込みは「公衆トイレ落書き」なんだそうです。
自嘲癖があるのか、自分のレベルを理解しているのか、
彼の書き込み内容が「公衆トイレ落書き」と言われれば、納得できます。
そもそも彼の説は桐山さんの説ではないから、阿含宗の教義ではありません。
こちらの2〜5の反論を無視して、十数年にわたり同じ主張を繰り返して
いるのだから、「公衆トイレ落書き」よりも、躾けの悪い犬の無駄吠えに聞こえる。
だから、また190で「預流向≠聖者」というトイレの落書きを書いている。
>>195-196の4と5の指摘内容は、アラカンポ先生の誤魔化し、嘘です。
こういうことを平然とやってのけて、それを指摘されても
どこ吹く風で十数年にわたり、ゴマカシを続ける彼は、
「部分的な発達障害者」(>>187)でないなら、何だと自演乙さんは思いますか?
阿含宗では何と言う因縁だと言われているのかという質問です。 桐山さんは「求聞持法を体得し目はカメラ、耳はテープレコーダーに」と自慢して
いましたが(後年脳梗塞発症して嘘っぱちバレちゃったけど)、
アラカンポ先生は何度反論されても同じ主張をするから、
「書き込みが『壊れたテープレコーダー』」ですね。
冥徳祭の配信見て教団の主張に沿ったことでも書いてくれればまだ良いのですがw
しかし今回の冥徳祭、お彼岸前だということもあるのかひたすら柏原押してましたなwww 本日発売の週刊新潮と週刊文春3月25日号を通勤時に職場近くのコンビニで買いました。
内容はまだちらっと読んだだけですが、私が注目したのは当日参拝者数ですね。
収集してお焚き上げした護摩木の本数については私は不問ですが、2900万本とのことです。
この数字が本当であれ嘘であれ当日大勢の参拝者から集めるものでもないので、毎年通りの誇張も問題はないと思っていました。
ところが当日の参拝者数というのは緊急事態宣言下でもありますし、問題になりますので、
ここの数字を注目していました。
結論を言いますと、当日参拝者の数字は公表していません。
インターネット配信も行い、当日は現地でもソーシャルディスタンスを心がけたということは書いてありましたが、
それはその通りだったろうと認めますが、じゃあ実際にそこで昨年38万人も集めたこのイベントに、
どこまで減らしたかということは書いてないのですね。
私はこれは書くべきだと思いますけれどもね。
やはり人は数字を示されて根拠を示されて納得するからです。
もちろん当日大勢だなんて思いません。非常に少ない人数だったでしょう。
だったらそれを堂々と数字を公表すれば、これだけ抑えたというのはむしろ自慢と言ってはなんですが、
実績を示す根拠になるからではないですか。
この点がどうも教団と私とは根本的に物事の考え方が違うと思います。
本当にちゃんとカウントしていたんですか?と言いたくなります。
現地修行者と当日参拝者の数です。
インターネット配信の視聴者数は要らない。
現地での感染防止対策のみが世間から問われるからです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています