坐禅と道中の工夫7
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
吸う息と吐く息と両方意識します。
スゥーハァースゥーハァーと息になり切って行きます。
また念が出ても次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになるのもいいです。
そして、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
念が出る前のところにいる感じです。
これが正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
徹し切った姿が只なんです。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今だけのことを真剣にやる。 乙!(^ω^)👍
甲!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>5
お前がここに来ないと約束しない限り、ここの書き込みはゼロりあんwww勝手にやってろ危地害め‼ そうやって今日も虚しく一日中5ちゃんねるやってるんだろうな 栄進にレスするなって、
鹿野園の教育の成果で
かつてのぼったんクラスの荒らしに成長しているので
レスしないでください。
真面目なお願いです。 自我がある以上、相手がいても孤独感は一時的にしか埋まらない。だって元々孤独なんだから。それを心の底から自覚した時、孤独感は消える。 今を今たらしめるとは、過去を完全に過去にしてしまう事です。 >>11
孤独!(^ω^)👍
群衆!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ 頭の中ではプラマイゼロと理屈ではいくらでもいえるが、実際となると・・・ >>14
実際!(^ω^)👍
想像!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>12
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ金剛般若経に過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得とあるそうですけど?
どの心で今を今たらしめるのでしょうか? >>18
金剛般若経に過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得とあるそうですけど?
つまり仏如来に今は無く、仏如来は『過去・現在(今)・未来』を一つの存在として看る、しかし有るとも無いとも言えない故に如来とされている、みたいな〜w >>22
つまり、如来は事事法界に在る故に、と言うことでしょ >>22
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ心も有にあらず無にあらずだと思います
今を今たらしめるのであれば
法華経の一念三千因果倶時でもあると思うんですよね?
心も原因と条件のかかわり合いによって生じたものだと思いますから
実体はなくて瞬時に刹那生滅していますので
因果倶時であっても有にあらず無にあらずだと思います >>23
まあ事事法界は、理解は出来ても、其れを事の世界に現せない、禅でも他の宗派でも最初の悟りで事界で現せるのは理事法界まで、しかし理としては事事法界を理解は可能である
如来は事事法界に存在する、事事法界とは、それまで理と事の分離した世界から、理とされてた世界も事として現せる境涯に至った如来の現せる世界であり理解であると言えます >>24
金剛般若経に過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得とあるそうですけど?
つまり如来は、衆生と同じ心を持たず、違う《こころに》に住している、のでは
当然同じと云うことは無いです >>26
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ華厳経に「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」とあるそうなので
心仏及衆生無差別だと思いますけど
如来(の心)は瞬時に刹那生滅して
有にあらず無にあらず事事法界かなぁと? 事事法界!(^ω^)👍
理理法界!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ道元さんの典座教訓のように仏道を歩む方も武道・茶道習われている方も所作が身に付いているんでしょうね >>27
そこを解れば悟りにあると言えます、如来も衆生も根底のこころ(仏性)は同じでも如来のこころと衆生の心は違う位相に在るわけです
最初の悟りを得ると、一旦衆生の心を失った状態になり、その後に再び如来のこころから世間衆生の心が作られます、つまりこの世に現身を持つ限りに於いては、主となる仏性としての如来のこころと、従としての衆生の心の、二つを持っています
主となる如来のこころに存在し住する時、衆生の心は滅の状態になります、よって現身を持たない如来には衆生の心は無いと言えるでしょう 「三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別」
この唯一心の『心』は仏性としての衆生如来共通の『こころ』ですね、衆生の分別心とは別に考えなければならないでしょう >>32
更に近いのはそこから色を無くした透明なこころ、それでも透明なが残っている
透明も無いのが無心でしょ、色という差別があるから有ると言える訳です >>33
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ色即是空 空即是色ですね オレは最近になって、ようやく悟りの手法がわかってきたような感じがするよ
これはもう間違いないと思ってるんだけど、これがわかると、いついかなる時でも、
行が続けられるし、ネガティブな自分が出ても、否定しなくなる
つまり、落ち込んだり、後悔したり、自分に嫌悪感を持ったりと、
そういう必要性が無くなってくる
ようやくたどり着いたという感じ
もちろん、行はまだ完成してないし、ここでしゃべってるのも、
成果が出るところまでちゃんとやってないからなんだけど・・
ただ、これから正しい成果を上げられるという確信がある
それから、これがわかると、多くの人が、考え方が間違ってるのがわかる
たとえば、一日のうち、行の時間を設けて、特定の時間しっかりと行をやればいいと思ってる人
こういう人は、ポジティブ面に捉われてるから、ネガティブ面が出てくると
行が失敗したと思う
正しい行とは、ポジティブ面が出ても、ネガティブ面が出ても、それに関係なく
行が実行できるということ あと、言葉に実質がともなわず、ただ難しい言葉をこねくり回して、わかったようなふりをしてる人がいるけど、
難しい言葉を羅列して行を説明してる人は、ぜんぜん、実質的な行の本質がわかってない人
体験に対して、専門用語は補足的な意味合いしかなくて、体験は常に自分の言葉で分かりやすく説明できるものになってる
ただ自分の感じたことを表現するだけだから
専門用語を使わず、分かりやすく説明出来ないのは、体験が伴っていないからだ もし、自分が悟りの手法をわからないで、それでも悟りたいと考えるならば、
ひたすら仏教伝来の行法を守って、ただやるしかない
しかし、今の時代、それは不可能
やってるつもりでも、絶対に頭が働いてしまう
また、そういう修行方法の場合、24時間打ち込まなければ意味がない
これも現代人には不可能だろう
たいてい、そういうことをやってる人は、頭を使ってやってる
これは反射的にそういう反応してるから、こういう行法と矛盾することになる
唯一残された道は、悟りの正しい手法を自分で確かにつかみ、発見し、
必然的に正しい行法を見出すこと
だがこれは、ラクダが針の穴を通るように難しい 俺がこの行方を完成させたら・・・ つまり、この行法によって悟りを開いたら、
みんなにこの行法、教えを説き始めるだろうね
新しい仏教・・・ まだ誰も手を付けてなかった教え、行法
もちろん、この理念は理趣経の中に入ってる
だけど、これを行法につなげるような確かな教えは、未だかつて出ていない
これをものにし、上手く説ければ、多くの人が簡単に、場合によっては、聴いただけでバチンッ!とスイッチが入ったように
悟りを開くかもしれない
今まで気づかなかったことに、ああ、なるほど! って思わせることができる >>30
>そこを解れば悟りにあると言えます、如来も衆生も根底のこころ(仏性)は同じでも如来のこころと衆生の心は違う位相に在るわけです
残念ながら違います。
理事無碍法界の天台小止観の次元ですら、
そのように考えません。
小止観の悟りにおいては
最初に悟りを求める心を起こした時と
悟りを得た今と変わらない事に気づくとありますので、
悟りが頂上的イメージは、天台あたり以後から、
その意識は薄くなります。
そもそも、仏教自体に悟りの頂上的意識は薄いですね。
神秘的絶対性を仏教に期待するのは、そもそも無理があります。
神秘主義の要素はあっても、神秘主義的頂上的スタンスは仏教においては無理です。
唯識あたりから、
平等性智なんて想定しているのですからね。 >>27
>如来(の心)は瞬時に刹那生滅して
有にあらず無にあらず事事法界かなぁと?
そういうの三論宗レベル、
何度も言わせるなあ、八宗綱要よめ笑。 >>40
如来のこころに分別心は無いです、全てが直覚知によりますので、悟った後と悟る前の心とこころの組み合わせは同じでも、立ち位置が全く入れ替わります、故に悟りとされるのです
凡夫衆生の分別心は消えることが無いが、仏如来は分別してように見えても、実は全てのこころは直覚知から現れます、これは空独尊昌久如来の言葉として聞いたものですから間違いないです
恰かも地上からの眺めとビルの屋上からの眺めが違うように、凡夫はビルの入口のオートロックの暗証番号を知らないが故に屋上に上がれないが、如来は地上にも降りれるし屋上にも上がれる、この違いが悟り
凡夫も暗証番号を知れば屋上へ上がれるので、その意味では同じですが、知らなければ違うとなるのです >>40
悟りを得た今と変わらない事に気づくとありますので、
これは色界での最初の個の悟りでの話であって、無色界の2番目の悟りの話では無いでしょう
何故なら、無色界の悟りでは、色界の凡夫心が完全に抹消されなくてはならないからです、つまり凡夫が死なない限り仏は出て来れない、凡夫と仏は並坐出来ないですから
弘法大師の説いた第十住心(秘密荘厳心)は絶対に凡夫には在り得ない心であり、即身成仏した修行者は凡夫の心を去っています >>40
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>最初に悟りを求める心を起こした時と
悟りを得た今と変わらない事に気づくとありますので、
悟りが頂上的イメージは、天台あたり以後から、
その意識は薄くなります。
>唯識あたりから、
平等性智なんて想定しているのですからね。
平等性智から言えば日常生活の殆どが平等性智だと思います
ご飯を食べる時も左手で茶碗を持って右手でお箸を持ってなんて考えながら食べていませんし
歩く時も右足出して左足出すなんて考えながら歩いていません
無分別の分別で茶碗やお箸と一如
無分別の分別で大地と足と一如
>悟りを得た今と変わらない事に気づくとありますので、 >>43
>何故なら、無色界の悟りでは、色界の凡夫心が完全に抹消されなくてはならないからです、つまり凡夫が死なない限り仏は出て来れない、凡夫と仏は並坐出来ないですから
真言密教の胎蔵界曼荼羅の意味を知らなさ過ぎです。
神秘主義頂上主義に偏った考えですね。 >>44
無分別ならば、
>如来(の心)は瞬時に刹那生滅して
有にあらず無にあらず
という説明は三論宗の次元に過ぎないというのをそろそろ自覚しましょう。
鹿野園のデタラメ知識の汚染から卒業してください。 仏教知識を増やしたところで自分が救われない事に早く気づくことですね。 >>46
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>如来(の心)は瞬時に刹那生滅して
有にあらず無にあらず事事法界かなぁと?
麦の見解なので疑問符付きですけどねwww
鈴木大拙さんの即非の論理
無分別の分別は一如平等性智だと思いますからね
そのものと(手と茶碗手とお箸)(足と大地)一体になっていると思います ∞ノノハ∞
川^〇^ハレお釈迦様も悟りを開かれ如来でありながら説法されて歩かれていますので比量はあったと思うんですよね? >>48
八宗綱要の龍樹解釈の多様性をまず学んでください、
解れば、三論宗みたいな鹿野園の発想から卒業できます。 >>47
カムイくん、おはよう、カムイくんはまず自分の心を知りなさい。 >>35
ポジティブ!(^ω^)👍
ネガティブ!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>36
分かりにくい!(^ω^)👍
分かりやすい!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>45
真言密教の胎蔵界曼荼羅の意味を知らなさ過ぎです。
神秘主義頂上主義に偏った考えですね。
胎蔵界曼荼羅の真意は無色界の悟りに至り、宇宙的身体の全存在オールインの状態を知らない限り解らないでしょ、尚更に神秘だよねソコは、尚更に凡夫心を去ること無限里でしょう >>37
針の穴を通るラクダ!(^ω^)👍
君のケツを掘る俺!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>44
平等性智から言えば日常生活の殆どが平等性智だと思います
ご飯を食べる時も左手で茶碗を持って右手でお箸を持ってなんて考えながら食べていませんし
平等性智はソコで無いんでないの?7識の転識しての平等性智ですから、8識の転識なら日常的識なので大円鏡智でしょ、違う?無分別智でも良いかな
平等性智は他の生命体に対する平等の智恵という性質が強いような感じですがね
自己 対 他己の 平等性 >>48
平等性智から言えば日常生活の殆どが平等性智だと思います
ご飯を食べる時も左手で茶碗を持って右手でお箸を持ってなんて考えながら食べていませんし
鈴木大拙そんなこと言ってるの?じゃあ実際に平等性智に至ったこと無いかもね大拙さんは >>59
念が出る前のところ
無念の念を念とする、ソコが正念で良いんじゃないの、それが今かどうかは知らんが、無念で今なんて無いからね、無念だから >>64
職人やスポーツ競技者やレーサーなんかは、無心で一時的なZONEという変性意識に入るがそれは一時的に入って出るので禅定とおなじことで、根本的に悟りとは違う
しかしそのZONEが何時間も続き、それを何日も長期間続けると、合気道の植芝盛平翁のような宇宙一如来の悟りも起こりうるでしょうね 全てを捨て切って坐禅だけが残ります。
ここが坐禅は安楽の法門と言われるところです。 >>65
無字は公案な、無字でも無念でもいいよ、 言葉を超えた処を見よ!と言ってる訳でしょ、臨済宗はそれを8日間連続でやらせて無心を掴ませる訳ですよ >>68
座るだけがそれじゃ無いけどね、植芝先生は武道だから立ってて悟ったし、競歩やマラソンでも良いんですよ、無心であればそれは何だって禅ですよ >>61
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>平等性智から言えば日常生活の殆どが平等性智だと思います
ご飯を食べる時も左手で茶碗を持って右手でお箸を持ってなんて考えながら食べていませんし
↑
これは麦の見解です
鈴木大拙さんの見解は下記です
>例えば「洞山無寒暑」(『碧巌録』第 43 則)に以下の問答がある。
洞山に或る僧が「寒暑到来、如何が廻避せん」(生死の一大事が到来、
どうしたらよろしいでしょうか?)と問うと、洞山は「何ぞ
無寒暑の処に向かって去らざる?」
(生死のない世界に行ったらよいではないか)と答える。
僧は「如
何なるか是れ無寒暑の処?」(それはどこにあるのでしょうか?)
と問い返す。即座に洞山は「寒時
は闍黎(じゃり)を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」(寒いときは寒いのみ、熱いときは熱いだけ、
生まれるときや生まれる、死ぬときや死ぬのみ)と答える。
寒い時は寒いのみで、そこには寒さを感じ
る「自己」すらもない、「おお寒むッ」、それのみである。
「寒殺」し、「死にきった我なき我」には不思議な転換がある。
「廻避」せず「寒時」の只中へ飛び込んで、直面の対象に成りきり死にきりゆけば、
そこに生死を越えた次元が開かれるのである。
まさに「即非の論理とは行為そのもの」(13-464)なのである。
このように人間存在の根本の問題が、この「無寒暑の処」即「寒時寒殺、熱時熱殺」として、「生死が無生死で、無生死が生死だ」(13-274)という
「即非」によって明らかとなる。「非」とは「根本の矛盾」であり、「生死の世界、寒暑の世界、絶対に相容れぬものの抗争」(13-274)をいう。「即」とは「此の絶対に相容れぬものが、そのままに同一性という場面に動いて居る」(13-274)ことである。
「〈非〉がそのままに〈即〉、即ち絶対に相〈非〉すること、それが直ちに〈即〉なのである。〈即〉と〈非〉とはそのままで同一なのである」(13-275)。 >>60
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ大円鏡智がいまいち分からなくてお釈迦様のイメージなんですけどwww
大円鏡智の法話を読みますと
柳は緑花は紅ではないかなぁ?って
法話が長すぎて次でUPしますwww レベルが低くて見てられないなぁw
傲慢こいて横槍を勝手に入れされて頂きますけど、一つ質問していいですか?
>>76 >心は実体がないから
っていうのは正しいと思いますが、何故心は実体がないのでしょうかね?
仏教ではそう云われてるからですか?
それとも何か深い考察あっての事ですか?
どうなんですか? >>78
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>住職法話集
丸い鏡のような心
お塔婆やお位牌の上に○がよく書いてありますね。もちろん宗派によってお位牌にもいろんな形式がありますが、
○は禅宗(臨済宗は、いわゆる禅宗に含まれます)のトレードマークとも言えるかな、と思います。
ご法事にお参りした時やなんかに、よく「和尚さん、あの○は何ですりゃア?」と尋ねられることがあります。
そんな時には私「あの○は鏡なんですよ。丸い鏡のような心の象徴です」と答える事にしています。
正式に言うと『大円鏡智(だいえんきょうち)…大きな丸い鏡のような智慧』という意味だと、考えてください。 >>80
続き
鏡というと、現代では大部分の人が四角いガラス製の物を思い浮かべると思いますが、
昔は鏡は金属製の丸いもの、と決まっていました。それを磨きに磨いて、ピカピカにするとそれが丸い鏡となる、というわけです。
もちろん全く磨かない鏡というのは有り得ません。磨いて磨いて磨き抜くと、やっと一人前の(というのも変ですが)鏡になるわけです。
それと同じようにわれわれの心も、『磨く』という作業が必要なのだ、と示してくれているようです。 >>81
続き
さらに大事なことがあります。鏡の一番大事な役割は、(その鏡の)前にきた物をそのままありのままに写す、ということです。
笑った顔が来れば鏡も笑う、悲しい顔が来れば鏡も悲しそうな顔を写す…我々一人一人の心の持ち方もそれと同じようでなければならない、という戒めがあの○の中には含まれています。
ところが全く磨いていない心はどんな風だろう?と考えてみましょう。目の前に嬉しそうな顔をした人がやってくると、一緒に喜んであげればいいのに、
つい『こいつ、何をニヤニヤ喜んでいるんだろう』なんて不審に思ったり、ねたみを感じたりする。
また目の前に悲しげな顔をした人がやってくると、なんとなく勝ち誇ったような気になって、
口先では同情するようなことを言っても、心の中では嬉しい気持ちがでてくる。
つまり、磨いていない心は、目の前にきた物をそのまま写さない、むしろ逆様な心の持ち様になってしまいます。
磨いて磨いて磨き抜いて、目の前の物をありのままに写すような鏡のような心になりなさい、という象徴がこの○です。この○にはそんな意味あいがあります。
(平成13年10月・久昌通信80号より レベルが低いスレだから、
アタマの良い鹿野園くんは来ないでください。 鹿野園と栄進はニコイチの荒らしです、
スルーしてください。 果てさて、何故心には実体が無いんでしょうね?
そう仏教書に書いてあるからですか?
目に見えないからですか?
www 達磨さんの心不可得でも徳山の点心でもいいですよ。
同じことです。
心には実体が無いって事ですからね。
で、何で心には実体が無いんでしょうね? >>89
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ此縁性縁起他力に依らないと根境識の理も働かないからだと思います
此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。 >>90
答えが分かっていながら聞いているの?
知らんことを聞けよ!
わかっているなら書けよ!
仏教用語の羅列ではなく、自分の意見をなwwwwwwwwww 麦は、未だに、鹿野園と栄進は一如の荒らしという認識が、ないのかな?笑 >>93
アホ鹿野園は隔離スレで相手せよ、
基本、鹿野園と栄進の二匹はスルーしてほしい、
レスするなら、隔離スレで相手してくれ。 >>94
∞ノノハ∞
川^〇^ハレジャンキーたんに反論があるのなら議論お願いします
勉強させて頂きます 反論はないです、わざわざここに来ないで本スレでやって下さい。 >>96
鹿野園は栄進と同じ議論不能者です。
同じ思考パターンですよ。 女性で化粧の上手い人は、本当に上手いからな。
見てくれに騙されないように。
(。・_・。) >>100
∞ノノハ∞
川^〇^ハレお前はなんの用だよ >>103
邪魔?
邪魔なのはあなたじゃないかな。
(。・_・。) 俺はお前たちが必要だ
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ >>104
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ理由はなんだよ >>107
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ説明しろボケナス >>93
知りたいか?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww レベルの高い鹿野園くん、隔離猿山スレでふんぞり返っていてください。
こちらにレスしないでください。 >>111
博学多才!(^ω^)👍
無知蒙昧!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ 先ずさぁ、このスレタイなんとかしなよ。
道中の工夫?
道中って書いてるやつは同一人物がID変えてレスしてる可能性が濃厚だろうな。 まぁ、何故が生じる以前でおれば事は済むだろうね。
即今だの不生ともいうのだろうけど。
仏教を多少齧られた方ならその位は分かるだろうし、分からなくともなんとなくイメージは出来るでしょう。 ロボトミー手術というものがあってな、頭蓋に穴開けて脳の前頭葉辺りを長いもの突っ込んでグリグリかき混ぜて、🧠脳ミソグチャグチャにすると、それまで暴れて暴言吐いてたマジ危地さんが、喋らなくなってシュンとして大人しくなり、全く考えなくなるんだが、何故なんでしょ?
鹿野園さん教えてください(^.^)(-.-)(__) それ迄のマジ危地暴言の心は何処へ行ったのでしょうか? 心は何処へ⁉ 心には実体が無い…
麦さんがいい事を仰ってるじゃないですか。
ただ、此縁性というよりは相依性の方が的確ですけど。
また、栄進さんが犬が俺の散歩に行くみたいな事を仰ってましたけど、素晴らしい考察じゃないですか。 >>117
>心は何処へ⁉
それ、心があるという前提条件があるからW何処へ?Wが問題になるんでしょ?
前提条件が解消されれば、W何処へ?Wも無くなるって事です。 哲学は思考を広げて行きます。
禅は思考以前を狙って行きます。 心身問題っていうのがあって、昔から哲学上の重要な問題として俎上に登っていて、現代では心身は心脳の問題として継続して探究されてるそうです。
大まかにいうと、W心=脳か?心≠脳か?Wってことの様ですけどね。 >>121
>>116を分かるまで読みなさい。
そこで思考停止するから貴方はいくら坐禅をやっても堂々巡りから抜け出せないんです。
なお、この手の言い合いは時間の無駄なので相手しませんから。 みんな―考えずにいればいい。
考えても思考は出てきちゃうんだしその思考に任せとけ。 >>126
>一念でたらアウトですよ。
wwwwww
何ですか、そのアウトって?
>一波を以って一波を消さんと欲す、
>千波万波交々起こる
アウトという一波を起こしてるだけでしょ。 >>118
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ相対ですね
ありがとうございました 我々の脳内では、ここでいう一念が起こらなくとも、ニューロンの反応が起きているののは間違いないでしょうね。
つまり、そうした反応は好む好まざるに関わらず起きてるんでしょう。 >>118
∞ノノハ∞
川^〇^ハレジャンキーたんの見解もお願いします 麦も、鹿野園の巣穴へ帰れ!!!
わざわざ、ここでレスするな!! で、物理学では全ての現象は四つの力から成立してるって云うそうじゃないですか?
まぁそれが四つかどうかはともかく、心も現象であればそうした相互作用から成り立っている、つまり、単体としては無いって事でしょ?
つまり、心はそれ単体ではなくて何かしらの対象とともに、その相互作用にて成り立っている、現象してるって事でしょ?
心には実体が無いって事です。 W心は実体が無いW
私もそうだと思うんです。
ただ、仏教書にそう書いてあるからとか仏説を信じたからとか、それはそれで良いのでしょうが、何故なのかと云う考察というのも大事なんじゃないでしょうかね? 生意気言わせて貰うけど、菩薩って再び思考の世界に踏み出すものじゃないのかな?
勿論、没蹤跡の世界が展開するのだろうけど。 思考以前に止まるのは小乗じゃないの?
勿論それも一つの生き方だろうけど。 >>136
馬鹿野園のお話は、推測が多い。
謙虚ぶっていて、ふにゃふにゃしている。
これだけは確信していることを絞って書いて?
無いの?
分かった。
だから、人の文章のコピペが多いのかwwwww
禅とかよく分からないけど、思考以前に留まるとか、そんな脳死みたいな穴倉に籠った様なもんじゃないでしょ?
