坐禅と公案133章 中道是空(ちゅうどうは これ くうなり
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会者定離。こんにちは、さようなら。生死(しょうじ)。
問う答えるて対話してきた各章のつらなり、1000章が、次のステップか。
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、である。
禅定(ぜんじょう、梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。静慮
こころコロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーンは一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
色即是空は空即是色へ還(かえ)る
【前スレ】
坐禅と見性第132章水仙の八重咲の花が香り
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1579270433/
【過去スレ】
坐禅と見性第131章輪に成って肩を組み歌い踊り笑いあう
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559127492/
坐禅と見性第130章頭を踏み台にして花街から還(かえ)る
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1543596675/
坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535719580/
坐禅と見性第128章第128章さあ月進んで五月晴のダービーだ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523782599/l50 >>392
> >>389
> そいつの上に落ちるはw
薬缶。 いや あかん、あきまへん。 真理(さとり)佛とは 空を言う。
佛と言う人格的存在は、無いのです。
Wake up!
Buddha、佛陀 目覚めた者、覚者 尊称です。
下から上を見るな、って事です。佛を見たら〜
また、下にも見るな、って事です。佛を見たら〜
自他が無い、と言うよ。
太陽光を浴びて炭酸ガスを吸い、酸素を履く植物の成長。
成長するとは、酸素と結びつき、酸化する。これを腐敗とも言う。
鉄と結合する酸化は、錆サビ と言うよね。 人の成長も云わば酸化作用と言えるし、腐敗とも言える。
珈琲も酸素と結合して、腐敗して行ってる。
なので 賞味期限が過ぎたものは、酸化がかなり進んでいるもので、見た目にはわからないかもしれないけど、腐敗している、とよくよく理解してください。
インスタントコーヒーも窒素充填して酸素を追い出して、酸化を防いでるけど、開封した時点から参加が始まっている。
だから、素早く消費するに限る。
家族の評価、評判もペーパードリップは毎日珈琲を入れるとして1年したら、美味しいと言えるようになり、3年で一人で助言無く入れられるようになり、10年でこれまでを振り返り、あとは大体10年ごとに、新味を咥えて行き、30年でめどが立つ。
これは毎日 珈琲を入れるとしての場合で、茶道茶道も同じような経過ではないかなと思うけど、習い事は師匠につけば、生きていらっしゃる間は やはりけいこへ出かけていくので、一生が習い事なのだろう。
なんでも 簡単に済ませれば全てが簡単になり、向き合えば、死ぬまでたっても未完成。
だからこそ、楽しさが尽きないとも言える。
死に際し、アナンダが、どうして生きて行けばいいのでしょうか、と問うに答えて言われた。
何もかもこれまで教えてきて、何かを隠して語らなかった事は無い。
だから、自己を洲(しま)、たいまつ、としなさい、真理をわたしの死後は洲(しま)、たいまつ、としなさい、と言い残した。
言っとくけど、釈迦族の聖者は、ねーらん川のほとりの儒家に瞑し、一人で悟ったよ。
その事を忘れ去ってはいけない。
自灯明とは主人公、主体、自由、を言う。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか。 鎌倉仏教によって、貴族のためだけの仏教が易行(いぎょう)、これだけで諸問題??解決しますよ、と出てきたのが、法然の浄土宗、その弟子親鸞の浄土真宗。
また踊念仏(おどりねんぶつ)の時宗があり、
南無法蓮華経と法華経教典に帰依します、と称(とな)えなさい、と言う称名の日蓮宗が有り、黙って座れば、問題解決してますよの曹洞宗が有り、
この三派の布教によってはじめて大衆に仏教が到達した。
現在でもこの三パで、日本での武q今日はほとんどが占められている巨大宗派である。
つまりお寺と檀家が結びつけられた葬式仏教である。
阿弥陀様と呼びなさい、何故なら阿弥陀様が救い取ろうと願を立てて手を広げて受け取ってくださるからである、と言う教え。
白のハスの花の教え、と言う教典の名を称えれば、kっ歳は解決しますよ、と言う教え。
お作法も行儀が大切です、お坐りなさい。何故ならお釈迦様が苦行弟子のフチをさまよい森を出て河畔の樹下の瞑想でさとられたからである、という主張である。
この三派は、易行である。 > 煩悩捨てるな、菩提は取るな。。w ガンダム映画2回見た、寝る。。w 』
取捨選択、だなあ。ゆいけんけんじゃく唯嫌揀択(ただ けんじゃくをきらう)だよ。
だめだよ取捨選択、選ばな、比較しない、選り好みしないことが大切。、それは外道だから、はっきり言って仏教じゃない、わかるよね、そこのところ。 > 梅雨の朝 百合に滴る 雫かな。 ベタな一句を詠んでみました。 』
(。_゜)〃ドテッ!
土手を行くのは o( _ _ )o〜† ドテッ さんじゃないかぁ〜♪
短歌、俳句、詩歌、いちど、書き終わった時、
それが どーしたあー
と、言ってみる。
そのフィルターを通り抜けた時、
他の人や、風景との関係性と言うか、社会性が出てくると思う。 わたしは地中海諸民族の興亡の歴史に興味が有って、1万年前に氷河期が終わり、溶けて後退していく氷河のあとに出現した平原に進出していった人たちの歴史がすきなんです。
悟前(ごぜん) 未悟(みご)の時は万巻の書を読み漁る時期、と言うのがあります。
わたしを禅へ引き込んでくれたのは1冊の本です。
米国人神父が一つの公案に取り組んだけれど、七転八倒の戦いの末、結局わかりませんでした、と言う本です。
来し方行く末を立ち止まり再構築する30歳前後までは自分で考えたりする事が無く、本や人の言う事を素早く取り入れ、他の人にも説得していました。
或る時、わたしの頭上に乗っかっているもう一つの頭が在ると気づき、その眼で、周りを見回すと頭の上にもう一個の頭を乗せて歩く人など居ません。
それまでは わたしが考え、行動しているのだとばかり思っていました。
それはわたしの上に乗っかってるもう一つのわたしに命令する頭の考えを急いで取り入れて、それを相手にしゃべっていたのです。
さあ、それからが大変で物質主義と精神主義を行ったり来たりして大きく振れていた私の振り子は、否定と肯定の繰り返しです。
そこで以前から興味が有る宗教書を読み漁り聖書も旧約新約を2回、きちんと読み終わりました。コーランも読み、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ宗派の分かれなのだと理解もしました。
儒家や道家の書も読みました。仏教も2500年前のガウタマ・シッダールタの言葉が詩の形で書かれた法句経ほっくきょうダンマパダから読み始め、大乗部経典も読み込みました。
それで理解(りげ)と言いますか、わかった気分でした。
そういう時、両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。と言う米国人神父のいただいた公案に巡り会い、聞きました。片手の人が叩く拍手の音を。
ですが、わたしは、その頃から直接に人からの影響を極端に避けるようになっています。距離感が取れないからです。下から上を仰ぎ見ないように、です。
禅のさとりは自由と平等、直てと横です。 自由とは、主体、主体性、主人公です。 平等とは無差別、無区別、一如、横一列で誰もが受け入れられるものです。
ですがこれが世界の成り立ちの根本と受け取る、体得するには、自己が邪魔をします。餅が絵になり絵が餅になりほおばり食べる事です。
食べれば、色即是空は空即是色へと還(かえ)るです。 > 久々の長い坐禅。 一瞥体験も、思考の一部に過ぎない。悩みは、過去への執着だ。ありのままの現在は見たまんま、聴いたまんまの「それ」しかないのだ。それを観たとき、私は安らいだ。 』
コルシカ島のギャングたちのおきては、沈黙である。
ある修道会の修行は沈黙である。
真理(さとり)も沈黙である。
これをさんちん三沈 の 掟とか 言いはべらむ。
言葉では言い表せないものを言い表す時、それ自体無理無意味の責をまぬがれえない。
禅にひれ伏して、禅につかえては いけない。
禅を特別扱いにしてはいけない。
これが禅だと言う固定的なものなど一切、無いのだから。
アリがMAMAなら、キュウリはPAPAである。
ナスがmamaなら、ミンミンゼミはpapaである。
本来が空くう である。 > 存在しないがゆえに存在する。 』
を言うためには、存在するがゆえに、存在しない、と言う 論理の展開が不可欠になる。
と言うのも、
〜」が故に、と言う理由が有るからである。
この場合は、
存在は 即ち、存在しない。
存在しないは 即ち 存在する。
と、喝破する、
決して きゅうりの漬物などではない、のだ。 公園で 梅雨にベンチが 道と花 』
梅雨の空 地にはひまわり 夏待てぬ 』
見た儘をうたいあげれば、そりゃ お絵描き。
まあ、ヌリエだねえ。
風景を見ている自分が、眼で見、耳で聞き、肌をなでてて通り過ぎる風が運ぶ香り。水に手を差し入れる冷たさ。
その感覚器官からの情報と自己が見つめる風景と一体となり、わたしが無くなる。
いぜんに心象風景と言ったが、
この短い文字数で、何かが勝たれる、
肩?終わった、と言うものなど無い。
廉価が基本なのだよ。
でなければ、450口年の地球の歴史の一員である生きとし生けるものたちが、見つめる生死しょうじ は触れ合う事は出来ないのだ。
禅は心を問い、答えを出す。
岩を両手で、何回も押して踏ん張って、ゆらゆらと揺らす。 つまり、いわゆる、自問し自答することが、俳句である。
575では、結局、なにも語ってはいないのだ、語っていないことを聞くのが、俳句。
野に出て歩け。それは、ハイキング > 坐ることも、坐らないことからの分別に過ぎぬ 』
言葉遊びだなあ。
行住坐臥、
日々の姿だ。 >>405
何処かの寺に投げた和歌で済まんが。
曇天にぽつりと落ちる優しさに
草木と共に頭を垂れる >>406
散文だ。
忘我と言い表すことがある。
草木が有り、我も有り、では、禅ではない。 >>407
しかし、ぽったん甘いな。
満たされれば、其れも無じゃw
紙切れに全てを示せとされれば何とする?w >>408-409
>┼○ ドテッ
行住坐臥、日々の中に真理(さとり)を見るから、どうだ、どうだ、も透けて見えるものはある。
問うときは、答えを準備してからだが、
禅は色即是空を問う。
答えは、一の如し、である。
これらを踏まえて、問い、答えを出す。 > そうね。あるがままは、訊くものではなく、文字通り、ご自分がそのように「ある」べきものだと思うんです。
あるがままとは何か? と訊いたとたんに、あるがままが言葉になってしまいあるがままではなくなってしまう。
あるがままの状態は、自然が教えてくれます。 でも、強いて言葉で表すのなら、前述の通りです。
あるがままに生きてると、取り繕ってるのが分かる。
でも、必要なときもあるよね。 ベースラインを、自然体で。
あとは自由に背伸びや縮みを行ったり来たり。 まるで鳥が遊ぶように。 』
あるがまま、
は
中國の道教と重なり、
禅ではない、と言う事、
禅としては、危険と言える。
無為自然、と言う言葉がある。
道教 老子
http://tao-academy.jp/muishizen/
これは
中国人の伝統的な天土地の間に在る人、天地人、の中華思想を根底とする。
似て、非なる、思想形態としての道教と言う思想体系である。
禅は、天も無ければ、地も無い、ましてや人が無い。
まったく異なるものなのである。
あるがまま の わたし って、よさげだけど、ねえ。語呂がいいし、響きもいい。
さかいめが無い のが禅です、真理(さとり)です。 >>410
おいおいw
普通の会話ぐらいはしろよw
生きいそいどるなw 雲の先手と手をつなぐ天の川
それが それがどうした!? 無礼者! >>418
>>415は完璧に禅じゃよ?w
季語も決まっとるしのw >>420
解らないなら良いよw
どっちかっつーと曹洞宗に近いかもしれん。 >>421
真理(さとり)を問う時、
悟前(ごぜん) 未悟(みご)の修行者と、
悟後(ごご)の覚者では、まったく異なる。
また、コピペしたとしても、問い、答える、事が悟前(ごぜん) 未悟(みご)の者には、ワケワカメ である。
まず、さとれ。
さとった気になるな、さとったふりをするな。
解からなければ、取り組め。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか
真理(さとり)は自問し、自答する以外には開けない。
禅は公案を透過してさとる。
公案を透過せず、さとった者は居ない。 終電前の駅前のビルの角に、何故か明かりをつけて坐る女占い士が、手相をを観ると、言う。
占いはしゃべりを売る。
不安解消だな。
普通はあいづちを打つ事で、社会は回っているのだが、なにか背中を誰かに推してもらいたい時、なにかしらの権威づけが欲しくなることがあるのだろう。
占いは、相反する事を同時に並べ立てる事である。
あなたはとても仕事が合理的ですが、その反面、気が優しいので逆に自分を押し殺してしまう。とか。
これで、ほとんどの人は、
すごい、あたrふ、と思い込む。
インチキだと言ってしまっては、相談者は単なるすき焼きで、鴨がネギを背負ってやって来たようなものだ。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか、と言った人が居る。 ミックスリスト − 英語の早口言葉で発音の練習
https://www.youtube.com/watch?v=WXA-G5F0r-w&list=RDCMUCPlreGCqby4Qg9Vuem5scpw&start_radio=1&rv=WXA-G5F0r-w&t=0
ミックスリスト − 【カタカナ英語を卒業!】絶対上達!究極の発音法!大人のフォニックス(Phonics)
https://www.youtube.com/watch?v=WUeYlbQMrFg&list=RDCMUCNsyrhaGbUUJQVln2KgvJ5A&start_radio=1&rv=WUeYlbQMrFg&t=1 碧巌録(へきがんろく) 第39則 雲門花薬欄(うんもん かやくらん)
本則(ほんそく)
修行僧(しゅぎょうそう)が雲門文偃(うんもん ぶんえん)禅師(ぜんじ) に問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ 清浄法身(しょうじょう ほっしん)?」
門 云(いわ)く、「花薬欄(かやくらん)」
修行僧更に根問(ねど)いす、「すなわち恁麼(いんも)にし去る(行動)時は如何(いかん)?」
門云く、「金毛の獅子(きんもうのしし)」
注
雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃
花薬欄:柵で囲った満開の芍薬の花。 便所の籬(まがき)(生垣)とか、柵をめぐらし丁寧に囲った芍薬(しゃくやく)の植えこみ、或いは一般の花畑という意もあり
花薬欄とは佛、真理(さとり)、修行僧自身。
金毛獅子きんもうのしし:禅宗では獅子の吼える姿を仏陀や禅の高僧の説法になぞらえる。獅子は百獣の王である。その獅子の中の獅子であり、獅子の王が「金毛の獅子」だ
つまり修行僧自身が佛、真理(さとり)。
本則
ある僧が雲門禅師に聞いた、「清浄法身とはどのようなものですか?」
雲門は言った、「花薬欄」
僧は聞いた、「その花薬欄である本来の面目の中に法身が現前したらどうなりますか?」
雲門は言った、「金毛の獅子」
→ 悟前(ごぜん) 未悟(みご)の修行僧は、何をわかろうとして、知りたいとして問うのか。
色即是空を悟りたいの一心である。
佛とは、祖師西来意とは、真理(さとり)とは!?、と問うのである。
この自己の理屈、常識、知識に凝り固まった修行僧、聞いてもさとれない。
この公案は、麻三斤、みやこ長安に通ず、花薬欄、と同じ問いを違う答えを出して、さらに深くしている。
わたしにとっては、眼横鼻直(がんのうびちょく)からの公案だった。 太るには、食べる事しかない。
食べられないと言うから永遠に太れない。
太りたくなければ、食べなくて、良い。
太りたければ、食べる事である。
エネルギーを摂取する事である。
炭水化物を多く摂取する事である。
動物性油脂は燃焼しやすいので避け、蓄積される植物性油脂を、炭水化物とともに摂取する事が、太るための第一の要諦である。
たとえれば、極上の総合栄養食ちゃんこ鍋でどんぶり飯をお代わり、お代わりし続ける事である。
もうこれ以上食べたら死ぬ、と、毎日、毎日、奮闘努力する事である。
食べられない理由を列挙して、過食を避けるような、愚行をしてはならない。
それは公案を透過しないでさとった者は居ない、と同じである。 >>425
前から思ってたんだが、「なるほどね〜」って感情でスルーはダメなのか? >>427
> >>425
> 前から思ってたんだが、「なるほどね〜」って感情でスルーはダメなのか?
公案に取り組む姿勢では、無いね。 >>428
金毛の獅子に関しては、公案って気がしないんだよね。
法身が循環してる辺りなのかな〜… >>429
> >>428
> 金毛の獅子に関しては、公案って気がしないんだよね。 法身が循環してる辺りなのかな〜… 』
わたしにとって、
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
と言う、米国人神父が取り組んで、ついに解かりませんでした、と言う一冊の本は禅が身に付く事が出来た公案で、
釈迦が誘惑を受けたり、
イエスが悪魔の誘いを受けたりするのが、何故か、解かる。
わたしは宇宙を手に入れた、と、心の内で叫ぶ。
このようなさとりのあとで、花薬欄、と言う公案がシミジミとうなづく事が出来た。
この修行僧は、花薬欄、と言う答えをいただいたにもかかわらず、鈍根で、無意味な質問を重ねてしまった。
金毛の獅子とは、真理(さとり)を具現化させた姿である。
禅家では無か、隻手を取り組むと言うから、無師であるから、どちらかの公案に取り組み、透過して、この花薬欄も通る。
おしゃべりは、無駄な事だと思う。 >>431
今日から円覚寺の写経体験にもなってる「延命十句観音経」を写経しているのだが。
念念従心起
念念不離心
通しの意味を調べてないけど、これは良いと思った。
暫く写経を続けようと思う。 >>432
禅は心を説かない。
しん、と読む。
mるで、こころが在ると言ってるようじゃないか。
そういうものは無い。 >>433
そりゃ禅は心の前を観るのだろうからな。 >>434
> >>433
> そりゃ禅は心の前を観るのだろうからな。
>>435
> >>433
> 念念が禅なんじゃね? 知らんけどw(笑い)
禅すらも無いから、こころも無い。 >>437
> >>436
> そら唯の無茶ぶり阿呆やw
では、何が有るのか、言えるか? >>439
> >>438
> 志
予定調和 と言うよ。それ。 >>440
ちゃうやろ。
まー…アピールのために志を披露するってのは、事実として有るだろうけど。 >>440
良くも悪くも、志を基に想い(心)が生まれるというかね。
志にも良し悪しは有るよ。 これと言う何か握りしめてるものが有れば、それは違うもので、云わば、外道だよ。
念が無く、志が無く、こころが無く、何も無いのが、いい。 >>444
> >>443
> 真理に任せてはならない。
>>445
> >>443
> 真理に抗ってこその人であるよ?
その真理、とか言うもの、任せたり、あらがう、と言うが、何を言おうとしたものなのだろうか、その真理って何だろう。 淫欲の交わりに更ける(深ける)が難しいんだろうなぁ >>449
途中で訊くのを止めたが採用しない。
六韜じみた者が徘徊しては困る。
現代日本は三国志では無い。 30歳を1世代、とする。
30歳までには、ほとんどの人が死ぬ時代である。 >>454
これは賢者を目指す為と作られてるけど、内容は武人を目指すための内容。
一介の修行僧に導く内容では無い
正統伝承な訳ないだろw
何処からか引っ張ってきて、適当に作っただけ。
この仏陀に関しては。
「すまし顔のお前は何をやってるんだ?」
これだけ。
この仏陀のつもりでリンクを貼ったなら、ぽったん、先ずお前が腹を掻っ捌け。 >>456
それがそれがどうした!? 無礼者!便秘野郎、下らない。 >>459
今回に関しては、くだらないのはお前。
死地に行けというのなら、腹を掻っ捌いて見せろ。
それか先ず、お前が死地に赴け。 >>459
六韜に一人在る俺に、座しているだけのお前が云える事ではない。
身の程を知れ。 >>460-461
ワケワカメ、である。
数千年前の古書に固執するのは、どこのドマヌケだ。しかも無用の軍略書である、と言う。
何が基本だ、オマイは。
基地外だ。 >>462
>数千年前の古書に固執するのは、どこのドマヌケだ
それはお前も同じだろうw
とにかく動画の詩は何かのパクリの改編だよw
武人と賢者を入れ替えて見繕っただけだよw
こんなのが仏陀なら、唯の下衆やねん。 >>462
民の為の仏教
武の為の仏教
それは毘沙門天が示すように在るのだろう。
しかし、民と武を混ぜては為らんよ? >>463-465
何を語ろうとするのかが、問いだ。
戦略本の誰も見ない中國の無価値な古書だろ、禅との接点すらない。
スレチだ。 >>466
お前の張ったリンクの事を云っているのだが?
民の中に戒律に囚われず在る、という意味も解らんのか?? >>467-468
何のことをいっいぇ居るのか、主語を示せ。 大丈夫なのか、独り合点の不毛の思い込みが強すぎるようだが。 >>469
訂正
何のことをいっいぇ居るのか、主語を示せ。
↓
何のことを言っているのか、主語を示せ。 >>471
> >>449 これの内容についてだよ。
スッタニパータ
の何を言おうとしているのか。 キリスト教が覆いつくす窒息する時代の絶対権限への自己の解放、と言える。ニーチェ。
カルヴァンやルターの新教とは カトリックに対するキリスト原理主義だから、支配力がすごい。
そこからの自己の解放だ。
解く ほどく >>473
スッタニパータが何時頃の経典なのか知らんが、仏陀が訓戒は要らないと云いながら、スッタニパータも訓戒だわなwww
なんでも有難がっていたら、本質は読めんぞ?
おそらく仏陀の言葉では無いだろう。 ボンクラどもがw
スッタニパータという訓戒に訓戒が要らないと有るから、訓戒は要らない。
小学生か?お前らはw 人間大学『知の現在 限りなき人間へのアプローチ』 立花隆 - 5.58.33
https://www.youtube.com/watch?v=8-RJ-lVpkLg
人間講座『日本人の法と正義 私の弁護士体験から』 中坊公平 - 5.59.07
https://www.youtube.com/watch?v=5KpNfZ-tS0w
人間大学『免疫・「自己」と「非自己」の科学』 多田富雄 - 5.59.10
https://www.youtube.com/watch?v=UJeNDcpXSCE
人間を考える・感性を磨く 第 1 回 自然の摂理を感得/珠寶(しゅほう)花士(はなのふ) - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=7FRkZpWNoCI&list=PLOLIQZRuWVBtou5ReODUnUac26T0gKoCp 差別を 生み出すもの とは/秘密の 本棚/トニ・モリスン著【 他者の 起源 】/特に 児民党に 捧げる NHK 高橋 源一郎の 飛ぶ教室 - ほか - 89件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=3dYDNFYDtG4&list=PLQxgN1a4DeUYML6gnSwvolncjtAMo4N6p
人間を考える・寄り添う 第 1 回 終末期の 患者さんと 過ごす/玉置 妙憂・看護師・僧侶
https://www.youtube.com/watch?v=etDtG_IzexU&list=PLOLIQZRuWVBtS6kBrDfsF4rKvR7Ae4GbI
人間を考える・はぐくむ 第 1 回 辻井 いつ子・ピアニスト 辻井 伸行の 母
https://www.youtube.com/watch?v=lGZXrkXrdxQ&list=PLOLIQZRuWVBsJJMOrwezlGKDVQZAnccbT
森毅 「人間大学」 1/8
https://www.youtube.com/watch?v=ji7cQC08_SQ&list=PLJFQCjIjgJGxxMRdKFKVktPtGuurFkH9t > 悟りとは自己否定 ! 』
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか
これはガウタマ シッダールタ の言葉である、とされる。
事故届をして 現場検証が行われれば、事故処理は完了する。
そうでない限り、自己は在る。
在る自己を 在る自己が みずから否定しても、おいおい、兄ちゃんよぉ〜(  ̄Д ̄)ノ(゜∇゜|| )ヾひぃぃぃ と、脳内変換できるものでは無い。
禅の真理(さとり)は無、空、を言うものだと思うかもしれないが、それは悟前(ごぜん) 未悟(みご)にひとへの慈悲である。
色即是空は空即是色へと還(かえ)る、のである。
色即是空とは悟前(ごぜん) 未悟(みご)の人の真理(さとり)であり、
空即是色は、さとった人の色を言い、また、もとに戻るのだが、
色即是空へ戻るのではなく、空即是色の色になっちまうって事です。
それには初関を透らなければならない。
真理(さとり)は公案を透過しなければ、さとった人は居ない。
わたしが取り組んだ公案は、
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、です。
この聞こえない音を聞いた時点が、色即是空です。
そしてすぐ、片手の人が叩く拍手の音は聞こえない、と
空が色へ還(かえ)る、のです。
禅は色即是空を問い、答えは一の如しです。
この答えを宇宙始まって以来のあなただけの言葉で 言うのです。
宇宙の成り立ち、有りよう、が明らかになります。歓喜します。 480.悟り、は自己否定である。
なんでか。
その自己否定の主体、主語は誰である、か。
自己が自己否定をする、のではない。
それでは誰か。
それは他者である。
その他者によって否定されて止揚される、からである。
その止揚された者とは何か。
それがキルケゴールが対面した神である。 480.色即是空、である。か。
隻手の音声、か。
聞こえる拍手の音と隻手の音声とは、ともに空、である。
よって、その両者は同じである、ことになる。
その同じものは聞こえる、のか。否か。
大爆笑である。 >>481-482 ひのふのみー さん
レスありがとう。
いまに、でした。
楽屋に 高級すき焼き弁当を差し入れしましたよ。 召し上がってください。 > 色即是空が空即是色に還ること、そしてまた色即是空が始まるループ。 この転換を自己否定、といえば話が合うかな。100尺の 竿のてっぺんを進み切ったら、バックしないといけない、 だね。 』
 ̄|_|○ドテッ ゲームじゃないよ。 色即是空で、初関を透って色即是空となった人が、その空は、空即是色だよ、と還(かえ)る のだよね。
いっぺんに空即是色となるわけではない。
わたしは師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく) なので、しかも、身の回りにこの真理(さとり)が解かる人もいなくて長い年月、25年間ぐらいずっと、色即是空のままだった。
或る禅僧がやはり隻手の音声と言う公案に取り組み、他の修行僧に遅れやっと隻手の音声を聞き、お師家様の庵室に踊りこんだ時、隻手の音声は聞こえないよ、と
色即是空から空即是色へ還して」いただいたのだそうです。
歴史上でも、現代でも空の世界に溺死した独善的な僧が奇行を行う人が居るが、それは空観(くうがん)に支配されたままの、さとり半分の未(いま)だ達していない未熟者、と言える。
たとえば、扇子をパンパン 叩いてその音が、それ、真理(さとり) ですよ、とケム に巻いています。 なるほど、と、納得して、あとはあっけらかん、はい、おしまい。
これはさとり、ではなく、理解しましたって事です。 体得するには、無我 が体得されなければなりません。
感動、観劇、歓喜、が沸き起こります。
わたしが書き込んでる事も文字による表現にすぎません。
100万巻の仏教聖典も、取り扱い説明書です。知識の蓄積です。
これまで小学以来の知識を捨てる練習をしてきたはずなのに、ここでまた、仏教の知識を積み重ねるだけです。
無意味で、不必要であり、害悪です。 まだ分別のない、これとそれが、これとそれに分かれる前の三歳児になれ、と教えます。
100尺の竿頭に坐する低の人、とは、まさに修行者の中でも長く修行し、学問、知識にすぐれた修行僧です。
その学識、知識に優れた人に、どうだこんな高みから見た世界は、オレだけが見ているものだぞ、坐禅なんかして沢山の人からの参じや拍手を受けている人に、
坐りこんでいる百社の竿の上から、さらに、m?゜一歩。前へ踏み出せ、と言ってます。
つまり、まっさかさまに落っこちろ、と言っています。 そこが色即是空です。 安堂軍のぼったん討伐は
起きていなかったか、
残念至極。 > なるほど、竿を進み切ったら 落っこちればいいのか.。 いい事聞いた、今度やってみよう!? 』
(。_゜)〃ドテッ!
頼むよ、無理解ぶりがすごすぎだ。
竿を進むと言う事は無い。
垂直に立てられた竿、
その百尺
30メートルぐらい
を上へ竿頭へ登る、と言っている。
これは比喩であって、
何の比喩であるかと言えば、修行が進む、と言う事になる。
修行が進んで、竿の頂上で坐禅が出来るぐらいになったぞ、と、えばり散らしている人物へ、
そう言うところには真理(さとり)は無い。
その思い違いを
常識、知識を捨て去るには、その竿頭に諏訪rこんでのほほんとさとり済ましているのではなく、そこから更に、歩一歩(ほ いっぽ)を進めよ、と言っている。
崖から飛び込め、飛び込んでみよ、と言う事を考えなさい、と、言ってるんだよ。
どこに実際に飛び込んでみろ、と言っているんだ。
皮相な浅薄なこじつけで、どっきりさせるのは、止めてくれないか。
公案とは関係ないが、哲学とは明治の誤訳で、愛知学、と和訳されるべきで、内容は考える、と言う事。
哲学とは、これはなんだ、と考える学問だね。
ギリシャ人と、ギリシャ人と、インド北部へ移住してきた印度・アーリア人、この三つの人種はもともと中央アジアの北から南下してきた人たちで、細かく言えば、相違もあるが同一民族と言える。
それぞれ、進出していった国で豊かな民話や神話や哲学を持つ特記すべき特徴を持つ。
公案を透過しないでさとった人は居ない。
だが、真理(さとり) を求めない人には、不必要だと思う。
たとえば、漁業者であれば漁法は必須アイテムだsが、水辺や海上へ行くのには川を渡ったり、漁船で出かけなければならない。
泳ぐ事が出来なければならない。
日常、水に親しむ事が無い人には、泳げない事は必須アイテムとは言えまい。
漁業者には、必須アイテムである。
この説明で、何かが伝わるのか心もとないが、遊び半分や単なる興味では真理(さとり)の解明は無理だと思う。
なので、その辺の理解を乞う。<(_ _)> 行住坐臥
ぎょう じゅう ざ が
歩く、立つ、坐る、臥(ふ)す
日常行為を表したものである。
これを車で言えば、
直進する。
曲がる。
停まる。
の三原則である。
なので、坐は、他の行、住、臥、の一つを切り取った行為であって、特に、坐に坐ること以上の意味付けは無意味である。
坐禅と言うと、坐るのが禅、と禅とは坐る行為である、と言い出す人が出てくることがあるかもしれない。
これは、インド・アーリア人が印度に移住してくる以前のドラヴィダ人以来の伝t豪的な瞑想の姿である。
猛暑の国で、暑熱を避けて風がよく吹き抜ける大きな樹の下に静かに坐って瞑想する伝統があったのである。
禅宗は中国に置いてある時代、ある王が、禅を弾圧した時代が有った。
寺院を焼き払い、禅僧を殺し、仏教聖典を焼き捨てた。
そこで、禅僧は、何一つ身に持たず、中国各地の奥地へと逃れて行った。
真理(さとり)を伝えるために、土地の民謡、里歌、に真理(さとり)を託して、伝え通津kて来た。
それがのちに公案、地方政権での政治的法律、公案、と呼ばれるようになった。
公案と言う言葉には、禅の意味性はない。
しかし、王の死後、許されて続々と中国各地の奥地で隠棲していた禅僧が帰ってきた。
そしてこの真理(さとり)を伝える公案は、全盛期を迎える。
質は量的拡大をすると必ず仕手的低下を起こす。
ビジネス現場と同じ現象である。
この爆発的大流行の禅宗は公案の解答集が出回り、師弟の間では、問いも答えも形骸化し、お約束のサル芝居となった。
これに対してアンチの分派が出てきた。
これが曹洞宗である。
国費留学僧、道元は2年間の曹洞宗修行で帰国して、在来種そばが美味い、甘にと香りが素晴らしい、福井県で、永平寺を開く。
学僧への講義のメモの為の手控えが死後出てきたのを、弟子たちが体裁よく製本したのが、正法眼蔵、である。
中國から持ち帰ったのは、只管打坐、紙管打坐、と言うものである。
坐禅は臨済宗から出たものである。
その点を見落としてはならない。
瞑想である。
寺院の築山の大きな庭石の上や、風がよく通る廊下の隅や、場所を固定せず中国南部の禅僧のゆったりしたか前の坐禅の姿は、まさに、印度由来の姿である。 >>487
訂正
行住坐臥
ぎょう ぎゅう ざ が
↓
行住坐臥
ぎょう じゅう ざ が みみず 蚯蚓 蚓 蚯
学名Oligochaeta(綱)
分類無せきつい動物
分類詳細環形動物門
分布・環境日本全国;南極を除く世界中
全長1cm〜6m(全長)
説明
ミミズ類=環形動物門貧毛綱は、頭から尾まで太さがほぼ同じで頭の先端に口が、尾の末端には肛門がある。
体は形のよく似た体節(たいせつ)がたくさん連なってできているが、成熟すると頭に近いところにある白っぽく見える体節だけが他の体節より長くなる。
この部分を環帯(かんたい)といい、生殖(せいしょく)のための孔(あな)が開いている。
ミミズ類は雌雄同体(しゆうどうたい)で一匹が精子と卵を同時に持つが、生殖のためには必ず2個体が必要で、環帯をくっつけて互いに精子を相手に注入する。
土を食べその中の有機物を栄養とし残りを外に出す。
つまり、土を耕しているようなもので、土の中の生態系で果たす役割は大きい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています