マインドフルネス Part.25
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネス Part.24
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1570453260/ >>591
ダライラマ法王
質疑応答のなかで、「宗教が問題を引き起こす可能性を持つ場合、信心深くあることが本当に大切なのでしょうか?」という質問が挙がると、
法王は、「先日ローマ法王が、愚かなキリスト教徒であるよりも、よい人間であることのほうが大切である、と述べられましたが、私も同意見です。
愚かな仏教徒であるよりも、よい人間であることが大切です」と述べられた。
http://www.dalailamajapanese.com/news/2017/20170405/amp
ローマ法王、ダライラマ法王の言う通り叡知よりもまず道徳の方が大切と私も思います。
仏典でもブッダは道徳には厳しかったですし、そのサイトの問題人物、血盟団事件を起こした井上日召が信奉する日蓮が釈迦の正法であるとした法華経でも
外教のものを殺しても良いなどとは全く説いてはいません。
ただ、日蓮は建長寺(律宗)の蘭渓道隆や極楽寺(念仏宗)の良観房の首をはねよ、など過激なことを言ってましたが、それには大儀面分が一応ありましたっけ。
日召は悟りを得たという選ばれし者の特権感と歪んだ大義名分から血盟団事件を起こしてしまったということでしょうかね?人を殺して
記事ではその後歎異抄を読んで反省して今度こそ悟ったように書いてありますが、
井上日召について調べるとその後は右翼としてかなり目立つ活動をしていたようで、その悟りは本当だったのかと穿ってしまいました。
血盟団も戦前の右翼でしたからね。 神秘主義とか、スーフィズムとか、呼称は色々あるけど
要するにサマディ体験でしょう? >>606
あれだけ、厳格に神の言葉を守ると言っているイスラム教がなぜ、スーフィーみたいな部派
を許してると思う?まあ、中には我は神なりと公言して処刑されたスーフィーが居たらしいけど、
むしろ、スーフィズムというのは大衆化されたイスラム教なんだよ。
もともとにある神の観照体験みたいなのは梵我一如と同じかそれの亜種だと思うよ。
井筒俊彦はwikiに依ると”イスラム教が最も深いところで理解している「アッラー」というのは仏教が
言う「真如」と同じだと発言したと述べている” みたいよ。 ものすごい勢いで周りながら神の名を唱える修行「ズィクル」を行うイスラム神秘主義・スーフィーの修行僧たち
https://dailynewsagency.com/2013/03/31/sufi-dhikr-dancing-ihh/
一遍の時代の踊り念仏による歓喜踊躍はサマディの一歩手前の境地まで達することができるらしい
それとこのスーフィーの修行は似ている >>608
でもスーフィズムはテロ組織とは正反対なんじゃね?
◆同じイスラム教なのにISはなぜイスラム教礼拝所を攻撃したのか。
律法に忠実な原理主義は、神との合一を追求する神秘主義とは相克する。
伝統的なイスラム教では、スーフィズムを「墓崇拝者」すなわち異端と見る。
スーフィズムは聖者の墓を訪れて祈る聖者崇拝の伝統を持っているが、ISはこれを偶像崇拝または多神教と解釈する。
スーフィズムはイエスも聖者の一人と見て崇める。このようなスーフィズムの伝統を原理主義では容認できなかったのだ。
http://www.donga.com/jp/article/all/20171127/1139078/1/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0 >>610
テロ組織に入ってる人たちも何らかの神秘体験してるでしょ。そうじゃなけりゃ、
来世神の天国に入って美女にかしずかれてなんて、常識じゃ考えられんでしょ。
神秘体験しても、その後の方法論が違ってくるんじゃないの?一方では隠棲するスーフィー
みたいな人たちになる場合もあるし、コーランのアッラーを信じたら真如体験したからコーラン
は絶対で残りは邪教徒みたいな人たちも出てくるわけじゃない? 行為が似ていても、その原理も同じであるとは限らない。 >>602>>603
と、頭で考えてるだけでしょう
マインドフルネス続けていればそのうちわかるよ 観察と慈悲は行為としては違うが、原理内容は同じ
わからないならわかりませんと言えばいい
単なる事実だから、わかるわからないではないし >>613
いやいや
自分が比較を行う時のことをよーくよーく観てみなよ
その二つを同時に見てるかね?
少なくとも片方はアタマの中の筈だよ
下手すると両方とも
そして比較をするためには、事実の方も認識でアタマの中に持ってこないといけない
それが「同じ」ではなく「『ほぼ』同じ」でなのであれば尚更だ
繰り返すけど、自分が比較を行う時のことをよーく観てみな
> と、頭で考えてるだけでしょう
私が例え頭で考えているだけだとしても、それは貴方が認識を事実と誤認していないという保証では無いんだからね
自分が比較を行う時に何をしているかよく観てみることだよ >>611
>テロ組織に入ってる人たちも何らかの神秘体験してるでしょ。そうじゃなけりゃ、
>来世神の天国に入って美女にかしずかれてなんて、常識じゃ考えられんでしょ。
それは一個人しかもイスラム教徒ではない人の想像
証拠があるというなら別だけど 別にわからないから悪いなんてことはないし、言ってるつもりもない
ただ、わからないことをわかった気で「違う!(はずだw)」
と言い張るのは良くないだろうな
仏教だのマインドフルネスだのという以前に
そもそもが、何が同じと言ってるかわかってないんじゃないかな?
観察も慈悲も出来ていたなら自ずと見ることだ
ちなみに、これは仏教の知識がない自分が見たことだし
慈悲の瞑想ということが仏教で教えられてることだということすら知らなかったからね
マインドフルネスも知らなかった、がやっていた
仏教の言葉から説明することも出来るというだけ
>>615
いや、単なる事実 同じなのだから比較もしていないわけだけどね
言葉で言うならこれとこれは別々のものではなく同じだ、ということになる
慈悲の瞑想はマインドフルネスそのものだよ 慈悲の瞑想はマインドフルネスじゃないんだぞ!という人が居たから
別々ではなく同じものだと言ってる
そうしたら2つのものを比較するならそれは同じとは言えないんだぞ!
と言う人が出てくる
まるで小学生の喧嘩みたいだw >>600
最近テレビで知ったけど
すごい人がいたもんだなあって思った
天才にしてサマタ瞑想を極めてるとか >>619
> 同じなのだから比較もしていないわけだけどね
> 言葉で言うならこれとこれは別々のものではなく同じだ、ということになる
> 慈悲の瞑想はマインドフルネスそのものだよ
いやいや
「同じ」ならまだしも「『ほぼ』同じ」だったら普通に比較してるじゃないかw
>>620
> そうしたら2つのものを比較するならそれは同じとは言えないんだぞ!
> と言う人が出てくる
二つのものを比較するならそのプロセスは心に描くものであり認識だと言っている
認識であれば、それは事実ではない
ナマの事実ではないものには私は用が無い、認識や判断や理解は事実をサマライズした後のゴミだから
他人のゴミだからいらないんじゃないよ、自分の認識や判断や理解だってゴミだからね
貴方と私は観ている向きが決定的に違うんだから
私の言ってること理解出来ないでしょ
「本当にそれを観たのだからそれは事実だ」と思ってるんでしょ
ただね、貴方は自分が「同じだ!」と思ったとき自分が何をしているかよくよく観た方がいい
心に何か描くならそれは認識
よく観ても、描いた内容を描いたことに気付かず現実だと思っているなら…それはもう無理だなあ… まるで新興宗教。
というか、
「技術」(のみ)としての「マインドフルネス(療法・調整)」は確かに存在していて、
それに対する警鐘(たとえば、今出ているような思いやり、利他の方向性を欠いていては
負の面・副作用が増大するのではないかといった危惧)も発信されてはいる。
そういう意味での、〇〇な要素も必要だ、
という話ならわかる。
が、医療や競技の現場、メンタルサポートといった場面での運用こそが目指されている中、
慈悲が必須、仏教的には、とか言い出したら援用し難いと思うけど。 常にネット上でケンカしてないと気が済まないアスペさん 観察することで、苦の中にあっても心の底には不苦もまたある
心が掻き乱されても、心の底には不動の心がある
怒りに囚われていても、心の底には慈悲がある
