「悟り」はなく「修行」という行為だけがある。
実存するということは、自分と船が一体であるということだ。私と世界とは決して切り離しえない、イコールなのである。「私が修行する」ではなく、いつでも「修行している」という行為しか存在しない。
そもそも「私」なんていないのだから、その私が「悟る」なんてことはありえない、あるとすれば、「悟り」という状態だけ「悟り」という世界だけである。
道元禅師の弁道話で、「法の深浅」でなく「修行の真偽」だけを問え、という話がある。そのときの目の前の修行が本当に行じられているのかだけが、問われるべきことなのだ。「その人」として実体視して、彼が悟っただの、悟っていないだの、無意味。
自分すらもない。今実存している「これ」以外にはなにもない。超越的なものはなにもない。これが仏教の核心である。存在するものは無根拠である、その根拠は分らない。根拠のないままに存在している「実存」を受けいれよう。それが仏教の革命的な方向性だ。
むしろ、超越を認めないがゆえに、この目の前の現実、世界と自己とがイコールの「永遠の今」だけがあるという事実に徹底できるのだ。超越の錯覚、言語が生み出したナマの現実を離れた一切の思考を捨て去って、今になりきる、実存だけに踏みとどまる。
「真理(=超越)がないこと」、それは形而上学的問題に対する判断拒否の態度である。その根本には「実体」の否定、そして「解決」「真理」「答え」の否定がある。そしてこれら現実を離れた一切の超越を諦めたとき、紛れもない現実(実存)が見えてくるのだ。
※南直哉著『超越と実存』のネット上の書評から抜粋。