マインドフルネス Part.25
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。 そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。 当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。 マインドフルネス - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ マインドフルネス 『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。 マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』 マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。 当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、 瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。 単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。 また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。 前スレ マインドフルネス Part.24 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1570453260/ スマさん以外で知ってる数少ないスリランカ僧は、ラーフラさんとグナラタナさんだけど マハシではないみたいだし異教徒排斥みたいな考えとは逆だ 彼らがむしろ少数派なんだろうなスリランカでは >>505 シンハラ人虐殺の件は何? 僧侶の地位を悪用して軍を動かしたのは誰で それに対する処分は有ったか無かったかを教えて >>498 マハーシ流では、「サマタ(止)」を行わずに「ヴィパッサナー(観)」から始めます。 ヴィパッサナーを行うだけでも定の力が養われると考えます。 そして、近行定までが達成され、五蓋は取り除かれるので、阿羅漢にまでいけると考えます。 ヴィパッサナーには対象に対して瞬間だけのサマディ=瞬間定(刹那定)が必要だと言います。 https://ameblo.jp/morfo/entry-10908375124.html だそうです。 >>501 雪山部で検索して最初にヒットしたサイトは例の真言宗法楽寺のサイトでしたが、有部の北伝とテーラワーダの南伝では根本分裂の原因や年代、誕生した部派などが違っていることが、それぞれの論書などを引用して書いてありました。 んー、テーラワーダ側では説一切有部ではお釈迦さまの教えを変えてしまった引け目から本当のことが書けないのでしょうとか説明してましたが、この法楽寺の説明の方が中立的なように思えます。 セイロンの島史についてもマハーヴィハーラの件から信用できない面もありますしね。 真言宗法楽寺の部派仏教誕生のページ http://www.horakuji.com/lecture/sravakayana/sarvastibada.htm マハーヴィハーラ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A9 (「他派との抗争」と「中国僧による記録」に注目) >>507 むしろラーフラ、グナラタナが少数派なんだろうなと言ってるのは伝わってるのかな? その上で言うと、知らんがな >>509 おお すまん 誤読したわ 穏健派が少数派で後は仏教風の外道なんだね? >>508 なるほど、だからサマタの話になったら必死で否定してくるんだな 納得 >>508 うん それでね 当時の最大部派だった説一切有部が雪山部を本上座部として認めてるのと 分別説部も分派に過ぎないし それを更に改竄してインド上座部から無視されたスリランカ大寺派が上座部を名乗るのは違うでしょ?って話でね まだインド上座部がスリランカ大寺派を上座部に加えていたなら話は別だけど そうでないなら上座部の呼称は自称ですね?って話な訳よ 部派宗派の違いを抜きにしても仏教ではこの自称という行為は恥ずべき事なんじゃないかなとね 正直どうでもいい てかマインドフルネス関係ない話題 では 【やはり】ヨガと瞑想で“超絶エゴイスト”が激増中! 無我と正反対の自己中すぎる欧米流「マインドフルネス」の欠陥露呈(最新研究) https://www.excite.co.jp/news/article-amp/Tocana_201806_post_17295/ またWikipediaのマインドフルネス https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9 の批評と懸念 要するにマインドフルネスという瞑想に特化した修行によって達成感に陶酔してしまう、また私に対する効果を求めて瞑想する、 そうするとかえって自我が強化されてマインドフルネスから遠ざかってしまうということらしいです。 でも私見ですが、疲れ果てて自信を喪失している人、心理学でいうアイデンティティを喪失している人は、 そうやって自我を強化して自信を、アイデンティティを取り戻すのも一つの手かな?と思うのですが、どうなのでしょう? まあ識者は前述の通りそれは良くない、少なくともマインドフルネスの本質ではないと指摘しているわけですが… 何をマインドフルネスと言っていて その人達はストレスが低減したのかどうなのか 何を自我と読んでいるのか が、全然わからない話だな >>515 記事は、 >本来のゴールである「無私(selflessness)」の心 ってとこですでに間違ってる感じはするね 効果を求めるという今ではない描いた未来像を目指す点でもマインドフルネスとは遠いし なんかなあ、欧米流マインドフルネスを欧米流理解が批判してる感じ 分析やラベリングの実況中継をしていったら、執着でべったり塗りつぶしていくから 一時的にはかなり執着強い状態になることはあり得るね で、それがマックスになった時にも分析やラベリングがマインドフルネスだと思っていたら 必ず挫折する マインドフルネスなんか錯覚だった、魔境だった ということになる これは繰り返し言ってきたことで それはまだなんちゃってマインドフルネスなんだ 本当の観察は言葉を交えちゃいけない 言葉を交えた瞬間にそれはトリガーになって執着が生まれる 十六観智とは弱い執着に置き換えるという作業に他ならないと思うけどね だから、最後に見るものも捨てて涅槃になる そこには慈悲と智慧が生じてくる なら最初から置き換えずに全て捨てるような考え方で観察すればいい 仏陀はちゃんとその事を説いてる>>307 だから、 『マインドフルネス』とは、『仏教』(の修行法)である。 という定義でいいのかどうか? >>518 518のような謂い方で行くなら、(そこまで言ってしまうなら)、 マインドフルネスを学ぶ・実践するということは、 イコール仏道を―たとえ在家版の次元であったとしても―学ぶ、ということになるし、 仏教で言われる教義的なもの、或いは世界観を受容し、理解し、納得し、 それを軸に、自身の日々を構築していくことに他ならない。 とするならば、仏教以外の思想宗教の者がマインドフルネスを修するということは、成立しないのではないか? 仏教のくくりでのマインドフルネスについて主張したいならマインドフルネスじゃなくてヴィパッサナーとかサティとかの単語使えばいいのにね 山下さんが本当のマインドフルネスとか意味合いがめんどうくさい言い方してるからその受け売りなんだろうけど 自分は仏教として始めたわけではないから 経典やそれによって思い描いた分別世界には全く執着はないが マインドフルネスは仏教の四諦だと思う 枝葉末節な議論なんかどうでもいい ダイレクトな体験として四諦を知ってるから これこれの厳密な定義はこれで、道とは厳密にはこれで なんて話はどーでもいい ともかく、苦集滅があるからマインドフルネスになる 仏教関係なくてもそうなるし、それがマインドフルネスだよ 苦の滅があって初めてマインドフルネスになる そう思ってないと、エゴを強めただけでそのうち挫折する 何か世俗的な甘い願望からスーパー超人になりたいモチベから マインドフルネスやっても挫折するってこと その意味で、マインドフルネスが仏教だというのはその通りではある もっとシンプルに 物事の歪んだ認識によって歪んだ世界観が生まれる 歪んだ世界観がさらに認識を歪めるという負のループ ジャッジしないことで歪んだ世界観に燃料を与えるのを止める だんだんそうやって歪みを取りましょう それでいいのでは? 仏教用語使うと仏教の自己解釈的世界観にはまりがちになりそう まあ、そもそも、ヨーロッパで仏典研究が始まった当初から、 「念(sati)」の訳語の一つではあったようだけど。 >>マインドフルネス https://dsalsrv04.uchicago.edu/cgi-bin/app/pali_query.py?qs=Sati& ;searchhws=yes 1) Sati (p. 672) Sati Sati (f.) [Vedic smRti: see etym. under sarati2] memory, recognition, consciousness, intentness of mind, wakefulness of mind, mindfulness, alertness, lucidity of mind, self -- possession, conscience, self -- consciousness けど、医療現場、末期医療、緩和医療、或いは患者家族親族遺族のケア、 或いは災害・事故・犯罪等による心的ダメージの緩和、等等の場面で、 日本人・東洋人に限らず、仏教のぶの字も知らない人や、 キ教徒やムスリムや、或いは仏教嫌いな人にも援用できるものとして 確立されてきた歴史ってのもあるんじゃないの? (つか、原義より現状の定義「ストレス低減法」として。) >>522 https://www.jstage.jst.go.jp/result/global/-char/ja?globalSearchKey=%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B9 また、こんな論文もあるけど。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/28/2/28_28.2.13/_article/-char/ja sushiのスレでアボカド巻きは寿司じゃないみないなこと毎回言われてもって感じでしょ sushiと寿司は元は同じでも表記が変われば当然違う部分があるんだからさ 勿論、 ダイエットや美容健康関連同様、商業ベースに乗せてしまってはいけないだろうけど。 (けど、マインドフルネスで関連グッズとか、売れるだろうなぁ・・・w) マインドフルネスも仏教も全て苦の滅にかかってくる それは瞑想の現実と信仰がギリギリすれ違うところだ 確かにマインドフルネスは信仰ではない しかし、挫折せずにマインドフルネスを得るためには 上に書いたように絶望を見る、乗り越えるべき魔境が現れるから そこを越えるまでは信仰を用いるのも有効だと思う 元々信仰があるならばそれを信じてればいいんだ イスラム教でもジャイナ教でも、伝統仏教でもなんでもさ 自分は信仰者ではないから、ギリギリ信仰ではないものとして慈悲の瞑想を用いた 仏教というよりも、人間のしくみとして、狭い自分をぶち破る非常に有効な手段だ 狭い自分には慈悲は願えないからね 一神教では神を信じるということ自体が得難いことだとされるが マインドフルネスになったら別に普通に信じられる 仏教やマインドフルネスほど純粋ではない形で同じことを指し示してるのだとわかる >>523 それだとわかりやすいようでいて実態を捉えない ラベリング実況中継をマインドフルネスと読んてるならば エゴマックスに至るまで認知は歪み続けるよ それが越えるべき魔境 挫折するならば、マインドフルネスは魔境と思うだろうし 自分から遠ざけるようになるだろう >>524 ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンがいい出したこと >>517 無私(selflessness)は本来は無我なんでしょうけど(私のアートマンの英訳はmyselfだと思いました)、 アートマンという観念のない欧米からの和訳だと無私になるのかな、と。 もっとも、日本にもアートマンの観念はありませんが(近い意味で魂がありますが、魂には永遠不変という意味はなさそうですし)。 無我の境地をゴールとするとなると中国日本の禅宗あたりでは間違いではないように思えますし(禅にありがちな悟ろうと思うと悟りは遠ざかるとか面倒なのは省略して)、 釈迦仏教でも同じ意味で我執をなくして無我に気づく、五蘊で形成された自我を手放して無我となる?というのはやはりゴールと言ってもよろしいのではないかと思います。 でも欧米式のマインドフルネスだと達成感から帰って我執・自我を強化することになってしまうのが問題である、と。 あと、Wikipediaの方は曹洞宗の藤田一照氏のマインドフルネスへの警鐘が書いてありますが、禅宗の僧侶がテーラワーダのヴィパッサーナー瞑想に感ずる違和感に漏れなく やはり観の瞑想に特化した手法だと主客が分かれてどちらも強化されるために不二とか無我とかの境地になれないのを問題視しているように思えます。 ただし、これらは仏教的にもマインドフルネス療法的にもアウトなのでしょうが、 西洋哲学でいう自己疎外、心理学でいうアイデンティティの喪失、一般には自己嫌悪に陥っている人には、 瞑想による自己(自我との区別の問題はありますが)の確立、達成感による自信に基づく自己嫌悪の克服になることもあるのではないかな、と(^^; 要するにケースバイケース それ故に対機説法として もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。 (中論第一八章 アートマンの考察 六偈) なんてw >>530 自己レス でも欧米式のマインドフルネスだと達成感から帰って我執・自我を強化することになってしまうのが問題である、と。 ↓ でも欧米式のマインドフルネスだと達成感から反って我執・自我を強化することになってしまうのが問題である、と。 >>526 寿司握れてない人が寿司とは何かを言うから問題なのと このsushiは食い物としてどうなんだ?というなでしこsushiであることが問題なのと 両方だよ ただし、ここはマインドフルネススレなのだから後者のほうが正しいことになる なでしこsushiの客はそれで良しとしてるのだから 僕はうまいsushiのために、伝説の寿司職人が言わんとしていた 形に囚われないsushiの作り方を提案し続けてるが 人目を引く女の子職人ではないのと、皿も見栄えがしないことから 話が伝わってない感があるw >>518 バーヒヤの経は理想ではありますが、バーヒヤ以外にそのやり方で(説法だけで)苦を滅した阿羅漢になった比丘って知らないですし、ハードルが高いのかもしれませんね。 まあ阿羅漢とか大それたことではなくて、バーヒヤへの説法を覚えて念じて(気をつけて)おけば、程度はあれ苦の対象からいくらかでも離れることはできるような気もしますが。 (ちなみにこの経典は不二ではなく苦という対象(五蘊盛苦)からの厭離を説いている経だと私は理解しています) 認知の歪み、癖のようなものを直して、穏やかに暮らしたいだけなんだけど 戯言を記せば、 近年の飛躍的なマインドフルネスへの注目に関して、 日本仏教界(特に禅系統だけど)は、「それ見たことか!」と 鬼の首を取ったかのように、自分たちの手柄のように、「もともと仏教にありまして〜〜」 と手前味噌な論述が多いが、かっこ悪いなぁ・・と。 自分たちが見失ってただけじゃねーかな? と。 これまでもずっと、「現場」での援用は模索され続けていたろうし、 そこへ、具体的な方法論が、欧米経由で、アレンジメントされたものがもたらされた、 ということならば、仏教側のスタンスとしては、 あくまでも応用であって「行」にはならない、と、門前のチェックにとどめ、 (門外である以上)あれは違うこれは駄目、という横槍は控えるべきかもしれない・・・。 >>530 日本の伝統的な禅の観察拒否も主客ですよ だから、これだけ伝統があって悟る人が稀なんだ そして、禅のノーメソッドで悟るような人はやはりとても良いことを言ってる それは根本的には正しい真理に基づく宗派だからだろうね 禅はマインドフルネスのいい部分だけ取り入れるべきだと思う テーラワーダのちょっと歪んだ考え方は取り入れずにね ヨガや非二元については一切皆苦がないからリアリティがない バラモンの概念ゲームですね だから、仏陀の説いた人間イコール涅槃というところに辿り着かない けど、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教には一切皆苦はある 原罪とはドゥッカでしょう 越えるべき魔境として黙示録なんかも説かれてる あれは体験しないと全く意味不明な部分だと思うけど イエスはあなた自身ですなんて言ったりもするからね それは真理だよ >>533 阿羅漢である必要もないというのが僕の考え 苦が滅するならそれでいい そして、対象だけがあるように気づいているならば その気づいている主体は涅槃ですよ 煩悩が残ってても涅槃は涅槃 呼吸なら呼吸だけがあることに気づいている その観察が出来ていれば、いずれ一切皆苦は見るし滅するよ そうなるためには慈悲の瞑想も効果的だ 何か対象があると気づいた時に、それは私のものではないという考えから 対象を遠離するならば、それは主客だ マインドフルネスではないし滅しない 永遠に平行線を辿るだけで、それを禅だと思ってる人も多いが それじゃあ安楽の法門にはならないw 対象だけがあることに気づいていることが観察であって それは思量ではない いかに恐ろしげな醜いものが現れようとそれに恐ろしがったり嫌ったりすることがない というのが本当の遠離であって、ありのまま評価せず反応せずということ 一切は遠離されてるが主客はない それは涅槃からの観察ということで、一切の苦を滅するよ けれど、煩悩を滅して滅していって阿羅漢になるときの 苦の滅とは違うんだろうけど、別にそれでいいんじゃないの? マインドフルネスなんだから >>539 なら、横槍は控えて仏教系スレへ御移動願いますw m(_ _)m 或いは 「マインドフルネスを仏教的に再定義するスレ」 てなスレを建てるとか。 (´∀`)b >>528 ラベリング実況中継なんて一言も書いていないんだが あなたは先入観に囚われてるよ 慈悲の瞑想が効果的だとかいずれ一切皆苦とかいいだすのが仏教くさい 世界には苦なんて有りはしない 世界のすべてを苦と楽という判断で見るシステムが自己だというだけ ちゃんと考えれば当たり前 でも、誰もがラスボスと戦いたい訳じゃないし、ラスボスと戦うのが良いことでもない >>545 現実には輪廻転生と業報があるから、それがないことを前提として 考えて出した結論は、結局、進学や就職の準備をなにもしないまま 大人になってしまうのと同じで、生死のサイクルを超えた人生全体 としては、負け戦なのよ。 人間視点では証拠がみえないから信仰の問題とされてしまうけれ ども、みえないからといってないわけじゃないので。 >>542 逆、逆、僕はマインドフルネスから仏教を再定義する派だよ(^o^) >>544 「ならば」と、仮定の話をしたんだけど? >>545 それなしなら、マインドフルネス挫折すると申しております >>547 エゴの輪廻は確かにあるが、輪廻転生は確かめられない 続きはテーラワーダスレでどぞー 経典解釈議論みたいなことが全く実践的な話に繋がっていかないのなら ただの分別議論でしかないと思うが それでも、仏教は人間の仕組みを説いているのだから マインドフルネスと関係ないなんてことは全く無い 結局のところ、「ありのまま評価せず」ということが何なのか ぼやーっとしたまま訳わからずに魔境的なところに入っていって マインドフルネス失敗したさようなら、とか ゲダツ失敗!とか 苦しい気持ちが取れない(某預流果様)とか ということになる おらー、一切皆苦ドーンと来い!くらいの大船に乗った気持ちで マインドフルネスやんなよ そもそもが、あんたが涅槃なんやで? ほんとに 慈悲の瞑想とはマインドフルネスだよ ありのまま評価せずの観察者にしか慈悲は祈れないから そして、観察して滅する、抜苦が起きるというのも全くもって慈悲の働きだからね 他者への慈悲を祈るのも、第一には自分自身の中の他人への慈悲だよ そこに抜苦がある そこから、他者への慈善的なことも自然に起きてくる 作為的な慈善ではなくてね 信じる信じないの話でもない ただのメソッドとしてやればいい ただのメソッドに、仏教色をべっとりと塗りたくる ID:kircO7El (>>552 ) 今この瞬間の体験、ただそれだけのとこに、「その時点で」見えてないものや、「将来の」挫折や、仏教的な「評価」を持ち込んだらマインドフルネスじゃないでしょうが このスレ的には、カバットジンと熊野先生が標準テキストなの? 仏教に限らず古代インドではこの世は苦であるという思想が蔓延していてバラモン教やジャイナ教も苦しみ迷い輪廻する世界からの解脱を目指していたのは同じ ジャイナ教以外の六師外道もいかに苦から逃れるかで唯物論やら宿命論やら不可知論やら道徳否定論に逃避していたと言えるのかもしれない アショーカ王から大乗仏教の辺りになって人生肯定論になっていったという 標準テキストなんて無いのでは? あえて言うならマインドフルネスでは目の前の現実が標準 それが真っ白なキャンバスで、評価や未来予測や知識や何でも必要だと己が心に描いたものがあるなら、置くのは自由だね だが、それを他人に差し出して正しいキャンバスだと言ってはいけないと思ってる "mindfulness metta"とか"〜 self compassion"とかでググれば いくらでも出てくる 仏教ではないマインドフルネスとしての慈悲の瞑想というのは 普通に語られてること >>558 別に言ったって良いでしょう 何を選択するかはあなたの自由でここの書き込みに強制力はないのだから ここは宗教板なので、仏教の話が入ってくるのは悪いことではないだろ 教義的な解釈を巡ってるばかりで、実践の伴わない話を延々されるのが鬱陶しいが 程々なら別に構わないことになってる 好きも嫌いも中庸に収めることだろう ほとけのホの字すら忌み嫌うくらい宗教とかスピみたいなことが苦手なら 自己啓発板に行けばいい 乱立した人が立てたスレ残ってるんだし住人もいくらか居る どういうマインドフルネスが科学的に効果があるんだろう メタアナリシスとかわけわかめ(死語)だけど >>561 解脱や苦の滅を目指すのがマインドフルネス、 といったような言明を始めてしまっては、 すでに、 逸脱、「程」を超えている、 と言えるのではないかい?w まあ、上の方で 自分が、(一方的な)仏教的価値基準で横レスしてしまった反省もあるけど。 >>560 過剰でなければ、程々ならね 「マインドフルネスに関する」仏教の話ならいいんじゃない、その為の宗教板のスレだし でも実践関係ない仏教の哲学的な世界解釈について延々と議論するのは、どうか?スレ違いなのでは? >>559 ググれば他にも色々なものがマインドフルネスとして語られてるよ、神道や占い、引き寄せ系もあるし マインドフルネス療法ではヨガや呼吸法も取り入れられてる、慈悲の瞑想もしかり じゃそういうの全部マインドフルネスと等価なのかっていうと?… その為に >1 にこのスレの定義が書かれてる 皆が皆、本当の〇〇はマインドフルネスじゃないと出来ないよって〇〇はマインドフルネスとイコールなのだ、って論理を各々で駆使して、このスレに持ち込み始めたら、どうなっちゃうと思う? 極端な話をすると、オレ将棋やるけど実力伯仲のときはマインドフルじゃないと勝てないよ?じゃここで最近の振り飛車不利説に一石を投じて議論していいのかってこと >>1 >マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。 >そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。 ここはマインドフルネス瞑想にまつわる宗教的な話をするスレですね 宗教的要素があると、こんないい面があるという感じで語れないものか >>568 「マインドフルネス瞑想にまつわる」というところが重要なポイントね >>564 目指すのではなく、苦の滅は起きる (ゲダツなんぞ知らん) そして、その苦の滅を観察仕切る前に挫折しないためには 一切皆苦があることは知っておいたほうがいいと言ってます >>566 実践に関係あることしかレスしてないので、君がどう解釈しようが そのうち「これのことか」となる まあ、安心してそれを乗り越えてほしいんだよこちらは >>567 慈悲の瞑想と観察はほぼ等価だよ やればわかること 経典貼ってる人がマインドフルネスで野狐の危険の事を言っていたが (だからマインドフルネスの奴らは経典を読みやがれと言うわけ) 認識している世界の全てにコンパッション、慈悲を向けられる心すなわち観察者が 自分にあることを発見した人は、決して野狐にはならないw 経典の彼がマインドフルネス知らないのかもしれないが、 マインドフルネスのつもりでマインドフルネスになってない人が 野狐になるということは十分にある 慈悲の瞑想が観察と同じだとわからないなら、十分野狐になれる資格はある 恐れる必要はないが、心に留めておくべきこと マインドフルネスはどこまで行っても自己観察なのだから そこに苦を見出すのは当然のことだよ かく言う自分も「この世に苦などあるものか」と思っていたからねw 二十年くらい前の子供の頃は そういう人ほど、嫌というほど見たくないような自分の姿を見るよ だから、マインドフルネスを得る 『雑阿含経』 (No.801) 宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳 このように私は聞いた。ある時、仏陀は[コーサラ国の首都である]舎衛国(サーヴァッティー)は祇園精舎に住しておられた。 その時、世尊は告げられた。 「比丘たちよ、五法がある。 多くの利益をもたらす安那般那念(アーナーパーナサティ)を修習すべきである。 何をもって五とするであろうか。 浄戒・波羅提木叉律儀(250戒)に則り、威儀・行処具足して、微細なる罪にも畏れを生じ、学戒を受持することが第一である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。 また次に比丘たちよ、少欲・小事・少務であること、これが第二である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。 また次に比丘たちよ、飲食について量を知り、多すぎず少なすぎずの適量を摂ること。飲食するに際して欲望を起こさず、精勤して修禅する。これが第三である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。 また次に比丘たちよ、初夜・後夜にも睡眠を貪らず、精勤して瞑想すべきである。これが第四である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。 また次に比丘たちよ、静かな林の中にあって、諸々の喧噪を離れること。これが第五である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである」と。 仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。 現代語訳:沙門覺應 http://www.horakuji.com/dhyana/texts/zou-agon_kyou/1.htm ここでは安那般那念という瞑想法を修習するにあたり、五つの事柄について整えることが説かれています。 まあ現代人特に在家にはこの五法を整えるだけもハードルが高いですが…。 >>577 の続き 安那般那念は後の部派仏教の時代に数息観としてメソッドが生まれました。 詳しくは↓ http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/anapana_sati.htm 安那般那念は呼吸法ではないとのことですが、自分の経験からは呼吸はヨガのように細く長くして瞑想した方が気持ちが良いですし、 身体が消えて鼻から胸までの一本の呼吸器官だけがあるような感じがすると同時に精神集中しやすいですし、気持ちが良いせいか組んだ足も疲れません。 でも伝統では呼吸法ではないようです。 なお、上記サイトが長いと思われる方はページ途中の ◼︎息を数える ―両悪・二瑕穢を離れる からご覧頂けば、ここから先に安那般那念の奥義?が書いてあるように思われます。 >>576 慈悲の瞑想はチベット版のトンレンの方がよりイメージを伴う観想法となっているために観の瞑想ということが分かりやすいかもしれませんね。 密教瞑想のご紹介|「トンレン瞑想」 https://masa-yoga.com/learn/938/ まあ手法はともかく趣旨はテーラワーダ版でも、またお経を読んだ後の回向でも同じだとも思いますが。 テーラワーダ版のは滑舌が悪くてあまりしませんが、それでも仏壇に手を合わせるときは最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と必ず唱えるようにしています。 >>573 貴方が遭遇して解釈した結果を教わるのは私にとってはまったくの有り難迷惑なんだがw すべての解釈や理解は残りカスなのでね まあ有り難がる人はいるかもしらんが >>574 ほらやって無いと思ってるでしょ 相手の像を描かないこと それはいいとして、慈悲の瞑想とマインドフルネスは等価じゃないです 慈悲の瞑想はマインドフルじゃないと出来ないが マインドフルネスは >1 によれば慈悲関係なくできる それは本当のマインドフルネスじゃないと言いたいのなら、それはマインドフルネスの定義の問題 貴方が描いたマインドフルネスと他の人のマインドフルネスが合致しないだけだよ >>577-578 アラカン目指す人なら別として マインドフルネスなら「呼吸だけがあるように」すれば十分だ 慈悲の瞑想が観察と同じだとわかるならなおさらいい それ以上の知識は邪魔だと思う >>580 悪いようだけど 観察と慈悲が同じだとわからないなら、まだ観察も慈悲も出来てない まあやってればそのうちわかる わからないうちに立場を決めないほうが良い >>581 う〜んw 私の方から見るとね、貴方は目の前の事実ではなく、事実の解釈や理解、認識ってものの方を見てるように見えるわけ 「それ」ではなく「それを知る」の方ね まあこれは言っても分からないと思うから、お互い別の道をいきましょw 悪いようだけど道元が心身脱落して師匠に話したときそれじゃダメだ脱落心身だと言われた意味がわからないとまだ観察が何なのかわかってない 心と体が落ちたらそれが観察かというとそれはまだただの入り口なんだよね >>548 >マインドフルネスから仏教を再定義 だったら、尚更、「ここ」ではなく「仏教系スレ」でやれよw テーラワーダ仏教やヴィパッサナーとその周辺 [無断転載禁止](c)2ch.net http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1475096945/ ■ 坐禅・瞑想・ 悟り・覚醒 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1407832151/ 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/ 君が語りたいのは「仏教」であって、マインドフルネスはそのためのツールでしかない。 そして、そのツールが仏教流になっていないのが気にくわないのかい? そんなの君個人の好き嫌いでしかなかろうに・・。 観察できてないのは貴方の方じゃないかね? >>584 それはそうだね 自分の経験したのはその通りだし、テーラワーダでもその様に説かれてるようだ それは明らかに体の感覚ではないと言えることから観察なのだと言える これまでも四禅からが観察だと考えていた しかし今の僕は、呼吸だけがあるように気づいているなら観察になって(きて)いる、と 僕はそこに段階という分別を付けずに肯定する事にした つまり、最初から観察者は涅槃であるという立場を取る 甘やかしてハードル低くしてるのではなく、それが実際だと思うから >>586 違う、僕が語りたいのはマインドフルネスだけ 仏教がツール その様に書いている >>585 世の中に「同じ」であるものなど無いのですわ 何かと何かが同じだと言ったとき、それは認識です 貴方と私は見てる向きが違うんだから話が合うわけないです >>578 自己レス >安那般那念は呼吸法ではないとのことですが、自分の経験からは呼吸はヨガのように細く長くして瞑想した方が気持ちが良いですし、 >身体が消えて鼻から胸までの一本の呼吸器官だけがあるような感じがすると同時に精神集中しやすいですし、気持ちが良いせいか組んだ足も疲れません。 >でも伝統では呼吸法ではないようです。 と書いた私ですが、私が貼ったリンク先の真言宗法楽寺の安那般那念(数息観)を見直して見ると 「初め呼吸をのみ対象としてこれに集中し、心を鎮め、そしてさらに呼吸の状態をただ淡々と見つめる。 その結果として、心に妄念無く、喜楽が生じる。 これに伴って、呼吸は長く深く、そして細く、やがて極限まで少なく「なっていく」。 しかし、それもやはり淡々と見て、それら感覚にとらわれずに心の状態を見続け、ついには無常・無我・苦を現観して涅槃に到達するのが安般念です。」 とあり、涅槃に到達するはないですが、自分の数息観もこちらかなと思いました。 最初から息を細く長くしようと思っても出来ないものなんですよね、苦しくなって。 坐禅している内に段々と『勝手に』呼吸は長く深く少なくなっている、というのが自分においても現状だなと思います。 私でさえそうなのだから、同じような経験をしている方は多いのでないかな……と勝手に思ってしまいますがw そして最後まで読むと、何よりも必要なのは地道に続けること、諦めないこと、とありますが、 正精進が八正道の一つになっている理由が読んでるだけで分かったようなw さて、こちらも不退転の覚悟で数行き数息観をしますかね、一日20分で。 「悟りを得たはずの僧侶」は、なぜ凶悪なテロ事件を起こしたのか? https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200209-00605281-shincho-soci また、悟り体験によって獲得される叡智は、そもそも道徳性と結びついておらず、テロリズムを否定するに至らなかったせいと考えることもできる。 じつは、著書において紹介した悟り体験者の中にも、戦時中に好戦的な発言をした人が複数おり、そのことは叡智と道徳性との間に本質的な結びつきがないことを示唆するように思われる。 叡智だけでは道徳性を欠くし、道徳性だけでは叡智を欠く。 それゆえに、大乗仏教においては、伝統的に、精進(しょうじん・努力)、静慮(じょうりょ・瞑想)、般若(はんにゃ・叡智)のみならず、 施(せ・施与)、戒(かい・道徳性)、忍辱(にんにく・忍耐)をも完成する、六波羅蜜多(ろくはらみた・六つの完成)を修習することが勧められてきたのであろう。 いくら悟り体験を得たとしても、それだけでは仏教者として完成したとは言えないのである。 この僧侶は梵我一如系列の悟りを得たのだろう。イスラムテロリストと構造は同じだよ。 御都合主義的に慈悲という言葉を使ってるだけだから仕方がない しかもそれを優れたことだと思ってる >>591 読んでみたけど悟りじゃなくて只の幻覚やんか… >>592 イスラム教などのアブラハムの宗教は創造主と被造物たる人間の契約による啓示宗教であり梵我一如とは関係ない スーフィズムなど神人合一を教理とする教団もあるが彼らはテロはしないしな >>598 ひろさちやが言わはるには滅私のイスラム教と私は有るのヒンドゥー教は真逆で 梵我一如はユダヤ教系では許されないでしょうね とのこと https://i.imgur.com/DbvsTu5.jpg >>589 ほぼ、と言ってるのだからただの言葉尻を取った揚げ足取りだね いわゆる「自我」どの関係で、受動的か、能動的にその領域に働きかけるか の違いは当然ある しかし、観察と慈悲が同じ働きをしていることは全く間違いがない >>601 わかってない 「同じ」だろうが「ほぼ同じ」だろうが変わらない 何かと何かを並べて比較できるそれが認識だと言ってるんだけど 比較ってのは心に描かないと出来ないんだよ >>600 意識と本質、難しいって聞いてたけど、 難しいのは知識と思考だけで解釈しようとしてるからだろうな、と思った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる