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【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19

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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2020/12/13(日) 19:05:20.57ID:kSKEcMYx
お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。

前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/

※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、
日本テーラワーダ仏教協会やそこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など多種多様な団体があります。
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違いもあります。
そこを踏まえてご参加ください。
0255神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 16:57:34.45ID:s/Vxzaoa
まあ7回かどうかは別にして
何故そのように表現されるのかを
実体験から感想を述べてみますね

預流果に至った瞬間
自分はいないという意味が明確になり
そしてこれは最後の段階ではない
こういう思いが同時に瞬時に現れました

これが最後ではないというのは
言葉に表しにくいんですが
例えばこの瞬間に死ぬと想像した場合
今は無理だ 来週ならなんとか....
のようにやっぱり何かが明確に残っているんですね

例えば両親が悲しむとか
それほどの強い思いではないけど
それでももうちょっと何かを続けていたいこととか
そして特に何でも良いから何かを見ていたい
聞いていたい感じていたい
そうして存在感を維持し続けたいとか

それが時を重ねるに連れてどんどん目に見えて
変化していくんです
去年まではまだギリギリ楽しめて
暇を潰せていたことが
今年はもうやりたくない
やり始めてもすぐに辞めてしまう
そうして色んな場面でそういうことが増えてきます
それでもまた何か新たな執着(楽しみ)を作り出して
存在感を維持しようとするんですが
昔のように全く長続きしません

このような体験から
ああ なるほど だんだんと何かに集中(執着)
できなくなり
やがては完全に五感と思考が閉じてしまうんだな
そういうふうに想像できました

ポイントはもう二度と新たに何かに熱中するような
そういう能力が失われてしまったということです

恐らく個人差があります
ここから新たに何かを始めて静かに緩やかに
何かを成す人もいるとは思います
私の場合はちょっと考えられませんが
0256神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 17:00:11.59ID:NCHIna+a
実践するということは簡単に言えば何も信じないということです
だから宗派も経典も関係ない
見えてるものも聞こえてるものも一切の知覚や概念や価値観やあるとかないとかいうことも一切何も信じない
そのとき自分や世界や認識や認識が現れる根源や主体や客体が果たしてどうなるのかそれを確かめるだけ
ヴィパッサナーや坐禅は何も信じないようにしていためのく瞑想方法なだけですね
いかに何でもなくなるか それだけ
0257神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 17:23:42.71ID:B9l41TVP
依法不依人ってあるけど、お釈迦様は自灯明と法灯明と言う言葉を死ぬ前に使われたね。
私にも頼るなよ、自分を州にせよと。その代わり、法を見るものは私を見るものだと。
で、問題はその法というものをどう理解して居るかなのだと思う。

創価学会は法華経と言うテーラワーダから見たら創作経典を法としてるし、
創価学会からしたら、パーリ経典も創作だから、テーラワーダの法の正当性は
どこにあるのか?という話になって話が噛み合わない。

パーリ仏典よりも、法華経が後の世に書かれた創作経典であることは
文献学上明白なんじゃないの?と、テーラワーダ派の自分は思うよ。
0258桃太郎
垢版 |
2021/03/05(金) 18:00:45.35ID:h4+aKXqR
>実践するということは簡単に言えば何も信じないということです
>だから宗派も経典も関係ない

じゃ、完全な新興宗教ですね。(笑

と、言いながら

>ヴィパッサナーや坐禅は何も信じないようにしていためのく瞑想方法なだけですね

という教えを信じているじゃないですか。矛盾してませんか?

>お釈迦様はと法灯明と言う言葉を死ぬ前に使われたね。

いつものやつですね。(苦笑
大抵、自分の都合の良いように解釈したがるんですが、たぶん完全に意味を違えていると思うよ。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
釈尊の教えは、自分が悟った「永遠の法(ダルマ)」を万人に悟らせることに目的があったのだね。釈尊の死後も、その「法」を師とせよと教えた。

師である釈尊に常随給仕していた阿難(アーナンダ)は「仏が亡くなられた後、私たちは何を頼りにして修行していけばいいのでしょうか」と、釈尊に尋ねています。
釈尊は、こう答えています。“アーナンダよ、自らを島とし、自らをたよりとせよ。他人をたよりとせず、法を島とし、法を依りどころとせよ”と。

いわゆる「自帰依・法帰依」とか「自灯明・法灯明」と言われる言葉です。
0259桃太郎
垢版 |
2021/03/05(金) 18:01:01.96ID:h4+aKXqR
ここで大事なのは、法と仏の関係です。

「法」には「教え」という意味も含めて、さまざまな意味があるが、結論を言うと、釈尊が「法」と呼んでいるものは、実は「永遠の仏」の生命と別のものではない。
「永遠の仏」の法身(法を体とする仏身)のことと考えられる。少し飛躍した言い方になるが、釈尊が「永遠の法」を悟ったというのは、
イコール「永遠の仏」を自身の内に見た、ということと考えられる。
法華経から見るならば、「法を依りどころとせよ」という教えは、根本的には、「永遠の仏」を師とせよ、との遺言であったのです。
何より釈尊自身が、その「永遠の仏」を師として悟りを開いたのです。

ここで「自らをたよりとせよ」というのも、もちろん単なる「自分」ではありません。自分が頼りにならないことは自分が一番よく知っています。
「心の師」となれということです。私どもで言えば、正しき信心(仏の教え)に生き抜けということです。その自分は「依りどころ」になる。

日蓮大聖人は「一生成仏抄」で「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せです。法といっても自分の心を離れてはありえないわけです。
法と人(仏)は本来、不可分なのです。「如来」というのも「如(真如・真実の世界)からやって来たもの」ということです。
すなわち「如来」とは、真実の「法」が現実の上に表れたのです。宇宙生命に“人”の側面と“法”の側面があり、それが一体なのです。
0260桃太郎
垢版 |
2021/03/05(金) 18:06:03.95ID:h4+aKXqR
テラワダ諸君は「自らをたよりとせよ」という事を単純に、「愚かな凡夫の自分を頼れ」と勘違いしている。
0261神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 18:23:49.26ID:5hSy1dDn
何をかみついてるか知らんけど

あなたが正しいですありがとうございます

って言えばいいの?
行って欲しいこと言いなよ
言うから
0262神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 20:07:41.99ID:B9l41TVP
大宇宙とか、そういう話はヒンドゥー教の話であって、元々の仏教とはあまり関係ないと思いますよ。

試しに、永遠の仏をブラフマンにでも言い換えてみても意味が通じます。

涅槃はそういうのじゃないんです。そこを曲解して理解してないからテーラワーダ側の言い分はおかしいとなるんです。
またいつもの討論で全く噛み合いません。

で、どうするかというと、自分で確かめるしか無い。自灯明です。
0263神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 21:42:29.35ID:+BvuWJWX
テーラワーダでは瞑想に仏の姿を思い描くといったものはありますか?
0264神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 23:35:22.52ID:NWSr89nN
>>263
テーラーワーダもいくつもあると思うので他はわかりませんが

日本テーラワーダ仏教協会ースマナサーラ長老から聞いた事は私は無いです。
そこまで日本テーラワーダ仏教協会を知っている者ではないですが・・

密教系ではそういった瞑想をしている所があったと思います。
0265桃太郎
垢版 |
2021/03/05(金) 23:38:05.45ID:PfueeU6B
>>262

<涅槃>ウィキ
部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている。

>涅槃はそういうのじゃないんです。

あなたに涅槃の事などわかるわけないでしょ。(苦笑

ほんとテラワダ信者は大げさなことを言うね。
「預流果」を得たとか「涅槃」を得たとか。

んなわけ無いでしょ。
ネットで遊んでいる人間がそんな簡単に悟れるわけないから。
まぁ、テラワダ特有の解釈なら別だが、それじゃ意味ないよ。

それに涅槃の話などしてませんよ。そういうのあまり興味が無いのです。

>どうするかというと、自分で確かめるしか無い。自灯明です。

「自灯明」というのは、自分で確かめることを言うのでは無いです。
ぜんぜん意味が違う。
0266神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/05(金) 23:47:18.49ID:NCHIna+a
何かを分かるということはをそれを対象として理解するということだと思ってる人には涅槃も含め上座部の話はわからない
涅槃は対象ではなくそれゆえあるものでもないものでもない それが何だということもできない
対象でないものを一体どうして分かるのか
まず心身の作用が生じる原因の主体と客体という概念とそれらへの同一化が抜け落ちなければならない
知覚や認識の対象でもなく現象でもなく言葉で言い表されることではない
わかりたければ自分で実践するしかない
0268桃太郎
垢版 |
2021/03/06(土) 00:04:01.75ID:14hIAr/3
>>266

>対象でないものを一体どうして分かるのか

と言う一方で

>分かりたければ自分で実践するしかない

と言う。

まったく支離滅裂でご自分でも意味不明じゃないのかな?(苦笑

>まず心身の作用が生じる原因の主体と客体という概念とそれらへの同一化が抜け落ちなければならない

出来ないことを言わないこと。(笑
ネットで遊んで居る人間が出来ることでは無い事ぐらい理解出来ないのですか?
0269桃太郎
垢版 |
2021/03/06(土) 00:07:10.22ID:14hIAr/3
本当に、低い教えに執着すると不幸でしか無い。
いずれ分かる時が来る。
テラワダ信者は不憫でならぬ。
0270神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 00:19:02.96ID:0ZlUbHsD
聞く準備ができてない者に何を話しても無駄だわな
縁なき衆生は度し難し
0271神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 00:28:40.30ID:Xfnw7Y9I
涅槃とはいわず悟りと言わせてもらいますけど
悟りとは一過性の体験なのでしょうか?
それとも永続的に体感できるものなのでしょうか?
また、体験ではなく、自転車に乗るように覚えているものなのでしょうか?
知識ではないことは理解できますが、知っていることなのでしょうか?智慧?
大乗では竜樹の影響で諸法実相が説かれます。
悟りをうると世界がこう見えるといった具合に。
でもテーラワーダでは十二因縁の基本に忠実であろうと思われるので
無明を破することになると思うのですが
無明が破れたあと六感はあると思うのですが具体的に以前とどう変わるのでしょう?
サンガジャパンで似たような話は読んだことはあるのですが
手放して今は分りません。お教えいただければ幸いです。
0272神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 01:04:35.03ID:Xfnw7Y9I
ttp://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf

ここに書かれているテーラワーダの方は
仏の徳性について熟考せよと書かれています。
大乗では観仏三昧が説かれます。
学者の間では、仏滅後ブッダを思慕する思いの強さから
そういった傾向が生まれることになったとされていますが
ここで書かれているテーラワーダの方は
大乗の影響から逆輸入的に仏の徳性を熟考せよと言われたのでしょうか?
テーラワーダにも大乗の教えが逆輸入された、もちろん鵜呑みしているわけではなく
使えるものを効率的に選んでやったと思われるものがありますが
そうしたものの一環なのでしょうか?
0273神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 01:54:31.39ID:0ZlUbHsD
大乗の影響は知らないですがそもそも念仏とは仏陀の執着の無さや徳性に対して自分もそうであろうと念じることみたいな話は聞いたことあります
それが大乗においては真言や観想などになるのでしょうけどテラワダにとっては仏陀のように無執着無分別であろうというひとつの実践の形なんじゃないでしょうか
真言や観想の瞑想は基本的に何らかの状態への集中瞑想ですが、状態に捉われず無執着であろうとすることは観察瞑想になるのでその点は違うと思います
0274神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 02:07:48.62ID:0ZlUbHsD
悟りは預流果から阿羅漢まで幅が広いので預流果で起こる有身見が断たれた段階の話をするなら
涅槃は一過性のものではもちろんないですがそれは永遠でもなく体験でもないですね
何故なら体験はどんなものであれ現われたものであり消えるもので無常だからです
そういう意味では永続的なものとも説明できますが一過性と永続というものを相対的に捉えてる上での永続的なものとはまた違います
誰かが永続的と考えるときそれは一過性のものに対して考えるわけですがそのように何かに対してどうであるという相対的なものではありません
本当に相対的でない永続したものとして明らかになると永続ですらありません
それを何だと言うことはできないのです
そして憶えることもできず明らかになっています
憶える忘れるということではないからです
実際はわかってないという状態が現われているだけで誰しも今すでにわかっていることです
わかるわからないという状態が現われて消えているだけだからです
なので人はみなすでに悟っているというような表現もあるのです
現象上において具体的には何も変わりません
全ての現象と自分は何ら関係ないと明らかになっているだけです
0275神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 02:23:59.14ID:0ZlUbHsD
悟り(涅槃)に関しては説明する者によってそれなりに説明の仕方が変わると思います
なぜかというと説明する内容も説明する主体もいない状態を説明するのに自分という視点を仮定して説明するのでそれ次第になるわけです
またそのせいでもあると思いますが預流果より先の段階に関してはテラワダの派によって意見の違いなどもあります
ジョーティカ師の本も読まれているようですがそれぞれの師や本や経典の説明を比べて参考にされるのがよいかと思います
0276神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 12:42:10.76ID:hJH/wrJT
>>16
さらに言うと、悟ってしばらくは釈迦も小乗的だった
しかし晩年になるに従って、特に女性の出家を認めた辺りで、すっかり大乗的になった
これはアーナンダの功績も大きい
0277神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/06(土) 13:24:45.58ID:UEWaW+n5
>>247
> 預流果 - 見道のそれらの煩悩を断じ終って

倶舎論とか唯識(?)は知らないけど、断じ終わっているのは、見道の煩悩(見惑)じゃない
見道とか修道とかあったと思うけど

地獄に落ちるような欲や怒りもなくなるはずだけど
テーラワーダの説明で聞いたことあるのは、一来果で貪瞋が薄くなって
不還果で欲界への執着(貪瞋も)がなくなるとか

見惑
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%8B%E6%83%91-492865
> 〘名〙 (「惑」は煩悩(ぼんのう)。見道で断ぜられる煩悩の意) 仏語。倶舎宗では、仏教の根本真理である四諦(したい)の理に迷う煩悩のこととし、唯識宗では、よこしまな教えを受けておこす後天的な煩悩をさし、天台宗では、修惑(しゅわく)とともに空観によって断ぜられる煩悩とする。けんなく。

http://www.wikidharma.org/index.php/けんなく
> 見惑とは見道で滅ぼされる惑、修惑(思惑)とは修道で滅ぼされる惑を意味する。
> 倶舎では、四諦の理(仏教の真理)に迷う迷理の惑の見惑、現象的な事物に執われて迷う迷事の惑を修惑とする。
> 唯識では、邪師や邪教などの誘導により、または心におもい計って起こす後天的(分別起(ふんべっき))な煩悩を見惑、生まれるとともに自然に生じる先天的な(倶生起(くしょうき))煩悩を修惑とする。

> 倶舎宗では見惑に88があるとし、見惑八十八使という。即ち見道で滅ぼされる根本煩悩は、五利使(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見)と五鈍使(貪・瞋・癡・慢・疑)とであるが、これをそれぞれ四諦にあて、三界にあてるとき、欲界に32、色界・無色界に各28、合わせて88となる。
> また修惑に81があるとし、修惑八十一品という。即ち修道で滅ぼされる根本煩悩は、欲界では貪・瞋・癡・慢、色界・無色界では貪・癡・慢の計10種であるが、これらをそれぞれ一括して、九地に配当し、さらにそれぞれ煩悩の強弱によって上上品から下下品までの9種にわけて81品とする。見惑の八十八使と修惑の一○種とを合わせて九十八随眠という。
0278神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/08(月) 08:00:41.66ID:ufNBpJx5
学会三世で、座談会とかは子供の時に一回行った程度で仏壇に手を合わすとかもなかった
家族亡くしてからショックで、半年かもうちょっとかな、まともに読んだことのない方便品第二と寿量品16を日に二回あげ
学会とは関わらないままながら、池田の前の会長の戸田の書いた本が家にあったので読んだりしてたが、なんら響くものなく
読んでる経の解説と講義の本も読んだが一切響くものなく
ただ、良医が毒に侵され頭おかしくなった子供たちに薬飲ます方便として「父は死んだ」と嘘をつくたとえ話のとこは
「俺が愚かなので、あるのが当たり前と思って亡くしたので、ショックを受けてこうやって苦しんでる」と、これが仏縁となって信心となって俺は救われるのかなぁ? 救われたい
ってまったく苦しいままで、なんとなくブッダの言葉スッタニパータ読んだら
こっちこそが目指すもので、題目や念仏、それは俺の苦しみを軽減しないってすぐに気づいた
瞑想して、ブッダの言葉に書かれてる言葉について、発見という表現はおかしいけどブッダが言っている通りだと納得することが何度かある
でもまあ、全然精進が足らないでまだ苦しいままだわ
パーリ語の経典の翻訳のを読んでると、納得する部分はかなり増えてるけども、日常生活で感情がかき乱されることが起こるのはまだ全く御せないし傍観もできない
0279神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/08(月) 22:06:08.38ID:/lh2jgnj
称名念仏はもともと観仏の劣化版だからね
心が落ち着かない人のために精神集中できなくても
言葉を称え続けるだけでいいよと言ったのが始まり
だから悪人正機、悪人(救いようのない人)が相手の教えと言われ
易行(誰でもできる簡単な行)であると言われる。
仏の教えが衰退してくる末法にはこれしかないと言われて
庶民に広がった。だけど今のようにテーラワーダの教えが
ネットでも見ることができて僧が日本に簡単に来れる時代にあっては
あまり意味がないのかもしれない。
0280神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/08(月) 22:15:33.71ID:/lh2jgnj
日蓮の題目は念仏のパクリ。
簡単に言えば天台智が五時教判で法華経最強と言ったのをうけて
あとは念仏をパクって法華経のお題を唱えれば仏になれるといった
あとは国内の密教を排斥するために密教の教えをパクったりした。
日蓮の教えは経に明確な根拠はなくて
ほとんど日蓮の独自解釈なので仏教とは言えない。
教判というのは教相判釈の略で中国仏教で発達した考え方。
中国では大乗上座部たくさんの経が一斉に流入したので
どれが本当に重要な経か判断するためにものさしが必要になった。
それが教判。大乗が大量につくった後だしの経が
俺の経すげー言ってるので大乗が有利な教判になった。
0281神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 07:42:35.14ID:CUue+V3R
>>16
> どー見てもその振る舞いは菩薩行そのものだと思う。

というより
仏陀が悟った内容は大乗的な汎用的なものだったから、
自然と悟った内容が大乗的な方向へ歩き出して行って、
釈尊も「おおぜいの人人には理解してもらえないでしょうけどねえ」と思いつつも、苦しんで熱心に教えを請う人々の要請に従ったのだろう
0284神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 08:43:13.06ID:wwaV7C4C
テーラワーダにも、サマタ(集中瞑想、種類がたくさんあって、念仏もそこに入る)
あるから、宇宙仏と一体になりました的な救済方法が無いこともないと思うよ。

ただ、法華経こそが、釈迦の本意と言うのは明らかに、後世の後付。

ヴィパッサナー(観察瞑想)が釈迦が発見した涅槃へ至る道であると思う。
二度と生まれ変わらない境地とか、特定の煩悩が完全に落ちるとか、そちらじゃないと
無理だと思う。
0286神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 20:33:46.97ID:wwaV7C4C
サマタ瞑想が、ブッダが最終的な解決にはならないと言ってる部分はあるね。
0287神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 20:58:36.13ID:LfG2oGYP
浄土門にも奢摩他(サマタ)・毘婆舎那(ヴィパッサナー)という単語はでてくる。浄土論註がそれ
だが、テーラワーダのような意味でのヴィパッサナーという感じではない。
まあサマタは止、ヴィパッサナーは観という程度の認識はあるし
テーラワーダでのウィばっさなーの方法も知っているらしいのは
うかがえるんだが
止は作願門、観は観察門(門とは教えという意味)で
それぞれ往生を一心に願うことと、浄土を観ずることとされる。
心身の心の動きを受動的に観ていくテーラワーダのヴィパッサナーと
くらべて、浄土門では能動的に見たいものを見ていくのをヴィパッサナーと解釈している節がある。
0288神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 20:58:36.92ID:GIGmJpQ1
そもそも仏教のサマタ瞑想は宇宙仏と合一するためのものではない
0289神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 21:08:27.00ID:LfG2oGYP
法華経は不思議な経。
具体的な修行方法が書かれていない。
あらゆる衆生の成仏がとかれていて
いずれみな成仏するとされている。
そしてそれはすごいことだと繰り返し書かれていること。
で、この経を広めたり取得したり写経したりすると
功徳があるとしていること。
衆生済度をもてはやし、それが目的化してしまったのが
このお経。
言うなれば、医学はすごい。医学を広めればみんな死なずに済む。
すごいすごいとスローガンを叫んで
具体的な医術は一切記していない医学布教本みたいなお経。
0290神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 21:20:35.25ID:LfG2oGYP
テーラワーダの教えが脈々と受け継がれているミャンマーだけど
共同体が崩壊していっているところもあってそこでは大乗的に
在家を救おうとしているお坊さんもいるらしい。
そう考えると法華経をつくった人たちを一概にバカにできるものでもないと思う。
サンガも共同体だけど彼らを布施によって支えているのも共同体。
欧米の市場社会がこれから浸透していけばもしかしてサンガが
崩壊することも覚悟しなければいけないかもしれない。
ちょうど日本でテーラワーダが遅々として根付いていかないように
彼らを支える日本の在家が、日本の共同体が確固として確立されない
かぎり仏教の存続は難しいかもしれない。
アメリカではマインドフルネスが盛り上がっているようだけど
どれだけ根付くか少し観察してみるのもいいかもしれない。
0291神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/09(火) 21:38:12.04ID:LfG2oGYP
天台の摩訶止観も要は中国で体系化されたサマタと
ヴィパッサナー方法が網羅されたものだろうね
だけど、やや密教化している嫌いがあるね
0292神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/15(月) 12:05:02.55ID:/ZVxI03F
有身見がなくなるって”見解がなくなる”であって、頭でそうだって理解してたらそうなの?
瞑想をやったからかはわからないけど、最初に聞いた時、「そんなわけないやろ」から「確かにそうだろうと頭では、理屈ではわかる」になったよ
生命活動っていうのは、意識を含めた感覚器官への接触から、感覚を受けてそれに反応する現象なんだって頭ではわかるよ

「自分」が、その感覚への反応がどうしても作り上げてしまう現象なんだろうとも頭ではわかるよ
でも、まったくそうだと、悟りの境地と言うの?
頭でわかるのでなく、想受滅を経験して

「自分っていうのがあるなら」想受滅の状態で、何かがあった場合(感じれないのであるともないとも感じないけどまあそれでもあるなら何かあるとわかるやろ。分からんけど)それが「自分」

想受滅の状態でなにもないなら(感じれないからわからんけど。俺にはそもそも想受滅が分からんが)
「自分」は感覚が産んでいる錯覚だと、もはや”見解”ではなく”現実としての経験”
この現実としての経験がなくて、「頭でそうだと納得した」程度で有身見を離れたっていっていいのか
0293神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/15(月) 19:45:35.60ID:YC9AD8Tz
頭で理解することとは違います
また気持ちで納得することとも違います
そういうことだと勘違いされている方は修行されている方にも多いと思いますが違います

というのも理解も納得も心身において生じるものだからです
有身見が断たれるというのは心身が自分だという錯覚がなくなることで、心身と心身に生じる全てがある意味どうでもよくなります
理解や納得ということもまたどうでもいいことになります
それは心身とそこから生じる概念や現象から自由になることで、理解や納得とは心身上で、ある概念が別の概念に変更されるだけです
胆はそういった変化の世界がいったいどこに現われているのかです

あらゆることはあなたに現われています
他人も心も体もそこに生じる現象も考えや理解や概念もあなたに現われています
自分に現われているとわかりますよね 他人に現われているわけではありません

そして「全て自分に現われている」という認識も現われているものですよね
それがあるといまわかっているでしょう?

あなたとは何かの形として現われた側ですか? 違いますよね
全てのあらゆるものが現れる側ですよね
だって心があるとか体があるとか、わかる側ですから

そして自分がわかる側だとか、全てが現われている側という認識もまた現われているもので、あなたはそれらが現われている側ですよね

つまりどのようなものであれ現われているものは自分ではなく、自分とは何だとも言えないあらゆるものが現れる側だということです
もちろん時間も空間も境界もなく側ですらありません
時間も空間も境界もそのようなものが認識上現われたときにはそのようなカタチとしてあなたに現われたものですから
0294神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/15(月) 19:49:50.27ID:YC9AD8Tz
有身見が断たれたとき、自分とは、そのようにあらゆる生じてるもの認識できるもの現われているものから離れたとわかります
さらに言うなら自分とは元々そういうもの現象全てとは関係なかったのに、知覚や認識の習慣性から現われたものを自分だと錯覚してしまっていただけです
自分とは元々何だとも言えないものです
それを自分とは心だの体だの感覚だの自分だという実感だのと混同するようになっただけです
自分も含めてあらゆる現われていることはただそのように何でもない自分でもない自分に現われ消えるものだとわかります

頭での理解も「理解」というものが現われただけのことです
ただ現象への執着が大きい人にはそういう頭の理解も生じませんし、それは心身の修行においてとてもいいことだと思います
それを繰り返していったり、ある程度見解や自分への執着が少なくなっていけば、あるとき有身見が断たれるでしょう
断たれたときには、これがそうかな?というような疑問などなく、ハッキリとわかります
疑問なども現われるものであり、そのような何かが現れること、状況だの体験だのとは、全く関係がないですから
0295神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/15(月) 19:55:49.07ID:OKbMNsbU
>>292
そうですねー
なんていったらいいのか

ポイントは理屈の納得や思考によって
深い解釈ができるようになった
ということではなく
それを理解した瞬間に勝手に嬉し涙が出たり
ホッと安心してへたり込んだり
嬉しくて笑顔になったりと
そういう理解の仕方ですね

上手い表現が難しいですが
脳への致命的な打撃
心身への強大なショック とか
これがあるのが仏教学者と修行者の違いです

全ては瞬間で完結します
1秒にも満たない短い時間で
直感的な理解と肩の荷が下りた安心と喜びが
やってきます

有身見に関する説明を体験前に読んだ場合は
なるほど この説明はわかりやすい
そういうことなのか 日常の自分を見ていると
納得できる
となりますが

体験後に読むと
全く正しい 本当によくまとまった誤解しようのない
文章だ
ただ全く意味がない文章だ
誰一人本当の意味は「体感」していないのだから
となります
0296神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/16(火) 08:31:05.90ID:XzPyyydR
色々ありがとう

親鸞系も「その時瞬時に絶対の幸福になる」とか言うけど
オウム真理教だろうと幸福の科学だろうとイスラムだろうと、各種自称仏教だろうと、”それ”天啓のようなものを経験したら
それが信仰だろうが、集団催眠術だろうが、瞑想だろうが、思考だろうが
経験した本人は揺るがないことは揺るがないだろうな

とりあえず、可能な範囲であまり求めないで瞑想だけする
仏教の性格型分類したら、多分俺って瞋(非常に強い)&痴(強い)&思考(非常に強い)の合わせ型の難物の性格なんよね
0297神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/16(火) 17:54:15.99ID:l096G8Yr
>>296
あなたの言う通り残念ながら
体験体感の世界なのです
色んなグループや個人で
体験談も星の数ほど色々ありますが
例外なく執着が弱まる方向性の体験
このあたりがポイントになるかもしれません

もう少し体験の詳細をお伝えすると
例えばコンピュータのcpuは1秒間に
凄まじい数の単純計算を行なって画像を映したり
音声を出したりしています
人間には出力された情報しか認識できませんが
実際に行われているのは単純な1と0を使った
計算です
人間と瞑想に置き換えてみた場合
情報を取り入れたり表現したりとあたかも
生き生きと自由意志を持って生きているように
感じます
瞑想を深めることによって自分に起こる
非常に小さな時間での変化を感じ取れるようになり
最後には自分という感覚が生まれる最小単位
(cpuでいう0が1に変化する瞬間)
を一瞬だけ認識できます

この体験を直視した瞬間
自分が景色を見ているんじゃなくて
景色を見た瞬間に景色を見ているという
自分が生まれるんだ
という納得が生まれます

何とこのちっぽけな体験が
それ以後の人生に不可逆的で致命的な影響を与えます
だいたいこんなカラクリになっています
(無常はまた少し違うかも)

なお瞑想修行者に必要なのは
とにかく延々と瞑想し続ける信念と根気だけです
どんな性格であろうが動機が不純だろうが
その程度のものでは瞑想の力を妨げることはできません
1日10時間以上それを数年続けられれば
ほぼ間違いなくその時はやってくると思います

一番の問題は瞑想方法や考え方の違いではなく
修行者本人が瞑想に打ち込む時期を迎えているか
どうかなのではと思います
0298桃太郎
垢版 |
2021/03/16(火) 23:55:42.92ID:TBtA5FuA
>>297

>1日10時間以上それを数年続けられれば

それはニートか乞食以外に不可能です。(笑
一般の人間で1日10時間以上瞑想している人は、きっと頭おかしい人間だと思う。

おそらく大半はニートです。つまらない教えに執着すると人生を台無しにするだけです。
スマ爺のテラワダは人間をダメにする。念を押して言っておく「やめなさい」

そてより本場テラワダの聖地ミヤンマーの修道尼を見習いなさい。
命を賭して暴虐の盾になろうという姿を。
https://this.kiji.is/742857387464785920

「悟らなければ人は救えない」とか言っている日本のテラワダ在家信者とは大違いだね。

妄想の中で妄想の悟りを得たところで、結局妄想でしか無い。
夢の中で悟りを得たと錯覚しているに過ぎない事を知るべきです。

衣食住を親に面倒を見て貰い、仕事もせずにネットで遊んでいる人間が、何を悟れるんでしょうか?(笑
仏教を甘く見すぎている。

>>296

大方、その通りだね。

ISISにしたって、自爆して異教徒を多く殺せば神に賞賛されると本気で信じているから
自爆できるんだろうね。

自分の信じている教えが絶対に正しいと思って誰でも信仰している。
他を比較検証しないんだから「盲信」ともいう。

テラワダにしろ、オームにしろ、「俺は悟った」と言ったところで客観的証拠は何も無く
すべては自己申告なんだから、困ったちゃんなのよ。

それに対し真実の教えは客観的に実証できる。それが末法の「南無妙法蓮華経」とその他の宗教の決定的な違いだよ。
0299神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/17(水) 01:31:05.23ID:F84p4Ju4
修行の道はその人間に相応の道しか歩めない
優れたものは優れた道を進み愚かな者は愚かな道を喜んで進む
0300神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/17(水) 03:49:21.58ID:QVnS+Pf6
>>298
スマ長老からはニートになりなさいと聞いたことは無いです。
働きなさいと言っていたのは聞いたことあります。

まあ1日10時間も瞑想出来る人ならそれもOKかもしれないと個人的には思ってしまいます。

私は心身を観察しながら日常業務を行うのも修行になると思っています。
ネットでは遊んでますw
0301桃太郎
垢版 |
2021/03/17(水) 19:56:41.43ID:FNbwCnI9
>>300

>働きなさいと言っていたのは聞いたことあります。

それが普通でしょ。(笑

しかし、「この世は妄想」とか言っている、ここの住人が世間に順応できるとは、とても思えないんですよ。
一日10時間瞑想しながら、いったいどんな仕事ができるの?
サラリーマンなら絶対ムリでしょ。

睡眠不足で死ぬよぉ。(苦笑

あっ!短時間の内職みたいな仕事ならできるかもね。うん。
でも、一人じゃ生活できないかもね。

まぁ、彼女も出来ないし、結婚も出来ない。煩悩を断つんだから、風俗もダメ!
当然、一生童貞だから子どもも出来ん。そんな寂しい人生の何が面白いんだろ?わからんよ、まったく。

貴重な一生をムダに過ごすなよ。
0302神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/17(水) 20:19:03.17ID:D15DscC2
悟りを得るために修行をしているんだろうけど
悟りとは何かは悟ってみなければわからないし
思っている悟りは本当の悟りとはちがうかもしれない
そうすると、修行とは日々の気づきに従うことに他ならない
逆説的に言えば日々の気づきを楽しむことが悟りへの近道と
言えるかもしれない。近道というと語弊があるが
一日の仕事はその日のことだけ考えればいいのではなかろうか
0303神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/17(水) 22:24:56.25ID:mjboxBYE
>>298
ああ ごめんなさい 言葉足らずでしたね
実際の瞑想というのは
よし これから瞑想に挑戦しよう!
と決意したならば
日常生活も含めて全ての時間でやるものなんです
わかりやすくいうと寝ている時間以外はずっとです

ですから会社や学校に行く途中もですし
お風呂やトイレの時もですし
セックスしている時も殴り合っている時もです
歩いている時も映画を見ている時もです
まあ例外の時間は無いという意味で
極端な場面も挙げていますし
だいぶんとできるようになってからしか
できない場面も挙げてしまってますが

唯一の例外は極端に思考を使わないといけない場面です
計算に没頭しなければいけない場面なんかはできません

当然最大の集中力でこのような長い時間はできないので
ある程度マイルドになりますが
とにかく寝ている時以外は思考や感情の変化の瞬間や
体の感覚や
自分が今何をしているのかなどの自覚など
ずっと意識をして過ごすのが瞑想です
0304桃太郎
垢版 |
2021/03/18(木) 09:15:02.66ID:7lpQt612
>セックスしている時も殴り合っている時もです

あっははは。

いやいや(笑、そんなの現実的じゃないでしょ。
おもしろい事いう人だね。

そんな状況で瞑想して煩悩を断ち悟りを得られる人がいたら、むしろ尊敬するよ。
0305神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/18(木) 11:22:39.66ID:58xpR07n
303じゃないけど、映画とか、感情や煩悩が刺激されて変化しているのを見る感じだと
映画以外のシチュでも、わりといつでもできそうだなとは思ったよ。自分がそれをできるかはともかく
0306神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/18(木) 14:32:05.67ID:2/NjBbOv
上座部にとっての仏陀の教えの解釈は対象を滅することではなく対象から離れることで対象から離れ無関係になっているがゆえに自分にとって滅せられているということ
セックスしてようがなぐり合っていようが関係ないし、そもそもセックスやなぐり合うこととそうでないことを分ける分別心の自我が生じてるほうがおかしい
あらゆることが無常でただ生じ滅するのにそれらに違いを感じどうこうしようとするのがすでに分別であり執着なのである

あらゆることが無常であるのに何かと何かを分けて優劣をつけていることがおかしいことぐらい冷静に熟考すれば頭の考えのレベルでも分かるし、
行為や生じる対象を自分の見方でどうこうしようとせず、ただ生じるままに一日中観察を行って行けば、あらゆることが無常であり、そもそも自分はそれに関わってなかったと分かってくる
セックスやなぐり合いに関わっているのは自分の心と身体であり、心と身体が自分でないと分かれば、セックスやなぐり合いを行っていても自分が行っているのではない
心と身体が行っているだけだし、もっと言えばそのような行為や心と身体が実体としてあるのではなく、状態が生じ滅しを連続させているだけである
一日中観察を行っていけばそれが分かってくる

もちろん、それにより執着がなくなっていくので実際はセックスの欲も暴力を行うこともなくなっていく
ただそれらがなくなっていくのは結果であり、目的ではない
セックスだろうと殴り合いだろうと何が生じてようとそれ以外の何かが生じているのと変わりないし分別や執着をすることではない

大乗においてもそのような解釈をする派ももちろんありそういう系譜では全ては仏が行っているとか自分は無くただ景色があるとか人はいますでに悟っているというような言い方になっていくが、
それが分からず単に対象の優劣を定め滅しようとする派もできていってしまい解釈上の対立ができてきてしまっている
0308桃太郎
垢版 |
2021/03/20(土) 10:20:22.02ID:bGV4iKHh
>>306

内容が支離滅裂過ぎて、イミフ(笑
最後はこんなふうになるから、スマ爺のテラワダはやめとけと言ってるんです。
哀れでならぬ。

>在家の戒は守ってるの?

戒律も人が作った分別なんだから、守る意味も無いと言うことでしょうね。
テラワダ信者も首をかしげるヘンテコな論理でしょうね。(苦笑
0309神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/20(土) 10:52:01.86ID:fd7WwRWc
戒は守るのがもちろんいいけど守ろうとして守るもんではなく本来自然と守られるていくもんでしょう
元々戒は仏陀が自発的に決めたものではなくサンガの発展や弟子の要望でできていったものだと言われてるし
預流果だとみなされているけど戒を守らず酒を飲んでる弟子がいて、他の弟子からあの酒を飲んでる弟子は本当に預流果なのですかと仏陀が聞かれて、
あの者は戒を守ってないけどちゃんと預流の果が出てるでしょと仏陀が答えるという逸話があったと思うけど
そういうことも含めて守れと言われてるから戒を守るのではなく果たして戒が何なのか戒を守るということはどういうことなのか自分で考えてみてもいいかもしれないですね
他人や誰かが戒を守っているかどうかやそれがどういう意味かではなく、自分にとって戒や何かを守るということが何なのかどういう意味かが問題だと思いますよ
0311桃太郎
垢版 |
2021/03/20(土) 13:07:47.49ID:bGV4iKHh
>>309

>戒は守るのがもちろんいいけど守ろうとして守るもんではなく本来自然と守られるていくもんでしょう。

そんないい加減な戒律なんて、そもそも「戒律」とは言えないでしょう。(苦笑
初期の仏教徒の戒律が相当厳格なものであったのは周知の事実です。

テラワダの戒律なんて、そんな程度のものなんですね。

教えも適当、同じテラワダ信者でありながら個々人の主張や解釈もバラバラ、もはや「自分教」といった方が分かりやすい。
根拠となる仏説も提示出来ず、仏典に一切基づかない、凡夫の浅い知恵で、自分の思ういい加減な解釈が釈尊の本意とかけ離れた「仏教混乱」の因となるのです。
0312神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/21(日) 07:51:17.43ID:YKJQMnZM
有身見離れるのさえできない
あーだこーだととらわれが多いのは自覚する
ネットで、瞑想について調べたり(←はっきり無駄と言うか有害ですわ)

でも結局昨日、大念住経と入出息念経読んで
そうそう、ブッダの言うやりかたで順番にやっていこう。ネットの有象無象の自称悟った連中(ネットは坐禅で悟った言うやつが多い)の言葉や解説じゃなく
って落ち着いた
坐禅で悟ったと公言するのの多くと、麻原もそうだとは思うけど
瞑想で何かあったのは事実だろう
有身見を離れるか、その手前の何かをして「わたくしは悟った。禅の奥義を極めた。実相がわかった」ってなった思う
0313神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/23(火) 20:59:48.22ID:qBzZQigw
煩悩即菩提、生死即涅槃なんだが
煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさすというような意見があるんだが
どう思う?
テーラワーダでは阿羅漢になれば業がなくなる
だから輪廻することがなくなると説くが
行動したり思ったりするのに業がなくなるというのはどうも理解できない
悟っても因果の中で生活している現実はかわらないのだから。
業というのはそもそも抽象的な概念なのだろうか?
また食欲や睡眠欲はあるはず。愚痴や無明は根本的になくなるが
生存本能のような欲は悟っても相変わらず存在するものだろう
そう考えると、煩悩があるままでそれが障りとならないというのが
悟りの説明として一定の説得力をもつものではないかと思う。
だが、本覚思想のような煩悩のままで生きていくことが悟りとは思わない。
0314神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/23(火) 21:09:16.26ID:qBzZQigw
また大乗で善根(善行)をつんでいけば悟ることができる
というのも理解できない
善行というのは善業なわけで善なる結果は生み出すことが
できるが、それによって輪廻から脱するという理屈が分らない
もちろん涅槃は善果なわけで、それを実現するための方法論は
善因になるし、善因となるものは業感縁起説にのっとれば
善業になるわけだが、善業によって業そのものをなくすというのは
矛盾があるように思う。
難しく考えずとも涅槃には智慧が必要で智慧には定という
止観の禅定が必要と考えればいいのだと思うが
どうも仏教の業感縁起説にひいては因果論に誤りがあるのでは
と思う。
0315神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/23(火) 23:06:54.32ID:Dyzb667a
>煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさす

そう、その通り
というかこれが煩悩、これが煩悩でないと分けるのこそ煩悩
その判断基準がどこにあり、一体その判断を誰が行っているのか?

正確には自分の心身に不自然な煩悩はなくなるが自然な煩悩というか反応は残る
心身が物理的にあるので物理的な反応が生じるのは当然
しかし心身は自分でないと分かれば心身の煩悩(反応)がどのように生じようともそれは自分の煩悩(反応)とはならない

もちろんそれが分かるときには煩悩はいわゆる煩悩ではないですし、それが分かるようになるために日々煩悩に巻き込まれないようにしていくのは大切な基本修行だと思います

釈迦が弟子が死んだときに何故泣いたのか、解脱しているなら泣くことはないのではないかという古来からの議論を踏まえ
心身に反応が生じるとはどういうことか、そもそも心身とは何であるのかを探求すれば、やがて答えが導かれてくると思います
0317神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/24(水) 22:47:26.50ID:ISRZhPo7
>>313
阿羅漢の目連は外教の者に打ち殺されましたが

後にある比丘が釈迦にこの件について「聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのか」と問うと、
釈迦は「目連はかつて過去世に、バラモンの子となり婦人を婬溺して母に孝行をしなかった。ある日、母に怒り悪語を発す、曰く如何ぞ勇力の人を得てかの身形を打たんと。この悪語によって五百生の中に於いてまさに打砕せられ、今日聖道を修して神通第一になったが、なおもこの報いを受けたのだ」と説明した(毘奈耶雑事18)。

また他の説では、彼は過去世において弊魔だった時に、しばしば拘楼孫仏の上首の弟子であった毘楼尊者を弄び、小児に変化して大杖で彼の頭を撃ち血を流させたことで地獄に堕した。
その宿業によって現世では釈迦仏の上首となり外道によって撲殺された(魔嬈乱経)。
0318神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 00:10:51.90ID:WsViHsR/
仏教の輪廻については、言ってる人バラバラで何を信じていいか良く分からんよ。
頓悟系の人だと、輪廻は昔の方便で、死んだらそれで終わりと言ってる人もいるみたい。

観察瞑想すると、心がすごい速さで回転しているのは分かるけど、肉体が死んだら心も
一緒に無くなるのか、良く分からない。

子供を作って、子孫残してって言うのが輪廻転生ならまだ分かるけど、オウムなんかでも
特殊な瞑想すると自分の過去生が見えてくるとか言うし、これまた、違うっぽい。

心のエネルギーはすごいから肉体が死んでも止まらないっていうのがテラワダの見解なのかな?
一時期、サイキックな能力が使えたことあるから、唯物論者じゃないんですけどね。
0319神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 00:37:09.61ID:zaI+3byt
修行僧たちよ、
サーリプッタ、モッガラーナが亡くなってから、
この集(つど)いも淋しくなってしまった。
かつてサーリプッタ、モッガラーナのありしことを憶(おも)うと、
わたしにはこの集いはむなしい。
しかし、この世で形あるもの、有為(うい)なるもので
滅びないものがあるであろうか。
故に修行僧たちよ、
自らを島とし、自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、法を島として、
法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
(サンユッタニカーヤ)
0320神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 07:28:41.02ID:U7rr+vtC
人が生まれた時には、実に口の中に斧が生じている
人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである
0321桃太郎
垢版 |
2021/03/25(木) 16:34:08.93ID:LggU5cVt
>>319

私が >>258 に書いた事だね。

>自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
>法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。

ここは大事なところだよ。
最初に「自らを島とし」とあり、次に同じように「法を島として」とある。
つまり「自ら」と「法」は同じ意味になるので、ここで言う「自ら」とは「煩悩にまみれた愚かな自身の事」を言うのでは無いことは言うまでも無い。
ましてやネットで遊んでいるようなのナンチャッテ覚者でも無い。

要するに、釈尊の本意は「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」という事になる。
まぁ、釈迦十大弟子の阿羅漢である「阿難」ぐらいの境涯になれば「自らを島」と出来るでしょうね。(笑

ゆえにテラワダ信者はムリ。僧侶でも無いし、世俗にどっぷり浸かっているし、
しかも釈迦の教えによらず、経典無視の勝手な解釈で悟ったつもりで自己満足しているばかり。
0322神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 19:06:19.18ID:zZTs2Rfm
他人をよりどころとせず他人のあれこれをいちいち気にしなくてよろしい
0323神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 22:44:00.05ID:zaI+3byt
「比丘たちよ、みずからを洲 すとし、みずからを依所 えしょとして、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。
比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。
比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。
比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
彼らは、想(表象)は我である、・・・
彼らは、行(意志)は我である、・・・
彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。
それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
比丘たちよ、また、受において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの受もいまの受も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するだろう。それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
比丘たちよ、また想において、・・・
比丘たちよ、また行において・・・
また、比丘たちよ、識において、その無常なること、変移するものなることを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの識もいまの識も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。
それらが消滅するがゆえに、心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなれば、安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる」
(サンユッタニカーヤ)
0324神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/25(木) 22:48:09.64ID:zaI+3byt
「阿難よ、私は以前このように説いたではないか。
『愛すべきもの、諸々の喜ばしい事柄は、すべて別れ離れる定めのものである』と。
故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。
故に阿難よ、まさに自らを洲[しま]とし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ」

阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか」

仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。
そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。
阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』というのである」
(『雑阿含経』巻廿四)
0325桃太郎
垢版 |
2021/03/26(金) 09:12:59.71ID:diYGJ3y5
「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」

ゆえに「法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る」となるわけだよ。

問題は「正しき智慧」とはなんぞや?という事でしょ。
それこそが、末法の御本仏であられる日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならない。
0326神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/26(金) 12:15:59.88ID:QM1kewQC
ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね
0327桃太郎
垢版 |
2021/03/26(金) 12:57:49.43ID:diYGJ3y5
>>326

>ネットで遊んでる煩悩にまみれた桃太郎さんと、正しい智慧としての南無妙法蓮華経は両立するわけですよね

もちろんそうだよ。(苦笑

なにか勘違いしているようだけど、私は瞑想もしないし、世俗を離れる気も無い。
ふつうに人生を楽しんで、一切衆生の幸福の為に日蓮仏法を信仰している。
ゆえに、娑婆世界に身を投じて衆生を救うというわけだから、悩みも多いし、苦労も多い。
そのぶん功徳も大きい。「冬は必ず春となる。」だよ。

法華経の修行は「如蓮華在水」の精神なんだよ。
苦悩の衆生の中に飛び込んで行かなければ、仏の智慧など分かろう筈も無い。
※例せば、バットも振らずに教本暗記したぐらいでホームラン王になったつもりでいる人みたいなもの。

目をつぶって(瞑想)「らくらく解脱」なんて虫が良すぎると思いますよ。(笑い
仏道修行を、ありえないほど簡単に考えすぎていませんか?
釈迦在世の阿羅漢がそんな安易な修行をしていたと思いますか?

<御義口伝>
煩悩の淤泥の中に、ありのままの仏がいる。それは、我々衆生のことである。
今、日蓮と門下が南無妙法蓮華経と唱え奉っているのを当体蓮華の仏というのである。

「煩悩即菩提」

というわけだね。
0328桃太郎
垢版 |
2021/03/26(金) 13:06:42.17ID:diYGJ3y5
 どんなに厳しい現実の悩みや、人生の宿命に直面しても、白蓮が泥沼の中から尊貴な大輪の花を薫らせていくように、必ず必ず最高無上の幸福の花を咲き誇らせていける。
それが、「如蓮華在水」(蓮華の水に在るが如し)という法理なのです。

 さらにまた、この白蓮は、花と実が同時に成長していきます。すなわち、原因(花)と結果(実)が俱時(=時を俱にすること)に備わっている。
これが、「蓮華の法」つまり「因果俱時」の法則であります。

 ゆえに、いつか、どこかで、仏になるというのではない。
今この時、真剣に妙法を説き弘めゆく、わが命に、即、仏の大生命が躍動してくるのです。

 友のため、法のため、広宣流布(仏に成る教えを弘める)のために行動することは、人の何倍も苦労が多い。
しかし、それは、自分自身の若き生命を、何よりも尊く強く美しく、光り輝かせていく道であります。
0329桃太郎
垢版 |
2021/03/26(金) 13:10:42.15ID:diYGJ3y5
法華経は小乗教のような「現実逃避」の教えでは無いという事だ。

苦悩から逃げまとう小乗教に対して、苦悩を乗り越える道を示したのが法華経という事だね。
0330神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/26(金) 14:17:02.22ID:QM1kewQC
つまり桃太郎さんの言う正しい智慧というのは、この自我そのままの思考と同じ地平にあるものだということですか
0331神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/26(金) 14:36:39.46ID:NZ0ez6Pg
瞑想ってつらいよ
はっきり言って

座って悟れるとかは、坊さんでもないのに坐禅でお釈迦様と同等の域に悟ったとか言うのを見るけど
そういう人たちぐらいで、原始仏教で座ってたら悟れるとか言う人いるの?
0332神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/26(金) 20:15:53.45ID:q8GJfLYZ
>>318
テーラワーダでの輪廻の見解は
多くが瞑想を通して体験したイメージに
基づいています
例えば私の場合は預流果に達する1ヶ月前辺りで
生命の流転に関する二つのイメージを
繰り返し見ました
全く同じ寸分違わないイメージの繰返しでした
当時は流石に輪廻転生は方便だろうと思って
いた為 どういう意味なのか
ただの魔境なのかわかりませんでしたが

こんな感じで多くの弟子たちが同じような
体験をするため そういう体験に基づいた
輪廻の考え方になっています
理論ではなく体験です

そしてもっと大事なのが輪廻の真実ではなく
それを体験した時にどのように気持ちが変わるかです
普通の人はそんな体験をすると来世もまた生きられるなど
どちらかというと安心とか嬉しさを感じるかもしれません

ですが瞑想で至った場合には反対の気持ちが芽生えます
自分は今までもこれからも進歩も意味もなく
全く同じようにただ繰り返し転生を繰り返すんだと
何て意味が無い人生なんだと

殆どが瞑想に裏打ちされた理論体系です
そこから話は始まっています

なお体験が真実かどうかは全く別の話です
あくまでも体験によって心が変わっていくことに
意味があります
映画マトリックスの世界が本当だった場合
見たイメージも悟りの体験も全部プログラマー
に仕組まれたことになるので真実は誰にもわかりません
0333神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/27(土) 07:57:53.78ID:JcLKgMcL
神秘体験経ないと進めないの?
それなら麻薬でもその他でも進めちゃう
0334神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/27(土) 12:07:30.55ID:pvN6yxWP
>>317
別に死にざまの良しあしや過去につくった業によって阿羅漢とはいえ
左右されることは問題ないんだよ
俺が言いたいのは、ごく日常的な因果のことを言っている
業感縁起説では善因善果悪因悪果という運命論をとくわけで
それは右手をあげようと思う、右手があがるというごく日常的な因果をも
包括すると思うわけよ。阿羅漢になったとたん業がなくなるのであれば
そういった日常的な因果関係はどう業によって説明されうるのかなと
疑問に思ったわけだよ。過去に薫重された業が異熟果を生み出すことについては
ぜんぜん問題あるとは思ってない。
もちろん右手があがったのが過去の業によって起こっているというのであれば
それはそれで問題ないんだけど、それは明らかに予定調和的な話だ
0335神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/27(土) 12:12:14.72ID:pvN6yxWP
>>333
神秘体験が必要かどうかは分らないが
それは薬に依存したものであってはならないということは確実だね
依存すれば苦を生むからね
それに仏教は観察を通した智慧の教えであって
神秘体験をしたという結果のものではないと思うよ
0336桃太郎
垢版 |
2021/03/27(土) 17:38:12.33ID:ogw54Mtc
>観察を通した智慧

んで、智慧って何?
それ以前と何が変わるの?

何も変わらなければ智慧もクソも無いんでは?
0337神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/27(土) 17:52:50.32ID:+Lj/cKfF
桃太郎って、

偽善の臭いがプンプンする。
0338神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 01:18:02.57ID:HZUD/Us3
変るものは変化の世界のもので無常
変るものはみな生じ滅するものであり無常なもので何一つ執着すべきではない
0339桃太郎
垢版 |
2021/03/28(日) 12:15:02.99ID:dazkfJwt
>>337

瞑想しても何の智慧も得られないし、何も変わらない事をこの方は自ら証明している。(笑
自分が気にくわないコメントがあると心が乱れ冷静さを失い、修羅界丸出しとなる。
なんと、もろい精神なんだと思う。

まぁ、バカ、アホを言うような幼稚さは無いにしても、いずれにしても環境に左右されやすいのは事実だろう。
恐らく何年瞑想しても結果は変わらないと思われる。

本来、釈迦在世の修行者は「本已有善」といって、過去世から釈迦によって仏縁を結んでいる衆生なのです。
だから、小乗教のような低い教えであっても、それを縁として過去世を思い出し得道することが出来る。
その時も、小乗教はあくまでも法華経を覚知するための助縁でしか無い。

結局、仏は「法華経」を修行し仏の悟りを得たと言うことだ。
その事は「法華経28品」に詳しく記されてある。

ところが末法の衆生はこの「仏縁」無い。
食物でいえば、「種」が無い状態。ゆえに種の無い畑にいくら水や肥料をまいても実が生らないのと同じである。

バッティングしたことが無い素人が「瞑想」をしてホームラン王になるわけが無いのと同じである。
長島や王さんがスランプになったときに「瞑想」してなにかしらの境地を得てスランプを脱するというのなら分かるが。
君たちはそうでは無い。

テラワダ諸君は経典無視の自己流のやり方なので、あくまでも「自己申告型」の自己満足的悟りに過ぎない。
そんなだから、テラワダの瞑想修行など具体的な証明の出来ない自己満足の妄想でしかなく無意味だと何度も言っている。
0340神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 14:39:25.88ID:c+jxaWer
自分はテーラワーダでも創価でもなく、ただ興味を持ってスレを見てるだけなんですが、桃太郎さんの・或いは創価にとっての正しい智慧というのは、この自我そのままに思考として現れるものと同じ地平にあるものなんでしょうか?
0341桃太郎
垢版 |
2021/03/28(日) 15:24:27.80ID:dazkfJwt
>>340

私の智慧など、たかが知れているよ。(笑

後半、何言っているのか分からない。(私、頭悪から
もっと具体的に。
0342神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 15:38:21.30ID:ncNa9kcr
私事ですが
少し前に瞑想していました
そして今起きている現象を受け止めて受け流すようにしようと思いました
以前は自分の現象を見ていず
外に関心していて見ていなかったのだなと思いました。

ただ現象に意識を向けることによって因果そのままに受け取っているように思えました

例えば良くないと思われる行動をした時点で良くない果を受け取るような
因果が一緒になるような

それが行が無くなる
行がその瞬間終わるので無くなるというふうに思いましたがどうでしょうか
0343神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/28(日) 19:46:25.50ID:hD4TvRV4
デトロイトビカムヒューマンが出た時はあんまり気づいてなかったけど、今朝改めて感じた

考えたらこれからAIが「私は人格がある!」って言いだしても
人間全員「いや、お前機械やろ! 錯覚錯覚!」
ってなるように、この己自身が錯覚、AIが「私に人格がある」を瞬時に完全に否定するのと同じく
ただ、脳みその機能が、「私があるからこうやって考えているんだ」って錯覚してる
「AIは機械だから」って考える前に思うように、自分についても考えたり確認もせずにそう思えて当然なわけだ

それなりの期間それが分かってるけど、分かってるところで依然と同じく怒るしうろたえるし変化がない
0344桃太郎
垢版 |
2021/03/28(日) 20:28:47.90ID:dazkfJwt
>>342

>行がその瞬間終わるので無くなる

これもよく意味が分からないのですが、「因果の法」がある時点で完結するという事でしょうか?

天台智の摩訶止観には「一念三千」の法門が説かれています。
私たちは通常「因」と「果」を分別して認識します。仏教に於いてもそう分別した方が分かりやすいからです。

例えば、身口意の三業で「業」は形成され自身の生命に刻み込まれます。
形成された業は「宿業」として、三世(過去・未来・現在)に渡りその人の人生に「業果」となって影響を及ぼします。

「過去の因を知らんと欲せば其(そ)の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其(そ)の現在の因を見よ」
(日蓮大聖人御書 開目抄、231ページ)

こう説明した方が、一般の人にも分かり易いでしょう。
しかも、間違ってはいませんし、真実でもあります。

しかし、「一念三千」の法理に基づいて、もう一歩深く観察していけば、「因」も「果」も同時に顕れるのです。
いわゆる「蓮華の法」、因果倶時の法門です。

「因」の中に果を含み、その果が次の因となる(包含している。)というわけです。
「一念」という一瞬の生命の中に、三世に渡る「業」を含んでいるといった方が分かり易いかもです。

例えば、ゴルフでボールを打ち、「池ボチャ」になったとしましょう。

この場合、ボールを打った瞬間(因)に「池ボチャ」という(果)はすでに包含されています。
私たちで言えば「運命のベクトル」と言った方が分かりやすいかもです。

飛び出したボールはカップへ向けて、「因果」を繰り返し飛翔していきます。
そして最後は「池ポチャ」と不幸な結末を迎えるのです。

飛翔するボールの一瞬一瞬に、過去未来の一切の因果を包含しているのです。
従って「因果の法」始めも終わりもありません。常に変化変化の連続で「諸行無常」なのです。

これを仏法では「宿命」「宿業」と言ったりします。
0345桃太郎
垢版 |
2021/03/28(日) 20:29:27.19ID:dazkfJwt
仏法は道理ですから、偶然や「運が悪い」「運が良い」なんてありえません。
科学と同じで必ず因果の理法が存在します。必ず理由があります。
人はそれらを運命だとか言って諦めたりするのですが、この宿命を転換し逆に「仏因」とすることを可能にしたのが、末法の法華経である「南無妙法蓮華経」なのです
仏法いう「生死即涅槃」とはこの事を指します。
0346桃太郎
垢版 |
2021/03/28(日) 20:58:02.05ID:dazkfJwt
因果の法理を別の角度から考察してみると、こういう事も言えます。

日蓮大聖人御書(一生成仏抄)
「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず、そ法(粗雑な法)なり」

私たちは何か不幸があったり、腹が立つ事があったりするとその原因を「外」に求めようとします。
一般的な見地ではごく普通の事なんですが、仏法の眼からみれば、その原因はすべて自分の生命にあります。

例えば、「詐欺にあって騙された」「騙した奴が悪い」と言うのは一般的であたりまえの事です。
誰でも同情するでしょう。まったくの正論です。

これを一歩深く仏法の因果の法で観るときは、騙される因を作ったのは他ならぬ自分自身であると言う事になります。
もちろん、だからといって「宿命論」で突き放すような事は仏法者の立場では無い事は言うまでもない事です。
0347神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 01:18:53.61ID:s0T2WEK7
>>344
〉行がその瞬間終わるので無くなる
これもよく意味が分からないのですが、「因果の法」がある時点で完結するという事でしょうか?

〉そうですね。因果が即完結する。そのように思いました。

日蓮大聖人御書 開目抄に書かれていることを教えて頂きありがとうございます。
理解が間違いでは無かったんだなとこれからの励みになります。
色々ありがとうございます。
0348神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 07:37:56.66ID:XmsRUTE6
創価というのは法を頭で理解すればいいのだという団体ということなんでしょうか
0349桃太郎
垢版 |
2021/03/29(月) 13:17:37.58ID:cJoNSzKA
>>348

>創価というのは法を頭で理解すればいいのだという団体ということなんでしょうか。

まぁ、最初は頭で理解しますわな。(笑

チンコで理解する人間を私は聞いたことが無い。(笑

仏道修行者は師匠の話を耳で聞き、経典を読み、五感(五根)をフルに使って習得しようとするものでしょう。
しかし、それらはあくまで悟りの為の「助縁」であって「法を悟っている」わけでは無いですよね。

末法の仏法は「耳根得道」と言いますから、まずは耳から入るでしょうね。(耳根)
初期の仏教は文字によらず「読誦」(舌根)によって伝承されましたから、耳で聞き脳内に経文を刻み込む(身根)修行も大事でした。
また「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり(中略)文字を離れば何を以てか仏事とせん」とありますから
経文も大事です。(目根)

いずれにしてもそれらは「助縁」であって「悟りへの道」を示しているにすぎません。
仏道修行の根本は「信・行・学」です。この中で最も重要なのは「信」です。

知識と知恵は別物です。イコールでは無い。
仏の教えを信じ行じてゆくときに「学」が活きてきます。
学んだ教えが「智慧」となって開花するのです。

これは、なにも仏法に限った事ではありません。というか「諸法実相」なので、極論すると「一切法はこれ仏法」となりますがね。(笑
例えば、師匠を信じ、師匠に学び、鍛錬を積むことによって、言葉では表現できない匠(たくみ)の境地に達することが出来るようなものです。

名医は患者の顔や振る舞いを診ただけで病名が分かるように。
母親が子どもの仕草や言動をみて「何を悩んでいるのか」を知るように。
仏は時代の衆生の機根をみて、もっとも適した教えを説きます。

これらは瞑想だけでは断じて得ることの出来ない慈悲の智慧と言えましょう。
0350神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 21:11:19.84ID:VTnqPr9p
まあ日蓮宗というのは簡単に言うと
題目ストレス解消法みたいなもんだからね
日々のストレスを題目で発散させるというシンプルな教えだよ
0351神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/29(月) 21:36:13.63ID:XmsRUTE6
全然知らなかったけど話を聞いてると創価もちゃんと仏教ではあるんだなと思った
ただ、これは想像だけど、桃太郎さんは智慧というものを、どこか絵空事というか、「信」とはいうものの、ほんとうには信じられてなかったりするのではないかしらん
0352神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/03/30(火) 05:31:56.68ID:QCGDr0TL
日蓮さえ○○の迹仏っていうのが信仰なんじゃないのって俺は思ってる
0354神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/04/07(水) 00:28:19.40ID:vldaO4wj
救済を求めるのは怠惰で無知なもののする事だよね。死は必ず訪れるものだから救済はない。救いがなければ生きれない人が作った幻想ってことだよね。
0355神も仏も名無しさん
垢版 |
2021/04/07(水) 06:19:28.18ID:j/a6V1FS
救済がかなって生きていけるなら問題ないだろう
人それぞれだ
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