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∞ノノハ∞
川^〇^ハレアポーハ論は存じませんけど
即非の論理は鈴木大拙さんの禅体験が根底にあると理解していました

鈴木大拙と「禅行為」としての「即非の論理」

森哲郎

抜粋

>この定式化を大拙は、伝統的な青原
惟信禅師の言葉、
〈禅以前・禅・禅以後〉の三つの見解(けんげ)
「山を見れば是れ山/
山を見れば是
れ山にあらず/
山を見れば是れ山」(13-176)に合わせて、簡略に「山が山でない、それ故に、山は
山である」(5-381)と言う。
この「即非」の否定(「山でない」)は、「現象と本体」の差異等の単なる言語論や認識論の不一致と解釈されてはならない。
また常識的な「分別」の肯定から、不条理な否定としての「無分別」を経て、もとの肯定に還る「無分別の分別」(13-176)としても定式化できるが、
しかしこれは断じて何か弁証法的な〈過程や段階〉と解釈されてはならない。
「山が山でない」とい
う不思議な否定矛盾は、実は「山が自己で自己が山である」という「霊性的直覚」の禅経験を根底に
しており、
「分別の無分別」(否定)と「無分別の分別」(肯定)との瞬間同時の経験事実へと現成するのであって、単なる言葉上の遊戯仮論ではない。
大拙の「即非の論理」には種々の次元があり、「神は神にあらず、故に神は神である」(12-268)と
いうような形而上学的・神秘主義的な宗教性(愛)の次元まで包含しうるが、
根本的には、「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」等の仏教の核心、更にその生ける具体化とも言うべき「禅行為」(無作の作)
の場面を照らすものである。

>実は「山が自己で自己が山である」という「霊性的直覚」の禅経験を根底にしており

>まさに「即非の論理とは行為そのもの」(13-464)なのである。