◆◆◆人は死んだら無になる◆◆◆
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でも、そういうことになったら宗教屋さんが困りますよね 宗教は神も死後の世界も認める
科学は神も死後の世界も否定する
宗教は信じることから 科学は
疑うことから始まる
だから世界はつまらなくなった
どっちに魅了されるかといえば
断然宗教
神も死後の世界もあった方が面白い 日本弁護士連合会のサイトの中に
「反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」
https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/1999/1999_13.html
という日弁連が出したPDFファイルがある
(1999年3月26日)
内容は、法律家(弁護士)の立場から、今なお問題が多い霊感商法に対して一つの意見を提言する、というもの
なかなか興味深い資料ですな >>1
算数で考えてみようや
中学校でプラスとマイナスを習ったやろ
プラスの世界がこの物資的な存在世界やねん
ならマイナスの世界は精神的な存在世界やなあ
生と死という観念は精神的な存在世界の話やろ?
つまり人間の肉体という物質的な存在世界がプラス「0」になることを勝手に死と呼んでるだけや
精神的な存在世界は、物質的な存在世界とは何の関係もなく続くねん
地獄だの天国だのという観念は精神的な存在世界に実在するねん
魂という観念も当然に精神的な存在世界の話やな(´・ω・`) 算数で考えてみようや
中学校でプラスとマイナスを習ったやろ
プラスの世界がこの物資的な存在世界やねん
ならマイナスの世界は精神的な存在世界やなあ
生というのはこの二つがつかず離れずダイナミックに呼応しあって活動している状態や
ところが力を失い、互いが落ち込んでしまうとエネルギーが打ち消しあって±0になってまう
精神的な存在世界も、物質的な存在世界も共に消えてなくなる
地獄だの天国だのという観念は自制心のない馬鹿を脅したりすかしたり操る方便や
物質とは独立の魂なんぞありゃあせん
肉体が朽ちるが如く、魂もまた無に帰す
それが真実や 宗教は神も死後の世界もあったらいいなぁの願望
根拠もなく主張を自前で認め、妄想で信者の金を取る
科学はもし全知がいたらと考える
全知は宇宙の全てを、素粒子の位置も、運動量も、予め全て知っている
これは決定論的世界に他ならない
それでは現実の宇宙と噛み合わない
はて、全知でない全能があるものか?
全知全能はどうやら不可能
とりあえず、科学は嘘をつけない >>9
以前とある宗教家が言ってたのと同じ。あまり意味ない。両方から言える。
人は死んだら無になると思い込んでいる。知ったかぶり。
死後の世界はあると譲らない。知ったかぶり。 ある種の人々は、死後の輪廻を否定し、またある種の
人々は、頑迷にも虚無主義を主張して、死後、生命が
継続する可能性を否定する。しかし、信仰は、事実を
変えることはできない。一人の人間の意識における、知る、
という根本的特性は、推測に主宰される事はなく、また、
個人の観点や意見によって、影響を受けることもない。
それは一つの、己自身に内在する最も主要な主宰者であり、
無上の権威である所の業力と連合して、一切の推測を退ける。
結果、一切の有情は、一期の生命から、もう一つ別の一期の
生命に向かうべく圧迫され、粗いもの、たとえば、陸上の、
海の、水の中の生命を遍歴する。微細なものでは、餓鬼、天、
梵の生命がある。後者は非常に微細であって、人の肉眼で見
ることが出来ないものであるが、心は、まったくの困難もな
く、これらの道に生まれることができる。
〜アチャン・マハー・ブーワ尊者の修行体験記より 死んで無になるなら、悩みはない。
どんな生き方しても、結果は同じ無だから。
ところが、釈迦は、人は死んで、気づくと、何処かの赤ん坊に生まれていて、また苦しい人生が始まると説いた。これが輪廻だ。 私は、気づいた時は幼児で、人生が始まっていた。それは自分の意志ではない。
死んだ後は、気づいた時は、また何処かの幼児で人生が始まっているのかも、と考えたりする。すると、釈迦の説く輪廻も、あり得るだろうと、今では六割方、信じているね。 現代物理学では完全なる「無」というのは想定してないんよ
想定しても絶対に有り得ないと考えてる
何も無い真空でも、真空のエネルギーがあるねん
しかし仏教を創設した釈尊は違うねん
「無我」としてキッパリと我は完全に無いとしてる
ここで言う我とは自分という意味でなく存在を存在たらしめる基体という意味やろ?
つまり無我とは現代物理学が否定する完全なる「無」という意味
しかし、基体がない大きさ「0」ならば、ゼロがいくら依り集まってもゼロやん?
釈尊が正しければ、人間の体は大きさゼロが依り集まって、人間という大きさになる
これって矛盾であり、物理的にあり得んやん?
だから現代物理学の科学者は、物質の根源には必ず絶対に「ナニカ」が有る!と考えてるんや
それってお釈迦様が否定した外道の考えと同じやん
さて、釈尊と外道の科学者、どちらが正しいのかねー???(´・ω・`)笑 >ここで言う我とは自分という意味でなく存在を存在たらしめる基体という意味やろ?
>
>つまり無我とは現代物理学が否定する完全なる「無」という意味
楽しい解釈ですね。 釈迦の説く「無我」は、我=常住不変の我、の存在は無いという意味だよ。
無常の我はあるわけですね。
ところが、我には、アートマン=不変の我、という意味があるから表現が難しくなる。
無常の我とは、変化する不変の我、となる。 まあ圧力の関係で完全無は存在出来ないからな
逆を言えば完全無があるから圧力が生じているとも言える
これ即ち存在出来ないが遍満するもの
単純な作用としては最も根源を成す
力を作用として在らしめているものだろう そもそも太陽系の惑星で地球以外に住めそうなところ
火星がワンチャンあるぐらいじゃん エネルギー E = 質量 m × 光速度 c の2乗
「質量とエネルギーの等価性」とその定量的関係を表している。
アルベルト・アインシュタインにより、特殊相対性理論の帰結として、1905年の論文『物体の慣性はその物体の含むエネルギーに依存するであろうか』内で発表された。
この等価性の帰結として、質量の消失はエネルギーの発生を、エネルギーの消失は質量の発生をそれぞれ意味する。
したがってエネルギーを転換すれば無から質量が生まれる。
中略
質量とエネルギーの等価性は「宇宙に始まりがあるのなら、どうやって無から有が生じたのか?」という、ある意味哲学的な問題にも、ひとつの解答を与える事となった。
宇宙の全ての重力の位置エネルギーを合計するとマイナスになるため、宇宙に存在する物質の質量とあわせれば、宇宙の全エネルギーはゼロになるというのが、解答である
以上ウィキペディアより引用 >>25
じゃろ(´・ω・`)?
>>26
面白い指摘ですな!
これは盲点
目から鱗や(´・ω・`)メモっとこ >>27
「無」にそんなパワーがあるなら世の中がひっくり返るよね
科学が根底から覆される(´・ω・`)汗 ここにも釈迦が出てくるね。人は死んでも無にはならないと言う人は
輪廻転生を信じてる人だよね。確かキリスト教は生まれた時が始まりで
死んだら天国か地獄。昔、丹波哲郎さんの本で「もう死は怖くない」とか
あった記憶。信じた方が、やすらかに死ねるからいいのかも。あと、ある
宗教家が言ってた。キリスト教の最大の失敗は輪廻転生を認めなかった
ことだとか? 数学の図形の「点」の定義ってあるじゃん
点は位置は存在するけど大きさは0
「・」←これは点と言うけど大きさが0じゃ無いから数学的には大間違いやろ?
つまり点はあくまでも数学者の脳内妄想で実在はしない
アートマンも同じやん
心臓の「位置」にあるけど大きさが0なんだから絶対に見つかる訳が無い
しかし点の集合が人間を世界を宇宙を作っているように、アートマンが依り集まって人間を世界を宇宙を作っている
数学の点もアートマンも大きさが0で実在しないのに、現実は点・アートマンが依り集まってこの存在、実存を作ってる
釈尊の無我とは、あくまでも大きさ0のアートマンだから絶対に捉えられないと言ってるだけ
悟りとは、アートマンを捉えることに他ならないでしょ
つまり存在しない大きさ0=無を捉えることが悟りそのものですよね(´・ω・`)? 死んでも遺体が残るから無じゃないって
何かおかしいのか? 魂、心、意識とかの話でしょ。
死んだら腐るか燃やされる死体の
話じゃないよ この身体がなくても
この世界に私が存在していると
思っている人はいるの? 微量でも細胞が残れば、死んだあとも記憶が残り、自分自身に存在があると思う。
死後があるわけではなく、意識が現世を漂う。
細胞が消えれば現世から消滅。脳が死んでから、細胞が消滅するまでが死後かな。
恨み辛みで出てくる架空物質の幽霊。
記憶があるから、恨み辛みがある。
ということは、細胞に記憶があるから。
そんな理屈を勝手に考える鬱病患者 幽霊は自縛霊ということになるのかな?霊界にいるわけでもない。輪廻転生
するわけでもない。だから戦国時代や江戸時代や昭和の幽霊もいる。あと、
キリスト教では幽霊を認めない。悪霊(人の霊と別)の仕業とされる。しかし
イギリスでは幽霊話が盛んでゴーストバスターとかいる。 >>41
でもそんなことがあるとすると
うんこしたとき
うんこ視点で物語が始まったりしないか?
爪切ったとき爪視点とか >>43
細かいところまではわからないが、あってもいいんじゃね?
うんこストーリー!ラブコメ要素満載じゃないか >>42
地球はずっと動いてるのに、霊魂は置いてかれないのか? 昔、創価学会の人間が命は永遠だとか言ってた。当時は、まだ心霊番組が盛んで
本屋には丹波哲郎さん他が書いた霊界や死後の世界の本がたくさんあった。
創価学会に限らないけど、あのての人たちは今も同じようなこと言うのかな?
守護霊とかホントにあるのかな? AIを搭載したロボットと何が違うか
哲学的ゾンビが 死ぬと世界線を移動します
その世界の自分になります
以前の記憶は失います
それが永遠に続きます 人間というか生物は原子で出来ているから原子の塊に戻るだけだよ。
感情や意識、思考は生物じゃなくても原子にも何にでもあるから、心配はいらない。
他の生物に食べられれば何かしらの生物に転生できるし、上手く人間に食べられ精子か卵子になれれば人間に転生できる可能性が出てくる。 >>58 それは全てアンタの産み出した妄想w
あたかもそれを見て来たような事を言うなww 全身麻酔か強力な鎮静剤使ってみな。
中枢神経の伝達の一部を阻害しただけで意識は消える。
死んだら中枢神経回路が壊れるわけだから、もう意識が戻ることはない。
死んだら無と言っても物質的にもになると言ってるわけではないだろ。
我思う我たる意識は消えてしまうということ。 >>1
骨を除いて無くなるんだから それも間違いじゃない 亡くなるとただの有機物に戻るだけなので無にはなりません。
有機物からまた新たな生物が生まれるだけです。
火葬はこのプロセスを無視し無機物に変えているため私は反対しています。
無機物から生物に転生することが出来るならまだ分かりますが。 無なら 心霊やおばけは全否定される
夜中に墓場に行ってもな〜〜〜〜んもなし! 人は死ねば体は焼却して 灰になり 、他のものは全部無になる。
と多くの若者は こう思っている。
するとあなた達は、お彼岸に お墓参りはしないのか?
ご先祖の墓にお参りするのは 何のためなのかな?
何も無いのに 何に対して 手を合わし、 頭を下げているのか?
墓石に向かって 頭を下げ 手を合わすのは、そこに霊魂が存在するからだろう。 私たちの命というものは、あの世から生まれてきて、またあの世へ帰っていく。
この世での生存はせいぜい100年も満たないが、あの世の世界は 何百年何千年と長い 。
そしてまたいつの日にかこの世に生まれてくる者もいるが、 ほとんどの者は、 未来永劫に 居続けなければならない。
私も何年かすると、 あの世へ帰っていくが、あの世で少しでも 暮らしやすい世界に、落ち着けるように今は仏道修行に励んでいる。
人は死んで 意識がなくなっても、心の深層部分( 無意識層)にはこの世の記憶が 刻印されていて、 絶えず命に付き添っているという。
そしていつの日にかまた この世に出てくる時は、 そこに刻まれている 行いが、 因縁となって 人格が形成されると言うことだ。 聖書で神はアダムに「あなたは塵から取られたので塵に帰る」と言っている
この言葉には死後に魂が生き残るという考えはどこにもないように思うのだが >>6
『宗教名目による悪徳商法―日弁連報告書にみるその実態と対策 』
(緑風出版)
(1996/5/1)
日弁連は1987年7月と翌1988年3月の2度にわたって、霊感商法の実体とその対策について提言する詳細な報告書を公表した。
第二 実体
この提言で対象とする典型的な事例を10種類選択して紹介する。いずれも弁護士や消費者センター等の相談窓口に寄せられることが多いものばかりであり、事件を担当した弁護士や被害者から直接事情徴収してまとめたものである。・・・
8)教祖の著作を書店で見て、この教団(法人格はない)に関わりを持つ人が多い。悪霊を払って善霊を呼び開運すると銘打った除霊の儀式(5万乃至数十万円)や、
有料の気学や、やせる・美人になる・金持ちになる等の各種講演会、秘法等のイベントなどに若い人を中心に多数参加している。
子供の病気等の悩みを解決するためには除霊をしないといけない、といわれて、
教祖や教団内の資格を持った幹部の儀式、鑑定などを度々受けたため、多額の出損となったという事案を初めとして、相当数の被害相談がある。』 死んでも肉体が滅ぶだけで、魂は残りますね。ここから、まだまだ続きます。 死後、仮に神だのあの世だのあろうがんなもん否定して拒否するだけだわ >>80
それは願望、ないし思想。
現実にそんなことが起こると思ってるの? 少しでも宗教的?な修行を行なってみると分かるけど
本当に得難いのは無所有の境地、仏教的には無我か?
まあ無所有の境涯で良いか、これを得るのが不可能ではないかと言うぐらい難しい
無所有を得ると言うのも可笑しな話しなんだけどな 最近になって気づいた事はこの無所有の境涯と言うのは
対概念の内にあってしかない事に気づいたんだよ
創世記でアダムが一人ではいけないとイヴが
次いで創造された理由が何となく腑に落ちたって話し 人体がただの物質のように思えてしまう
自分の意思で生きてるように思えて、実は思考も何もかも化学物質に支配されているに過ぎない、という どうせいつか死ぬのなら、初めから生まれなければ良かった 「人は死んだら無になる」
と言うこと自体、
人に肉体と切り離せる「何か」を想定しないと出てこない話。
本当に唯物的に考えているのなら遺体の話になるはず。 「人体を構成する物質及びその構造」
が人だとするならば
「人は死んだらどうなるか?」
の答えは
「無になる」
ではなく
「腐ったり燃やされたりする」
が正解なはずである。 医者が末期患者の死を見届けるシーンを想像してみよう。
患者は死んだ瞬間に無になるのだろうか?
そうはならないはずだ。
人が死んだ瞬間に無になると言うのなら、
医者が患者の死を判断する間もなく消えなければならないが、
実際はそうはならず、
「死んだ人間」がその場に残る。 やっぱり人が死んだらどうなるかってのは、
遺体の話にならなきゃおかしい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています