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アウト

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大乗仏教の我
 大乗では、個体としての我(人我)を否定するのみでなく、部派で存在を認めていた法我(存在を構成している要素の実体)をも否定して、人法二無我を説き、すべてのものが無自性空であるとする。
また、部派仏教では、すべてのものが無常であり苦であり無我であり不浄であるとさとって、煩悩を滅しつくした境地を究極的な涅槃であるとするのに対して、
大乗ではすべてのものはもともと空であるから、それをさとった涅槃の境地は絶対的な自由の境地であって、常・楽・我・浄の徳をもつとする。その我は、凡夫の考える小我と区別されて、大我、真我などといわれる。

〜中略〜

大我
 このように仏教の教えは、今日ここにいる「我」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追及してゆく。
空性というのも、如来蔵というのも、仏性というのも、この「我」の追及のうえにもとめられた姿に名付けたものである。
 真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-?tman)であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。
すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。
 自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。
此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、大我なり、
佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。