臨済禅師もW活潑潑地Wって仰ってるし、そこになんらかの作用、はたらきが無きゃまさに死人禅ですよ。 道元禅師もW修証一等Wって仰ってるじゃないですか。
(無心の)作用だのはたらきを示して禅は初めてなんぼのものなんですよ。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ菩薩様の没蹤跡 砂浜に描いたハート♥みたい素敵♪www 思考以前、不生だの即今だの正念相続におるのはいいでしょうし、それはそれで正しい仏道の道しるべの中に歩んでる姿でしょう。
でも、W仏にも悪心ありWって云うんですよ。
悪心がなければ悪人の心を理解出来ませんからね。
で、思考以前に還るだけかい?
勿論、そうした小乗的な歩みは否定しないけど、再び思考に出てくる事なくして思考の人を理解出来ますか?
www 達磨大師もW廓然無聖Wって仰ってる。
思考以前や放棄に囚われて、逆に身動きが取れなくななってW活潑潑地Wというか、明るさというか、そうした無心の作用やはたらきを殺してしまって何の禅なんだろうね?
ある意味、禅は面白くなくちゃダメなんじゃないの?
禅画に描かれてる理想の人って結構笑ってるでしょ? 素人相手だったらそれなりに騙せるかもしれないけどな レベルの高い鹿野園様、
どうか、自スレで、御高説をレスしてください、
お帰りください。 少しは読み応えがある宗教板にしないとますます過疎るからなぁw
お前らの様な叩き台は必要なんだよ。
悪いなw 悟りスレもこじは瞬殺したし、馬鹿鬼は尻尾巻いて逃げたままだし、ポタ公は廃人化したしw
役不足でもお前らをたたき台にする他無いんだよw >>156
>>158
どうぞ、自スレでふんぞり返りながら、御高説を垂れ流して
自スレを盛り上げてください、
どうか、お帰りください。 0030 神も仏も名無しさん 2021/02/12 22:40:09
>>27
そこを解れば悟りにあると言えます、如来も衆生も根底のこころ(仏性)は同じでも如来のこころと衆生の心は違う位相に在るわけです
最初の悟りを得ると、一旦衆生の心を失った状態になり、その後に再び如来のこころから世間衆生の心が作られます、つまりこの世に現身を持つ限りに於いては、主となる仏性としての如来のこころと、従としての衆生の心の、二つを持っています
主となる如来のこころに存在し住する時、衆生の心は滅の状態になります、よって現身を持たない如来には衆生の心は無いと言えるでしょう >>160
>主となる如来のこころに存在し住する時、衆生の心は滅の状態になります、よって現身を持たない如来には衆生の心は無いと言えるでしょう
日蓮が良く言い回す、一念三千やら、十界互具という成立させる天台を想定すると、
そのような聖なる絶頂の視点では無理があります。
このあたりが他の神秘主義宗教のように
神秘主義絶頂一辺倒といかない仏教の特徴なのです。 先ほどレスをした真言密教の胎蔵界曼荼羅の一番外側は、人間より下界の存在を提示しているのです。 wwww
バカムイの自演があまりにも分かり易くて草。 つーか、知障が仏教解説とかそもそも無理なんだからさぁ。
お前らそこら辺は諦めないと。 どうか、ご自身が満足できる日本語のある自スレにお帰りください。 いいかい?
知障のバカムイやでおーが仏教を語るのは自由だし、それはそれでいいと思うし、言ってる事もお前らなりには正しいと思う。
でも、それなりに経験や考察を持ってる他の健常者が語る正しいであろう法理についてどうこういうのはダメだよ。 オーソドックスな(大乗)仏教の学び方って、やっぱり初期・倶舎・中観・唯識…なんだわ。
なんというか、初期・倶舎の基礎があって、中観で一旦それを徹底的に否定して唯識…から再構築するみたいな感じなんだわ。
勿論、ほとんどの人が親鸞・道元・日蓮から仏教に入ってくんだろうけど、それなりに取り組みたいならそうなんだわ。 健常者妄想の人は自スレにお帰りください。
自スレで健常者が語る正しいであろう法理についてレスしてください、
お帰りください。 訳も分からず馬鹿の一つ覚えでW心は実体が無いWじゃなぁw
結局、思考以前だの即今だのと鼻息を荒くして語っても、そこらの仏教書の受け売りで、オームが口真似して言ってるのと同じなんだよ。
例えば40分坐るのなら、30分それについて考えまくって残り10分放下してみたら? >>170
自慢のオーソドックスな(大乗)仏教の学び方とやらで、
栄進くんを自スレで指導頑張ってください。
お帰りください。 >>173
訳の解る馬鹿の一つ覚えでない栄進くんのおられる自スレで
御高説をやってください。
お帰りを。 バカムイもでおーも、そこらの仏教書に書いてある事を口真似して、馬鹿の一つ覚えで分かったつもりになって、いい気になって鼻息を荒くして仏教だの禅だのと語ってるんだよ。 今まで何度もそれを指摘してたのになぁ。
勘違いが過ぎて分かった積りになって天狗になってたんだろうなぁ。
側から見れば唯の知障なのに。 ここには馬鹿の一つ覚えしかいませんから、
アタマの良い栄進くんに、
御高説をレスしてください、
アタマの良い鹿野園くんは
お帰りください。
来ないでください。 www
開き直っても知障は治らないし馬鹿のままだよ。
勘違いするな。 前から言ってたよなぁ?
お前らに禅は無理だ、って。
仏教は向いてない、って。
勿論それって信仰を捨てろって事じゃないけどな。 >>181
健常者の話が通じるらしい自スレへ
お帰りください、
アタマの良い
鹿野園様、 >>182
満足したでしょうから、
禅や仏教に向いている栄進くんのおられるらしいスレに、お帰りぐださい。 仏教スレやクリスレでキチガイやって、しかもその自覚さえないんだもんw
まぁ、お前らは知障だから仕方ないけど。
宗教って、お前らみたいに承認欲求を満たす為にする事じゃないんだぜ?
いい加減に気付けよ? >>185
はいはい、結構ですから
サッサとお帰りください。 真言密教ブリバリだの精霊に操られてだの、お茶を飲むのも禅ですとかw
普通の人なら知障と間違われて恥ずかしくて穴にでも入りたくなる事をドヤ顔してレスするとかwww
つーか、お前ら知障だったなw お帰りください、
ヒステリーみっともないですよ、
アタマの良い人なら
忖度してください。 いやさぁ、お前らは叩かないと調子に乗るから。
お前らは叩かれて叩かれて叩かれてようやく少しだけ学ぶし、それを継続しないとすぐまた忘れて調子に乗るからw >>161
如来次元の悟りの段階に於いては、個人と現れたり、宇宙存在と現れたり、自在な訳であって、故に凡夫衆生が計り知ること不可能なんですよ
人間の寝ている間の夢や、起きてから自分は寝ていたと分かる認知も、現代の脳科学でほぼ解明されています
人間は明確な思考や映像的思いを巡らせたりする以外の他の全時間帯に於いて、もちろん寝ている時もですが
常時過去の記憶の反芻と未来のことの予測的反芻を自動的に潜在意識下で行っていて、それが全身の酸素とカロリーの消費に比べ脳の消費割合が際立って多い原因であると解ったのです
それと、後頭部下側の襟の部分の毛様体の血行の不活状態か活状態かで意識レベルに変化があります
食後等で腹部の血流が活発化すると、必然的に頭部の血行が低下し、毛様体が不活化し、意識レベル低下によって眠気を引き起こすことは周知の事実です
悟りの状態とは、先に挙げた常時潜在意識下で行われている反芻を自由に停止出来るか出来ないか、勿論 明確な思考と思いも自由にオンオフ可能な処迄訓練修行で行ける訳です
しかし、何らそう言った修行のような訓練を積んでおらない人間に於いてはそのオンオフが出来ないのです、でも悟ると出来るんです、其処が最大の違いです >>173
例えば40分坐るのなら、30分それについて考えまくって残り10分放下してみたら?
へ〜その感覚分かってんだね、チベット仏教のスーパースターであるツォンカパが同じような事言ってるようだよ
45分の心への読書と思唯による理解と、理解から起こる15分の自動放下の瞑想、これは禅定への近道とされています >>192
口先だけよ、
さっきの手放しできん
執着具合見てみろよ。
奴に
レスせんといてくれ笑 垂れ流しはバカムイだろw
そうした自覚に欠けてるから知障なのは分かるけどなw. しかも酷いこと10年以上も、尻尾を追いかけてグルグル廻る犬みたいに、同じことを延々と繰り返してるしなぁ。
成長が全くないんだ。
つーか、逆にそれが不思議でなぁ。
馬鹿でも接触すれば刺激を受けて変化もあろうものなのに… やっぱり禅とか仏教とか、所詮は無理なんだよ。
周梨槃特みたいなのは、それに専念できる環境あっての事で、しかもお釈迦様直々のご指導だったからああした奇跡が起こったわけで。
知障には無理なんだよ。
信仰を捨てろって事じゃない。
知障には無理なんだよ。 例えばサイコロ。
正六面体を我々四次元の世界ではいっぺんに見る事は出来ないけど上の次元では見ることができる様な話を聞いたことがある。
それと同じ。
知障は次元が低いんだよ。
無理なの。 垂れ流し止まらないね〜
そんな垂れ流し文章だれも読まないのにさ いいか?
仏教っていうのはお前らみたいに承認欲求を満たしたり馬鹿の一つ覚えを周りに吹聴するものじゃないの。
10年以上も宗教板にいてそれじゃ無理なんだよ。
仏教だの禅だのとか無理なの。 たとえばさあ、歩行禅をやっていたとする
一歩一歩に集中して、歩いていたとする
そこにイライラが湧いてきた
そうすると、大抵の人は、イライラを集中できてない証拠と捉えるわけ
イライラに気が逸れてると。
そこで逸れた気を戻すため、「イライラ」から「歩行への意識」に変換しようとする
イライラを押しのけて、歩行に意識を集中させようとするわけ
イライラが歩行に意識を集中させるのに、邪魔になっちゃう
つまり、この二つが同じお皿に乗ってるわけ
だから相対して争う
どちらかがあると、どちらかが成り立たない
イライラに捉われず、平静にして、歩行に意識を集中する・・・
そしてまたイライラが出てくると、あっ、失敗した、となる
あるいは、更に上塗りにして、イライラが出てきても構わないんだと、意図的に思おうとする
こういうように、つねに普通の人は、ネガティブを追いやって、引き離して、消して、
ポジティブを得ようとしている
ここのレス読んでても、ほとんどの人がこういう考え方してる これが結局、元はこういうのじゃなかったかもしれないが、
1000年、2000年の間に、こういう修行、こういう考え方が染み付いちゃった
ダメなものを引き離して、良いものを得よう・・・ と。
なぜこうなるかというと、もともと人間の思考が、ネガティブを否定し、距離を置いて、
ポジティブを得たいという方向に、考えが働いているから >>200
まあ土日過ぎれば忙しいから、今は息抜きで放言中だから、昔日曜日に今東光の放言番組あったな、それみたいだな
『 鹿野園 老師の 日曜放言! 』みたいな そうだね
やっと垂れ流し止まったようだし、よしとしますか。 >>204
放言でなくて放談だ時事放談?だったかな
『 鹿野園 老師の 仏教放談! 』放映中 みたいなwww 永遠の今と言うが普遍の塊が永遠にあるわけではない。
むしろ常に変化するから永遠に今があるんだ。 この人間に染み付いた考え方・・・ これを分別とか、思考、エゴといってもいいけど、
この反応を分かりやすく譬えるとすると、
たとえば、ものすごく極寒の日に、あったかい風呂に入っているとする
そこから出るときに、寒さの苦痛があるわけだよね
だから、もうっちょと、もうちょっとと、出るのをしぶったりする
そしていよいよ、エイヤ!とばかりに、寒さを押しのけて飛び出るわけ
まあ、エイヤ!と言わなくても、頭の中でそれと同じような反応をしてる
寒さを押しのける・・ 一瞬、パッと排除するわけ
ネガティブなものを突き放す、消そうとする
エゴは自分にとって楽なもの、苦痛を排除する方向に向かおうとする
自分の生存を図るわけ
楽しみとか、欲求を満足する
苦痛はエゴを攻撃するから、出来るだけ排除したい >>207
誰よ?w あんた?
いいこと言うね
本当に自分の言葉で言ってるの?
コピペとかじゃないよね? >>202
できた人は、鹿野園がヒステリー起こしても、カワイイワンワンが吠えてカワイイぐらいに思えるさ笑。
>>203
今日の真言密教坊主の、あまのこうゆうの動画で、坊主になれる資格とは、
今までやってきたけいけをリセットできか否かだ
とあった。
まず、
リセットできる能力かもね。
鹿野園くんは仏教書たくさん読んだ経験を背負って、たくさんの事にしがみついている、
リセットできないのよん。
だから、すぐ癇癪を引き起こすのよん。 >>207
悟る前はこんなこと考えるんですよ、木内鶴彦さんの臨死体験話読むと、また違う理解するかもよ >>208
あまのこうゆうの
リセット、初期化、
の方がいいな。 >>207
これが本当にコピペでなければ、この人は相当分かってるよ
よく物事を理解する能力がある
分からない人は、パッとこの文章見て、深い意味がわからない イライラに気付けばそれでいいでしょ。
で、平静に戻ろうと努力する事も実は悪くない。 しつこいな鹿野園の病的執着。
帰れ、
栄進くんに自慢やっとれ。 >>207
>むしろ常に変化するから永遠に今があるんだ。
これは酷いなw
あまりにも酷い、酷すぎるwww クルクル執着鹿野園が寝言言ってがる、
巣穴へ帰れ! たとえば、上で言ったこころの反応というのは、なにも行だけの時じゃなくて、
ふつうの人の日常の中にあると言ってもいい
自分にとって、都合の悪い自分が出てきたとき
たとえば、プレゼンテーションするときに、緊張して上手く行かなかった
上手く説明できなくて失敗した
そういう、自分にとって嫌いな自分が出てきたとき、
人はなんとかこれを排除しようとするわけ
そういう自分が出てきたときに、瞬間的に対立的になる
引き離そう、消そうとするわけ
みっともない自分、ダメな自分、だらしのない自分・・・・
自分の嫌いな自分が出てくると、それを消そうとする
これはどんな人間でも、多かれ少なかれ染み付いてる
なぜなら、この思考形態こそ、二元対立のそれであり
それゆえ、輪廻転生することになる 鹿野園のカムイ評は間違ってはいないが、
クルクル執着がウザいから
巣穴へ帰れ! >>216
気づくという説明だけでは、まだ完全じゃない
気づくのは当たり前として、その先が問題 一方で即今云々言いながら変化とかw
だったら変化ってなんだろうね?
永遠?
今?
単に統語的に成立してるだけで中味がない。 >>223
君も鹿野園も、しこたま抱え込んだ知識や経験とやらを手放せないからダメ。 >>223
いいえ、気が付けばいいんです。
そこで終わり。
リセットするもよし、放っておくもよし。 たとえば、ネガティブな自分に嫌悪感を感じるときって、誰にでもあると思うんだけど、
この嫌悪感を感じるということは、対立的になってるということを意味してるわけ。
出来れば消したいわけだよね
引き離したい
これがまた行の話にもどると、行にとって都合の悪い状態が出てきた時、
これに対して嫌悪感を感じるわけだよね?
イライラが出てきた、雑念が出てきた
これらを嫌悪するわけ
つまり、対立的になってる この永遠の今それ自体が真我
だからといって、今の肉体は一回きり
大切に生きないとな さっきの哀れなクルクル執着した鹿野園がよく言うよ、
帰れ! >>227
それでは「意図的に」気づいて終わり
どうせ意図的なら、もっと掘り下げないと
手放すことに捉われると、手放すということを「掴む」ことになるよ >>226
知障が関心を持つのは自由だけど、我々に関わってくるのは場違いだよ。 >>231
意図とかない、ただの気付きです。
そこで終わり。 >>231
だから、
放下するもよし、リセットするもよし。 >>231
そのちんたらとした長文癖を手放してから言えば?
>>232
お前のレスに期待してない、
帰れ! 捉われは捉われ。
捉われない事も捉われ。
それをメタ認知するのも捉われ。
って、メタメタ認知するのも捉われ。
って、メタメタメタ認知するのも捉われ。
……
気が付けばいい。
それで終わり。
リセットするもよし、放っておくもよし。 >>235
だから、関心を持つのは自由。
我々(健常者に)関わりを持つのは場違い。
何故なら、議論にハンディキャップは付けられないから。 仏教は議論する余地がない。
わかってるかわかってないかだけですから。
とてもシンプルです。 >>235
サイコロの話をしたよな?
次元が違うの、でおーは。
関心を持つのは自由だけど、関わるのは場違い? >>238
>わかってるかわかってないかだけですから。
分別してどうすんの? >>236
ではね、「気づけばいい」・・ 確かに、気づけばいいよね
では、「何に?」
たとえばさっきの例でいうと、暖かい風呂から出るときに、
寒さを消し飛ばして、エイヤ! と出るところに気付けばいいのか・・?
ただ「気づけばいい」だけでは、どこに気付けばいいのか、
その気づきの真の意味、なぜ気づきが大切なのかもわからないまま
気づきの意味がわからなければ、どこに、なにに、気づけばいいのか、
さっぱりわからないよ
ただ気づけばいい、といっても、その「ただ」が、ただじゃないときもある
ただを誤ってる >>238
サイコロの話をしたよな?
次元が違うの、バカムイは。
関心を持つのは自由だけど、関わるのは場違い。 >>229
>>238
なんですか、あんたは?ww
良い意味で気持ち悪いねwww
>この永遠の今それ自体が真我
いいね、こういう感じ
>議論する余地がない。
>わかってるかわかってないかだけ
これもよくわかる
この二つは相容れない
分からない人は分からないし、分かる人は分かる ま、わかったら捨てて
わかったわからないを超えて行くんですけどね。 >>244
えっ? カムイ君?
もしこれがカムイ君だったらズッコケるんだけどww >>244
分かる!(^ω^)👍
分からない!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ こういうようにね、通常、ふつうの人間は、「自分の嫌悪する自分」と対立的になってる
常にそうなってる
なぜなら、それが思考(エゴ・分別)の性質だから
エゴがあるかぎり、どんな時でも、エゴを守る働きがでてくる
「自分」にとって都合の悪い・・・ とか、「自分」の嫌悪する自分・・・ とかいうところの、
「自分」というのは、エゴのことだよ この対立を解こうとしたのが、理趣経だよ
だけど、これも一歩間違えると、誤解釈になる >>241
その場の心理状態についてはW気が付けいい、そこで終わりWっていうのはご理解頂けると思います。
言うまでもなく、気付くのは自身の心理状態であって、気付く事はメタ認知って事です。
で、理由ですよね?
>一心の動き始めによく注意するならば、心にはもとより妄念の始めなどは無いのだ。
>それは、微細な妄念の動きを遠離しているのであり、そうした心の内面を見とどけることができてこそ、心はつねに安住するのであり、これを絶対の目ざめと名づける。
>(大乗起信論)
って(大乗)仏教では説いております。
心に安らぎが得られるからです。 みんながバカだと思うのは、これはね・・、どんなに情けない人でも、ダメな人でも
行がつづかないだらしのない人でも・・・ (まあ、これは君らのことだけど・・)
「そのまま」で悟れるという、すごい話なんだよ
もっとも今の君らが欲するべき教え
だけどそれがわからないで、また言葉遊びの難しい方へ戻って行っちゃう
なぜもっと質問したり、聞こうとしないのか 自我とは自分と世界をわける壁
つまり自我がある以上対立は避けられない >>244
>ま、わかったら捨てて
>わかったわからないを超えて行くんですけどね。
何故?
用語の受け売りはウザいんですよ?
馬鹿の一つ覚えレスは要らないから。
そうした事のW何故Wが言えないならレスなんかやめなさい。
ただのゴミレスですから。 >>250
あのね、言ってることはよくわかる、非常に
サティとか、念とか、
その大乗の文章も正しいわけ
こちらは、それをさらに越えることを言ってる
それは重々承知の上で、さらにその上の話をしてるわけ
ただ気づく・・・ これでは「気づけないとき」に対立が起こるよ
気づきをイライラが妨害してくる
気づきを雑念が妨害してくる
気づきを不安が妨害してくる >>252
いいこと言ってんな〜ww
カムイ君? コピペでしょ? >>254
説明して道理は分かったでしょ。
そうあればいいでしょ。
それだけの事です。 あとね、気づきといっても、風呂からガバッと寒さを振り払って出るところを、気づきながらやったとしても
それは「気づき」とは言えない
それではヴィパッサナーにはならない
また、日常行動・・・ たとえば歩行とか、常に気づいていたとしても、
そこには、上手く行った、行かない、という、思考特性が常に働いている
もちろん、そういう日常行動に気付きを行うというのは、行としては意味があるし、
大切なところ
しかし、それでは「止」だよね
「止」は「観」に至る前の訓練のようなものだよ >>254
>気づきをイライラが妨害してくる
>気づきを雑念が妨害してくる
>気づきを不安が妨害してくる
www
いや、個人差はあれど、イライラしたり雑念が起きたり不安が起きだ事に気付くでしょう。
日頃から坐禅なりしてるとその気付きが早くなる様ですけど。 >>258
その気付きの話をしてるんじゃないんだけど?
なんで途中からすり替えたの? >>260
>気づきはなり切った時に起こる
wwww
なり切ってなかったって気付くんだろ? >>256
極端な言い方をするとね、座禅をしているときに、雑念が出てきた・・・
この時に、雑念をなんとか消そうとしてる、
雑念と対立的になって、なんとか排除しようとしている
そういうのもありのままだから、そこに気付けばいいんだと
こういう風になりかねない >>260
これはボロが出たのかね?ww
ものすごく浅はかなのか、ものすごく深くて、こちらが理解できにくいことを言っているのかw 例えば数息観やってて、いつの間にか何事かを考えていた事に気付く。
つまりメタ認知したって事でしょ?
そんでもってまた一から数え直す。
何かしら考えながら手足は動かせても、考えながら考えることは出来ないよね?
そういう事。 >>263
それでいいんですよ。
そこに気付けばいい。
それで終わり。 寒い日に風呂から出る時にね、エイヤ! って寒さを感じないようにして(吹き飛ばして)出るか、
あるいは、そのまま、もう少し、もう少し、と言って、寒さから逃げるか、
この二つの道の中間があるんだよ
それこそ中道なわけだけど、今考えると、まさに中間だなと。
中道がなぜ「真ん中」を意味するか、いろいろ考察してきたけれど・・・
たとえば、両極に捉われないから、中間なんだとか・・
しかし、両極に捉われなければ、ある時は左、ある時は右、と言う風に、
物理的に中間とは言い難い感じがしてた >>265
ああ、なるほど
それはね、本当に24時間、僧堂のようなところで修行してる人がやることだよね
一般の人が、日常の中で修行すると、絶対にそういう風に上手く行かない
つまり、「ただやる」ということがね
そこで止まるのもいいんだけど、どうしても日常生活の中でなんとか悟ろうとするわけだから、
もっともう一段上の話をしないといけない
だいたい、本来悟りというものは大自然そのままの働きで、
普通の生活の中で悟れるものがホンモノ、だと確信する
それが出来ないから、いままで苦行やら、日常生活と離れたところでの行が必要だったわけだよね >>268
そう、そういう意味じゃなくて、理念的な中間があるはずなんだよ
左と右に捉われないから、左右自由に行き来できる
それはある意味、理念的な中間と言えないこともない
ただ、これだと、やや「中」という言葉がうまくない >>148
悟るとただ歩いているだけなのに、気が付くと微笑んでたり、とかが常になる >>269
今にもいろいろあってだね・・・
説一切有部は、今を刹那として、時間の幅を設けたでしょ?
そうだとすると、そういう言い方ができる
だけど、龍樹は刹那に時間の幅を設ける思想を否定したとある。
それがつまり、即今ということだよね
即今とは、0秒だよ 時間の幅は存在しない >>270
僧堂とかの修行者に限られるとか、決してそんな事ないと思いますよ?
例えば運転してる時なんかそうではありませんか?
ただ運転に集中してる時ってありませんか?
で、集中から外れた時それに気付くとかあるでしょ?
気付けばまた元の運転に戻る訳で。
まぁ、どうしても何かに気を取られてただ運転に集中できない時はコンビニに寄って一服するとかねw 即今を維持することは不可能でしょうね。
実際は念が出る前にの所にあるんだけど、念に引っ張られるけどゴムがついててすぐ念が出る前のところに戻る感じ。 あと集中って言うかなり切ってる時のバロメーターはなり切ってるほど時間があっという間に進む。 >>275
>で、集中から外れた時それに気付くとかあるでしょ?
>気付けばまた元の運転に戻る訳で。
こういう、ただ気づけばいいってことになると、なかなか集中にもどれないことになるし
気づきが持続しないということにもなるでしょ
だから、特別な環境で持続するようにする・・・ ということが必要になってくるわけだよね?
ちなみに自分は、運転するとき、アクセルやブレーキを常に繊細に動かし、ハンドルも丁寧に切るようにし
どくに同乗者がいるときは、同乗者に少しもストレスがかからないよう、繊細に運転するようにしてる
あと、どんなに見やすい一旦停止でも、必ずとまって左右を確認し、常に歩行者や車に気を遣い
譲るようにこころがけたり、ある種の修行のような運転をしてる
たぶん、こういう運転をしてる人は他にいないんじゃないかと思うほど
だから、そういうことはわかってる
わかりすぎるほど 厳密に言えば集中するんでなく注意するなんですけどね。 >>275
>まぁ、どうしても何かに気を取られてただ運転に集中できない時はコンビニに寄って一服するとかねw
これこれ、ここなのよ
どうして一服して仕切り直す必要があるのか・・・?
これはとりもなおさず、集中出来ないことを、「良くないこと」と感じるからでしょ?
だから仕切り直す必要がある
この考え方のことを言ってるわけ そう、運転する時は真剣に運転する
タバコを吸う時は真剣にタバコを吸う >>278
たとえばこの運転で、信号で止まるときとかに、最後、カクンってどうしても揺り戻しがあるでしょ?w
その「カクン」を無くす運転
最後ゆっくりブレーキをかけながら、速度が落ちるのと全く同時に、ブレーキを繊細にかけていく
そのほかにも、普通の人が絶対にやらないような運転の仕方をしてるけど。 >>278
>たぶん、こういう運転をしてる人は
人にもよるでしょうけど、特に意識する事なくそうした運転をしてますけどね。 ちなみに禅をやってる人は五感が人より鋭いんでスピード狂が多いです。
わたしもですが >>280
いや、それ、公道を運転してるからでしょw
世の中に自分一人しかいなけりゃ好き勝手出来るけど、乱れた心の状態で運転して事故でも起こしたら大変ですからね。 >>282
分かりますよ。
グーって沈む様なブレーキをかけて反動が来ない様に抜いてくんでしょ?
私も運転が好きだから、身体に負担が掛からない様にそうした運転はしてますよ。 >>285
ああ、「運転に集中」というのを、サティの意味で捉えてた
通常の運転に支障が出るっていう意味じゃなくてw
いや、そりゃ、運転に支障が出たら、休憩が必要でしょw
でも、運転自体に集中することを行としてやっていた場合、
それがつづかないからといって、仕切り直す必要はないでしょ? >>287
そうです。
ピタッと止まるときに、少しも後ろに反動が生じない
ふつうはどんな人でも、必ずカクってなるでしょ
相当繊細にやらないと、そういう風には出来ないですよ 昔は職場でも理不尽な事とかよく感じてたが、今は何が理不尽なのかわからない。
どんな仕事でも淡々とやっている。
それが行き過ぎてもはや国が本当の危機なのに
みんな現実逃避しかやらない。 >>276
悟りに近づいてるの?w
よくわからないよね、あなた
言ってることはホントっぽいけど
ときどき凡夫に戻るよねw >>288
集中する事が行であれば、集中から外れたら集中に戻るのも行じゃないんですか?
そもそも坐禅って定な訳で、集中する事ですし。
実際問題、坐禅してて公案なり数息観をやってて雑念が沸いて止めどもない時はその一本は捨ててますね。
次に集中すればいいやってw
まぁ、再び集中に戻すテクニックなら色々とあるんでしょうが。 >>293
ちょっとヤバイこと教えましょうか
真理が出始めると、物理的世界(時間と空間の世界)は崩壊を始めるんです だから念の前のところを維持するほど凄く時間がたつのがはやい。
朝おはようございますって職場に着いたと思ったら、あっという間にお疲れ様でしたと帰宅する日々。 >>296
>雑念が沸いて止めどもない時はその一本は捨ててますね。
>次に集中すればいいやってw
ちょっと揚げ足取りみたいになって申し訳ないんだけど、
ちょっとこういう突っ込みは良くないとは思うんだけど
あえて言うと、
ここの部分・・・
その一本は捨てる・・・ とか、次に集中すればいい・・ とか、
まあ、確かに、行的にはそういう風に考えるのは、ある意味、良いやり方と言えるかもしれないけど、
その部分に、「集中出来ないことは失敗」 という観念への捉われが現れているような気がしないでもないんですけどね・・・
ちょっとこれは申し訳ない
自分もちゃんとできてないのに、あんまりこういう突っ込みを偉そうにするのはよくないんだけど・・。 >>294
∞ノノハ∞
川^〇^ハレで何が言いたいの? >>295
時間は0だからね
時間は人間の「思考分別(エゴ)」が作り出してる
マーやーの源泉 そう時間は思考が作ってる
その継続している錯覚が自我を作り出してる >>296
う〜〜〜〜ん、、、、 失敗したから「捨てる」んですよね・・・・
ここなんですよね >>306
よく分かってるじゃん
でも、本当にあなたの言葉?
それ、結構、オレも話してるけど、受け売りじゃないよね?w
受け売りじゃなかったらスゴイわ 坐禅は集中じゃないんだけどね
はっきりさせておく感じ >>303
たとえばこれ>>309
まるでカムイ君みたい
言い方が。 つまり自我からうまれる自分があると言う感覚は錯覚なんだ。 >>290
>その部分に、「集中出来ないことは失敗」 という観念への捉われが現れているような気がしないでもないんですけどね・・・
そもそも集中する事が定ですからねぇ。
集中できない事は、まぁ、失敗って云えば失敗ですけど、集中してる時は集中してるって認識もない訳で。
"集中しよう!Wというそれが捉われかどうかは分かりませんけど、それが仏道の成就に資する捉われであればそれは善行だと思いますよ。
ただ、集中の為の集中はどうかと思いますけどね。 >>298
なんだこれ、これ、この前カムイ君だったっけな・・・
職場で時間がたつのが早いって言ってる人いたよね?
今具体的にこのレスを見ると、結構な心境だよね、それ?
受け売りで話を創作してるってことないよね?
もしそれが本当だったら、あなた相当いい線行ってるよw >>305
>一本捨てるより潔く寝る方が良い
一本捨てて坐禅しながら寝る時もあるw >>307
集中するのが目的ですから、まぁ、集中するためにそういう事する訳です。 >>312
う〜ん、そこでいうところの「集中」と、「集中しよう」ということは違うと思いますね
もっというと、「定」というのは、「集中しよう」という努力の先にあるものじゃないと思います。
別の言い方をすれば、「定」も「三昧」も、分別の働きが脱落したときに来る・・・ ということだと思いますね
つまり、集中しようしようとするのではなくて、ただ今において無分別になればいいわけでしょ?
ところが普通の人は、集中の先に三昧や定があると思っちゃいます、どうしても。 何度も言いますが坐禅は集中じゃないんだよね
多くの人が間違えて坐禅している
自覚する感じです。 >>315
そうか?
ガーゴーガーゴー船漕いて坐禅してるけどw >>312
無分別にただ淡々とやるって、あなたも言ってたでしょ。
決して集中しようとするんじゃないです。
無分別に淡々とやるというのは、傍がどうであれ、
目前の行うことだけをただやっているという状態です
そこには集中も糞もなく、イライラも雑念もありません
ただ淡々と、です
そして、このただ淡々とこそが、完全に淡々となった時に、そこに三昧が起こり、定に向かうということだと思いますね 集中して歩くんでなく、自覚して歩く
これを坐禅に変えるとわかりやすいかな。 だからみなさんの想像以上にわたしは意識はっきりさせながら坐禅してます。 >>322
ああ、なるほど
つまり、ヴィパッサナーのような
ただ、座禅は違うような・・・・
座禅と歩行に対するサティって、行の仕方が違うからね
座禅は自覚とかないでしょ
「ただ」だよ
サティは気づかないといけない ただとは坐禅中なんの念も出ない時
意識ははっきりしててスカッとしてますよ
ずっと持続しませんが、これがどんどん持続していけば良いんでしょうけど。 >>298
だからどうしたって事だよね、老人になると1年が早いw1日なんかは起きたら夜が直ぐ来てもう寝るwみたいななwww
しごと >>320
???
集中しようとしてる時は集中してないのであって、集中してる時には集中してる認識も無いって事でしょ? だから仕事が全然苦にならないんですよ。
むしろ楽しい >>320
ここで「集中も糞もなく、イライラも雑念もありません 」と言っているのは、
集中やイライラ自体がないと言ってるのではなくて、
集中やイライラがいくら傍にあっても、ただ淡々と行う、その行うということだけがある、
という感じです。
つまり、イライラがあってもいいわけですよね
イライラがあったら行が進んでないような感じがするが
そもそも行というのは、そんなにすぐに成果が出るもんじゃない
イライラが無くなることが成果と捉えると、それが無くなって集中できると
成果があったように感じるでしょう
しかし、本当の成果というのは、いかに淡々と、その目前のやっていることを、
やりつづけることが出来るか・・・ ということです
何があっても行うものがただある・・・ イライラや雑念に、ああしよう、こうしようと思いが動かない
いわゆる不動心
イライラの深度は関係ない
集中できなくても、淡々とやっている
イライラと淡々とやることが同居しているが、
決して同じお皿の上にはない
だから相対さない
これがハスの華の教え >>308
何がスゴいの?だったらその辺の老人は皆なスゴイ!でしょ、1日とかw1年10年が早いって言ってるのに、それに職の匠の1日は内容濃くてあっという間だぞ、慣れだよ慣れw 日常に結びつかない禅は間違ってます。
禅は日常と直結してます。 >>326
オレも、あっという間。
誰か、自慢しているのか? >>325
だから其れが禅定の定ってものなんですよ、完全に、自動的な潜在意識下の思いに成らない妄念の反芻が静止しなければ、一時的な禅定から恒常的な八識転変からの悟りは起きないのね 放っておいても三昧・禅定に至る事もあるのだろうけど、禅宗では公案や数息等を使う訳で、掛かる意味に於いてそこに集中するのはなんもおかしくないと思いますけどね。
守破離って言いますけど、集中しようとして集中しているうちに集中も忘れて、つまり三昧になるんでしょ?
集中しようというトリガーは必要なのでは? >>329
イライラや雑念のままに淡々ととか、仰っしゃりたい事は分かります。
私はそのW淡々とやってる事が自体が集中なんですよWという文脈で話してます。 念が先で自分が後
これが面白いね
自分が念を出してるわけでなく念が自分を作り出してる。 つまり、気付き自体がリセットするだのしないなどに勝る事、というのが自論です。 >>338
なんで?
あなたはその何故が分からないのにそういう事をドヤ顔して言うから言葉が空回りするんですよ。
そこらの仏教書の受け売りと口真似だけ。
例えば、涙が出るから悲しくなるとか、そうした臨床例(受動意識仮説等)があるんです。
仏教的にはそうした現象が阿頼耶識末那識を通じて意識に登るからってあるんですけどね。
知ったかは白けるんですよ。 そう言う意味での気づきね
ならば歩いてる時はたえず歩いてることに気づきながら歩いてます。 自分から念が出てるでなかったら
念はどこからきてるのってなりますね。
この問いがまた面白い 自分というのは、どうやら他との区別に於いて構成される五蘊としての総体のはたらきをそう称してるだけのではないか?
そうした考察も顕れてくるんです。 縁に従ってやってくと、いい悪いの判断が出来なくなるよね。
ただやっていくだけだから。 心が起こる時、脳内でニューロンの反応が同時に起きているっていうんです。
仏教でも、意識は常に前五識(眼耳鼻舌身)に倶起する、って云われてます。
しかし、ニューロンの反応が心の働きに関係する事は分かっていても、それ(脳)が心であるって事、つまり両者をつなげる何かが分かるに至ってないそうです。
例えば、針を皮膚に刺すと反応が起きても、それが何故に痛みとして心が起こるかという事の説明が付かないそうです。 そりゃ体さいてどこ探しても心が見つからないから無理な話 だとすれば、念が起こる時、脳=念っていうのは成立しないにしても、脳内でニューロンの反応が同時に起きている事は容易に想像が付きますし、そのニューロンの反応が何かしらの外的乃至独自の刺激によって起きている事も想像何つくでしょう。
で、その刺激というのは縁起に他なりませんし、縁起には此縁性と相依性があるって事です。
此縁性を求めれば無限遡及になりますし、相依性を求めれば同時としか… >>346
>そりゃ体さいてどこ探しても心が見つからないから無理な話
果たしてそうかな?
そう言い切れるのかな?
仮説の域を出ないけど、心は素粒子よりも小さな量子で構成されていて個体の死後に宇宙に拡散されるって説もあるらしいけど。
現代哲学では心の哲学で扱ってる問題だけどね。 今ここで話した事は、心の哲学ではW意識のハード・プロブレム問題WとかWなぜ私は私なのか問題W或いはW今・ここの問い問題Wとかの問題に連なっていく事だけど、そうした問題に応えられなくては仏教もダメじゃないかと思うんです。
勿論、思考以前、問題の解決ではなくて問題そのものを解消してしまうのも仏教的な答えであるのは百も承知で。 >>348
>念は即今から来てます
何処かしらから来てるのなら、それは即今じゃないよ。 〈
毛が三本♪毛が三本♪ってオバケのQちゃんかよ❗って古いな☺
毛が三本足りないのは猿🐒だろwwwじゃねえな、ヴァカだな
〈 心は物質じゃなくて機能そのものだから体割いたら機能が壊れて心が無くなるのは当たり前。 念の説明は今起こってることを記憶から説明するしかないから、
人に念は念はと言うこと自体が過去の説明。真実は体験そのものにある。 私が悟るまでの過程(山田有師ヤマダリシ)
http://blog.livedoor.jp/lisiyamada/archives/34174731.html?ref=category383841_article_footer4_slider&id=7485345
面白いよ、彼の数十年に及ぶ修行遍歴のまとめ、最後にある禅師の座禅会で悟ったと言うお話し、その禅師に決着が着いたと認めてもらったようです
彼が悟ったとする内容に対する俺の見解は、確かに主人公となり中心が定まったようですね、リシは
彼と俺の共通点は、彼は禅師の座禅会で悟れなければ50歳で死ぬと決定して臨んだ、俺も23歳のしてこの行で悟れなければ命を絶つと誓って決定して100日行に臨んだことがある、最後は覚悟がものを言う、だらだら何十年は不必要でないかと思ってたな当時は 今回の接心で悟れなければ死のうと遺書を残して挑んだそうな。
その人は悟れましたね。 人は本来孤独です。
何故ならば対立する相手がいないから。
つまりわたしはあはた、あなたはわたしである時、孤独です。
しかし、そこに孤独感はありません。 カムイ禅は虚無僧ならぬ《 坐!コ ミ ュ障 (僧) 禅! 》何だろ?なんかカッコいい
カムイ禅は虚無僧ならぬ《 坐!コ ミ ュ障 (僧) 禅! 》何だろ?なんかカッコいい なんかどうにか反論しようと必死なだけでなんもわかってない人 >孤独とは、他の人々との接触・関係・連絡がない状態を一般に指す。
> 「自分がひとりである」と感じる心理状態を孤独感という。
>(ウィキペディア)
仏教云々以前に、自他がなければ孤独もないって論理的な帰結を得るだろうに。
バカムイだから仕方ないかw >>334
>禅宗では公案や数息等を使う訳で、掛かる意味に於いてそこに集中するのはなんもおかしくないと思います
>集中しようとして集中しているうちに集中も忘れて、つまり三昧になるんでしょ?
>集中しようというトリガーは必要なのでは?
実際に深い三昧に入って初めてわかったことですが、三昧というのは一般的に言う、「集中」の結果に起こるものではありません
その三昧の状態を、{集中の状態}と言えるかもしれませんが、それは「我」の力が少しでも働いた「集中」ではありません
一般的に「集中」と言っているときは、「我」の力が働いているんですね
「我」の力が働きながら、三昧に至るということは、
矛盾していることがわかるでしょう
では、どうして集中の先に三昧があるように感じられるかというと、
集中しようと力を尽くしているうちに、その限界を超えて、自力の降伏が起こるからです
これは「勉強」に集中しているときも、些細な集中のときも、そういう原理が働いています
もちろん、行のときに「ただ行う」ということは意味があって、
ここで集中しようという働きがあっても、何があっても、ただ行っていれば、
自然にそういう方向に行く
だけど、それには24時間の隔絶された絶え間ない行がいる
ふつうにやってると、どうしても頭で「集中しよう」という働きが優勢になってしまいます
行がこれに勝てない
だから、この原理を理解して対処する必要があります 反論も何も、そもそも知障がおかしな事を喚いてるからだろ。 >>325
カムイ君、決定ですねw
>ただとは坐禅中なんの念も出ない時
あなたも、二元相対的な観念にとらわれているのがわかります
「ただ」とは、座禅がうまく行ったときの状態、だけのことをいうんじゃありません
どんな状態のときでも、「ただ」 です
修証一如 >>367
集中しようというトリガーがないと忘我だの無心だの三昧だのには至らないんですよね。
で、集中してるうちに忘我だの無心だの三昧だのに至る。
>その三昧の状態を、{集中の状態}と言えるかもしれませんが、それは「我」の力が少しでも働いた「集中」ではありません
我の力ってなんですか? >>367
>一般的に「集中」と言っているときは、「我」の力が働いているんですね
そうかなぁ?
数息観の「ひとおおおおおおおおおおおー つうー」に変えて「しゅううううううー ちゅー」ってやっても三昧・禅定に至ると思うけど?
で、そのW「集中」と言っているときWって、具体的にどんな時なんでしょうか? 無我なのにW我の力がはたらくWって仰ってるのが分かりません。
ないのもをわざわざあると妄想してそれはいけませんって言ってるように思えるんですけど、そんな面倒な事をするのなら、三解脱門で説かれてる三三昧だの、無所得・無所悟の坐禅ってアドバイスしとおけばそれで済むと思うんですけど? >ただとは坐禅中なんの念も出ない時
まぁ、流石にこれは的外れですけどね。
道元禅師の仰っているWただWって、教理的には三三昧だの無所得・無所悟、没蹤跡ってところでしょうから。 人にいちいち聞かないでご自身で調べるなりしてください >>378
自分で分かってないのに首を突っ込むなw W我がはたらくWとかW集中と言ってるWとか、私からすると少し考え過ぎの様に思いますけどね。
だって一柝木引磐四声で坐禅する訳でしょ?
(曹洞宗は違うけど)
パチン!
チーン、チーン、チーン、チーン……
別になんもないんですけど。
ただそれだけなんですけど。
余計なものもないんですけど。 >>370
「集中しようというトリガー」ではなくて、「ただ行う」ということが真のトリガーになります。
>我の力ってなんですか?
「計らい」のことです。
「集中しよう、しよう」という。 >>371
>数息観の「ひとおおおおおおおおおおおー つうー」・・・
これを、集中として、我の力を働かせるときもあれば、「ただ」やってる場合もある
二種類あるわけですが、一般の人は大抵、我の力を働かせて「集中しよう」としてしまう
これではなかなか真の集中に至りにくくなる
>そのW「集中」と言っているときWって、具体的にどんな時なんでしょうか?
たとえば、「集中(三昧)」の初期段階になると、頭の中に雑念が勝手放題に出始めて、コントロールできなくなることがあります。
いろいろなパターンがあると思いますけど、このパターンは、集中が一般的に言われる「集中しよう」ということではないことがわかります
集中しよう、しよう、としても、集中出来ない。
完全に自力の働きが脱落しかかってるわけです
もっとも、そこに至る過程で、激しい集中の行があったことは否めませんが、
その原理を確かにつかむと、もっと別の良い方法が選択できるはずです。 >>383
>「集中しようというトリガー」ではなくて、「ただ行う」ということが真のトリガーになります。
トリガーの根底には菩薩の四弘誓願がなければならないのですが、トリガーがこうでなければならないっていうのはどうかと思うますよ。
集中しようとするのも、ただ行おうとするのも同じ作為ですからね。 >>372
無我になったときの状態としての「集中」ということであれば、
それは「三昧」とか、そういうことですよね?
そこに至るまでに、「集中しよう」という我が働いてるわけですが、
普通の人は、その「我の力の働き」の延長に、「集中」があると思ってます。
この理屈がわかると、理趣経で言ってることの意味がわかってくるんですよ
たとえば、公案というのは、「集中しよう」ということではないですよね
我の力を尽くして尽くして、それでもどうにもならなくなった時に、我の力の降伏が起こるわけです。
師家はその解答を聞いて、我の力の降伏が起こっているか、頭で答えているか、を
見極めるわけですよね
頭で考えて答えを出しているうちは、ダメなわけです >>383
>「計らい」のことです。
>「集中しよう、しよう」という。
それは分かりますけど、実際問題、坐禅中に集中状態から外れた気付きがあったとして、そこで終わりじゃないんですか?
W集中しよう、しようWとか思いませんけど?
再び公案を練ったり、数を最初から数え直したりとかそれだけでしょ?
考え過ぎじゃありませんか? >>384
>あなたに説明してもしょうがないです。
>>385
>あなたが理解できるはずがないんで
はいはい、放棄ね。
サヨナラ。 仕事でお金数えるんだけど、数えてる数字がポンって抜けるから数えにくいんだよ。
継続しない弊害かな。 本当サヨナラして欲しい
二度とかかわって欲しくない >>386
>これを、集中として、我の力を働かせるときもあれば、
ないないw
そんなのありませんよw
「ひとおおおおおおおおおおおー つうー」の時は「ひとおおおおおおおおおおおー つうー」のみです。 >>387
「ただ行う」を正確に行った場合、それは作為にあたりません。
正確にいうと、分別が介在しない
集中しようという時は、分別の働きの特性があります。
いわゆる、二元相対の観念に陥ってる
ただ、「ただ行う」というのを、意図的に、良い状態を求めて行ったのならば
それは作為ということになります
どんなものでも意図的でないものはありませんが、作為が働かない方法と、そのための意図を働かせるという
接点があると思います
これは非常に難しい考え方ですが、原理としては簡単です。
一般的の人は、「ただありのままにみる」と言われて、一生懸命、ありのままに見ようとします。
「ただ行う」という方法を、一生懸命、頭で考えます。
「ただ行う」とは単純ですよね
「行う」ことと、現在起こっている状態とは、一切関係なくなるということが、
「ただ」の真の意味です。
「雑念」があっても、「行うこと」と関係なければ、それは「ただ」です >>388
>そこに至るまでに、「集中しよう」という我が働いてるわけですが、
ここなんですが、意識を意識する事はできませんし、考えながら考える事は出来ませんから、八識でいう第六識の意識が「ひとおおおおお つうー」ってやってる限りは我がはたらいているとは思いません。
つまり、末那識にて集中しようという我がはたらいているって事を仰りたいのですか? 「雑念」と「行うこと」がリンクしている場合・・・、
たとえば、雑念があって勉強しにくい・・・ というのは、「ただ」ではありません
雑念があっても、勉強しにくい状況があったとしても、それとは関係なく、勉強という作業が行われている・・・
これが「ただ」です もっと端的に
一心不乱にするのがただ
一行で済みます。 >>388
公案については全くの見当違い誤解をされてますね。
そのはやめた方がいいですよ。 >>393
いや、無意識のうちに働いてますよ
なぜそう言えるかというと、それが「悟り以前の普通の人間のマインドの特性」だからです。
たとえば、何かでその「行」への集中が途切れたとします。
そうすると、元の集中した状態に戻したいという想いが働くでしょ?
こういう、良し悪しの相対分別が、常に起こっているのが、
仏教でいう人間の不幸の原因・・・ ということになります >>398
では、あなたの公案についての見解をお聞かせください 不幸!(^ω^)👍
幸福!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>394
集中しようとかただ行うとか、そうした分別がトリガーになるのだから、それはそれで別にいい訳ですよね?
で、坐禅等で集中する。
集中してる時は集中もなければ我の働きもない。
で、集中から外れてたらまたトリガーを引く。
それだけですよね?
何かおかしいでしょうか? 坐禅は集中じゃないんだけどね
何回言っても無駄だな >>403
確かに、それをトリガーとして考えてもいいです
ただ、それには、相当やらないとダメですよ
24時間、それこそ、僧堂などの隔絶された環境が必要になります
たとえば公案なら、24時間打ち込むということが必要になってくる
そうしないと、我の働きの降伏のところまでは行きにくい
そういう、24時間の間断のない行・・・ という前提で、それはトリガーになると言えるでしょう >>405
それは受け売りですか?w
言葉を理解しているだけでも、評価したいですがw >>399
>たとえば、何かでその「行」への集中が途切れたとします。
>そうすると、元の集中した状態に戻したいという想いが働くでしょ?
>こういう、良し悪しの相対分別が、常に起こっているのが、仏教でいう人間の不幸の原因・・・ ということになります
いやいや、違いますよ。
集中から外れて公案を練り直すとか数を最初から数え直すとか、そりゃ無記(良し悪しではない事)でしょ?
ひいていえば、無分別の分別ですよ。 そのトリガーは、正反対のものを際立たせるトリガーと言えるかもしれません
自力を尽くすことによって、それが間違いだとわかる
そうすると、ストンと、脱落するということになるかもしれません 坐禅は例えば息に集中するんでなく息をはっきり意識するですね。 >>400
話せば長くなるけど、体型的に整理された教育体系ですよ。
法理を理解して実生活で活かし更なる向上を目指す為の方便って事です。 禅は端的な言葉で表せれるので
話せば長いとかわかってない証拠ですね。 >>408
数を数え直すわけではありませんが、良い集中が得られていたときに、
雑念や外的要因によって集中が途切れたとき、
そのまま数は数えているとは思いますが、
「失敗した」という感じで捉えているはずです。
そして、集中した状態にまたなりたい、と思うはずです。
これはそう思う・・ということではなくて、反射的なレベルで・・ という意味です
自分でそう思ってなくても、誤魔化してる場合がある
自分は「ただ」行っているのだ、これは「失敗」ではない、とね。
だけど、心の奥深くでは、上手く行かなかった、上手く行かせたい、という反応が
起こっているはずです ちょっと時間がないので、また夜にでも目を通しますね >>406
>そうしないと、我の働きの降伏のところまでは行きにくい
要するに貴殿の仰りたいのは、
そのW我の働きの降伏するところWに行くのに我を用いては血で血を洗い流す様なもので綺麗にはなりませんよ?
って事ですよね?
…まお、今更それがどうかしたのって感がありますけど、そうした警鐘をこれから行を始められる方向けにネットで伝えるのは大事でしょうね。 そう今日の坐禅はよかった、今日はダメだった。
これをやめるってのは禅寺で初歩で教えられること。 あんたが書き込まなければ間違った方法を伝えるものがネットから一人減るんですけどね。 >>395
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ横山紘一さんが念定慧って言ってましたけど
念って坐禅に集中しようとする気持ちって捉えたら良いんですか?
念定慧から念に戻るとも言われていました
坐禅を始める菩提心と坐禅を終える菩提心とは違うんでしょうか? >>413
>だけど、心の奥深くでは、上手く行かなかった、上手く行かせたい、という反応が起こっているはずです
まぁ意識下ではそうした念が起きているのかもしれませんけど、それをその場で意識するよりも、そんな事は気にしないで普通に最初から数を数え直すだけの事ですよね。 坐禅してない人からすれば坐禅なんて坐ってるだけと思うかもしれないけど、実際坐ってる人はあれやこれや自分で工夫して結構苦労しているものです。 試行錯誤の連続です。
そう言うのなくなっていってやっとただ坐る
只管打坐になって行きます。 >>419
>川^〇^ハレ横山紘一さんが念定慧って言ってましたけど、念って坐禅に集中しようとする気持ちって捉えたら良いんですか?
仰る通りです。
念定慧の念とは集中したりなり切ろうという心のはたらきを云うそうです。
念定慧から再び念に戻るというのはそういう意味でしょうね。
例えば数息観から外れたらまた一から数えて直す事の様です。
>坐禅を始める菩提心と坐禅を終える菩提心とは違うんでしょうか?
分かりません。
無辺なれば終わりはない様な気もしますけど。 >>425(補足)
「ひとおおおおおおー つうー」というのかその念って事の様です。 >>425
∞ノノハ∞
川^〇^ハレありがとうございました 自分を知ったら次は自分を忘れる
しかし道元禅師はうまく表現したもんだ。 >>415
ちょっと思いついたので一つ。
「集中しよう」というのと、「気づき」を分けないいけないような感じですね
「集中しよう」というのは、深度がありますよね
より深く・・ とか、浅いとか。
だけど、「気づき」というのは、深度は関係ありません
「気づき」に浅いも深いもない
ただ「気づいているか」「気づいていないか」の問題。
数息観をただ行うというのは、気づきを持続させるということですが、
それでも、今日は上手く行った、今日は上手く行かなかった、
そして、今回は上手く行かせよう、
という、想いの働きは起こるはずです
これが起こると、行が挫折しやすいか、
あるいは、ただの心の心境の改善・・・ 自己啓発のマンネリ化した行になってしまう
30分瞑想やってスッキリしたとか。
「気づき」には、集中が深いとか、浅いとか、関係ありませんよね
これがリンクしてしまうと、上手く行った、行かなかった、という観念が出てきます
問題は、ただ淡々と気づいていられるか・・・ ということ
良し悪しを働かせずに。
たとえば、息を数えるにしても、うまくやろうとして、深く入ろうとしながら、
やってるときもある
ただ淡々と気づいている・・・ という状態じゃないような。
だから、「ありのまま」というわけですよね
ヴィパッサナーの考え方は非常に重要なんですけど、これを多くの人が間違えて行っているような感じです。
気づいていればいいんだから、そこに深い浅いを気にする必要はないわけですよね
「深く入ろう」と「作為」する必要もないわけです 仏道をならふというふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
本当これの上から順番になるもんな。 深く入ろうとすると・・・ つまり、上手く行かせようとすると、必ず失敗の観念に遭遇する
上手く行く、上手く行かないの間を、行ったり来たりすることになる 集中しよう、集中しなおそう……
それって信があるからではないでしょうか。
親鸞さんみたいになりますけど、その信に自力があると事に気付く事の繰り返しによって自力の落ちた信に純化されてゆくみたいな。 30年坐禅やって来た人の言葉ではない
嘘ってすぐ見分けられるんよこっちは >>431
>上手く行く、上手く行かないの間を、行ったり来たりすることになる
いいんじゃないんですか、それはそれで。
それでやがて気づくんでしょう、自力で上手く行かせようとする坐禅に。
私のいう上手くいくは、そういう自力のない坐禅の事を最初から言ってましだけどねw 性格異常の鹿野園にレスすると、
性格異常の鹿野園に指摘されるという悲しい結末になる。
鹿野園を居ずかせた奴の積みは重い笑 坐禅!(^ω^)👍
動中!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ 知障はいつもこれw
379 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/02/14(日) 09:55:26.31 ID:y6cfZoTi
>>378
自分で分かってないのに首を突っ込むなw
380 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/14(日) 09:57:31.72 ID:lqeGaaNI
わかってるから書いてんですけど頭大丈夫?
381 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/02/14(日) 09:58:27.89 ID:y6cfZoTi
>>380
なら説明して見せろw
384 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/14(日) 10:08:22.98 ID:lqeGaaNI
あなたに説明してもしょうがないです。
385 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/14(日) 10:08:39.76 ID:lqeGaaNI
あなたが理解できるはずがないんで で、だ。
理解来るかどうかは説明がしなければ分からないよな?
www 事の本題は、俺が理解出来るかどうかではなくて、バカムイが分かっているか否か、なんだよ?
分かっていれば説明は出来るし、分かってなければ説明は出来ない。
分からなくて説明出来ないのか、或いは分かっているのに説明しないのか?そんなのは関係ない。
しない=出来ないって看做すからw はい、結論。
バカムイは分かってないのに首をつっこんだだけ。
以上、結審w >>359
私が悟るまでの過程(山田有師ヤマダリシ)
http://blog.livedoor...lider&id=7485345
このリシさんの悟りの前に起こった神秘体験や記憶の喪失は、前後するでしょうが
悟る時に【 必 ず 誰 に も 現 れ る こ と で す 、】
もしこの様な事象が自分に何も起こっていなかったとしたら、其れは未だ悟りに近く無いと言えるでしょう
そして、禅師に確認された決着が着いたと言われた内容は、全ての修行者に当てはまることなので、
【 自 分 が 悟 っ た と 思 っ た 方 は 、】これを基準にして点検されると良いでしょ
う 、さすれば其れが悟りかどうかがはっきりするでしょう
。 職場で嫌いな人間いなくなった。
必ず一人はこいつがいなければっての居たんだけどね、不思議。 こいつ!って思ってもいつの間にか修復するんだよ。
無常だな おそらくそいつに対する嫌いって言う塊がないし、そいつのイメージがあまり蓄積されないんだな。 つまり、好きという思いも嫌いという思いも蓄積しない。
禅やっての弊害として恋が出来なくなるかもしれんな。
相手に対する思いが蓄積しないし継続しないんだ。 あんたのくだらない仏教用語の羅列よりよっぽどいいこと書いてんだけどね。 457
同意。
知障とか、精神病院とか、連呼する人物が、御立派な仏教用語かい? 知障の自惚れであって自画自賛www
↓
457 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/14(日) 14:44:03.95 ID:lqeGaaNI
あんたのくだらない仏教用語の羅列よりよっぽどいいこと書いてんだけどね。 >>459
性格異常者の鹿野園とレスする事自体が不毛。
性格異常者らしきレスする精神状態は
仏教学ぶ以前の問題。 >>452
職場で嫌いな人間いなくなった。
やっと普通の人間になって来たってこと、何も特別じゃないぞ
そんなこと書くと、存在は必ず君を試し見ることをしてくるw 其れが彼らの遣り方
その内に、何処かでこれまで出会ったことの無いほどに特段嫌な奴が身近に現れるかもね、これはどうだ!と言わんばかりにね
その段階の上もあるから、今度は職場の人間1人1人に親和性を持ち共感を感じられる段階に至る、その上が そのうえがまだ有るけど言ってもしょうがないから止めた >>459
ばかだなあ〜こう思わないと
鹿野園老師の それ、お前らが知障だからでしょ?
何度もいうけど、議論にハンディキャップは付けられないし、お前らと議論になれば当然の如く論破・瞬殺してしまう訳なんだから、知障とか精神病院とか、それお前らが言われても仕方ないだろ?
関心を持つのは自由だけど、議論に絡んでくる事自体無茶苦茶な訳なんですよ。 事実はなんにも変わらないが事実とのフィット感が変わる。 >>466
鹿野園老師 の 知障・精神病院は、存在から自分に対する棒であり喝であると、ね
何故なら鹿野園老師はこのスレにわざわざおこし下さったのは、存在の計らいであり、自分の慢自惚れを気付かせてくれる為であると・・・
自分が更に主人公として悟れるようになれば、鹿野園老師の棒喝も笑って客観視出来るようになる、それ迄は鹿野園老師の知障・精神病院の棒喝は君を容赦無く打つであろうてw >>469禅ではそれを成り切ると言う
悟りはそんな処にないぞ、遥かに大きい!想像もつかんくらいに
もっと上を目指せ >>471
じゃあ悪態つかずにニヤニヤでもしとれ!
。 >>468事実はなんにも変わらないが事実とのフィット感が変わる。
君が本物になったら周りが変わる、事実が変わってくるようになる
君は環境と自己の間に壁を作って閉じ籠ったんじゃないのかな?穴蔵に
それならイヤな奴も気にならんから、それじゃ無ければ良いがね〜
イヤな奴は誰が見てもイヤな奴なんだが、自分が相手した時に、それを在るがままに分別心を働かすこと無く見られる、または赦せるなら、君のこころはニュートラルで差別心が無いということだな >>476
少しづつ角度を変えながら打つんだ
じゃあお望みなら現実生活で、理不尽にも君に突然殴りかかる輩と遭遇するだろう
その時に、平然と受けで避けれて、こころが平常心を保っていられたら、その時は存在も君を認めるだろう >>477
その説法を鹿野園くんにしないのですか?
鹿野園くんは異常過ぎるので、
見込みのあるカムイくんを指導なんですかね? 実際そうなったらね
禅ではもし、たらの話はあんまりしないんでね。 >>478
なんだ!君のは遠目で眺めていてイヤな奴が居なくなったとか言ってるのかあ? >>481
いや君が言葉にした以上それは近々起こるだろう!必ずな もしかして自分の方が下なのに上に立ちたがるやつ多すぎるな >>480
鹿野園老師は地の塩じゃないのかね?無ければ味気ない 麦さんがいい話題振って来たじゃないですか。
念定慧の繰り返しって。
それが仏教の瞑想の基本って事でしょ?
ムーでも、ひとおおおお つぅでも、それになり切ってる心の有り様をW念Wっていうんでしょ?
そしてそれが定慧に花開く🌼とw
バカムイのオナニーよりよっぽど分かり易くて論理的ですよ。 >>484
存在の法則知らんのかあ?アイやあ〜まいった! >>490
だから職場にイヤな奴おらんと言いつつここで鹿野園老師というイヤなが現れてくれるんだぞ! 有り難いと思えよ
鹿野園老師はお前に気付きを与える為に存在が送り込んだ菩薩だぞ!感謝感謝で迎えろ >>491
>成り切ってる様が念だと
>まじかこいつ
なら何だよ?
説明しろよ? 一応根拠をあげとくから。
https://i.imgur.com/6rRgM7t.jpg
(唯識の思想 横山紘一)
説明してもらおうか? 借り物も何も、それを念って名付けてるんだよ。
おそらく五位法由来だから、仏教では2000年来そういわれ続けている大事な言葉だろうね。
で、説明は? 俺にじゃないよ。
仏教で2000年来言われて来たW念Wを違うって否定したんだから。
あからさまに教義を歪める様なそうした発言や言い逃れは認められない。 >>497
君の正念の概念が間違ってるな、パーリー経典の禅定の説明にも、思慮分別を去った処として言語としては正念をあてているがな >>501
へ〜イヤな奴居ないんだろう? 価値無しとかw 露骨にイヤな奴扱いしてるではないか? >>505
>無念と正念はおんなじ
>これでわかっただろ
wwwwwwwwwww
正念という念はなくて無念という念があるのか? >>504.
鹿野園くんにも教えてあげてぐださい
良心があるなら笑 これは流石にないだろw
間違ってるのなら早めに撤回するよなぁ〜w
それとも我が増長し過ぎてサラッと撤回出来ないのかなぁ〜
491 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/14(日) 16:27:43.86 ID:lqeGaaNI
成り切ってる様が念だと
まじかこいつ >>507
職場ではイヤな奴が居なくなったがここでは沢山居ますって・・・何なのソレ
わざわざ職場ではイヤな奴居ませんとか書く意味が分からない? >>505 無念と正念はおんなじ、これでわかっただろ!
違うなっ! 無念とは妄念の去った処、もしかしたら虚無かも知れんし
正念とは悟りの根拠でありそのもの、覚醒している様、妄念と交わる事なき処
無染、不染の念 >>517
おいおい止めを刺すなって、今ググってる最中なんだから、再起の余地を残しておいてくれ カムイがボンクラ過ぎて、
鹿野園がマトモ扱いされるのさ笑 鹿野園がしゃしゃり出たの許す流れになった時点で、
カムイはボンクラ故に自壊作用パターン
が確定なのさ笑。 カムイくんに残された道は、
悟りスレで元オウムの動きに連動して
鹿野園と報復ファイトするしか道は残されていない笑。 鹿野園は実践は怪しいが、禅の知識は、カムイより優れている一部の面があるからな笑。 カムイのレス自体に味方するやつはいないからな。
カムイ当人の自力勝負だからな。
カムイ自ら余計な隙を作って叩かれる自爆芸。
カムイくんは、ついついたれ流してしまう習性があるし、
他者を納得させる力もない。 カムイくんは、悟りスレで、
元オウムと、コジ、魚の動きに連動して、
栄進をスルーして、鹿野園に一点集中攻撃の
空気を読むアタマの体操をお勧めする。
自分の願望優先でレスするのではなく、
スレの流れを大局観をもってレスする訓練から始めた方がいい、
カムイくんの妄念を活かすレスで役に立つであろう。 鹿野園が喜ぶのが目に浮かぶ笑。
大局観だよ、カムイくん笑。 カムイとでおーならカムイだろ。
馬鹿じゃねーの、(°▽°) カムイは坐ろうとしてるし実際坐るけど、でおーからそんな話を聞いた事はは一切無い。
でおーは周辺で口先で騒いでいるだけ。
屑。 カムイがダメなのは承認欲求が過ぎて、また、他人の体験や知識に対する妬みや嫉みが根深いから。
だから劇場型ねぇねえ見てみて禅になってる。
んなもん坐禅会でムーって殺してくるんだよw >>527
いや鹿野園はでおーの本質を良く判っていない、何で寺院や教会やあらゆる宗教に興味を持てるのか?
ここに注目出来ないと彼の本質を見抜けない、今生興味を持てると言うことは
過去世の学びまで考える必要が生じる
だから今生修行をして無いと云えども侮ってはならないと思うよ、産まれながらの能力者はざらにいるから、俺も何人か知っている、それと同じと思った方が良いですよ まぁ、元々馬鹿だから仏教用語を出されても珍紛漢紛なんだろうけどな。
でも、仏教用語も所詮は体験から作られた用語だし、学が無くとも字を見て直観で分かることもあるはずなのに、何でもかんでも分からないのは経験不足って事。 >>529
社会で自己実現出来ないとそれ以外で行おうと思う気持ちは分からないでもないが >>432
「信」と「自力」は両立しないです。
「信」=「お任せ」ですから。
>>435
それは禅の初歩のことを言ってるんじゃなくて、もっと深い話をしているんですよね・・
頭でどうこう考えるというよりも、もっと反射的な問題。
ここは突き詰めれば難しいので、座禅とかはこの部分をすっ飛ばすわけです。
「ただ」という言葉で。
普通の人はこのところを考えてもわからない。
だから、「ただ」やらせていくわけです。
これは24時間の隔絶した環境での行ならば、それの意味があると思います。
しかし、一日3時間座禅をやりました… ということでは、
残りの21時間に飲み込まれてしまいます。
この21時間で、人は反射的に、この良し悪しの相対観念に飲み込まれています
たとえば、前で言ったように、寒い日に風呂から出るときに、
もうちょっと浸かって寒さから逃れるか、それとも、スパッと上がって寒さを振り切るか・・
この相対の反応のことを言っています
いずれも「寒さ」と相対してます
「寒さ」をなんとかしようとしてる
これは「ただ」ではありません。 統語的に成立して反証不能で超主観的な言辞を重ねると、その相手が何やら自身が不可知の領域としてるそれを知っている様に錯覚を起こす事がある。
カリスマ的なカルト宗教の教祖はそうした仕組みを知ってるんだろうね。 鹿野園くんらしい三毒怨念臭プンプンさせてますなあ笑、
ま、面白いけど。 カムイくんは不要に垂れ流す、
鹿野園は刺激すると三毒丸出しになる。 >>534
>この21時間で、人は反射的に、この良し悪しの相対観念に飲み込まれています
御名答!
鹿野園が面白いのは………。 通常の良し悪しの判断よりも、もっと深い反応です。
反射的な反応です。
表面的な良し悪しの、頭で考える反応の前に、この我の本能的な反射が土台にあります。
この反射を越えるには、「ただ」が非常に有効ですが、通常の軽い行では、
この反射に飲み込まれてしまいます。
たとえば数息観で、集中がどうしても上手く行かなくなったとき、「なんとかしよう」とするでしょ?
これは「頭」というより、反射的です。
そこで「ただ」を透徹させていくわけですが、最終的に、「なんとかできない状況」にぶち当たった時に、
遮断された環境できちんと正しい指導をされている場合は、それをも「ただ」で透徹させることが出来ますが、
通常は、「なんとかできない状況」にぶち当たった時、「行」の目的が反射的に、「なんとか出来る状況」を求めているとするならば、
そこで「行」を中断せざる負えなくなってしまいます。
もしくは、「なんとかできない状況」にぶち当たるまでやるのではなく、ただ心境を良くするためのリフレッシュ感覚でやっていく
あるいは、ただ軽めにやっていく。
その場合、24時間やるつもりでなければ、効果は霧散してしまうでしょうね >>534
そろそろまとめさせて頂きたいのですが、まぁ、対治って事ではありませんか?
唯識仏教等ではそうした構造を立ててますけどね。
対治とは則ち、五位法をご覧になればより明確に示されてますけど、不信があるなら対治としての信を心所をはたらかせるし、貪に対して無貪の心所をはたらかせるのってことです。
心の散乱の対治として集中、定の心所をはたらかせるというわけです。
私はその様に解釈致しました。 座禅も公安も同じですよね
反射的にだろうが、表面的にだろうが、どうしても、頭で「なんとかしよう」と尽くしてしまうのです。
しかし、「ただ」ということが透徹していれば・・・ つまり、公安を考え続ける・・・
あるいは、座り続ける・・・ ということがあれば、
やがてはどん詰まりに行き詰る。
頭で考えないものが出てくれば、頭で考えようとしてきたことが、
最終的にはどん詰まる。
そこで交代するわけですよね?
ところが、短時間の行や、軽い行では、どん詰まるところまでは到底行かない
だから、行の発想を転換する必要があるわけです >>539
過去の人間関係や、
蓄積した仏教知識に依存して、
リセット、初期化できない、
そういう自分の心を観察する必要がある。
止観の観ね。
仏教知識をいくら蓄えても、禅修行しただのと
自分の心の動きを無視して、放逸させたままではね。
禅の欠点は、自分の心の観察を細やかに組み立てていない欠点がある。
故に、自分の心の観察ができて、初期化リセットできていて
師匠選びの鑑定眼がある奴しか禅の門は開かれないだろうな。
カムイと鹿野園が永久にダメなのさ、
そういう面で。 >>540
「対治」というのは今ちょっと調べましたけど、誤った教えじゃないですか?
説一切有部とかの。
詳しいことは分かりませんが、ちょっと読んだところでは、
あ〜、これは間違ってるな〜、と思いました
しかし、同時に、「同治」という言葉が出てきました。
そこでつながったのは、「対治」という考え方は、反射的反応といっていい
二元相対的な人間のエゴの本能です。
そして「同治」こそ、中道の道です。
極寒の日に風呂に入っているとき、そのまま寒さを逃れて浸かり続けるというのと、
あるいは、寒さを振り払って一気に風呂を出る・・・ これらは、寒さの苦痛に対する「対治」ですよね?
では、この中間ってわかりますか?
ずーっと言ってなかったけど。
これは簡単に誤解される恐れがあるので・・・。
これこそ、「同治」なんですよ 「対治」に対する「同治」・・・ これはいい言葉だ。
まさに、今まで言ってきたことは、この話。 >>542
レスしたいけど、レスしがたい・・・
ちょっと難しい
何と言っていいか・・ >>544
>「対治」というのは今ちょっと調べましたけど、誤った教えじゃないですか?
>説一切有部とかの。
これは酷い。
余りにも酷い。
そういう発言はよく調べてから、また、よく注意されてからされた方がいいですよ?
あなたは仏教徒では無いにしても、こうした他宗教への批判はご法度ではありませんか?
>「対治」という考え方は、反射的反応といっていい二元相対的な人間のエゴの本能です。
全く違いますね。
とんでもない誤解です。
対治というのは、プラチパクシャっていうそうですが、止悪の結果生じる興善ではなくて、例えると闇に対する光みたいなものです。
闇は光と共に消えます。
つまり、もともと闇があるのではありません。
善心を起こせばそれと同時に悪心が消滅してしまうって事です。 俱舎論っていうのは、「説一切有部の教義を体系的に論述」したものではないのですか? >>543
>極寒の日に風呂に入っているとき、そのまま寒さを逃れて浸かり続けるというのと、あるいは、寒さを振り払って一気に風呂を出る・・・ これらは、寒さの苦痛に対する「対治」ですよね?
>では、この中間ってわかりますか?
湯冷めをしないようにすればいいじゃないですか。 説一切有部は仏教じゃありませんよ
彼らはお釈迦さまの教えを、真に信じられなかったんです。
そこで、あれやこれやと、自分たちなりに理解できる教えに変換した。 >>549
>湯冷めをしないようにすればいいじゃないですか。
それは出た後のことですかね・・?
寒さの苦痛に対して・・・ ということですが、
これは「出る時の」 という意味になります。 >>547
字の間違いはどうでもいいです
話の中身が問題です
字の間違いはすぐに気づきましたがw >>548
>俱舎論っていうのは、「説一切有部の教義を体系的に論述」したものではないのですか?
そうですけど? >>551
ですから、出る時に湯冷めしないようにすれば? >>553
「対治」というのは、説一切有部らしいですね
仏教の真がわかっていない
だいたい、三世実有 法体恒有 などと、およそ仏教とはかけ離れた教えを導き出したのは、
「無い」ということが信じられなかったからですよね
何ものかがあるはずだと・・・
そこでひねくりました。
これは仏教じゃないです。
なので、その人たちの教えが書かれた内容も、
真の仏教の教えじゃないですね >>556
それは「対治」になりますね
「なんとかしよう」としてるわけです。 「対治」とはいうなれば、「なんとかしよう」とすること、と言えますね もっとも、一般社会の生活では、常に「対治」ということが重要になってきますね。
しかし、それがために、「同治」に生きられない >>557
>「対治」というのは、説一切有部らしいですね
いいえ、仏教全般で用いられてるものですけど?
>だいたい、三世実有 法体恒有 などと、およそ仏教とはかけ離れた教えを導き出したのは、「無い」ということが信じられなかったからですよね
いいえ、無我を証明するためにそうした考察に至ったのですけど?
>>557
>なので、その人たちの教えが書かれた内容も、真の仏教の教えじゃないですね
有部の見解は現在の南伝仏教の基本ですし、大乗でも法有の部分等は否定されますが、全てが否定されてる訳ではありませんけど? >>559
湯冷めに備えたり湯冷めしない事の何が問題なのでしょうか? >>560
???
同治?
なんですか、それ?
寡聞にして存じませんけど? >>558
>「なんとかしよう」としてるわけです。
それのどこがおかしいのですか?
風邪をひきますよ? >>561
>無我を証明するためにそうした考察に至ったのですけど?
その考察は正しかったのですか?
間違ってますよね、あきらかに。
たとえば、有部の見解が全て否定されるわけではない、というのは、
もちろん、有部も仏教を研究しているでしょうから、あってる部分もあるのでしょう
あるいは、後世の人が付け加えたかもしれない
だけど、「大乗でも法有の部分等は否定されますが」
これはもう、間違っていた、ということでしょう。
これだから、長い間仏教の考え方の間違いが、是正されなかった。
>>563
確かに、「同治」というのは、駒澤勝という人が話の中で出した言葉のような感じですね
詳しい話はわかりませんが・・・
ただ、この人の考え方は正しいと思います。
「対治」という考え方は、仏教には似つかわしくない >>564
風邪をひかないようにするのは、事後の話ですよね?
風呂を出る、出ない、の話は、今ここでどうするか・・? の問題です。
たとえば、あなたの言っているのは、
「雑念をなんとかしようとしているのです。」
「それのどこがおかしいのですか? 雑念が出続けますよ? 集中できませんよ?」
と、言ってるのと同じです。 鹿野園の仏教用語、ちゃんと説明できるか見ものだな。 >有部の見解は現在の南伝仏教の基本ですし、
なんとなく面白いレスかも。 >>565
>間違ってますよね、あきらかに。
照明の手段として間違っているとは思えませんけど。
>これだから、長い間仏教の考え方の間違いが、是正されなかった。
大乗系の某空に対して有部系の法有の相違はありますけど、人空は共通してますけど?
>「対治」という考え方は、仏教には似つかわしくない
いいえ、縁起・無我・空をとなえる仏教では、対治というのが基本的なありかたですねぇ。 訂正
>>565
>間違ってますよね、あきらかに。
証明の方法として間違っているとは思えませんけど。
>これだから、長い間仏教の考え方の間違いが、是正されなかった。
大乗系の法空に対して有部系の法有という相違はありますけど、人空ということでは共通してますけど。
>「対治」という考え方は、仏教には似つかわしくない
いいえ、縁起・無我・空をとなえる仏教では、対治というのが基本的なありかたですねぇ。 >>566
例えがおかしいでしょ、風呂とか、寒いなら寒くないようにする、ただそれだけなのに、考える間もないこと、生体反射の脳辺縁系の本能で動くのと良い悪い、嫌悪は違うし >>566
先ず、風邪をひかない様、つまり、湯冷めしない様にするのはするのは事前予防でしょう?
事後ではありませんけど? >>566
文章の後半が意味不明なんですが?
どういう事ですか? >>570
>証明の方法として間違っているとは思えませんけど。
それは論理的手法による証明が間違ってないということでしょ?
証明方法が間違ってなくても、教え自体が間違ってたらしょうがないじゃないですか。
>人空ということでは共通してますけど。
それは仏教で明らかにそういわれているわけですから、そこに逆らうと、もう誰が見ても仏教じゃなくなる
だからその先・・・・、彼らは、たとえ物質的なものが無くても、その根本に、それをそれたらしめる何かがあると考えたわけですよね?
だから、空の意味が全然違いますよ
説一切有部は、「有ること」を前提にしてるんです。
今ここに現れているものは本物じゃなくて、映像であるが、この映像を映す何ものかが「有る」はずだと。
>縁起・無我・空をとなえる仏教では
逆にそういうと、「対治」という考え方は、否定されるべきではないですか? >>566
雑念を何とかしようとか、普通はそんな思いは出ないでしょ、妄念は雑念にハマってたと気が付いた時点でストップしてるはずです
妄念雑念に気付くとは、正念に覚醒するから気付くのであって、気付いた後に過ぎた雑念をどうにかしようといった二念は出ない 一旦まとめますけど、坐禅中に生じた雑念との向き合い方って事ですよね?
基本的には放置。
数息観なら数え直し、公案なら練り直しって事で良いですよね?
ここまでで何か問題があるのでしょうか? >>574
仰ってる意味が分かりませんけど、あなたは何我法間違っているって事を言いたいのですか? 訂正
>>574
仰ってる意味が分かりませんけど、あなたは仏教が間違っているって事を言いたいのですか? >>571
>>573
もちろん、風呂を出る瞬間に、パッ!と防水ダウンコートを羽織るとか、
風呂用暖房をバンバンかけるとか、そういう対処というのはあります。
風邪をひかないようにする・・・ という意味では、それも重要なことと言えますね
だから、「対治」という考え方は、一般の通常生活の中では、非常に大切な考え方、ということになるわけです。
そういう対処法は確かに大切でやるべきですが、ここで言ってるのは、どうにもならないこと、
たとえば、「雑念」はどうにもならないですよね?
それをどうにかなると考える・・・ そういうクセがある 人類のエゴの根源に。
風呂から出るときは一瞬ですよね?
とくに対処しなくても、風邪をひくほどのものではないです。
心の反応のことを言っているのです。
パッ!と寒さを遠ざけようとする
寒さと相対するわけです。
これを「なんとかしよう」と。 >>574
>逆にそういうと、「対治」という考え方は、否定されるべきではないですか?
何故ですか?
空性だから対治ってなるのではありませんか?
先程話した闇と光の関係の様に。 >>574
寒いと身受したのにこれを空とするとか遅いでしょ、受は起きたら想行識となる
寒いを身受する前に寒受から遠離しておかなければ、想が起こらない正念にあれば良いとなる >>581
>空性だから対治ってなるのではありませんか?
>先程話した闇と光の関係の様に。
冗談ですか?w
闇と光は縁起で空です。
闇と光はありません。
これが仏教の本質です。 >>579
お釈迦様の教えが間違っているということではなくて、
逆にお釈迦様の教えは正しいということが言いたいのです
それを捻じ曲げた人たちがいる。 >数息観なら数え直し、公案なら練り直しって事で良いですよね?
この鹿野園の文章も面白そう。 光!(^ω^)👍
闇!⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ 俺的には鹿野園の仏教用語が体系的に捉えていないと思う。
鹿野園は基本テキストに不忠実なところがあるからな。 鹿野園仏教は我流で繋ぎ合わせたハリボテ仏教だと思う。 >>583
>闇と光は縁起で空です。
>闇と光はありません。
???
ありませんって意味が分かりませんが?
実体は無いだけで現象としては起きてますけど? >>584
もう一度言いますけど、自宗擁護他宗批判的な議論に興味はありません。
ですから、法空が正しく法有が間違いとかをここで論じませんから。
また、話の拡散はキリがないのでやめましょう?
で、話を最初に戻して一旦まとめますけど、坐禅中に生じた雑念との向き合い方って事ですよね?
基本的には放置。
数息観なら数え直し、公案なら練り直しって事で良いですよね?
ここまでで何か問題があるのでしょうか? 吸う息と吐く息と両方意識します。
スゥーハァースゥーハァーと息になり切って行きます。
また念が出ても次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになるのもいいです。
そして、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
念が出る前のところにいる感じです。
これが正念相続です。
動中の工夫wwwwwwwwwwwwww スゥーハァースゥーハァーと息になり切って行きます。
頭を冷しましょう!💫 >>589
>実体は無いだけで現象としては起きてますけど?
これは、完全に文章が矛盾してますよ。
無いですけど、有ります、みたいな。
仏教的な解釈では、光と闇の対峙というのは本来ありません
不垢不浄。 >>590
法有や三世実有の考え方が、仏教の考え方ではないということに気が付かなければ、
中道もわかりませんよ
修行方法も間違えます。
仏教の実践のすべてが転びます。
自宗というものはありませんよ
ただ正しいと思うものを、上げてるだけです。
>数息観なら数え直し、公案なら練り直しって事で良いですよね?
問題があるとはいいませんが、なぜ「やり直す」必要があるのでしょう? >>594
>これは、完全に文章が矛盾してますよ。
>無いですけど、有ります、みたいな。
いいえ。
此縁性や相依性を以って証明されている仏教では当たり前の基本ですけど?
>仏教的な解釈では、光と闇の対峙というのは本来ありません
ですから、対峙ではありません。
闇というものがあるのではなくて光と同時に消えるって事です。
この例えはよく仏教では使われている喩えで、龍樹の中論や大智度論、起信論等でも言われていたかと存じますが? >>595
>法有や三世実有の考え方が、仏教の考え方ではないということに気が付かなければ、
???
(南伝)仏教の考え方ですけど?
>問題があるとはいいませんが、なぜ「やり直す」必要があるのでしょう?
そうした行法だからですけど? >>596
>此縁性や相依性を以って証明されている仏教では
どのように証明されているのですか?
相依性が、両極が確かに存在するということを、
証明しているのですか?
>この例えはよく仏教では使われている喩えで
その例えの中で、「対」という意味の言葉は使われていましたか? >>594
鹿野園くんはテキストの体系的理解がないから、上手く説明できないのですよ。
>>595
鹿野園くんは
テキストを体系的理解せず、
テキストの概念と別のテキストの概念を
ハリボテで組み合わせて理解しているつもりなので、
なんか、よくわからんような説明ができるのです。 鹿野園のおもしろ文章
0597 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2021/02/14 23:09:46
>>595
>法有や三世実有の考え方が、仏教の考え方ではないということに気が付かなければ、
???
(南伝)仏教の考え方ですけど? >>597
>(南伝)仏教の考え方ですけど?
それが小乗の小乗たるゆえんだと思いますが・・・
小乗は至ところで間違いを犯していると思いますよ
大乗はそれをわかっていた。
根本的に、小乗の考え方の過ちを是正したのが、大乗ということでしょう。
>そうした行法だからですけど?
途中で失敗したら、またやり直すのですか? >>601
めっ!
ツッコミちゃうで!
現在の上座部、南伝仏教は
三世実有ではありません。
今の一瞬のみが有。 鹿野園は知ったかのダメダメレスを平気でするので信用しちゃダメよ笑。 >>602
それ、同じようなものだよw
今の一瞬ならば、ゼロだよ
「空」
有とは、存在が継続する時間を必要とする
つまり、今の一瞬に時間の幅がなければ、「有」は成り立たない また、小乗仏教の体質は、「なんとかしよう」という行法が主体になってるような気がする。
この間違いを大乗は気づいていた。
数息観というものの歴史的背景はまったくわからないが、これは昔から
小乗的な行だなぁ〜、と感じていた。
もしかしたら、数息観というのは、どこかで小乗仏教・・・・ つまり、説一切有部系の教えの何かが、
大乗仏教系にフュージョンしたのではないか・・・ と思えるほど。 >>595
いいですか?
本来、我々の心は散心してないって事です。
何かの縁に触れて散心してしまうって事です。(客塵煩悩説)
よく鏡が喩えにされますが、鏡にものが写っても鏡はそれを留めませんよね?
また、波でもいいでしょう。
>一波を以って一波を消さんと欲す
>千波万波交々起こる
って言うんです。
数息なり公案なり、それを乱す一波が来ようと数息なり公案なりであればいいだけで、数息に戻すとか公案に戻すとか、W一波を消さんと欲す。千波万波交々起こるW様な余計な手立てをしないってことです。 >>604
上座部では、世界は一瞬に生滅が起きていると解釈しており、
現在南伝仏教では、それを体験する生滅智という聖者に入ると、瞑想がここからスタートするらしいです。
むろん、僕ちんは………笑。 >>601
>根本的に、小乗の考え方の過ちを是正したのが、大乗ということでしょう。
ですから、そういうのは関心ありませんので。
>途中で失敗したら、またやり直すのですか?
そうです。
念定慧が基本ですから。 >>606
>W一波を消さんと欲す。千波万波交々起こるW様な余計な手立てをしないってことです。
ならば、なぜやり直す必要があるのですか?
失敗したからですよね? >数息なり公案なり、それを乱す一波が来ようと数息なり公案なりであればいいだけで、数息に戻すとか公案に戻すとか、?一波を消さんと欲す。千波万波交々起こる?様な余計な手立てをしないってことです。
カムイくんと五十歩百歩と気づく人は
冴えてますね。 >>605
…そうした発言は仏教史を学ばれてから話したらどうですか?
瞑想の歴史は箕輪先生とかが詳しいので紐置かれたら良いでしょう。
お釈迦様ご自身がそうした方法を弟子たちに勧められていたという説もありますし、瞑想で数を数えるのは仏教に限った事ではありませんので。 >>610
www
数息なり公案なりをしている時が波立ってない状態だからでしょw さて、この鹿野園くんの出たしがオカシイと思った人は六祖慧能の禅を知る者ですね。
>本来、我々の心は散心してないって事です。
何かの縁に触れて散心してしまうって事です。(客塵煩悩説)
よく鏡が喩えにされますが、鏡にものが写っても鏡はそれを留めませんよね?
また、波でもいいでしょう。
>一波を以って一波を消さんと欲す
>千波万波交々起こる
って言うんです。
数息なり公案なり、それを乱す一波が来ようと数息なり公案なりであればいいだけで、数息に戻すとか公案に戻すとか、?一波を消さんと欲 >>607
う〜ん、やっぱり説一切有部のような感じ? かな。
あと、上座部は、自力の行のようになっているような感じがする。 鹿野園とカムイの共通点、
余計なものを垂れ流して自滅する笑 しかし皆んな自分の意識経験だけを頼りにせなあかんで、小乗だろうが大乗だろうが、翻訳者が間に挟まったつまった漢文頼りにしてても、1文字翻訳の解釈が違ってても信用ならんて
お釈迦様の言うように、自己を灯明にしてから推論せなあきまへんて
経典のあれがこれが正しいとか、普通の人はこうだとか、自己以外を対象にしたって、それは正しい結果に行き着かんw >>612
なになに説のような、不明確な歴史であったならば、元の本質から辿って行った方がいいですね。
龍樹がこんな考え方するか?
お釈迦様がこんな考え方するか?
これはあり得ないのでは・・・? とか。
そういう考えに付合するような文献などがあれば、
正解ということになりますね >>614
いいえ、そうではありません。
一波が起こったので、それを消さんと、やり直したのです。 >>616
ま、カムイくんやら、鹿野園くんみたいな、
自分の心の動きが理解するのが大事と解っていないタイプには必要な感じがする。
自分の心の動きが理解できいて、
気づく人は、
そんなもんいらないでしょうね。
自力云々の是非というよりも。 >>618
自分の心の動きを把握できないとダメやろね。
自分の考えに支配される、
その見本が鹿野園とカムイ。
彼らは初期化、リセットすることを知らんのよ。自分の考えから抜け出られない。 >>620
いいですか?
行によって波が起きてない状態は違うって考えてみて下さい。
無相無念が波の起きてない状態であれば、念が生ずるのが一波って事になります。
であれば放置ですよね?
数息している時が波の起きてない状態であれば、カウントから外れたのが一波ってなります。
であれば数え直しですよね?
公案を拈提している時が波の起きてない状態であれば、拈提から外れたのが一波ってなります。
であれば拈提し直しですよね?
それだけのことです。 >>618
雑魚は黙ってろ。
いちいち横槍入れるな。 >>622
で、お前も黙ってろ。
知障の出る幕はない。 ほんと、雑魚に限って承認欲求の塊なんだからw
大物が釣れなくて暇なんだよw
なんとかしろや?
www 鹿野園くんクルクルレスしてるね。
そのレスするときの鹿野園の心の放逸さには
無関心なようですね。 >>628
ホントにホントwww 頭から水蒸気シュー!狂え狂え鹿野園〜wwwww
明日もやすみけ〜? 例えば養護施設に入所されてる方が私を面罵してしても、直接その方の相手をしないでしないで施設の管理者や職員に注意を促す様なもんなんですよ。
でおーの対応はね。
勿論、ここにでおーの管理者はいないからこうした対応に準じている訳ですけど。 >>632
ありゃ、また雑魚が釣れたw
落ち着きがないからああして煽るとすぐ食らいつくんだよなぁw
……大物はなかなか釣れねーわw 引っかかるのはダボハゼばっか……
たまには鯛でも釣りてーなぁw >>623
あなたは答えを言ってるのですが・・・、
では、さっきの風呂の話に戻すとして、
今、風呂を出るにあたって、「寒さ苦」が生じている・・・
つまり、一波が起こっている
この一波に対処する方法がある
風呂にそのまま浸かりつづけるか、寒さ苦を吹き飛ばすように、想いから消してしまい、
エイヤ!とばかり飛び出る
これではいつまで経っても、寒さ苦は解決しません。
思考、エゴは、「なんとかしよう」と考えるでしょ。
この寒さ苦を、どうしよう、こうしよう、ああしよう、と。
これが千波万波ということですよね。
一波に対して、対処することばかり考える
垢を嫌って浄を求める コロナ休業と有給の強制消化中でなぁw
お前らバカを弄って遊ばせてもらうよ。 >>636
いや、だから、湯冷めしない様にすれば良いじゃないですか? >>620
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ素人から見たら思いが出たらそのまま流せばイイじゃんって思うけどwww
大変なんですね >>636
これは誰を対象にした例なのかな?自分をか?禅やってる修行者か?鹿野園か?それとも何もやってない衆生か?それとも悟った禅師か?
そもそも誰なのか >>638
それが、思考のクセですよ
「なんとかしよう」と、どうしても考えちゃうでしょ?w
この例えの意味がわからないでしょ?
これの中間って何でしょう?
湯冷めしないように、とは、物理的な対処ですよね?
今言ってるのは、「寒さ苦」という心的反応に対してです。 この場合の「苦楽」(寒い、暖かい)を越えた、「楽」に至る道とは、なんでしょうか? >>637
へい〜頼ます!鹿野w園の老師さま、明日も期待してますだ >>640
悟っていない、すべての人に、ということでしょう
自分も含めて。 >>641
で、あんた、何が言いたいの?
次のレスのやり取りで終わらせるつもりでまとめてくれ。 >>636
∞ノノハ∞
川^〇^ハレさっきお風呂から出たけどまだポッカポッカ♪
よ〜く温まってないんじゃないの?www >>641
苦、ドゥッカ、思うがままにならない事。
お風呂から上がった時に外気が低くて生じる苦は、一義的には苦苦(外苦)な訳でしょ?
だったら湯冷めしないようにすれば良いじゃありませんかw
で、心的反応とか、それが壊苦や行苦の事(内苦)として、それを感じて逃れようとするのは、普通は当たり前の事です。
思うがままにならないのなら、諦める他ないでしょ。 >>647
言葉にいろいろと矛盾が生じてます
逃れようとするのは当たり前・・・ と言いながら、
諦める他ないでしょ・・・ という風に。
ここは非常に大切なところです。
>湯冷めしないようにすれば良いじゃありませんかw
仮に湯冷めしないようにしたとして、寒さに対して苦を感じる、その「苦を感じる」ということを
超えることは出来ますか? 分からんなぁ?
風邪をひいたら自身も苦しむし、感染させたり会社でも休もうものなら他人に迷惑を掛けるし。
なんとかしようとして、それが何か悪いのかねぇ?
風邪をひかない様にする事ってエゴなのか? >>647
>それを感じて逃れようとするのは、普通は当たり前の事です。
では、集中しようとしてるのに、雑念が湧いてしまうという苦が生じた場合、
その苦から逃れることは、当たり前のことですか?
勉強に集中出来ないという苦が生じた場合、その苦から逃れようと、
勉強を中断するか、集中しようしようと努力することは、
こういう二択は、当たり前のことですか? >>648
>言葉にいろいろと矛盾が生じてます
生じてないよ。
なんとかしようとしてダメなら諦める他ないだろ?
違うか?
>>648
>仮に湯冷めしないようにしたとして、寒さに対して苦を感じる、その「苦を感じる」ということを超えることは出来ますか?
というか、苦って思うがままにならない事だろ?
思うがままにならない事は超えようがないだろ? >>649
物理的な対処はそれでいいでしょう。
何も間違ってない
物理的対処が悪いって言ってるんじゃないです。
「苦」を感じてるわけですよね?
今その苦に対して、心がどういう反応をするかってことです。
物理的対処以前の問題です。 >>650
>では、集中しようとしてるのに、雑念が湧いてしまうという苦が生じた場合、その苦から逃れることは、当たり前のことですか?
だから、集中してるのが本来でしょ?
そこから外れたから元に戻すだけの話でしょ?
苦から逃れるとか考え過ぎだよ。 >>652
>「苦」を感じてるわけですよね?
>今その苦に対して、心がどういう反応をするかってことです。
だから、苦を感じてるんだろ?
で、あんた結局何が言いたいの?
それを最優先して言ってくれ。
そしたらこちらもレスをする。
以上。 >>651
>生じてないよ。
>なんとかしようとしてダメなら諦める他ないだろ?
この場合、なんとか出来そうだと思えるならば、なんとかしようとし続けるでしょ?
本当に諦めるとは、相当追い込まれないとダメですよね
つまり、逃れようとすることと、あきらめることを同列に並べることは出来ない
一般的に、あきらめることは滅多になく、逃れようとすることが主体になる。 >>653
>そこから外れたから元に戻すだけの話でしょ?
元に戻せなかったらどうします?
なかなか元に戻せなかったら?
集中とは意識を向ける手法のことを言っているんじゃなくて、
意識が自然にそのことだけにとどまっている状態のことを言ってるんですよ
手法と状態を一緒に混ぜてしまったら、要点がわからなくなります >>653
>だから、集中してるのが本来でしょ?
ふつう、初心者から始まって、最初の関門は、雑念を消そうとか、行に対して良し悪しの葛藤が起こって、
かなりそこで苦しむわけですよね・・・
しかし、鹿野園さんにはそれを感じない
それが見えない
この場合、考えられるのは二つです。 >>653
>苦から逃れるとか考え過ぎだよ。
これでは話以前の問題になる可能性が・・・
ちょっと仕切りなおす必要がありそうです。 最後に、「中道」について、日常生活のこころの働きに当てはめて、説明してもらえませんかね?
おそらく、説明できないんじゃないかと思いますが・・・
風呂の例えでは、中道を理解できていないのがわかります。 >>659
∞ノノハ∞
川^〇^ハレジャンキーたんは30年坐禅されている居士だからかもも
ある意味ほにゃららに説法www >>668
考えられるのは二つ
長年行をやって、そこを越えているか・・・
あるいは、葛藤自体の経験がないか・・・
>苦から逃れるとか考え過ぎだよ。
これは、後者を表している あっ、分かったぞ?!
お前、K1ランカーになりたいんだね?
そうやって何を言いたいのかはっきりしない、残尿感たっぷりのレスをずっとしてたのは、お前が恥ずかしがり屋だったからなんだね?
安心しな、お前には十二分にその資質があるから!
ネーミングは、その残尿感たっぷりのレスに因んでつけてあげるからw
俺は取り敢えず寝る。
起きたらお前のネーミングを考えて、栄進さんと相談してランカーにするよw
おやすみ。 >>670
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ数息観の息の仕方はスゥーハァースゥーハァーですか? 自分がわかってないから相手もわからない
だから永遠と議論になる図 >>644
0644 神も仏も名無しさん 2021/02/15 00:39:17
>>640
悟っていない、すべての人に、ということでしょう
自分も含めて。
それで、貴方は実際何処まで禅定なり覚醒なりの段階に至っておられるのですか?
つまり、どの意識段階から俯瞰して話されておられるのか?お訊きしたい
でっなければ如何なる仏教用語なり説明なりも現実味は半分以下となり、一切が戯論(けろん)の意味 - goo国語辞書
戯論 戯論になります!
戯論(けろん)とは。意味や解説、類語。仏語。無益な言論。無意味な論。 >>676
これは鹿野園さんも同じ、同様に質問します 戯論だよ(^ω^)👍
戯論じゃないよ⊂(^ω^)⊃
プラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>672
禅の数息観は知らないが、ヨガでは7つ左鼻腔で吸って7つ止めて7つで同じ鼻腔から吐き7つ止める、次に右鼻腔から同じく7つ吸って止めて吐いて止める
この時左鼻腔から吸う時は右鼻腔を右手親指で閉じます、右鼻腔は左手親指で閉じる
吸うときは尾骨から気(プラーナ)が脊柱を登って行くイメージで頭頂で止め、吐く時には頭頂から下がって尾骨までいって止めます、これで1セットですので、3セット以上何回でも行います 結局、鹿野園の猿山ボス宣言で終わりましたか笑
いつものことだか笑。
いつも鹿野園との議論の終了は、
鹿野園オレ猿山ボス宣言で終了する笑。
もう来るな
猿山ボス鹿野園は、
自スレでK1猿山ボス妄想をやっていてください笑。 >>677
他スレにノコノコ出てきて、腹がたったら、至自スレでK1ランカーするだの妄想好きな鹿野園くんだから聞くまでもないんじゃないの?笑 今のコロナ禍でいうと、
経済が優先、いや、コロナにかからないように家にいろ、この二つの問題をどうするか考えた時に
じゃあコロナワクチンを作って接種し免疫を作って仕事しよう。
自分の中道はこんなイメージ。 コロナが軽く済む人もいれば重症になってしまう人もいるわけでしょ。
じゃあどうしましょう、ってことにもなるよね。
実際色んな人が暮らしてるわけだし。 コロナワクチンだけの問題じゃないけど
免疫がちゃんと出来て、更に副反応もほとんどない、
そんなワクチン出来て欲しいね 残尿マンからのレスがなかったみたいだな。
ならお仕舞い。 コロナかあ〜神仏を信仰する者としては、kotonaの存在を一切認め無い立場をとる
とは云えども、我が新潟県230万県民の内1,000人がkoronaに罹患したと昨日にゅーすで報道していた、約1/2300の確率である
虎ンプ元大統領はkoronaの治療で新薬の他にサプリメントを数種類飲んでいましたそれは
レムデシビル、亜鉛、ビタミンD、メラトニン、アスピリン、ファモチジン、である
https://i.imgur.com/pG6XlKk.jpg
この中で一般人が摂取可能なのが
亜鉛、ビタミンD、メラトニン、アスピリン、ファモチジン、です
ファモチジン 薬 内容
ファモチジンは、ヒスタミンH2受容体拮抗薬の1つ。胃潰瘍・十二指腸潰瘍といった消化性潰瘍の治療に用いられる医薬品である。商品名はガスター。 1979年に山之内製薬が開発。壁細胞のヒスタミンH₂受容体を遮断することにより胃酸分泌を抑制するため、胃酸抑制薬として使用される。 ウィキペディア化学式: C8H15N7O2S3
ファモチジン市販薬はガスター10 薬局他Amazonでも購入可能です
ビタミンD、メラトニンはアメリカから個人輸入可能、一瓶1,000円程度
レムデシビルは入手不可でもサプリメントで免疫力をアップは可能なので飲んでおくのも一つの予防になるでしょう >>677
あなたはヨガをされていらっしゃるのですね?
であれば、仏教とはカテゴリー違うのでなんとも言えませんけど、巷でいう即今だのワンネスだの、そうしたのは理解できます。
また、(禅)仏教では見性って言うのですが、そうした体験もした事があります。 昨年初頭に短期間だけ暴露されていた情報に、CORONAウイルスにはAIDSウイルスの遺伝子の一部が組み込まれていたという、信じがたい情報が有りました
つまり免疫を徐々に失わせる可能性が否定できないと言われていました
さて、ソコでこのAIDSでさえも完治させると話題なのが、MMS1として知られている二酸化塩素です
二酸化塩素はクレベリンや歯科医院で歯周病菌の除菌に使われていることで知られていますが、飲む薬としては認可されておらず、今のところ薬として購入はできませんが、自己責任で25%次亜塩素酸ナトリウムと50%クエン酸を中和反応させて作ることで自由な濃度で作成でき、日常で喉鼻腔の殺菌からインフルエンザの治癒まで広く活用されています
制作キットはネット上の通販サイトで購入可能ですが、それをググって探すのは簡単では無いでしょう、でも存在しますので興味をあれば探してみてください で、残尿マンは中道の意味を知りたかったのであればネットで調べれば良いでしょうし、中道な生活を送りたいなら知足の生活を送ればいいと思いますよ。
また、禅宗では食事の際に五観の偈っていうのを唱えますけど、知足を知るよい手がかりになると思います。 >>679
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦は数回ですが数息観をやった事があります
その内の一回は松陰寺にお参りに行った時にたまたま坐禅会の方が坐禅される所で
ご一緒させて頂いて教えていただきました
座布団が大きくて一枚は二つ折りになっていてお尻が乗るんですけど座り心地が良かったです♪
麦は足が組めないので正座でやりました♪
足の組み方姿勢の整え方から姿勢のチェックが入って数息観を教えていただきました
一回息を吐いてから鼻から大きく息を吸って
一おぉっぅ〜〜〜ゆっくり長ぁ〜〜〜く鼻からはいていって
鼻から息を大きく吸って二ぁ〜〜〜つって十まで数えてまた一から数えていきました
坐禅と僧堂や山門に入ったり出たりする時の作法や
坐禅が終わって座布団の後ろで正座して体勢を低くして両肘を畳につけて手は仏様が乗るように蓮の花の形にして挨拶するのが印象的でした 電車で目の前にお年寄りが来た時、迷いが入って譲るタイミングを逃してしまった経験はどなたにでもあると思うんです。
そんな時は迷う隙を作らないというか、条件反射的にサッ!って譲っちまえばいいんです。
風呂上がりも同じでしょ?
「苦がぁ〜」なんてのろのろやってるから寒さに漬け込まれて風邪をひくんです。
とっとと湯冷めしない様に刹那に電光石火で帰ればいいんです。 K1ランカー猿山ボス妄想に逃げる鹿野園が
彼の本性 聞かれもしないのに、昨夜の残尿感気分がとても気になり多弁にレスをする鹿野園であった笑。 >残尿マンからのレスがなかったみたいだな。
ならお仕舞い。
とレスしながら、とても他人の評価が気になる鹿野園であった。 昨夜のレスが、どうも都合が悪いと思ったか鹿野園。
自信があるなら、それで終わらせられるはずだが、鹿野園は他人の評価が気になり、 それ故に
自スレでK1ランカーとやらの妄想の構築物を作り上げる。 宗派によって違いはありますけど、認識の流れは以下の様に言われております。
触 (心を認識対象に接触させる )
作意 (心を起動させる )
受 (認識対象を 、苦または楽 、あるいは 、そのどちらでもないと受けとめる )
想 (受けとめたものを自己の枠組みにあてはめる )
思 (認識対象に具体的にはたらきかける )
ある程度坐禅をしているとこれの認識、それをメタ認識というかどうかはともかく、早い段階で察知出来る様になる様な気がするんです。
要するに「苦がぁ〜」が生じる前に行動してしまい、また、跡を残さない(没蹤跡)って感じです。 >>694
そうですか、でもご自分が絶対的自信を持って、悟りとはこれだと言う体験はされていない、ですね
私は修行の初期はヨガの呼吸法、瞑想法から入りました、長年の悟り研究の結果として分かったのは
悟った方の中で神智学で言うエーテル体(第二身体)、アストラル体(第三身体)を呼吸法である程度開発した方が明確な形で悟りを得られていることです、またメンタル体(第四身体)は想念を単純化してから遠離することで至れるます
禅、仏教で言うところの最初の悟りは、スピリチュアル体(第五身体)の結晶覚醒とされています、グルジェフはこれを【自己センターの結晶化】と名付けています、究極の不快感情を一切の否定想念を排除し観照することで、摩擦を起こしてその反作用で自己の結晶化を成し遂げるシステムを指導し、西洋での認知度は禅をも凌ぐほどですね
このようにヨガや西洋のシステムでは次元構造身体論があります、仏教では九次第禅定が似たようなものではと思っています、色界と無色界の各段階は当に次元構造そのものと言えるのではないのでしょうか ある程度坐禅をしてると刹那の心の動きを察知出来る様になり、それ故に、二念を継がない様に心を捌けるのかもしれません。
二念を継がないという事は、印影を阿頼耶識に薫習しないって事の様に思えます。
つまり、業として残らないって事ではないのでしょうか。 >>706
私は悟っていませんし、悟りとか分かりませんので。
また、宗教的包括主義は好むところではありませんし、掛かる意味で宗教的多元主義です。
ですから、神智学に関心は全くありません。 また、シンクレティズムも好むところではありません。 ある程度知識としての悟りすらわからんものがなに偉そうに語ってんだか >>710
>ある程度知識としての悟りすらわからんもの
wwwwwwwwwwwwww
馬鹿過ぎw 無限後退的な否定を「」(カッコ書き)で限定する事の過ちが分からないんだろうなぁ。
そんなのも知らないで語って恥ずかしくないのかなぁ。
つーか、この意味さえ分からないから恥ずかしくも感じないか。 こいつはいつも名無しでマウントしてくるけど、いつも根本的なところで致命的な勘違いをしてるんだよなぁ。
ま、死ぬまでそのままだろう。 >>699
んーとね、変なこと言ってるので、もういちいち細かく説明しませんが、
「迷う隙を作らない」
なんで迷ったらいけないの? ってこと
条件反射的にサッと、なんて言ってると、条件反射的にサッと出来ないときにぶち当たりますよと。
そのときどうするのか?・・・ ってこと
ここが分からないと、同治という概念がわからないし、
同治という概念がわからなければ、中道という概念もわからない
たとえば、雑念が浮かぶない暇もないくらい、条件反射的にサッとやればいいってことになる
だから、座禅中に雑念を浮かばせない手段をこうずることになる。
ってか、あなたが肝心のところが分からない人だから、あえて答えを引き出されるかどうか
ヒントを与えつつ待ってたんだけど、結局、答えがわからなかった
チンプンカンプンだったでしょう
そういう人に、最初から答えを教えると、それを自分勝手に解釈して、
いいように振り回されるので、相手がわかるかどうか、外周から少しづつ試していくのがいいということなんですよ。
わかれば詳しく説明できるし、わからなければいくら言っても無駄。
あなたは座禅を30年とか言ってるが、あなたの言ってることからは、「行」の経験を感じない
やったことがないのでは?
学問オタクですよね?
行に手を出してないでしょ? >>697
>中道な生活を送りたいなら知足の生活を送ればいいと思いますよ。
あなた矛盾してること言ってるんですよ
あなたのレスは。なぜか矛盾が多いですよね
それは、中身がわかってないからです
もし、中道を知るには知足の生活がいいというなら、
なぜ風呂の例えで、〜〜〜〜〜が思いつかないのか。
同治という概念は、まさに、知足と同じですよ
表面上の行動ばかりにこだわって、こころの働きを全く知らない
だから、行を経験したことがないという >>697
結局、このレスは、知足を実践的にはやってないが、それを実践すれば中道がわかると思いますよ・・・ ってことだよね?
自分がやってるんだったら、風呂の例えもわかるでしょうし、
ここで怒りまくることも少ないでしょう
しかし、知識だけだったら、おのおの知識を経験的につなげて、答えを導き出すことが出来ないので、
肝心の答えがわからない 出てきたものは、しょうがない。
反省しない。
無明も無く。また無明の尽きることも無し。
己を許す。 >>705
修証一如の概念もわかってないし、苦がある状態と、無い状態が対立している。
この相対的な考えをもっているから、苦を無くす方法を目指すことになる。
こういう考えでいながら、数息で意図を働かせない、集中しようとしない、などと言っているから
矛盾しているという。
土台の考えが対立的な思考をしている以上、絶対に意図を働かせないということはありえない。
あなたのレスからは、そうしたことが出来ないことがよくわかる。
つまり、人間が陥っている相対分別の中に、あなもまさにどっぷりハマっていて、
しかも仏教を学んでいるのに、それを越える発想が浮かばない
おそらく、てんで検討がつかないでしょう。
こうなってくると、もう話がつながらない。
話が通じない
ここの部分はまだカムイ君の方がよくわかってるよ 矛!(^ω^)👍
盾!⊂(^ω^)⊃
あプラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ こいつにはなんでもそうですねってあいづち書いとけ
そうしたらご機嫌になるから 仏教では時間という概念がない
だから、苦の有るものが、苦の無い、悟りを開いた状態を目指す・・・ ということはない。
進化してこうなる、という概念が存在しない。
結果を得る、という概念が存在しない
それらはすべて、時間的概念で、思考分別の働きの範疇の中にある。
苦のある人はそのままで、苦の無い悟りを開いた人と、同じこころの姿勢であるということ。
それが即座に成立しないといけない
時間的経過ととも得るようなもんじゃない。 苦しむ猿!(^ω^)👍
楽しむ猿!⊂(^ω^)⊃
あプラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ >>716
横からすまんが、鹿野園に行やってないと言うなら、ご自分の行歴と現在やっている行を披歴されては如何か?鹿野園は朝一で書いているが まさか、バカの一つ覚えみたいに
苦しみになりキレ
とか言い始めないだろうなぁ? >>667 >>727
「中道」について、日常生活のこころの働きに当てはめて、説明してもらえませんかね?
横からですみません。
自分はこんな感じが中道じゃないか?と思っています。
ですがまだまだ修行中の身ゆえ、是非あなたの説明をお聞かせ頂きたいです。 ★中道とは?
修行してるよ(^ω^)👍
修行しないお⊂(^ω^)⊃
あプラマイ(・ω・`)👉👉ゼロ
彡サッ 残尿マンってさぁ、
人に質問して言わせておいては否定して、聞き返されても自分の事は言わないよなw
脳内膀胱炎で思考停止の ザ・残尿マン w
話をしても例外のケースを持ち出しては次々に話を変えては、私は分かっているけどあなたは分かってない、あなたは間違ってるの繰り返し。
なんかカルト的な洗脳方法で、胡散臭さ200%だなぁw
おい、残尿!
で、お前は結局何が言いたいんだよ?
wwww >>727 進化してこうなる、という概念が存在しない。
結果を得る、という概念が存在しない
それで、自分はその段階を如実に知られたのですか?また
>それが即座に成立しないといけない、時間的経過ととも得るようなもんじゃない。
自分では即座に成立しているよと、では衆生にどのように悟らせる?行法も無いことになりますよね
それはヨガで言うラージャヨガ、理解で悟りに至る六祖の世界です、本能的本質的に潜在意識内部が清浄であってほぼほぼ覚醒している、左脳教育を幼少から受けていない条件付けの無い脳の状態にあってこそ即時の悟りはあり得るが
それ、現代人には敷居が高杉ですよ >>727
wwww
因果一如って言いたいのか?
で、それがどうかしたの? 現代物理学では、現象は四つの力の相互作用から成り立っているって仮説されてるそうです。
つまり、相互作用であるから単体では成立せず、掛かる意味に於いて実体がないとか空性というのは仏説と相性がいいのです。
苦の正体というか、環境からの刺激がニューロンの反応となって現れるのと苦に感じる事の相関性は科学的に証明はされてますけど、その因果関係は証明されてないと聞いてます。
つまり、ニューロンの反応が苦という感情に何故なるのかは謎なんです。 >>732
また思考の「クセ」が出ましたね・・・
それは苦しみと相対しているではありませんか。
>>738
さっぱり分かってないみたいですね
あなたは日常のこころの動きに応用できないでしょ?
その知識や理屈を。 まあ、これだろ風呂♨がさぶいくても、さぶい感情を否定想念を一切出さずに観照し超越的に主人公を結晶化し悟る方法
グルジェフはこれを【自己センターの結晶化】と名付けています、究極の不快感情を一切の否定想念を排除し観照することで、摩擦を起こしてその反作用で自己の結晶化を成し遂げるシステムを指導し、西洋での認知度は禅をも凌ぐほどですね >>737
>それ、現代人には敷居が高杉ですよ
とんでもない
今までの教えが敷居が高すぎたのです。
現代人だからこそ、どうしても立派になれないからこそ
この教えが必要なんです。 ニューロンの反応も所詮は上記でいう四つの力の作用ですから、とどのつまり実体はなくて空性って事になります。
>>705で
>触 (心を認識対象に接触させる )
>作意 (心を起動させる )
って話をしましたけど、ここまでのはたらきがニューロンの反応って置き換えるのも面白いかもしれません。
ひいては、受以下の作用が「心の哲学」でいう心のはたらきって事になるのでしょう。 中道とは、雨の日の仕事って感じ。
仕事楽しくないけど、やることはやってるしまあ良いか、ってこと。 >>740
あなたは日常のこころの動きに応用できないでしょ?
その知識や理屈を。
横から失礼、でっ貴方も応用出来てないんでしょ? >>740
だから、そんな事をお前に求めて話はしてないのw
何故そうやって誤魔化す?
何故そうやって話を逸らす?
あ? >>710
まさにそれだよ
ここで彼が挙げた自分の理屈は、まさに悟りに関して論ずるようなこと。
知識的に悟りがわからないのに、知識的に悟りの要点を語っているようなもの。
こういうように、何かを誤魔化していると、常に言ってることが矛盾だらけになってくる
あまりにも矛盾が出すぎてる
論と論の間の整合性がとれてない >>743
どうやって六祖を大量生産させますか? 当時の中国でも無理だったのに、それを貴方は出来る教育システムを自分は持ってるんですよね?
自分は六祖と同じように悟ったと、でっ六祖も出来なかったこともできる六祖超えをしましたと、ですよね? 本来、中道とは悟りに至るための道しるべなんです。
で、時代の変遷とともにそれが様々角度から考察されて様々な見解が出てきた訳です。
空を覚知する事だの唯識を知ることだのってね。
また、禅宗とかは即事而真の思想に立ちますから、お茶を飲むとか飯を食うとか、日常のごくありふれたところにそれを相即に行じていくわけです。
…湯冷めしないようにすれば良い。
そういう事なんです。 >>751
あなたの理解力が足らないだけだよ。
他人のせいにしてはダメだ。 >>744
その中道のイメージは、上の二つと同じですね
「こうする」という型に捉われてるでしょ
それに、それは中道というより、より良い方法が見つかったから、
それにするってことで、対処療法のより良い選択というイメージ で、結局残尿マンは質問に答えないw
分かってないから。 >>756
なるほど。そうなんですね。
では普通の生活に当てはめた例えだとどんな説明になるのでしょうか。 >>753
自分が○○〇〇であればいいのに、どうして六祖とか、当時の中国でも無理だった教育システムが必要になるのでしょうか?
それでは、敷居が高いということになるでしょ?
やることは簡単ですよ
だが、この簡単なことに気づくのは難しい
それは鹿野山さんをみればわかるでしょ。 >>754
湯冷めとか・・・、それは物理的な対処でしょ?
表面の状態に対する対処です
今はなしをしているのは、心の状態における対処です。
この苦をどうやって解決するか・・・ という心の働きに対して
どのように解釈するかってことです。
その心の働きが物理的に現れると、風呂を出ないようにしよう、とか
風呂をイッキに出ようとか、って話になる
物理的反応ばかりにこだわって、一向に内面に考えが向かわないということは、
中道の真の働きを知らないってことになる >>761
いや、だからさぁw
あんた、結局何が言いたいの?
なんで人には聞いて自分は答えないの?
修行歴みたいの聞かれても答えないし、日常生活でどうはたらかせるかもいわないし。
残尿感みたいな人なんだよ、あんたはw >>757
お風呂は喩で、そのときの心の働きというのは、
すべての人間のすべての生活の中に現れる、「我」の根源的な働きなのですよ >>762
>湯冷めとか・・・、それは物理的な対処でしょ?
あなたが心身二元論ならともかく、仏教は心身一如の立場です。
ですから湯冷めしないようにすれば良いって事です。 >>763
だから、それはあなたのせいなんだってw
ここまで言えばわかるということを、順次外堀を埋めるようにして話してる
それでも話がかみ合わないw
だったら、核の話をしたら、もっとかみ合わなくなるではありませんか
まず外側の話がどの程度通ずるか試してみて、それに合わせて話をしないとダメでしょう。 >>765
う〜ん、だから、湯冷めっていうのは事後のことなんですよ
心の今「即今」で起こってることに比べれば
こういう風に、分別の働きっていうのは、時間の世界から抜けられないんですよ
悪い状況を変えていって、良い状況を目指そうとか。
時間がなければ存在できない論理は。仏教ではありません。
それは分別の世界です。 >>762
話を潤滑に無駄のない様に進めたいから、あなたのポジションを明かしてくれないか?
思想だの宗教だの修行歴についてな。
察するにあなた、二元論なんでしょ?
物理的と心の状態を訳で論じているから。 >>766
>だから、それはあなたのせいなんだってw
???
なんで修行歴みたいの聞かれても答えないし、日常生活でどうはたらかせるかもいわないのが俺のせいなんだよ?
説明してくれw >>768
いやいや、あなたは心の働きを抜きにして、身の働きばかり言ってるでしょ?
心身一如じゃないでしょう。
心の働きが身の働きに出ると何度も言ってるでしょう
寒さ苦から逃れるために、風呂に居続けるか、風呂から気合を入れてサッと上がるかと。 >>767
だから、あんた何が言いたいんだよ?
即今に感覚的な知覚はあっても感情的な分別はないって言いたいのか?
まさかそんな幼稚なレベルで話をここまでの引っ張ってないよな?
冗談もいい加減にしろよ? >>767
龍樹はこれを指摘していたのですよ。
去りつつあるものは去るとか、時間の幅でしか考えられない、誤った人たちがいたからです >>770
経済を回したい、コロナには掛かりたくない(家にいなければならない)
これも心の働きだと思うんですよね
じゃあワクチン作ろう、これだって心の働きなんじゃないかと思うのですが >>770
お前、なんなの?
俺は
>話を潤滑に無駄のない様に進めたいから、あなたのポジションを明かしてくれないか?
って聞いてるの?
で、それに対するレスが
>いやいや、あなたは心の働きを抜きにして、身の働きばかり言ってるでしょ?
>心身一如じゃないでしょう。
じゃ支離滅裂だろ?
揶揄ってるのか? >>771
それは悟った人か、悟りに近い人の話だよね?
ここで言ってるのは、凡夫だろうが、悟りに近い人だろうが、
同じ心の姿勢のことだよ >>773
でも対処法ではだめだということなんですよね
だとしたら生活に当てはめて教えて頂きたいです >>772
>龍樹はこれを指摘していたのですよ。
それがどうかしたの?
多少仏教齧った人なら中論を読むのなんて当たり前の事だし、その手の大学の科目でも履修する事だけど? >>775
>それは悟った人か、悟りに近い人の話だよね?
俺は悟ってないし悟りとか知らないけど、そんなの当たる前だと思ってるが?
>ここで言ってるのは、凡夫だろうが、悟りに近い人だろうが、同じ心の姿勢のことだよ
だから、ここで言ってるWそれWってなんなんだよ?
同じことを何度も言わせるな。 >>773
でしょう?
だから、それも上の二つと同じなんです。
対処療法ですよね
ただそのより良い選択というだけで。
もちろん、それがダメっていう主張じゃなくて、それは一般社会では不可欠な心の働きでしょう
しかしそれが、より内面の働きに現れると・・・・
あなたは恐怖の対象ではなく、恐怖という感情に対処しようとするとき
どうします?
鹿野山さんは、物理的対象に対する対処療法ばかりに目を行って
内面の心の働きにぜんぜん目が向かないんですよ >>775
で、何時になったら以下のレスをするんだよ?
↓
768 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/02/15(月) 12:59:08.05 ID:r9077aTJ
>>762
話を潤滑に無駄のない様に進めたいから、あなたのポジションを明かしてくれないか?
思想だの宗教だの修行歴についてな。
察するにあなた、二元論なんでしょ?
物理的と心の状態を訳で論じているから。 >>777
では、去りつつあるものは去らないというのが、
どうして空で縁起で中道なのか、説明できますか? >>778
「それ」って何なんでしょうね・・・?w
ヘタすると、対話してる張本人だけが取り残されて、それを見ていた周りの人が全部わかってきた・・・
な〜んてことにもなりかねませんよ >>779
あなたからしたら間違いだと言うことはわかりました。
でも自分には大山さんは関係ないですし、こちらも答えたのであなたも生活に当てはめて答えて頂きたいです >>783
言い方がよくありませんでした。失礼しました。
分からないので教えて頂きたいです。 >>783
それは今現段階では、鹿野山さんと一緒で、答えられません
必ず意味がわからないで、勝手に解釈されるからです。
だからまず、外堀で穴を埋めていったらどうですか、と。 >>779
>鹿野山さんは、物理的対象に対する対処療法ばかりに目を行って内面の心の働きにぜんぜん目が向かないんですよ
だから、仏教は心身二元論じゃないからW湯冷めしないようにすれば良いWって言ってるだろ?
坐禅だって 調身・調息・調心 っていうよな?
つまり、物理的なところを整える事によって心も整えられるって視座な訳だ。
あの煩雑な食事作法も、道元さんも威儀即仏法って仰ってるけど、不二一如・即今相即のところで、物質と精神を分けないで整えていくんだよ? >>781
後で説明するから、先に言われてる事をレスしなさい。 >>782
お前が ここで言ってる って自分で言ってるそれだろがw
大丈夫か? >>785
ほら、またそうやってはぐらかす。
誤解を受けるから話さない?
そんなのは話さなきゃ分からないし、誤解されても説けばいいだけだろ? >>785
日常生活に当てはめて頂けるならそれは身近なことですよね
説明としてはとてもわかりやすいです
例として出して下さってもいいと思いますが
勝手に解釈と頭から決めつけなくても良くないですか >>795
www
お前の敵う相手じゃないよw
いいオモチャが見つかったから残尿マンで遊ぶわw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ残尿さんはご自身の見解も言わないし
ジャンキーたんの質問にも答えないじゃん
答えたのは数息観は行っていないって事 >>786 坐禅だって 調身・調息・調心 っていうよな?
仏教もやはり多元的多身体的に、段階に別けて結晶覚醒を行っていますね
調身→フィジカル体(第一身体=肉体)
調息→エーテル体 (第二身体=気体)
調心→アストラル体(第三身体=感情) メンタル体 (第四身体=理知)
これは中国の道教、仙道でも同じです、このように一段づつ結晶覚醒することで、最終的に無心の心としての主人公が結晶化し、無位の真人として確立され、ここを持って禅は悟りとしておるわけです 調身→フィジカル体(第一身体=肉体)
調息→エーテル体 (第二身体=気体)
調心→アストラル体(第三身体=感情) メンタル体 (第四身体=理知)
→七識転変=平等心
無心→スピリチュアル体(第五身体=)霊性→八識転変=大円鏡地
☆ >>800
七、八識【転変】とは各身体の【結晶化】覚醒のことです
☆ チベット仏教では結晶化した意識を光明=リクパ(明)と言って、悟りと同義としています、このように他の理解を比較対象として補強することで、悟りは立体的な理解を得られより明確になり、手応えのある悟道となるのでは?
☆ >>799
>これは中国の道教、仙道でも同じです、このように一段づつ結晶覚醒することで、最終的に無心の心としての主人公が結晶化し、無位の真人として確立され、ここを持って禅は悟りとしておるわけです
あくまでも貴殿の解釈ではそうなのでしょうね。
禅にも漸悟と頓悟がありまして、貴殿の解釈はそのうちの漸悟に近しい解釈と拝察します。
しかしながら、現代主流とされている禅は頓悟というか、調身・調息・調心を段階的に捉えないで、相即の関係で捉えております。
神智学を準拠に禅を解釈されるのは貴殿のご自由にしても、それを以って禅とはこうであるというレスには抵抗を覚えます。
唯識の解釈についても然りです。 Wあくまでも神智学の解釈ではWという前置きを入れて頂けば、要らぬ議論は避けられると思います。 六祖が何故に金剛般若経の一節を聴くだけで悟りを理知的に理解し、悟りを確信したのか?これも上記で見れば明瞭に理解できると思います
☆ 禅宗の私がいうのもなんですが、達磨大師は勿論、慧能(六祖)はダミーみたいなものなんです。
頓悟を唱える神秀を代表される北宗に対して、頓悟を唱える神会を代表とする南宗が対抗馬として担ぎ上げたのが慧能で、その伝記の多くは創作であろうと言われております。 鹿野園は知ったかだから、禅に関しては明示できないさ、
鹿野園は自分の心の動きを観察して修正する機会が今までもなく、たぶん、これけらもないであろう。 柳田先生がそこらへんの消息を大変分かり易く説明されているのであげておきます。
>そうした離念の行としての禅定より本覚の知恵への二段構えではなくて、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。
って。
つまり、本知の立場って事です。 見るところ、鹿野園さんは理知メンタルへの働きかけは完璧なので、第四身体の悟り=見性=偽の悟り は得られていますね
しかし、呼吸への働きかけ(2エーテル、3アストラル)が弱いと、第五のスピリチュアル身体の悟り(自己実現)は難しくなるとされています
それでも、理知を完全に捨て去る行法をもって、無心となれば、大悟は直ぐソコに無門の門をポッカリ開いて待っていますよ >>805
自分の心の動きは明白に把握できる土台があり、初期化、リセットできていて、気づくときが来たのさ、
発心が正しくないと、気づく時は訪れない。
鹿野園は自分の心の動きを明白に把握する土台を作っていない。放逸のままだ。
禅自体で、自分の心の動きを明白に把握する土台は作るのが難しいだろな。
師匠選びの鑑定眼は、自分の心の動きを明白に把握する土台は作り、リセット初期化できて、
師匠の教えが見えるし、求道できる。
鹿野園みたいに
すぐキレる奴は土台ができていないし、すぐ我が出て、犬のナワバリ意識丸出しにワンワンと吠える。 >>809
空海も、道元禅師も自分の心の動きを知るべしという表現があるさ、
そこが欠けてと、仏教的には全くダメで。
そちらからは鹿野園がマトモに見えるようだか。 神秘の力で鹿野園みたいなダメダメくんを導くというの仏教には無いようだ。
自己責任だからな、 バカはバカのまま、ほっておけ笑。
鹿野園に説法する気、全く起きんわ笑 >>808
ええ、是が解ったなら即時即今で悟りに入るんです、でもそれは理論であって一回でも其処に行った者でなければ悟り意識を即時に実現されないんですよ
私は一瞬でソコですが、と言うか常にいつ如何なる時でもソレであるのですが、是も一回徹底した想念の停止を経験したが故に解るわけです >>814
ごめん、誤爆だった。
その文章関係なかったw >>811
貴方は一回、その頭に詰め込んだ膨大な知識と無限に議論えお続けることの出来る頭の回転を完全停止し、捨て去る、この一事を無し得なければ、大悟は遠いでしょう
でも薄紙のごとき隔り一枚裏なんですよ、誰か明師に出会い、一喝一棒で貴殿の頭を真っ二つに割ってくれるなら、一瞬なんですがね・・・ >>816
お尋ねしますけど、文章を誤爆したのは悪かったけど、なんで以下が分かったら即時即今に大悟になるんでしょうか?
>そうした離念の行としての禅定より本覚の知恵への二段構えではなくて、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。 >>816
>でも薄紙のごとき隔り一枚裏なんですよ、誰か明師に出会い、一喝一棒で貴殿の頭を真っ二つに割ってくれるなら、一瞬なんですがね・・・
はぁ……
既に伝法の師に弟子して幾つか許されるものもありましたけど、貴殿の師は? 鹿野園はリセットできないさ、
ナワバリ意識に支配されたままさ、
鹿野園は自分の心の動きが一番遠い疎遠なのさ。 >>819
私の師バグワン・シュリ・ラジネーシ(osho)と五井昌久聖師です
☆ >>821
師弟の礼をとられたんですね。
で、>>819はどうなんでしょうか? >>818 空寂な心の本体にもともと 自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。
自然の知とは八識のことでないですか? 頭の理知が静まれば(空寂すれば)もともとのアラヤ八識が顕になって転変し主人公に現成するの理と理解しています
仮の自己実現に二つあり、一つは、この世で富を得た富豪は財力でどんなことでも自由を享受でき、この自由によって仮の自己実現を得ています
二つは、知的世界で自在に思索を巡らせる能力を得た一部の知識人、ノーベル化学賞を取るごときの博士から5チャン宗教界の博士まで、知的自己実現を果たした者、
この二つのパターンで自己実現に至った人は、一旦その出来上がった金ぴかの自己を脱ぎ捨てて無色透明な自己になって再度自己実現しない限り、真の大悟に至らないとされています
☆ >>808の訂正です。
こっちの文章って事で。
一般に、相対的な分別意識の想念をやめるという意味で、北宗禅が離念を主張したのに対して、荷沢神会一派の南宗禅は、無念を説いたといわれる。
神会(六七〇―七六二)の南宗禅のことは、のちにいたってあらためて考えるが、離念は鏡の塵を払うようなものであり、無念はもともと払うべき塵なしとする立場である。
ここには、この時代の中国禅があらわにした、きわめて特色ある考えが潜んでいるといってよい。 >>822
最終的にマジのカチ割法を伝授してくれたのは修行者仲間でもある先達でした、23歳の春にその行をしてカチ割ました
☆ >>824
ええ全くです、離念は心悟同住、無念は悟り独住でしょ、日常に於いては縁によって自在に心が生じるも、離れるという心生ぜずも念自ら独り離念し無念に消滅す、です、です
☆ >>826
無念に主人公が確立している様を悟りと云います
☆ 無欲。ただ坐る。お金が貯まる。
これだけで十分。他は余計。 >>824の続き
北宗が段階的な修行(漸悟)を説いたのに対して、南宗が直観的な悟り(頓悟)を主張したというよりも、むしろ北宗禅がいかに華厳の哲学を意識し、哲学と共なる禅の行道の本質を明らかにしようとしていたかを示すであろう。
じじつ、右の神秀の説明は、つぎのような『起信論』の句によるのであり、さきに道信の思想を見るために引いた「絶対の目ざめ」の一段にも関係している。
道信や神秀はあくまで経典を尊重しつつ、まじめに瞑想を実践しようとする、すぐれて正統派の禅者であった ☆
転変前のアラヤ八識別 ←アラヤ八識→ 本源的アラヤ八識
本来無き壁
↓ | ↓
悟り前意識 想念 → → → →見性 悟り意識
|
妄念 → → → →見性
|
転識したアラヤ八識別 ←本源的アラヤ八識→ 転識したアラヤ八識
↓ | ↓
想念(縁に生じ縁に消える)
悟り 【壁が無い】 悟り
思い(縁に生じ縁に消える)
|
悟り構造の概念図
☆ >>831(続き)
つまり、達磨大師以来の正統は北宗の離念であって、無念や本知を説く南宗は、そもそも後から現れた神会や慧能はそれまで殆どその存在も知られてなかったらしいそうですが、傍流以下って事のようです。 >>831
どちらでも正解で良い、ではないですか
☆ >>833
私が尊敬崇拝してやまない油井真砂聖師はこう言っております
禅も最後は、空となった自己に、宇宙の満天の星ぼしを映すようになる、と
悟りの世界は広大無辺にして摩訶不思議の世界です >>833(続き)
ところで、面白いことに慧能(六祖)が聞いて悟りをひらいたという金剛経のW応無所住 而生其心Wの語は、鳩摩羅什の創作でサンスクリット原本には無い。
慧能は実在の人物にしても、やはり神秀によって担ぎ上げられた神輿で、その伝記の多くは創作とされるところでしょう。 >>827 無欲。ただ坐る。お金が貯まる。
トムやぁ〜 貯まったお金をオラに寄付すればもっと無欲だよぅw
\ >>836
その当時のその創作者は、眼の開いた悟者だったんでしょうね、でなければ書けない筋書きですから
☆ 如是我聞と同じくでしょうたぶん、自分の悟りでも釈尊に敬意を表し己の説とせずに、名を伏せる自己の無さ、達磨の語録も同じく創作だとか
しかし、インド小国の第五王子だった達磨が当時の皇帝に謁見したかもと思いを馳せますw
☆ >>839
う〜む、釈尊の名を借りた権威づけの様相も有ったのかなあ〜?
☆ >>787
矛盾ですねー、また。
こうすればいいじゃないですか? >>789
たとえば、自分だけが知っている、宝箱の開け方があったとして、
それを、「教えろコノヤロウ」」と言ってる人に教えますか? ふつう。
その人は宝箱を開いたら、中をグチャグチャにするに決まってるでしょう。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」 >>793
あのね、残尿感を感じてかみついてきてるのは、
あなたの方なんですよw
だから、あなたこそ、残尿マンなんですよw だいたい、悟りを求めるということと、学問は両立しない
もちろん、学問はその指針となり、洞察を与えるから、あるにこしたことはないが、
そもそも学問の趣旨は、表面的な流れを深く追求することで、
内面的な探求にはない。
学者が内面の探求に口を出すからおかしくなる
たとえば、車学という学問があったとして、その学者が、カーレースに出場するようなものだ。 「無欲。ただ坐る。お金が貯まる。」
これだけで十分。他は余計。
お金、お金、お金〜♪お金を貯め〜ると〜♪
不安、不安、不安〜♪不安が無く〜なる〜♪
さあ、みんなで〜お金を貯めよう♪
お金が一番大事だ〜♪
(^ω^) 屁理屈仕入れて客と話を合わせる仕事なんだろう
中身なんてどうでもいい
まさに生業が人を作る
正命ってやつだ 「無欲。ただ坐る。お金が貯まる。」
これだけで十分。他は余計。
(『おさかな天国』の替え歌)
お金、お金、お金〜♪お金を貯め〜ると〜♪
不安、不安、不安〜♪不安が無く〜なる〜♪
さあさ、みんなで〜お金を貯めよう♪
お金が一番大事だ〜♪
(^ω^) >>844
ハイ〜勝負あった!
鹿野園は宗教スレの試金石だ、これに対峙して同調して鹿野園をこき下ろした時点で、この勝負は君の負けぇ〜
だいたいの人は負ける! 必ず引きずり込まれて自我😡💣⚡状態w
冷静に冷静に🥶 中道とは、
これは一方に片寄らない、ちょうど真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方という事です。
上手く説明が出来なかったのであるホームページから引用させて頂きました。
今仕事がしたくても出来ず、しかし、コロナも防がなくてはいけない、そんな状況にある方も多いのではないかと思います。
ワクチン自体にはまだまだ問題はあると思うのですが、
有効なワクチンが開発出来れば問題解決の糸口に繋がっていくのでは、と思ったのです。 >>848
鹿野園の悪態を、そのまま返せば鹿野園と同類になり、ということだな、
鹿野園の罵倒をニヤニヤしながら見て、
テーラワーダのような、
あなたは、こう考えてますね、的なイジり徹すれび合格とかね笑。 >>850
そうそう〜中道とは自己に寄らず、他己にも寄らず、とも言える >>849
あなたがコロナ菌が気になって気になってしょうがなかったとする
コロナ菌におびえて、それが苦になっていたとする
あなたはその苦を解決するために、さて、どうするのでしょう? (『おさかな天国』の替え歌)
無欲、無欲、無欲〜♪無欲にな〜ると〜♪
お金、お金、お金〜♪お金が貯ま〜る〜♪
さあさ、みんなで〜お金を貯めよう♪
お金が心の柱だ〜♪
(^ω^) >>842
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ数息観で出てきた思いをどうすべきなのか貴方は見解は示さない
お風呂の比喩もどうすべきなのか自身の見解は示さない
貴方の思想や宗教修行歴について問われても答えていなかった
指摘ですよ >>854
それを聞いてどうするのですか?
中道の話しをしていましたよね >>849
この引用文では、中道の説明がきちんとなされてませんよ
何がなんだかわからない
それから、中道はまさに、真ん中なんです。
それは中庸とはちがいます。 >>858
分からないと言われてもこれが私の説明です
あなたの例もお願いします 衆生済度を目指す大乗仏教の本質。
(『おさかな天国』の替え歌)
無欲、無欲、無欲〜♪無欲にな〜ると〜♪
お金、お金、お金〜♪お金が貯ま〜る〜♪
さあさ、みんなで〜お金を貯めよう♪
お金が心の柱だ〜♪
(^ω^) 残尿マン、K1ランカー入り決定!!!
おめでとう、残尿マンw 鹿野園、スーパーチワワ状態、大回転!!
俺の脳内では鹿野園のレスを見ながら、無敵状態のマリオのBGMが鳴っている 残尿マンよ、チャンピオンへの道は厳しいぞ?!
役者は揃った 次のK1王者は誰だ?
m9 (`・ω・´) ビシッ!
1.精神崩壊中卒ナマポマン こじ
2.空中浮遊殺人トラッカー 元オウム
3.発狂・暴走ランマーマン さぁばんと(※パラ枠)
4.孤高のワンマン実況中継 でおー
5.マンネリ長野の皮剥珍魚 魚
6.忘れ去られた黄金の火男 ポッタン
7.マンネリ万年中傷BOT ポッタン師(ひふみ)
8.脳内膀胱炎で思考停止中 ザ・残尿マン
9.汚物と化した過去の栄光 鬼和尚
10. 忘れた頃に出てくる貧民 手ぶら スーパーチワワ状態の回転レスの鹿野園と
トムの区別がつかなくなる笑 鹿野園、茶番で荒らすなよ、
それを
自スレでオナッてろよ笑。
巣穴に帰れ!!! スーパーチワワ鹿野園の放尿止まらんなあ笑
はよ、巣穴に帰れ!!!
ハウスっ!!! >>853
で、>>818へのレスは未だでしょうか?
誤爆したの文章に対してなんで
>ええ、是が解ったなら即時即今で悟りに入るんです、
ってなるのか、合点がいかないんですけど…😰 鹿野園の茶番レスの後に真顔ぶったレスの方が合点がいかんわ笑。
もう巣穴へ帰れ!! 8.脳内膀胱炎で思考停止中 ザ・残尿マン
wwwwwwwwこれを待ってた‼ 鹿野園くん、自スレで
栄進坊やと茶番でナルシズムでオナってなさい
お帰りください笑。 >>853
鹿野園くんの脳内で君に対抗するナルシズム妄想が874でムクムク養育してますよ笑、、
鹿野園にレスすると、笑。
鹿野園を
スルーしろと推奨したのに笑。 >>856
ある一定の話が通じなければ、そのレベルの話が相手に通じないということを意味するでしょ
だから、話をしてもムダなのです。
どのレベルが通じるのか、突っついて様子を見ないといけない スーパーチワワ状態の鹿野園の狂乱は、
ホント、ウンザリだわ笑。
野良犬チワワにエサやると笑。 >>879
うんうん、もういいから、ナルシズムスレに行ってください。 鹿野山はとても座禅を30年やっているとは思えない
それは誰の目にも明らかでしょ
もし、本当にやってるとしたら、週末にちょこっと、30分くらいの座禅を組むくらい
それを30年・・・
そりゃ、単なるリフレッシュ瞑想だわ
仏教的知識と言っても、単なる学だけでやると、その本質がわからない
だから、こういう風になる >>589
これだけでも、鹿野山が中道、空、縁起というものを、本当にわかっていないということがわかるだろう
とくに中道は、非常に難しい
風呂のたとえを解読できないところから、中道を理解していないのがよくわかる 鹿野園大発狂。
うんうん、
もう、それに飽きたから、自スレに
お帰りください、
自スレでお吠えください。 >>882
分かった分かった、精神病院に行きなさい。 自スレで吠えてください、
お帰りください鹿野園くん。 さて、中道の生活の中での具体的な実戦って話が出ましたけど、仏教経済学ってものが提唱されているんです。
認知度は低いですけどね。
応用仏教学の一つで、他にも仏教心理学、仏教論理学、仏教民俗学、仏教社会学、仏教教育学、仏教福祉学、仏教看護学、仏教経営学などがあるようです。 どうせそう言うやつら坐禅もしてないだろ
そう言うのに興味を持つお前もな 仏教経済学の概要をwikiからあげときます。
仏教経済学(ぶっきょうけいざいがく、英:Buddhist Economics)は、ドイツ生まれのイギリス経済学者、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーによって、1966年に提唱された経済学で、応用仏教学の1つである。寺院経済学ではない。
仏教経済学は簡素(少欲知足、無執着)と非暴力を基本とし、最小資源で最大幸福を得ることを目的とし、経済として自利だけではなく利他も目的とする。これに対し、資本主義的経済学では、物資の消費量を幸福の指標とし、自利の追求のみを目的としているため、正反対である。 >>889
残念ながら坐禅してるんだなぁw
私の坐禅セットだよーw
https://i.imgur.com/G9Zk9Y1.jpg
自分も購入したいなぁってものがあったら言ってねw >>818へのレスは未だでしょうか? 誤爆したの文章に対してなんで
これは何処かでレスしたと記憶してるなあ?
>ええ、是が解ったなら即時即今で悟りに入るんです、ってなるのか、合点がいかないんですけど…😰
入るでなく入っているか?いや同じだ、随所で主となっている状態
>空寂な心の本体に【もともと自然の知があって】、それ【自ら空寂の心を知る】ことにほかならなかった。
ですから、見聞覚知のアラヤ八識が主人公であったと、ソレ以外の何者でも無かったと、その為にはソレ以外無いと空寂にして知的に了解し終え、もって本覚とする、と只知るんです
昨日書いたリシ氏の悟り体験記の9話以降にある、最後に集中的座禅会で了解し終えた記録は、もしかしたら参考になるかと思います、一応禅師がその場で確認し決着付いたと認められたことだそうですから
☆ >>891
ありがとうございます。勉強になります。 中道とは、自分の心の空気を読むってこと。他人がどう思うか?
ではなく自分がどう生きれば最適か?を休むことなく続ける軌跡が中道だ。
自分が最適になることは同時に他人も最適になることが必要条件だけどね。 鹿野園さんは親切だなぁ。
0891 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2021/02/15 22:29:14
仏教経済学の概要をwikiからあげときます。
仏教経済学(ぶっきょうけいざいがく、英:Buddhist Economics)は、ドイツ生まれのイギリス経済学者、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハーによって、1966年に提唱された経済学で、応用仏教学の1つである。寺院経済学ではない。
仏教経済学は簡素(少欲知足、無執着)と非暴力を基本とし、最小資源で最大幸福を得ることを目的とし、経済として自利だけではなく利他も目的とする。これに対し、資本主義的経済学では、物資の消費量を幸福の指標とし、自利の追求のみを目的としているため、正反対である。 >>892(続き)
ちなみにそれ、秋〜夏用の坐禅着ねーw
夏用は麻の坐禅着を拵えてある。
作務衣は四着ねーw
ぼろぼろだけどwww ここが悟りスレ化してんだけどw
本スレは、、、どうなることやら(゚_゚ 私は鹿野園さんをフォローします。
鹿野園さんを叩いてる人もいますが、丁寧に説明する鹿野園さんは親切だと思いますよ。 >>898
面白おかしく、でもってそれなりに役に立つ情報を交換出来るならいいけど、こじさんが発狂してるからねぇw >>903
お前も何年も何年もしつこいなぁw
だったらここでお前の禅歴をお腹いっぱい披露しろや?
あ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwww >>882
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ禅語に日日是好日とありますが中道を理解されている貴方の見解をお願いします♪ 私は鹿野園さんをフォローします。
鹿野園さんを叩いてる人もいますが、丁寧に説明する鹿野園さんは親切だと思いますよ。 >>891
>仏教経済学は簡素(少欲知足、無執着)と非暴力を基本とし、最小資源で最大幸福を得ることを目的とし、
けっきょく、仏教的知足の意味を、一般的な清貧思想と勘違いしてるよね
それでは中道にならない
だから、このレスも >>697 自分で意味がわかってない
つまり、中道が欲の無い清い生活とか、その程度のレベルで知足と結び付けてる
仏教的な知足の意味は、単に物質的な満足感のことを言っているんじゃない
こころの反応に対してい言ってるわけだ。
仏教的な知足とは、すくない物質で「満足」するってことじゃない。
「少欲知足」という言葉の融合も間違ってる
中道がわからないから、こういう反応が主体になるw
面白いほど、相対反応に飲み込まれてる >>895
さっきは雨の日の仕事を例に出してましたね
色んな中道があって良いのだと思います
絶対にこの解釈でなくては、ということもないと思います
その方の中道を聞かせて頂けたらと。
分からなければ分からないで良いと思いますしね ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ>>55>>71あぼーんしてて存在しか分からんわ
アンカー刺しとしてどこまで鶏頭の口から出任せホラ吹き厚顔悪霊執着ババアだよwww
オェー
ニワトリ頭ババアの右に出る者はなかなか居ないでしょうwww
悪霊は高校時代クラス中からハブられて開き直りの厚顔は職場でもハブられて年期入ってるからねwww
出禁の口から出任せホラ吹き厚顔
新スレにまで嫌がらせに来る女々しい悪霊はだから罰が当たって娘が発達障害になったと思うよ
シツケェーガイジ
オェー
0493 野良 ◆feSbtNqxlQ 2020/10/31 07:24:45
>>487
おはよう。
麦のレス全然平気になったわ。慣れだな。
こう言うおばさん職場におるし。
慈悲の瞑想のおかげだな。
以前から麦のコピペは飽きたなのwww
麦のレスは響かないなのwww
今度は慈悲の瞑想のおかげだな。www
0543 野良 ◆feSbtNqxlQ 2020/11/03 09:35:02
忍耐こそ、最高の行である。
育児板から逃げたして来ただろうwww
育児板で最高の忍耐の行をしてこいよwww
子供そっちのけで5ちゃんに入り浸るネグレクト!!
口から出任せホラ吹き厚顔執着ババアにウンザリだよ
オェー
0402 野良 ◆feSbtNqxlQ 2020/10/29 17:30:18
>>355
しょせん作り物の言葉だろう?
言葉よりも麦の方が先に死ぬであろう。
それが救いである。
0633 野良 ◆feSbtNqxlQ 2020/10/31 13:06:41
>>538
その心が、早く治り、幸せが訪れるように祈るよ。
挙げ句の色ボケババアwww
キチガイwww
>9.馬鹿にされてもコケにされても反応されることに喜びを覚える(=廃人)。
>0332 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF 2020/10/25 08:53:39
柿猫は先天的な精神的畸形でミュータントだから、常識が通じないんです。
確かに宗教板の住人の8割は統失や知障ですけど、あれは異次元ですね >>893
>ですから、見聞覚知のアラヤ八識が主人公であったと、ソレ以外の何者でも無かったと、その為にはソレ以外無いと空寂にして知的に了解し終え、もって本覚とする、と只知るんです
神智学の方ですよね?
あなたがそう思われるのなら、私はそれ以上何も言いません。何故なら、何度か言ってますけど、私は宗教的多言主義ですので。
しかしながら、宗教的排他・包括・混合の視座で「禅とは〜」だの「唯識とは〜」というのは受け入れませんので。 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんをフォローします。
鹿野園さんを叩いてる人もいますが、丁寧に説明する鹿野園さんは親切だと思いますよ。 鹿野園狂乱やめたんか?
つまらん、独りで、もっと狂乱して欲しかったぞ笑。
また仏教仮面付け仏教ゴッコしてんのか?笑
もっと素直にクルクル狂乱と幼稚なK1ランカー妄想で狂乱してくださいよ〜〜笑。 >>900
例えば、ラジオでもテレビでもスマホでも何でも良いですが、音を小さく絞って、聴こえるか聴こえないかの処にボリュームを固定して、座禅の状態で耳を凝らしてみてください
これで聴覚意識が結晶化し、同時にアラヤ八識が凝固します、そして想念は止んだ状態になってると、ここで主人公に として自覚出来れば良しです
試してみてほしいです
☆ >>905
wwww
俺は言うべきは言って残尿ゼロだよw
で、お前の禅歴をお腹いっぱい披露しろや?
あ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwww >>917
そうではなくてこれの事。
↓
>>816
お尋ねしますけど、文章を誤爆したのは悪かったけど、なんで以下が分かったら即時即今に大悟になるんでしょうか?
>そうした離念の行としての禅定より本覚の知恵への二段構えではなくて、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。 鹿野園は悪霊だな笑。荒れてんじゃん笑
鹿野園を居づかせたのは、誰や〜〜笑
鹿野園はクズなんだから〜〜 >>917
>試してみてほしいです
余計なお世話。 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんをフォローします。
鹿野園さんを叩いてる人もいますが、丁寧に説明する鹿野園さんは親切だと思いますよ。 >>859
知足とは、つまり、こういうことなんですよ >>401
わかりますかね? 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんが正しいと思います。 >>911
神智学の方?オショー五井聖師の弟子です、別に鹿野園氏を納得させようとか、そんな気全くサラサラ無いので、まあ何か言ってるぞ!程度で流してください
まあでも、禅で認められたリシ氏の体験記を読むことはおすすめしますよ
☆ >>917
>>919は間違えました、すみません。
以下の件ですね。
↓
808 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] :2021/02/15(月) 16:32:45.23 ID:r9077aTJ
柳田先生がそこらへんの消息を大変分かり易く説明されているのであげておきます。
>そうした離念の行としての禅定より本覚の知恵への二段構えではなくて、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。
って。
つまり、本知の立場って事です。
↓
814 名前:神も仏も名無しさん :2021/02/15(月) 16:43:31.83 ID:7E18DX5X
>>808
ええ、是が解ったなら即時即今で悟りに入るんです、でもそれは理論であって一回でも其処に行った者でなければ悟り意識を即時に実現されないんですよ
私は一瞬でソコですが、と言うか常にいつ如何なる時でもソレであるのですが、是も一回徹底した想念の停止を経験したが故に解るわけです
↓
815 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/02/15(月) 16:48:59.08 ID:r9077aTJ
>>814
ごめん、誤爆だった。
その文章関係なかったw
↓
818 名前:鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF :2021/02/15(月) 17:10:08.45 ID:r9077aTJ
>>816
お尋ねしますけど、文章を誤爆したのは悪かったけど、なんで以下が分かったら即時即今に大悟になるんでしょうか?
>そうした離念の行としての禅定より本覚の知恵への二段構えではなくて、空寂な心の本体にもともと自然の知があって、それみずから空寂の心を知ることにほかならなかった。 >>859
また、「知足」とは、「只」ということです >>926
>まあでも、禅で認められたリシ氏の体験記を読むことはおすすめしますよ
なんで? >>926
先に言っときますw
鹿野園/ お断りします!
お好きにどうぞwww
☆ 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんにも一理有ると思います。 鹿さんは仏教の話の中で「知足」という話を出しながら、本当に仏教的な意味をわかってなかった
中道も、「我欲の無い道」というレベル以外にわからない。
仏教を学びながら、その中身がわからない
ただ表面的な史実は、語句の表面的な解釈のみ。 >>927
ラーマクリシュナは言った、
水は低い処から高い処には流れない
むろん高いというのは、自我やプライドの高さ。 >>930
ん? 悟った瞬間の描写に興味無ければ無視で
☆ とんだ大恥さらしだったわけです。
深いところに踏み込むと、いっきに醜態を晒す。 >>935
ご親切にありがとうございました。
35年も腹を練ってると、そういうのはお腹いっぱいなんですw 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんにも一理有ると思います。 >>933
鹿野園を責めてもしょうがなかんべ、何も変わらないから
☆ 私は私にとっての極端を
経験することで産まれる
ものだと思うね
真ん中 こういう人に答えを与えると、ああ、こういう考え方の主張もあるのだと思って、
その対応策を考えて、かみついてくるわけです
だから、つかつに答えは与えられない
遠回しにすこしづつ外堀を埋めていけば、何が間違ってるかわかるでしょう >>942
おっしゃる通り、
どうせやるなら、鹿野園くんの精神分析をする方が、他人に役立つかもね笑。 >>942
>鹿野園を責めてもしょうがなかんべ、何も変わらないから
えっ?!
あなた、そう言うつもりでレスをしてたんですかぁ? 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんにも一理有ると思います。 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんにも一理有ると思います。 >>950
栄進と勘違いしたでしょ?
±ゼロのレスを見て >>944
>遠回しにすこしづつ外堀を埋めていけば、何が間違ってるかわかるでしょう
えっ?!
まさか、まさか、まさか?!
俺は正しい、お前らを導いてやるとか????
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>939
腹練れたの?ってことは、座ると即座に腹に主人公が落ちるの?
>35年
へ〜そうですか、私は49念はやってるが未だに新鮮に読んだよ、常に興味ある、頭マッサラw >>951
してないよ。
で、いつまで残尿マンをやるつもり? ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ残尿さんは中道の見解も示さない
日日是好日の見解も示さない
残尿感満載で結局構って欲しかったダケねwww 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんにも一理有ると思います。 >>955
あなたはたとえこちらが中道の見解を示したとしても、
それを理解できないよ
理解できない人に不用意に見解を示すことを、豚に真珠というのです 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんが正しいと思います。 悟りスレの中身が
>悟りをひらいた・霊的に生まれ変わったと思う人、悟りをひらきたい・霊的に生まれ変わりたいと思う人、悟りや霊性対して懐疑・批判的な人。
に変わったからなw >>956
問答じゃあないよ、無心も数十年経つと、胸に落ちてから腹に落ちるんですよ
これを腹が練れたと言います
☆ 皆さん、冷静になりましょう。私は鹿野園さんが正しいと思います。 >>958
だったら最初からその話を振らなければいいのだし、その時点で話を切り上げればいいだけじゃんw
いつまでもそうやって思わせぶりして話を無駄に引き延ばすのはなんでかなぁ〜〜😂
あ、レスは無用だからねw
此方から一方的に弄らせてもらうんでw
だって構ってもらいたいんでしょ?
🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣 >>958
∞ノノハ∞
川^〇^ハレこのスレ見てるのは麦だけではありませんからねwww
書き込みしている方やロムってる方に分かる方もいるかもですよ
見解が示せるなら示してくださいね >>923
自分の分かったとあなたの言う分かるか?の問いかけが
一致しているかは分からないです。
私の中道はどの道を選ぶかです。自分では最善の道を選んでも間違えることもあると思います
でもそれでも何かに気づけたらよいのだと思っています >>962
何処まで練れたかを試すのには、気合いをかけさせると良く分かる
何にも練れていないと喉(頭)から声を出す、少し練れると胸部から出す、十分練れると腹から裂帛の気合を出せるようになっています
声楽オペラ歌手は腹から出して頭へ響かせるんだってねw
☆ >>966
ロムってる人が問題なんじゃなくて、今目の前にいる「豚」が問題なんですよ
前からずーっと感じてたことですが、ようやく結論に至った感じですね
こういうところで、真理の話の共有は不可能ということです。
たとえば、わからなければ、素直に聞こうとすればいいわけですよね?
だけど、みんな我を立てて、自分の意見と対立するように聞こうとしてる。
だから、何を言っても無駄なんです。
けっきょく、こんなところで話てないで、行を完成した人が一番の勝利者ですよ、ってこと。
井の中の蛙から脱出しないと、らちが明かない >>972
いやいや、w
中道も縁起も空も、間違った解釈をしているのが明らかになったでしょ?
間違った解釈をしてるのに、こちらの話をいつまでも間違ってるように主張して、
人の言うこと聞かないじゃないですか?
学問を土台にした自分の主張の誤りを認められない
学問を土台にしたものが、内的探求の方向性から論破されたのです。 >>971
∞ノノハ∞
川^〇^ハレあんたが大将ぉ〜♪あんたが頭取〜♪あんたが妄想〜♪
あんたが大将ぉ〜〜〜♪
釣りはいらねぇ〜よぉ! 鹿さんが間違いを認めるのは、学問的な反証があったときのみ、なんですよ。
内的探求からの考察からじゃない。
つまりこれは、行的な経験の無いことを物語っている。
だから、いつまでも指摘しても、指摘しても、絶対に認めることはない
学問に完全に依存してるから。
内的探求の考察に依存してない。 >>974
>中道も縁起も空も、間違った解釈をしているのが明らかになったでしょ?
あ!
ちなみに中道の話はしたけど、縁起や空の話は残尿マンとはしてないよw
勝手に話をしたことにして、
勝手に間違ったことにして、
勝手に分かってないって言って、
勝手に他人の話を聞かないって言って
最後に論破しましたですか?
やっぱり脳内膀胱炎でしょうね。
精神病院に行きなさいw >>967
最善の道を選ぶことが中道なんじゃありませんよ?
最善でも最悪でも、プラマイゼロ、です。
中庸的な発想で、社会に中道を当てはめようとすると、
意味が合わなくなりますよ
あくまで心の相対的反応に絞らなければ。 >>981
間違ったらそこからやり直します
例えそれが遠回りでもやってみなければわからないです
例も出して貰えず間違っている、というだけなのが残念です 中道っていうのは仏道の成就に資する道しるべの事だし、中道を歩むとはその道を行く訳でしょ?
自身が最善の道って決定(けつじょう)して歩まれるのなら、それでいいじゃないのかなぁ?
晃さんだっけ、W仏教は勝負だ!Wって仰ってたのは?
親鸞さんもW念仏者は無碍の一道なりWって仰ってるし。
うにゃうにゃと脳内膀胱炎をおこして、残尿感たっぷりにズルズルしてるよりも、信心決定して歩む事だと思いますけどねーw >>978
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ大将!って初めに言ったのはジャンキーたんねwww
麦はあんたが大将の歌を思い出して歌ってたのwww ところで、人類に物心がついて宗教だの哲学だのを作るだして侃侃諤諤とやって来たんだけど、今の宗教や哲学の思想面での最前線ってどうなんでしょうね?
詳しい訳ではありませんけど、哲学であれば言語分析学、現象学・実存主義、ポスト構造主義が三大潮流って言われてるそうですけど。
仏教にも龍樹や世親の思想があってそれらに対応し得るものだと思うんですけどね。
というか、先取りしてるの感さえ覚えるんです。 愛読してる某書にこんな記事があります。
「中二病」という言い方があります。
14歳前後が、無闇に正義感が強くなる年頃だからこの名前なのでしょうか。
大人になっても治らない患者もいるようです。
中二病の三段論法は次のようにまとめられます。
大前提「世の中には絶対の真理がある」
小前提「その真理を知っているのは自分だけである」
結論「ゆえに、みな自分の言うことを聞かなければならない」
ってねw 宗教板の住人の多くは中二病の方の様ですねw
ともあれ、絶対の真理ってあるのでしょうかね?
いわゆるダルマとダルミンが区別されない中で、空性としての作用が顕れる場というのはあるとは思いますし、それを絶対の真理って当て嵌めるのも一理あるのでしょうけど。
しかしながら、いわゆる一般的に言われてる真理に関して、他人論っていうカテゴリーもあるんですけど、現代は多元論が優勢のようですね。 とどのつまり、空性としての場の上での戯論としての相対的真理が展開されてるって思うんです。
それ故に私は真理多元主義の立場なんですけどね。 > 大前提「世の中には絶対の真理がある」
これは真理多元主義から見れば反対の立場になりますので、それ故に
小前提「その真理を知っているのは自分だけである」
結論「ゆえに、みな自分の言うことを聞かなければならない」
というのは成立しません。
つまり、上記にカテゴライズされる宗教板の中二病の方の言うことは受け入れません。
そうなりますねw 鹿野園は他人の評価が気になる動機で仏教を語る不思議ちゃん笑 >>991
wwwwwwwwwwwwwwwww
知らないなぁw
俺は自分とか知らないし分からないねw 一発の屁で解る人には解りますからね♪
∞ノノハ∞
(⌒⌒ヽ∪川^〇^ハレ
( ブッ!ゝ∪ )
丶〜'´ (_)_) お前らさぁ?
自分を知ってる自分って何よ?
この手の問題を見て一発でW無限遡行Wって見抜けなきゃまだまだ中二病だよw 仏教は自分を知るところからはじめて自分を知らないになるんだけどな、こいつの場合は・・・ 仏教の入り口ですら入ってない
門前ばらいだなこいつは ダンマパダ
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【 第十二章 自 己 】
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157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。
162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。
163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。
164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。
165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。 自分を知っているとか、それって知られてるのは属性でしょ?
名前は◯◯です、男性です、会社員です、背が高いです、温厚です、大卒です、読書が好きです……
体にしても、この腕が他人のものとどう違う?この脚は?内臓は?
…他者と交換可能でしょ?
まぁ、脳についてもそうなんだけど、この説明は面倒だから省略。
そうした属性を除いていった基体である自分って?
自分が自分である事の理由ってなんでしょうね?
…あくまでも仏教的な視座からの見解ですけどね。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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