それに気付いて、気付きを保ち苦しみと同一化しないのがマインドフルネスじゃないのか
仏教に囚われる必要はないと思うが >>625
そういうアプローチは聞こえはいいが
無理があるわ
不動の心なんて見つけられない
見つけられるのは次々に移り変わっていく変化
そしてそれを瞬間的な時間差を利用して遅れて認識するという行為
すんごく短い時間のスウィッチだからずーっとあるように感じるのはまあわかるけど 無常の反対の常住の我のことを梵語でアートマンといいます >>625>>627-628
だから、正念相続と言われる。
(仏教抜きにしたマインドフルネスにも有効かどうかは知らんけどw) >>625
自分の言ってるのはだいたいそんなところです
その心、つまり「ありのまま評価せず」のマインドフルネス観察者は
決して怒りに囚われることはないです
その観察は誰もが断続的、無自覚には得られてます
つまり誰もが不随意に不苦の観察者として慈悲を働かせています
だから悟らずとも気が狂わずに生きていけるわけです
何故なら、人間は元々その観察者だからです
つまり涅槃です >>631
慈悲の根元には「安心」があると思う
安心という土台があってこそ、慈悲が生まれる余地が発生する
気付きは安心を探し、繋ぎ留める行為だと思う よく煩悩を滅するなどと言うけれど
それは人間が煩悩で出来てるという考え方から言ってる事ですよ
本当は話が全く逆なんです
涅槃が人間であって、自分の世界とその世界に住む自分の神なんですよ
他人様もまた涅槃です
自分という存在は他人様の神ではない
鈴木大拙さんはこう言っていたそうです
「禅とは神が”光あれ”と言う前の地平に立つことだ」と
自分の世界の神は自分です
だから、イエスとはあなた方一人ひとりの似姿なのです
殆どの場合それは転倒して解釈されてますが
キリスト教もまた本来はマインドフルネスです
神が世界を作り、アダムとイブが果実を食べた時に罪の世界が出来た
罪は、つまり苦の世界は自分が作ってる
ユダヤ教もマインドフルネスです
自分の世界の神は自分です
だからありのまま評価せず観察できるんです
それをやるのがマインドフルネスですよ
苦の滅を見た時からそれが出来るようになってきます
その具体的な真理をダイレクトに説いたのは仏陀だけなんでしょうな
多分 .>>611
イスラム国の信者の半数以上はコーランを読んだ事がない、理解できなかった、信教以外の理由で入会したって記事ありましたよね
https://www.asahi.com/articles/ASLB54QB1LB5UHBI026.html
確か過激派のリーダーも大多数がコーランを通読した事なかったはず、探せばそういう記事もあるはずです。
まあ、仮に数回通読した事があっても理解はできない気がしますけど。経典って人生を通じて何回も読んでやっと本当の意味がわかるもんじゃないかと。 特集論文:日本における“マインドフルネス”の展望 人間福祉学研究第7巻第1号2014. 12
「日本のマインドフルネス」へ向かって 藤田一照 曹洞宗国際センター所長
> アメリカにおけるマインドフルネス・ムーヴメントの影響を受けてようやく日本でもマインドフルネスの
>理論や実践に対する関心が高まってきた.アメリカのマインドフルネスはもともとは仏教のコンセプトである
>サティ(パーリ語)に由来するものだが,「現在の瞬間に対する,判断を入れない注意のスキル」として
>あまりにも仏教の文脈から切り離され,世俗化・メソッド化されてしまったために,
>サティが本来持っていた広がりと深さが失われているように思われる.
>たとえばそれは「思い出す」という重要な働きや,戒や他の修行法との密接な関連性であり,
>主客二元を超えた無我行への深まりの方向性である.日本が今後マインドフルネス・ムーヴメントに貢献できるとすれば,
>あらためてマインドフルネスを仏教の中にもどしてとらえなおし,より広がりと深さを備えた
>新しいマインドフルネスとして更新していくことではないだろうか.
https://www.kwansei.ac.jp/cms/kwansei_s_hws/pdf/0000065611.pdf
百歩譲れば、マインドフルネス教の彼のスタンスは、これの相似形と見れなくもないか・・。
いや、やっぱ大違いだw
どうしても「イコール仏教」にしたいらしいw >>633 いつもの山下さんの受け売り
前は前で違うこと言ってたしねえ
そのときそのときの自分の立ち位置を主張せずにいられない人 >>632
そういう言い方も出来るとは思いますが、、、
あなたは絶対的な安心の主なんです
如何なる苦も滅する慈悲の主なんです
それを見つけるのがマインドフルネスってとも言えます
いずれ苦の滅を見て、しばらく体験の整理をしていったなら
きっとわかります >>635
ということにしたい心が強いんでしょうね、あなたは
便利だから仏教の言葉を使ってるだけです
>>636
僕の意見は山下さんの言ってることをかなり踏み越えてると思うけどね
何故なら自分が見たことだから
君がどの様に解釈したかということは全く別の話だね >>638
要するに君は、苦を滅して神のように慈悲に溢れているんだね アスペさんて本当に年がら年中5ちゃんで連投しまくっとるね ところで
マインドフルネスというが、一体何を以て「ありのまま」と言えるのかな?
客観的事実をそのまま認めるなんてことで
マインドフルネスが深まるなんてことは無いよ
それがマインドフルネスだと思ってる人も多そうだけど
それ、評価だし「ありのまま」と関係ないですよ >>639
言葉だけつなげて全く意味の違うことにしてるよね まあともかく、
慈悲が観察と違うと思う人はマインドフルネスには未だなってないのは明らかなことで
議論すれば解るというようなことではないし
頭の良し悪しとも関係がないだろう
俺には宗教的な話は自分には関係ないから、科学的知見を信じ込んでいれば十分なんだよ
という人は、挫折して魔境入りするか
何も起きなくてくだらなくて止めるだろう
というか、そういう人がなんでこの板に来るのか謎だけど
マインドフルネスで見出すことは鈴木大拙が言う通りで
教義抜きで宗教の根源にまで至ることだ 涅槃がどうとか慈悲がどうとかいうのはそれはそれとしていいとして
自分が生まれる前に涅槃がどうとか慈悲がどうとか言う者がいたのかね
同じでもなく違うでもなく本来の面目はただ本来の面目 しかし、マインドフルネスになってないからその人は駄目だとも思ってない
その理由を書いたわけだけど、それがカルト宗教みたいに見えるらしいw
マインドフルであるということは、自分の世界の一切に慈しみを向けるということに他ならない
(それが一体どんなことなのかはまだまだ科学のメスの入りようのないところだろう)
その限りにおいてサティ=マインドフルネスが起きるのだから
また、苦を滅しながらでなければ生きていけないのだから
マインドフルである必要は自分自身の残ってる煩悩にこそある
なので、カルト的な反社会行動に出ることはありえないよ
慈悲の瞑想がマインドフルネス、観察と同じことであると見て取れる実践者は
野狐にはならない、魔境も超えられる >>647
貴方(に限らずこのスレのみんな)がパソコンからこのスレに来られていれば、自分にとって不愉快なレスを見た時には
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。
(聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。)
考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。
識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
それ故に、私はそこ(見聞考識)にいない、なぜなら、私はまさにそこにいないのだから。
という風に観ればそれも気にならなくなると思います。
スマホの方はそれよりもNG登録すれば一発ですが、それ(NG登録)をせずに上記のメソッドを敢えてするとよい修行になるかもしれませんね。 さて、寝る前の数息感20分再開3日目が終わりました。
今回は呼吸する鼻に念を入れて自然呼吸で1〜10まで数えて、数えている最中に鼻から念が逸れれば1に戻るを厳密にやったら20分で一度たりとも10まで行きませんでしたw
でもお陰で鼻に念を込め続けるという単純なことをすることの難しいさ、また人の(私の)心の移ろいやすさというのをマジマジと知ることができました。
呼吸をコントロールしてなるべく細く長く息をするように心掛けていた時は数息観は止なのかなとも思っていましたが、
今回のやり方で心の観察がとても出来るということに今更ながら気づき、今の認識としては数息観は止観を兼ね備えたよい修行法であるな、と思います。
そして、今回は以前ほど気持ちの良さも感じないし、数を数えるだけではなく念を入れるという点で神経が張り詰めてるような感じなのですが、
瞑想中に初めて気づいたらヨダレを流していましたw
これが良いことなのかどうなのかは、これから数息観を継続し続ければわかるでしょうかね!? 井筒俊彦は、河合隼雄に「何カ国語を話せるんですか」ときかれ、「え〜もうどのくらいなのか・・・」と
笑ったとか
すごい人だね マインドフルネスが深まるとか、何も起きないのはくだらないとか思ってるのか
今なんか見ちゃいない判断の方を見っぱなし
こりゃ迷いの道をまっしぐらですな… 野狐禅さんが幸せでありますようにと観察しても
野狐禅さんは幸せになれない >>641
> マインドフルネスというが、一体何を以て「ありのまま」と言えるのかな?
「ありのまま判断せず」ね
目の前の事実は事実として、それに対する自己の判断の方を取り扱わないということですよ
何があっても、はいさよなら〜
仏に会って直接教えを受けた!
→はいさよなら〜
分かったぞ!慈悲はマインドフルネスと同じだ!
→はいさよなら〜
そうかただ客観的事実だけを観察して判断や評価は手放せばいいんだ!正しいやり方が分かったぞ!
→はいさよなら〜w
仏に会っちゃったりするのは幻覚でしょって分かるから、さよなら難しくないけど
自分が観て確信したことに、さよならするのは難しい
大抵ここで事実ではなく事実が指し示した内容の方を掴んじゃうんです
内容は事実じゃないからね 自分も二十年くらい昔、数息観やってました
二〜三分程度の短い練習を一日に何回かです
一ヶ月かかったか二ヶ月かかったかは定かではありませんが
雑念がストンと落ちるようになりましたよ
そうなれば三十分でも一時間でも出来ますが
数息観をやり続けるというのは何かが違うと感じましたから
大分経って、呼吸をみるだけにしてみました
仏教だと知らずにやってたことです
数息観もアナパナもうまくいかないときに五分十分とやっていくと、
却って色んな事考えちゃいますから
そうなる前に止めてました
>>656
はいさよならーというのは評価、主客であって、まだ観察ではないですね
仏なら仏を避けずに気づきを持って見続けることです
悪魔なら悪魔を避けずによく気づきを持って見続けることです
そうするなら仏にも悪魔にも囚われることはありません
ありのまま評価せずです
観察と慈悲が同じであることは判断ではないですよ
これは苦の滅を見なければ多分わからない コロナウイルスを殺すワクチンを作るためにコロナウイルスを観察してる研究員は慈悲の実践をしてるのかねぇ 見ていないことは知らないのであって、知らないことに見解をつくったら
瞑想進まなくなりますよ
今の段階で観察と慈悲がベツモノに見えてるから悪い、駄目だとは言ってないですからね
自分は観察=慈悲ということは瞑想が進むにつれてわかってきたこと
その発端は仏教もマインドフルネスも全くといっていいほど知らなかった
十五年以上も前に初めてニミッタを見たときのことですが
それぞれ全く別の関係ない事象だと考えていたけれどね
自分が見てきたことが仏教で説かれていたというのを知ったのは
このスレで、一昨年のことです
慈悲だの観察だのマインドフルネスというつもりでやってきたことではないですが
マインドフルネスは苦集滅がなければ起きません
一切皆苦を見切れるということが、ありのまま評価せずの観察ですよ 「ありのまま評価せず」ということがポイントになるのも
一切皆苦はそれでないと見られないから
見て解決するという観察の本質は慈悲です
思いや考え、行いとしての「慈悲の実践」とは関係ないんです
これは見た人は全くシンプルな真実だと思う
見てない人は言葉だけ見て思考、判断、評価だと思うでしょうけど
何故これを言ってるかと言えば、挫折しそうな人、これから挫折するかもしれない人の
ヒントになると思うからです
議論のためてはありません、悪しからず
今日は休みが取れたのですが
過剰な書き込み量で迷惑だと思われないよう気をつけることにします >>657
> はいさよならーというのは評価、主客であって、まだ観察ではないですね
事実を観て評価は取り扱わないという事ですよ
相手にしなければ勝手にさよなら〜になります
事実じゃない内容の方を掴んじゃ駄目 >>660
観察と慈悲は同じって言ってなかったか? イスラム神秘主義はイスラム原理主義者にとっては不倶戴天の敵 慈悲と言いながら「私が幸せでありますように」だけしかないエゴの人 そうだった、忘れてたw
夏に書いたのを思い出した
慈悲とは慈しみと抜苦だからね?
それを分けて二つのものとして言わないのは同じことを別の側面から見たことだからだ
もっと言えば慈悲喜捨が一つのこと
「ありのまま評価せず」の観察をしたら全的な抜苦が起きるのだから
慈悲の瞑想と同じことだといえば、言葉としてはわかるかな
観察が全的な抜苦をもたらすことと
その後に起きてくるサティということを経験しないと
つまり瞑想で苦集滅道を知らないと多分この話はピンとこない
また言葉を言葉としてしか捉えられないから分別が起きるのであって
言葉で説明する以上は違った事として取られることはある程度仕方がない
僕がどう感じてるかとかは気にしなくていいんだけど
わからないことをわからないとせずに、違うんだと見解を作ることで
瞑想は進まなくなるので気をつけてね
この話は夏に書いたことの全く繰り返しなんだけど
その後、秋くらいに山下さんも法話で言いだしたけど、お弟子さんとの話の中で
それを確認したというような話だった
それ以前言ってたかどうかは僕は知らない >>662
相手にしないということが主客だと言ってるんですけどね >>666
いいえ、土日も仕事でしたよ
一月二月はかなり忙しいです 名言キタコレ
マインドフルネスは気をつけないとマインドレスになってしまう 「ありのまま評価せず」とは捨、ウペッカ、エクアニミティのことですが
その「ありのまま」にもあまり囚われすぎなくていい
呼吸だけがあるように気づいているなら
アナパナの十六の対象も勝手に出てきて見るし
慈悲の瞑想も発見するし
光も見るし
喜悦、軽楽も見るし
捨になる
けれど、その呼吸の気づき方というのは言葉で説明しても余計な事を考えさせるだけ
だから、慈悲の瞑想で起きることと同じだよ、と言ってるわけ
同じことが起きたなら、別にエクアニミティかどうかなんて拘る必要なんかない
そのまんまでいずれ一切皆苦を見る
「ありのまま評価せず」の観察でね
ほんとに単純シンプルなこと
自分だけが可愛い、慈悲は僕だけのものなんだ、とか思っていたら
こんなほんとのことを事わざわざ教えないよ、しかも完全にただで ある国の軍が爆撃部隊の集中力を上げるためにマインドフルネスをトレーニングを取り入れたとする
観察と慈悲が同じなら
マインドフルネス(観察)の訓練を長時間積んだ戦士は慈悲の訓練を長時間積んだことになり相当慈悲深い人間になるとおもわれる
そんな戦士が爆弾を落として大量の生物を殺すなんてできるか?
観察と慈悲は別のもの アドバイスしたがりの嫌われ者の老害ってのはどこにでもいる どの世界でも一流の人程基本の大切さを説くけど本当に初心忘れるべからずなんだなあと。で、この基本、中級者以上になると出来てるつもりになりやすい訳で、それが怖い。車とかだと初心者マークを卒業した頃が一番危ないっていいますもんね。
だから何回も(できれば忘れそうな頃に)言って貰うのはありがたいですよね。
確かこのスレだったかな?ヨグマタさんの話題ちょっと出てましたよね?ブックオフとか行くと大抵この人の本置いてますよね。基本を重視されてる感じがしますよね。だからこそウケないんでしょうけど。
個人的には嫌い(マツコの知らない世界に出てた時自分の幼少期を本当に良い子だったみたいに言ってたんですけどそう言う人は大抵嫌い)なのですが、ヒマラヤ聖者としてパイロットババさんと並び称される存在なのですね。
パイロットババと言えば昔某尊師が訪ねていったけど弟子入りは断られたとか、まあ某尊師って行動力はありますよね。それに結構真面目に?ヨガとかスピリチュアル系調べていたみたいですし。魔境まっしぐらだったのが残念です。
知識もかなりのものだったようですしちゃんと修行していれば結構な宗教家になってたんじゃないかな?とか思ったりもします。 >>672
>自分だけが可愛い、慈悲は僕だけのものなんだ、とか思っていたら
>こんなほんとのことを事わざわざ教えないよ、しかも完全にただで
煽りますなあww >>668
掴むから主客になるんだよ
掴まなきゃただそれなだけ まあ、もう言っても無駄感はあるな…
ここまで自分の観た内容を固く掴んでるとどう仕様もないし >>680
よく読んでくれw
>そうかただ客観的事実だけを観察して判断や評価は手放せばいいんだ!正しいやり方が分かったぞ!
>→はいさよなら〜w
「客観的事実だけ(中略)分かったぞ!」にははいさよなら〜だよw そうは読めないな
判断や評価は手放せば良いんだな、というのは
君がずっと言ってることなんだから >>684
> そうは読めないな
> 判断や評価は手放せば良いんだな、というのは
> 君がずっと言ってることなんだから
ほら分からないでしょ
手放せば良いなんて言ってないよ、それは評価だ
ただ評価しないだけ、評価が起きてしまったらその事も含めてね 上の方で、≪「努力」の定義の問題≫があったけれど、
同じように、≪「マインドフルネス」の定義に関したコンセンサス≫が要るんじゃねーの?
≪「マインドフルネス」=「慈悲の瞑想」≫という等式が言えるかどうか? と。 >>685
言ってる事を変えててほらもクソもないだろう
サヨナラできずにそこまで強く掴んでることに気づかないのかな? >>686
今それをやってもマインドレスなコンセンサスへと落ち着くだけ 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのないもので有らねばならぬ。
(略)
あたかも、母が己が独り子をば、身命を賭しても守護するがごとく、そのごとく一切の生けるものに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
上に下にまた横に、障礙(しょうげ)なき怨恨なき敵意なき(慈しみを行なうべし)。
立ちつつも歩みつつも坐しつつも臥しつつも、睡眠をはなれたる限りは、この(慈しみの)心づかいを確立せしむべし。
この(仏教の)中にては、この状態を(慈しみの)崇高な境地(梵住)と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
(スッタニパータ)
ヴァーセッタよ、上下横すべての方位を、すべての所を一切の世界を広大な、大いなる、はかりしれない、怨みなく、悪意のない友愛の心で満たすのです。
友愛(慈)の心を修すると、
哀れみ(悲)の心で満たす、
喜びの(喜)心で満たす、
平静(捨)な心で満たす、
心が解脱し、輪廻の原因はそこに残っていない。
梵天との共存の道です。
(長部 三明経) >>687
え、評価を手放せって言ってる?
ちょっとレス番付きで教えてよ てか私が何か掴んでたとしても
貴方の掴んでるマインドフルネス=慈悲ってのが認識や評価じゃないって事にはならないんだが… ん?マインドフルネスは慈悲以外の何物でもないよ?
君が慈悲を何か他のことと勘違いしているのではないの? 何故なら、さっき書いたように観察では抜苦が起きるのだから
抜苦とは悲(カルナー)、慈悲の悲のことだよ?
端的な事実であって、認識でも評価でもないw
君がまだ観察も慈悲もよくわかってないんだよ
一切皆苦の滅を見ないとピンとこないだろうとと思うし
食い下がられてもさ、そのうちわかることなんだから
僕はそれ以上言うことなんか無いんだけど >>690
評価を手放せと言ってるとは言っていない
それと藁人形を打たないでくれないか
草生やしたりコロコロ意見変えたり、まず落ち着いてくれないか
あなたは非常に思い込み判断評価の強い人に見えるのだが >>694
> 評価を手放せと言ってるとは言っていない
これね
↓
-----
684 神も仏も名無しさん 2020/02/12(水) 18:15:03.48 ID:hywMG8b9
そうは読めないな
判断や評価は手放せば良いんだな、というのは
君がずっと言ってることなんだから
-----
> それと藁人形を打たないでくれないか
うーん何だろう?何が藁人形なのか正直分からない
具体的に示してくれないだろうか
> 草生やしたりコロコロ意見変えたり、まず落ち着いてくれないか
まあ草生やしたのは悪かった、ごめんなさい
ただコロコロ意見は変えてないよ
たぶん貴方から見ると変えてるように見えるんだろうね
ただまあ、変えたというならレス番示して指摘をお願いします
> あなたは非常に思い込み判断評価の強い人に見えるのだが
それはそれは
まあお互い様ですな ああそれ?忘れてたわ
しかし、どう見ても言ってるよね
>>656
「ありのまま判断せず」ね
目の前の事実は事実として、それに対する自己の判断の方を取り扱わないということですよ
何があっても、はいさよなら〜
仏に会って直接教えを受けた!
→はいさよなら〜
分かったぞ!慈悲はマインドフルネスと同じだ!
→はいさよなら〜
そうかただ客観的事実だけを観察して判断や評価は手放せばいいんだ!正しいやり方が分かったぞ!
→はいさよなら〜w >>695
藁人形は打ってるだろ
俺はマインドフルネス=慈悲なんて言ってない
それは俺にはわからない > たぶん貴方から見ると変えてるように見えるんだろうね
> ただまあ、変えたというならレス番示して指摘をお願いします
落ち着いて自分のレスを読み直してみればいいだろう >>686
コンセンサスなんて要らない
「マインドフルネス」=「慈悲の瞑想」かどうか?
しょっちゅう言い争いしてるこのマインドフルネスのスレを見てたらわかること >>696
それ読んで、どう見ても言ってると思うでしょ
お互い見てる向きが違うところなんだよ
(貴方には)「どう見ても言ってる」であって、ご覧の通り実際には手放せば良いなんて言ってないよね
実際に「手放せばいいんだ」はさよならと書いている
>>697
> 藁人形は打ってるだろ
> 俺はマインドフルネス=慈悲なんて言ってない
> それは俺にはわからない
ちょっと待った
途中から別の人と話してたのか?それとも意見を端折り過ぎた??
ちょっと人物確認のため次の質問に答えてくれないだろうか
「貴方が思うマインドフルネスと慈悲の関係は?」
>>698
これは教えてくれ
意見をコロコロ変えてると勝手に主張して根拠が示さなくていいなら、根拠無しの印象語りが許されるって事だからね ・もし、マインドフルネスが最初の訳語通り、又、英語の通例語義であるなら、
慈悲ではない。 なぜなら、気付きや集中、或いはフォーカシングのことだから。
そうした行為を重ねたところに、錬成されたものとして立ち現れてくる、とは言い得ても。
・もし、マインドフルネスが、現代社会への心的支援として仏教や禅の方法論の中から
日常の或いは病床の、或いは不慮の災難等の心的疲弊に対する療法として施されるものとしたら、
これまた慈悲ではない。要素として含んではいたとしても。
・もし、マインドフルネスが、上記療法から更に、様々な精神的場面での癒しや支え、或いは安定や増長
に資するよう整理されたものとするなら、これまた慈悲ではない。
寧ろ、慈悲的要素(≒他者への積極的視線)を盛り込んでいかなければ、自我の肥大を引き起こすリスクがあると言われるくらい。
・もし、マインドフルネスが、そうした、様々な場面で運用されるだけでなく、
仏法に沿っていく順じていく為の瞑想技法だと再確認するにしても、
これまた慈悲ではない。というか、一番上へ戻る。
勿論、これからの日本仏教再興のための戦略として、慈悲の要素を前面に押し出していくことは大変有意義かと思われるけれども。
「僕が考えたマインドフルネス」という個人的定義を超えてないんじゃないかな。 エゴの応酬による不毛な議論が続いているね
マインドフルネスに興味があって初めてこのスレに来た人は宗教板のマインドフルネススレの荒れ具合に驚くだろう
宗教板だからもっと専門的な話がされてるのかなと思ったらそうではなくて見栄の吹きだまりになってることにね 観察によって起きることと慈悲の瞑想で起きることは同じだよ
だって悲=抜苦だし
マインドフル=捨であって、慈悲喜捨の捨だし
何も仏教のオレオレ解釈ではないよ
同じと見た上で、更に「同じと見えていたが違っていた」という事以外は
反論にならないと思うんだけどね
で、見てないからと言ってその人のマインドフルネスが間違ってるなんてことは
言ってるつもりはないからね?
そのうち同じものだと見るんだから、挫折せずに続けていけば 仏教でなくともマインドフルネスの観察をやっていれば、当然見るものだと思ってる
苦の滅も、観察が慈悲であることも、何の疑いもない
その先に、僕の見方がまだ不十分だったということはありえてもそれは示されていない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています