第七十九則 【投子一切聲】 ずしいっさいじょう

垂示にいわく、その自由に使いこなせるものはすでに目の前にあり 、しかもその痕跡はありません 。
動き回る状態でとらえ生け捕りにします 。
力を使わず余力だけでよく。
そして言います、これはどんな人なのでしょう。
かつてそのようにしてやって来たものとは
、それはこんな話なのです。

僧が投子和尚に質問します、「すべての声がコレであるとすれば、仏の声はコレなのでしょうか、またはそうでないのでしょうか? 」
投子 「それですよ」

僧 「和尚はおならをしないでください、飯わんがカタカタいってしまいます」
投子はすぐに僧を打ちます。

僧はまた質問します 「大ざっぱな言い方にしろ細やかな解説にしろすべてそのたったひとつの意味にもどると言われますが、そうなのでしょうかまたは違うのでしょうか?」
投子 「そうですよ」

僧 「和尚を一頭のロバとして呼んでみたらどうでしょう?」
投子はまた即座に僧を打ちます。


投子和尚、投子和尚、その心のはたらきが動き回ることを阻むものはなく、一つを放てば二つのものを得て、あれも同じでこれも同じ、楽しそうに果てしない潮の満ち干で遊びます。
それでも結局潮の中に落ちて死んでしまい、ボンヤリとしながらもハッと気ずけば、無数の川が轟音をたてて流れ込んできます。 』

☆彡 修行僧が4問し、投子が4答す。

隻手の音声(せきしゅのおんじょう)が ここでは、おなら・・・(≧ω≦ )プププ