まさに

 >ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
 >もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。
 >車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 >(中村元 ブッダの真理のことば 感興のことば 岩波文庫 )

ではありませんか?

因果が生産されるのは汚れた心、即ち実体視って上記のお言葉を読み替えるのは行き過ぎた解釈になりますかね?