ここら辺は表現が難しいし、仏教的に洗練された言葉を使うと難しいって批判されるしw


竹村先生は解説書で
 >相分はないのだけれども無分別智という智慧は真如と一体化し、そこに真如を自覚している(中略)
 >智慧はあくまでも有為法でその都度その都度起きてくるものなのですが、真如は無為法で変化のない世界です。
 >そうなのですが、しかも無分別智は真如といわば一つになるのです。
 >それは自証分が見分を見るとき、見分を現し出してそれを見るのではなくて、見分の内容をそのまま直接受けとめるように、そのように真如を証するという事です。
と解説されております。
また、
 >相分やら何やらを現し出して、それを縁ずるということになると、そこには何らかの対象への関与が生じて、直接に証することにならず、後得智と同じように分別があることになってしまいます。
 >したがって無分別智を理論的に説明する場合は、見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証するのだと説いています。
 >また、無分別智も真如も言葉では説明できない世界ですが、理論的にはこのようにとらえるのです。
とおっしゃってますね。


「見る事を止める」「先入観の動きを止めて」(=上記の”相分がない”に該当)

その状態で

「ありのまま」(=上記の”真如”に該当)



「見る」(=上記の部分で”真如と一つになる”や”真如を証する”に該当)

って事でしょうね。


”見分はあるが相分はないというかたちで、ただし真如を挟帯して証する”と。