坐禅と公案133章 中道是空(ちゅうどうは これ くうなり
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スレッドは来(きた)る者を拒(こば)まず、去る者は追わず、だが荒らしはイラン
会者定離。こんにちは、さようなら。生死(しょうじ)。
問う答えるて対話してきた各章のつらなり、1000章が、次のステップか。
佛とは、真理、ダルマ、法、であって人格的存在ではない。
問う、
「両手で打てば音が鳴る、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい 」
諸行無常、諸法無我、一切皆空、である。
禅定(ぜんじょう、梵: dhy?na, ディヤーナ、巴: jh?na, ジャーナ、禅那:ぜんな)。静慮
こころコロコロ、色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
さとりとは、真理、法、ダルマである。
達磨さんはインドから中国にやって来たのか、来なかったのか。
ビッグバーンは一期一会である。
すずめはチュンチュンこんにちは、である。道端のタンポポのさよなら、である。
出会えば別れるのである。
問う
「この座敷から坐のままで30メートル先のロウソクの炎を吹き消せ」
中道是空(ちゅうどうは これ くうなり)
空是中道(くうとは、これ ちゅうどうなり)
色即是空は空即是色へ還(かえ)る
【前スレ】
坐禅と見性第132章水仙の八重咲の花が香り
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1579270433/
【過去スレ】
坐禅と見性第131章輪に成って肩を組み歌い踊り笑いあう
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1559127492/
坐禅と見性第130章頭を踏み台にして花街から還(かえ)る
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1543596675/
坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535719580/
坐禅と見性第128章第128章さあ月進んで五月晴のダービーだ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523782599/l50 > ねばならない思考って、私にはめっちゃあります。 』
マイマザー イズ アンツ
わたしの母はアリンコです。
蟻がママ
ありがまま、
何も加えず、何も引かず by CM より
一方、太平洋を挟んだ米国の事である。
シカゴに於いて買って禁酒法の時代が有った。
シカゴのギャングである、 アル、カポネは闇夜に限って闇でウイスキー等のノータックス酒類販売業となった。
FBI おエリオット、ネスは倉庫へ急襲しマシンガンを乱射しきびしく取り締まった。
アルコホールは脳を破壊する合法麻薬と指摘されている。
さて、シカゴのギャングであるアルカオネにも母親が居た。
そこでシカゴの人々は彼女を アルがmamaと呼んだ。
あるがまま、である。 > おはようございます(^^) 今日も良き〈文語調)日を! 』
良き、とか、悪(あ)しき、とかの主観の範疇には地球の一回転である一日は入らない。
良いこと言ってやった、ぐらいの感覚なのだろうが、大きな錯覚だろ、それ。
日々 是 好日
にちにち これ こうにち
これは観光地の土産物の湯飲みの定番だが、
差別(しゃべつ)しないと言う事だね。
唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく、ただ けんじゃくをきらう)
好き嫌いをしない。
これが真理(さとり)である。 >>333
それで捨てられるか、拾おうとするかで違うんだろうな。 >>336
>好き嫌いをしない。
好き嫌いに囚われず、好き嫌いで生きる。かなぁ… >>333
答えとは云えんだろうが、隻手と同じかな。
拾ったら取れん。 >>337-339
禅の初関を透る、とは 無我を言う。
諸法無我
もろもろの真理(さとり)とは、無我である。
無我とは 唯嫌揀択(ただ けんじゃくをきらう) 好き嫌いをしないである。 >>341
> 死んだら永久に無
生きてたら・・・・??? > 2〜3年前までは、あの世があると思っていたが、今は、「あの世が無くてもいいんじゃね?」と思っている。
そもそも、極楽浄土なんか無いと思っている。
