ブッダが中観の立場で説いたとしても、説かれる側が仮や空観だったなら、その水準の解釈の仏説しか残ってない事になる。
声聞が聞いて伝えた説は、全部声聞の色眼鏡を通した声聞の理解でしかない。現在残されている仏説中に本物があったとしても
結局クオリティはそんなもの。それから密教ってのは、悟りを追求したのは間違い無いとしても、これも仏教だと断言するのは
恥ずかしいし誤解を招く可能性が高い事に気付き恐怖して、秘密とした面もあるね