禅にしろ中観にしろ唯識にしろ、そういった概念の言語化は
その人の生まれ持った才能によるとしか 言いようがないし
それを解き明かしたいと思うのであれば 現世で思索にふけるよりも
生まれ変わって仏になってから説く方が得策ではないかとは思うが
大山は まだ悟り得てないものを さも悟り得てるかのように
偽って語るところがあるように思う それは仏のみ知る世界だろうし
それを語ったところで理解できるものは少ないだろうし

まず「仏に成さしめる」このことが第一目標ではないだろうか?

「精神科に行きましょうね」ではなく