3年半前に父親が死んだのだが、寺から年忌の案内状が届くと、死にたくなるのだ。
母親が認知症だから、俺がスーパーで買い物するのだが、1年かけて食費を3万円節約しても、お寺に根こそぎ持っていかれるんだよな。
30分×365日=183時間 183時間かけて捻出した3万円を、1時間弱の読経で持っていかれるのは、せつなすぎるんだな。 』
生きているその時代背景の中で宗教も生きる。
極楽浄土の対極は阿鼻叫喚地獄だろうな。
当時権力闘争の戦乱がうちゅ続き、都は焼失し、はやり病いと飢饉で累々としかばねの山が積み上げられていた。
法然上人が河原で浄土教聖典を読経する声を聞きながら、入水していく人が多く居た。
また、現代では、余命数か月を宣告された患者の内で、来世を信じる者は静かに詞を迎え、来世を否定する無宗教のものは最後まで騒ぎ立てると言う。
字が読めたり、暗記していたら、お経さんは息子があげれば良い。
南無 阿弥陀仏と 唱えなさい。
法華な南無 む妙法蓮華経と。
曹洞宗なら 瞑想しなさい。色即是空、空即是色、と。 > 空即是色。 実体がない所から、色形思いが作られてる。 』
国語の時間では大正解なのかな。
字句の理解だから。
色即是空の空は、無我を言い、まさに真理(さとり)だよね。
色即是空に至った者には、空は 既に 妄想(もうぞう)、無いものを有ると思い、有るものを無いと思う。だね。
空即是色の空は、妄想(もうぞう)の空で 有りもしない。
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
これは色即是空を聞いている。
これを初関を透ると言う。
片手の人が叩く拍手の音を聞いた途端に 片手の人が叩く拍手の音は聞こえないになる。
これは色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
禅の奇僧怪僧は色即是空にとらわれた者である。
たとえば扇子をパチン、パチン、とさせ、これが さとり、とかうそぶく僧。
手をだらんと垂らしてー・・・┃電柱┃x・`)チラッ 蛾がちっとも入ってない姿で、再び市街に戻る、だね。 >>345
> >>344
> 水面の月は何処?
舌ったらずだ。 >>344
華を見れば薫り
不意に薫らば華を思う
枝葉は枝葉の思うまま
光を求め風を待つ
空を求め枝葉を落とすも善し
枝葉の木陰に涼むも善し >>347
> >>346
> みなものつきはいづこ?
>>348
> >>344
> 華を見れば薫り 不意に薫らば華を思う 枝葉は枝葉の思うまま 光を求め風を待つ 空を求め枝葉を落とすも善し 枝葉の木陰に涼むも善し 』
水月(すいげつ)
と言えば、短歌等の文学的表現だろう。
月をさす指
と言えば、仏教だろう。
水面の月は鏡の言い換えだろう。
肝心なのは、問いが有って答えてない。
自分だけの答えを言いなさい。 碧巌録(へきがんろく) 第45則 趙州万法帰一(じょうしゅう ばんぽう きいつ)
本則(ほんそく)
修行僧、趙州に問う、「万法一に帰す。一(いつ)い何(い)ずれの処にか帰す?」。
州云く、「我れ青州に在って一領8いちりょう)の布衫(ふさん)を作る。重きこと七斤(ななきん)」。
【本則】挙す。趙州に問う。「萬法は一に帰す、一は何(い)づれの處に帰すや」
州云く 「われ 青州(せいしゅう)に在(あ)って一領(りょう)の布衫(ふさん)を作(つく)れり。重きこと七斤(ななきん)」
注
趙州:趙州従シン(778〜897)。言語の絶妙なことから、彼の禅は口唇皮禅と呼ばれた。法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願 →趙州従シン
「万法一に帰す。一いずれの処にか帰す?」:「森羅万象は一つの根源的な原理に帰着するという。その原理はどこに落ち着くのか?」
七斤:一斤は約600gなので、七斤は約4200g。
布衫(ふさん):帷子(かたびら)。
一領の布衫(ふさん):ひとえの長い麻布の上衣一着。
本則
ある僧が趙州に聞いた、「すべてのものごとは究極においては根源的な一に帰着します。その一はどこに落ち着くのでしょうか?」。
趙州は言った、「わしが郷里の青州にいた時、一枚の布衫(ふさん)を作ったが、それがなんと七斤もあったよ」。
【本則】ある日、趙州の禅院を、訳知り顔の求道者が訪ねてきて質問した。
科学者は、宇宙はビッグバン(無の一点)から発現したと云い、儒教では太極に帰すると云い、宗教では、神の創造によるとか、真如唯心(しんんと ゆいしん)なるものとか言いますが、イッタイ、その一はいずれに帰するのでありますか?
(これは、かなり、シツコイ、粘り気のある問いかけである)
趙州老師「わしは青洲(山東省生誕地)で麻製の短衣を一着つくった。その重さは七斤だよ」
(求道者の退散ぶりは記されていない)
→ 麻布で一着の単衣を作ったが、その重さは4.2kgほどだったよ。
これは縦糸と横糸で織られた麻の布は宇宙の有りよう、、成り立ちを喝破している。
マブダチ道元はこの麻布7斤を眼横鼻直(がんのうびちょく)と言う。 >>350
> >>349
> 濡れたザルに気付け。
さるが水にでも 落ちたのか、水月が消えちまったな。 > 片手の拍手と妄想しているかしていないかを確認しているかのようです。本来なら、両手も片手も空なのですね。 』
公案は原田雪渓老師もていねいですから、曹洞宗がお坐りだけではない事は分かります。
両手で打てば音が鳴る。当然ですよね。
では 片手の人が拍手をしています。
当然に音が出ませんね。
その片手の人が叩いてる音を聞いてこい。と言うのが公案です。
初関を透すために白隠禅師が弟子たちがスムスに初関を透るように工夫された公案です。
これはきちんと聞こえない音を聞くのです。
拍手の音を聞くのです。
片手の人が叩く拍手の音は片手の人は叩いても聞こえません、その聞こえない片手の拍手を聞くのです。
聞けば、初関を透る です。 >>360
> >>359
> そこまで言っちゃダメなんじゃない??
オマイの内臓をひっつかみ、引きずりだしてひと振りする。
皮ふが打ちとなる。
そうなったら、何か、云え。また、な。 >>363
> ぽったんの留守でも守るか。
波を観たか。 暑い夏の夕暮れに蛍は乱舞する。セミもまた鳴く。つばめは虫を巣へ運ぶ。
次世代を残すものは、生物学上の勝者である、と聞く。
法華経を顕教、理趣経を密教と言うが、生物動植物は密教の修行者だ。
密教の燃え盛る青白い炎は無我である。 >>367
> >>365
> 生業の足跡とはウンコの事じゃw(笑い) 』
何のことを言ってるのだろうか。 >>368
>>365、367 で、美しいウンコ達ってこと。
水洗便所は環境破壊w >>369
> 生業の足跡とはウンコの事じゃw(笑い) 美しいウンコ達ってこと。水洗便所は環境破壊w(笑い) 』
何のことを言ってるのだろうか。
はなっからウンコを持ち出しても、ウンコはウンコで、
くそかきべらs、とは、ほとけ。
クソの一本棒とは、ほとけ。
が、先に出てきては、何のことだかわからず。
佛とは何でぞ剤ましょうか、と必死に真理(さとり)を問う修行僧の固定観念であるほとけを具体的に指摘したものが、くそかきベラ、であり、クソの一本棒である。
聞いても居ない事を、また、的を外れた事を、どこかで見た聞いたことをいくら言っても、無意味。
言うならば、マジメに取り組め、だろう。
だれも未だ言った事が無い、あなただけの答えが出せないようだ。 > 病院でした。 主治医の受け流し方、勉強になります。 「何か、あるんでしょうね(^-^)」と。 全部 何もかもとは言わないが、熟睡できれば ほとんどのm事はうまくいくようになる。 』
この季節 急激な温度変化もあり そのことに体が対応が遅れ気味になってバランスが悪くなってる 希ガス。・・……(-。-) ボソッ
> そうね。ぐっすり眠れただけで勝者の気分。何か出来ないと思ってたことが出来ると勝者になれるね。
> 主治医の目力が忘れられなくてちょっとシンドイ。「お大事にどうぞ〜」の時の見開いた目(@_@)
何で恐そうに見開いたんですか? と次訊こうかと思うくらい恐かったが、「そんなことありましたっけw気にしないで下さい」とか言われるだけかもな。
私の私生活の改善のために通ってるのだから、興味本位の私語は慎もう。 』
まじめすぎる、のが、長所ではなく短所にもなる。
見逃せ、聞き流せ。手を付けるな。
5ちゃんねる用語に、
モチツケ
と言う言葉があるが、これを数回、くちにしている無我のはずのオラッチがあったりする。
昨日がまさにそれだった(^^ゞアセアセ
モチツケモチツケモチツケ ほとけも言う、ブツブツ と。 >>371
自分が遊び相手っぽくて良いんじゃないか?w >>372
横田老師がお気の毒だと思うから、それで、話しを聞こうか、と思ったがなにも語るべき疑問も無いようだし、何か言いたいことがあれば聞く。 >>373
経典の添削を始めてくれると助かる。
お前らから見て若いとはいえ、俺も齢50だ。一人では時間的に厳しい。 >>374
> >>373
> 経典の添削を始めてくれると助かる。 お前らから見て若いとはいえ、俺も齢50だ。一人では時間的に厳しい。 』
もう教典の一字一句には、こだわりが無い。
研究者がやる事は、研究者にゆだねればいい。
明治になって中国語教典ではなく、サンスクリット教典、チベット語教典、南伝仏教経典、がはじめてもたらされ、そこから、文献を比較する研究が始まったのだが、これも100年、200年、300年3000年1万年と学者は頑張るのだと思う。
ローマに伝えられたキリスト教が、ヨシュア、イエスを神であると賞味しようと2000年かけて構築してきた神学論争とは、まったく違うが、仏教学者同じく止む事が無い。
天竺から持ち帰ったサンスクリット教典を中国語に翻訳する時、中国学僧たちは数十人がチームを組み分担研究し、一字一字もおろそかにせず、完ぺきに中國語に翻訳したとして、なんとサンスクリット経典を焼却した。
印度の文化が中国文化に溶け込んだと言える。
比較して、我が国において、和語には翻訳されなかった。
古代の知識人は、漢文に長けていたからだろうか。
また、ひらがなやカタカナがその存在意義が薄く、おんなもじ、とされていた影響があるのだろう。
これから、学者さん達の大きな仕事は、口語訳だ。
ここの作業は不可欠である。
何はともあれ説明文だし。教典。
唯識 と限定するのは、空でしかない。
何回も繰り返し言うが、色即是空は、空即是色へと還(かえ)る。
不思議が無い仏教。
奇跡物語が無い。
日々が仏教、と言えば、まだ仏教と言う立が残る。
アジア人が共通して持っている自然と一体感、敢えて言えばこの事が色即是空は空即是色へと還(かえ)る である。 >>375
個人としてではなく、教を預かる者として。だ。 >>376
> >>375
> 個人としてではなく、教を預かる者として。だ。
>>377
> 遺書として受け取れ。
何を言おうとしているのか。 >>378
生き残ったなら俺も参加できるだろうが。
って話だ。
実際的な経典の添削は俺が居ない前提で頼むよ。 >>379
> >>378
> 生き残ったなら俺も参加できるだろうが。って話だ。 実際的な経典の添削は俺が居ない前提で頼むよ。
木佛は焼き、金かな仏は炉に投げ入れる。仏典は口伝くでんで伝わる。ノープロブレム >>380
だが、それは個人の内の話だから。
伝えるぐらいはやっていくれ。 >>381
> 無くして残ったものが本物ではある。
>>382
> >>380
> だが、それは個人の内の話だから。伝えるぐらいはやっていくれ。
真理(さとり)は二とに依存せずとも、本来 在る。心配するな。 真理(さとり)はひとに依存せずとも、本来 在る、自然(じねん) おいおい、うんうん。 心配するな。
> ま、善しとするか。軽く在るべきだと思う。 』
希薄だよなあ。 >>385
そりゃそうだろw自殺しに行く訳では無いしw >>386
> >>385
> そりゃそうだろw自殺しに行く訳では無いしw
崖からせり出した木の枝に
くちでくわえて
手を使えず
ぶらり。
かならず落ちる。
どうしよたものかアセアセ(^^ゞ >>387
落ちてみるしか無いわなww
おれはそこまで酷い状況ではないw
相殺しながら何方が残るかって話。負けるつもりも無いよ。 >>388
そろそろ 日常会話を離れてくれよ。
常に真理(さとり)を問え、答えよ。
横田老師にお尋ねするとしたら、真理(さとり) を 問う以外は、すべて 無用。
無門関 第五則 香嚴上樹 ‐香嚴樹に上る‐
香嚴和尚云く、「人の樹に上るが如し。口は樹枝を啣み、手は枝を攀じず、脚は樹を踏まず。樹下に人有って西來意を問わんに、對えずんばち他の所問に違く、若し對うれば又た喪身失命せん。正恁麼の時、作麼生か對えん。」
無門曰く、「縱い懸河の辯有るも、總に用不著、一大藏をき得るも、亦た用不著。若し者裏に向って對得著せば、從前の死路頭を活却し、從前の活路頭を死却せん。其れ或は未だ然らずんば、直に當來を待って彌勒に問え。」
頌に曰く、
香嚴は眞に杜撰、惡毒盡限無し。
衲の口を唖却して、通身に鬼眼を迸しらしむ。 >>392
> >>389
> そいつの上に落ちるはw
薬缶。 いや あかん、あきまへん。 真理(さとり)佛とは 空を言う。
佛と言う人格的存在は、無いのです。
Wake up!
Buddha、佛陀 目覚めた者、覚者 尊称です。
下から上を見るな、って事です。佛を見たら〜
また、下にも見るな、って事です。佛を見たら〜
自他が無い、と言うよ。
太陽光を浴びて炭酸ガスを吸い、酸素を履く植物の成長。
成長するとは、酸素と結びつき、酸化する。これを腐敗とも言う。
鉄と結合する酸化は、錆サビ と言うよね。 人の成長も云わば酸化作用と言えるし、腐敗とも言える。
珈琲も酸素と結合して、腐敗して行ってる。
なので 賞味期限が過ぎたものは、酸化がかなり進んでいるもので、見た目にはわからないかもしれないけど、腐敗している、とよくよく理解してください。
インスタントコーヒーも窒素充填して酸素を追い出して、酸化を防いでるけど、開封した時点から参加が始まっている。
だから、素早く消費するに限る。
家族の評価、評判もペーパードリップは毎日珈琲を入れるとして1年したら、美味しいと言えるようになり、3年で一人で助言無く入れられるようになり、10年でこれまでを振り返り、あとは大体10年ごとに、新味を咥えて行き、30年でめどが立つ。
これは毎日 珈琲を入れるとしての場合で、茶道茶道も同じような経過ではないかなと思うけど、習い事は師匠につけば、生きていらっしゃる間は やはりけいこへ出かけていくので、一生が習い事なのだろう。
なんでも 簡単に済ませれば全てが簡単になり、向き合えば、死ぬまでたっても未完成。
だからこそ、楽しさが尽きないとも言える。
死に際し、アナンダが、どうして生きて行けばいいのでしょうか、と問うに答えて言われた。
何もかもこれまで教えてきて、何かを隠して語らなかった事は無い。
だから、自己を洲(しま)、たいまつ、としなさい、真理をわたしの死後は洲(しま)、たいまつ、としなさい、と言い残した。
言っとくけど、釈迦族の聖者は、ねーらん川のほとりの儒家に瞑し、一人で悟ったよ。
その事を忘れ去ってはいけない。
自灯明とは主人公、主体、自由、を言う。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか。 鎌倉仏教によって、貴族のためだけの仏教が易行(いぎょう)、これだけで諸問題??解決しますよ、と出てきたのが、法然の浄土宗、その弟子親鸞の浄土真宗。
また踊念仏(おどりねんぶつ)の時宗があり、
南無法蓮華経と法華経教典に帰依します、と称(とな)えなさい、と言う称名の日蓮宗が有り、黙って座れば、問題解決してますよの曹洞宗が有り、
この三派の布教によってはじめて大衆に仏教が到達した。
現在でもこの三パで、日本での武q今日はほとんどが占められている巨大宗派である。
つまりお寺と檀家が結びつけられた葬式仏教である。
阿弥陀様と呼びなさい、何故なら阿弥陀様が救い取ろうと願を立てて手を広げて受け取ってくださるからである、と言う教え。
白のハスの花の教え、と言う教典の名を称えれば、kっ歳は解決しますよ、と言う教え。
お作法も行儀が大切です、お坐りなさい。何故ならお釈迦様が苦行弟子のフチをさまよい森を出て河畔の樹下の瞑想でさとられたからである、という主張である。
この三派は、易行である。 > 煩悩捨てるな、菩提は取るな。。w ガンダム映画2回見た、寝る。。w 』
取捨選択、だなあ。ゆいけんけんじゃく唯嫌揀択(ただ けんじゃくをきらう)だよ。
だめだよ取捨選択、選ばな、比較しない、選り好みしないことが大切。、それは外道だから、はっきり言って仏教じゃない、わかるよね、そこのところ。 > 梅雨の朝 百合に滴る 雫かな。 ベタな一句を詠んでみました。 』
(。_゜)〃ドテッ!
土手を行くのは o( _ _ )o〜† ドテッ さんじゃないかぁ〜♪
短歌、俳句、詩歌、いちど、書き終わった時、
それが どーしたあー
と、言ってみる。
そのフィルターを通り抜けた時、
他の人や、風景との関係性と言うか、社会性が出てくると思う。 わたしは地中海諸民族の興亡の歴史に興味が有って、1万年前に氷河期が終わり、溶けて後退していく氷河のあとに出現した平原に進出していった人たちの歴史がすきなんです。
悟前(ごぜん) 未悟(みご)の時は万巻の書を読み漁る時期、と言うのがあります。
わたしを禅へ引き込んでくれたのは1冊の本です。
米国人神父が一つの公案に取り組んだけれど、七転八倒の戦いの末、結局わかりませんでした、と言う本です。
来し方行く末を立ち止まり再構築する30歳前後までは自分で考えたりする事が無く、本や人の言う事を素早く取り入れ、他の人にも説得していました。
或る時、わたしの頭上に乗っかっているもう一つの頭が在ると気づき、その眼で、周りを見回すと頭の上にもう一個の頭を乗せて歩く人など居ません。
それまでは わたしが考え、行動しているのだとばかり思っていました。
それはわたしの上に乗っかってるもう一つのわたしに命令する頭の考えを急いで取り入れて、それを相手にしゃべっていたのです。
さあ、それからが大変で物質主義と精神主義を行ったり来たりして大きく振れていた私の振り子は、否定と肯定の繰り返しです。
そこで以前から興味が有る宗教書を読み漁り聖書も旧約新約を2回、きちんと読み終わりました。コーランも読み、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じ宗派の分かれなのだと理解もしました。
儒家や道家の書も読みました。仏教も2500年前のガウタマ・シッダールタの言葉が詩の形で書かれた法句経ほっくきょうダンマパダから読み始め、大乗部経典も読み込みました。
それで理解(りげ)と言いますか、わかった気分でした。
そういう時、両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。と言う米国人神父のいただいた公案に巡り会い、聞きました。片手の人が叩く拍手の音を。
ですが、わたしは、その頃から直接に人からの影響を極端に避けるようになっています。距離感が取れないからです。下から上を仰ぎ見ないように、です。
禅のさとりは自由と平等、直てと横です。 自由とは、主体、主体性、主人公です。 平等とは無差別、無区別、一如、横一列で誰もが受け入れられるものです。
ですがこれが世界の成り立ちの根本と受け取る、体得するには、自己が邪魔をします。餅が絵になり絵が餅になりほおばり食べる事です。
食べれば、色即是空は空即是色へと還(かえ)るです。 > 久々の長い坐禅。 一瞥体験も、思考の一部に過ぎない。悩みは、過去への執着だ。ありのままの現在は見たまんま、聴いたまんまの「それ」しかないのだ。それを観たとき、私は安らいだ。 』
コルシカ島のギャングたちのおきては、沈黙である。
ある修道会の修行は沈黙である。
真理(さとり)も沈黙である。
これをさんちん三沈 の 掟とか 言いはべらむ。
言葉では言い表せないものを言い表す時、それ自体無理無意味の責をまぬがれえない。
禅にひれ伏して、禅につかえては いけない。
禅を特別扱いにしてはいけない。
これが禅だと言う固定的なものなど一切、無いのだから。
アリがMAMAなら、キュウリはPAPAである。
ナスがmamaなら、ミンミンゼミはpapaである。
本来が空くう である。 > 存在しないがゆえに存在する。 』
を言うためには、存在するがゆえに、存在しない、と言う 論理の展開が不可欠になる。
と言うのも、
〜」が故に、と言う理由が有るからである。
この場合は、
存在は 即ち、存在しない。
存在しないは 即ち 存在する。
と、喝破する、
決して きゅうりの漬物などではない、のだ。 公園で 梅雨にベンチが 道と花 』
梅雨の空 地にはひまわり 夏待てぬ 』
見た儘をうたいあげれば、そりゃ お絵描き。
まあ、ヌリエだねえ。
風景を見ている自分が、眼で見、耳で聞き、肌をなでてて通り過ぎる風が運ぶ香り。水に手を差し入れる冷たさ。
その感覚器官からの情報と自己が見つめる風景と一体となり、わたしが無くなる。
いぜんに心象風景と言ったが、
この短い文字数で、何かが勝たれる、
肩?終わった、と言うものなど無い。
廉価が基本なのだよ。
でなければ、450口年の地球の歴史の一員である生きとし生けるものたちが、見つめる生死しょうじ は触れ合う事は出来ないのだ。
禅は心を問い、答えを出す。
岩を両手で、何回も押して踏ん張って、ゆらゆらと揺らす。 つまり、いわゆる、自問し自答することが、俳句である。
575では、結局、なにも語ってはいないのだ、語っていないことを聞くのが、俳句。
野に出て歩け。それは、ハイキング > 坐ることも、坐らないことからの分別に過ぎぬ 』
言葉遊びだなあ。
行住坐臥、
日々の姿だ。 >>405
何処かの寺に投げた和歌で済まんが。
曇天にぽつりと落ちる優しさに
草木と共に頭を垂れる >>406
散文だ。
忘我と言い表すことがある。
草木が有り、我も有り、では、禅ではない。 >>407
しかし、ぽったん甘いな。
満たされれば、其れも無じゃw
紙切れに全てを示せとされれば何とする?w >>408-409
>┼○ ドテッ
行住坐臥、日々の中に真理(さとり)を見るから、どうだ、どうだ、も透けて見えるものはある。
問うときは、答えを準備してからだが、
禅は色即是空を問う。
答えは、一の如し、である。
これらを踏まえて、問い、答えを出す。 > そうね。あるがままは、訊くものではなく、文字通り、ご自分がそのように「ある」べきものだと思うんです。
あるがままとは何か? と訊いたとたんに、あるがままが言葉になってしまいあるがままではなくなってしまう。
あるがままの状態は、自然が教えてくれます。 でも、強いて言葉で表すのなら、前述の通りです。
あるがままに生きてると、取り繕ってるのが分かる。
でも、必要なときもあるよね。 ベースラインを、自然体で。
あとは自由に背伸びや縮みを行ったり来たり。 まるで鳥が遊ぶように。 』
あるがまま、
は
中國の道教と重なり、
禅ではない、と言う事、
禅としては、危険と言える。
無為自然、と言う言葉がある。
道教 老子
http://tao-academy.jp/muishizen/
これは
中国人の伝統的な天土地の間に在る人、天地人、の中華思想を根底とする。
似て、非なる、思想形態としての道教と言う思想体系である。
禅は、天も無ければ、地も無い、ましてや人が無い。
まったく異なるものなのである。
あるがまま の わたし って、よさげだけど、ねえ。語呂がいいし、響きもいい。
さかいめが無い のが禅です、真理(さとり)です。 >>410
おいおいw
普通の会話ぐらいはしろよw
生きいそいどるなw 雲の先手と手をつなぐ天の川
それが それがどうした!? 無礼者! >>418
>>415は完璧に禅じゃよ?w
季語も決まっとるしのw >>420
解らないなら良いよw
どっちかっつーと曹洞宗に近いかもしれん。 >>421
真理(さとり)を問う時、
悟前(ごぜん) 未悟(みご)の修行者と、
悟後(ごご)の覚者では、まったく異なる。
また、コピペしたとしても、問い、答える、事が悟前(ごぜん) 未悟(みご)の者には、ワケワカメ である。
まず、さとれ。
さとった気になるな、さとったふりをするな。
解からなければ、取り組め。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか
真理(さとり)は自問し、自答する以外には開けない。
禅は公案を透過してさとる。
公案を透過せず、さとった者は居ない。 終電前の駅前のビルの角に、何故か明かりをつけて坐る女占い士が、手相をを観ると、言う。
占いはしゃべりを売る。
不安解消だな。
普通はあいづちを打つ事で、社会は回っているのだが、なにか背中を誰かに推してもらいたい時、なにかしらの権威づけが欲しくなることがあるのだろう。
占いは、相反する事を同時に並べ立てる事である。
あなたはとても仕事が合理的ですが、その反面、気が優しいので逆に自分を押し殺してしまう。とか。
これで、ほとんどの人は、
すごい、あたrふ、と思い込む。
インチキだと言ってしまっては、相談者は単なるすき焼きで、鴨がネギを背負ってやって来たようなものだ。
汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公で有り得るか、と言った人が居る。 ミックスリスト − 英語の早口言葉で発音の練習
https://www.youtube.com/watch?v=WXA-G5F0r-w&list=RDCMUCPlreGCqby4Qg9Vuem5scpw&start_radio=1&rv=WXA-G5F0r-w&t=0
ミックスリスト − 【カタカナ英語を卒業!】絶対上達!究極の発音法!大人のフォニックス(Phonics)
https://www.youtube.com/watch?v=WUeYlbQMrFg&list=RDCMUCNsyrhaGbUUJQVln2KgvJ5A&start_radio=1&rv=WUeYlbQMrFg&t=1 碧巌録(へきがんろく) 第39則 雲門花薬欄(うんもん かやくらん)
本則(ほんそく)
修行僧(しゅぎょうそう)が雲門文偃(うんもん ぶんえん)禅師(ぜんじ) に問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ 清浄法身(しょうじょう ほっしん)?」
門 云(いわ)く、「花薬欄(かやくらん)」
修行僧更に根問(ねど)いす、「すなわち恁麼(いんも)にし去る(行動)時は如何(いかん)?」
門云く、「金毛の獅子(きんもうのしし)」
注
雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃
花薬欄:柵で囲った満開の芍薬の花。 便所の籬(まがき)(生垣)とか、柵をめぐらし丁寧に囲った芍薬(しゃくやく)の植えこみ、或いは一般の花畑という意もあり
花薬欄とは佛、真理(さとり)、修行僧自身。
金毛獅子きんもうのしし:禅宗では獅子の吼える姿を仏陀や禅の高僧の説法になぞらえる。獅子は百獣の王である。その獅子の中の獅子であり、獅子の王が「金毛の獅子」だ
つまり修行僧自身が佛、真理(さとり)。
本則
ある僧が雲門禅師に聞いた、「清浄法身とはどのようなものですか?」
雲門は言った、「花薬欄」
僧は聞いた、「その花薬欄である本来の面目の中に法身が現前したらどうなりますか?」
雲門は言った、「金毛の獅子」
→ 悟前(ごぜん) 未悟(みご)の修行僧は、何をわかろうとして、知りたいとして問うのか。
色即是空を悟りたいの一心である。
佛とは、祖師西来意とは、真理(さとり)とは!?、と問うのである。
この自己の理屈、常識、知識に凝り固まった修行僧、聞いてもさとれない。
この公案は、麻三斤、みやこ長安に通ず、花薬欄、と同じ問いを違う答えを出して、さらに深くしている。
わたしにとっては、眼横鼻直(がんのうびちょく)からの公案だった。 太るには、食べる事しかない。
食べられないと言うから永遠に太れない。
太りたくなければ、食べなくて、良い。
太りたければ、食べる事である。
エネルギーを摂取する事である。
炭水化物を多く摂取する事である。
動物性油脂は燃焼しやすいので避け、蓄積される植物性油脂を、炭水化物とともに摂取する事が、太るための第一の要諦である。
たとえれば、極上の総合栄養食ちゃんこ鍋でどんぶり飯をお代わり、お代わりし続ける事である。
もうこれ以上食べたら死ぬ、と、毎日、毎日、奮闘努力する事である。
食べられない理由を列挙して、過食を避けるような、愚行をしてはならない。
それは公案を透過しないでさとった者は居ない、と同じである。 >>425
前から思ってたんだが、「なるほどね〜」って感情でスルーはダメなのか? >>427
> >>425
> 前から思ってたんだが、「なるほどね〜」って感情でスルーはダメなのか?
公案に取り組む姿勢では、無いね。 >>428
金毛の獅子に関しては、公案って気がしないんだよね。
法身が循環してる辺りなのかな〜… >>429
> >>428
> 金毛の獅子に関しては、公案って気がしないんだよね。 法身が循環してる辺りなのかな〜… 』
わたしにとって、
両手で打てば音が鳴る。では、片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい。
と言う、米国人神父が取り組んで、ついに解かりませんでした、と言う一冊の本は禅が身に付く事が出来た公案で、
釈迦が誘惑を受けたり、
イエスが悪魔の誘いを受けたりするのが、何故か、解かる。
わたしは宇宙を手に入れた、と、心の内で叫ぶ。
このようなさとりのあとで、花薬欄、と言う公案がシミジミとうなづく事が出来た。
この修行僧は、花薬欄、と言う答えをいただいたにもかかわらず、鈍根で、無意味な質問を重ねてしまった。
金毛の獅子とは、真理(さとり)を具現化させた姿である。
禅家では無か、隻手を取り組むと言うから、無師であるから、どちらかの公案に取り組み、透過して、この花薬欄も通る。
おしゃべりは、無駄な事だと思う。 >>431
今日から円覚寺の写経体験にもなってる「延命十句観音経」を写経しているのだが。
念念従心起
念念不離心
通しの意味を調べてないけど、これは良いと思った。
暫く写経を続けようと思う。 >>432
禅は心を説かない。
しん、と読む。
mるで、こころが在ると言ってるようじゃないか。
そういうものは無い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています