【仏教】悟りを開いた人のスレ464【天空寺】
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もすること。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。
前スレ【仏教】悟りを開いた人のスレ463【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1573212815/ 悟りに至ると戯論寂滅するとすれば、
議論している人はいまだ悟りに達していない。
おしゃべりしたかったら、まず先に悟ってから出直した方がいいのでは
なかろうか。
あるいは、黙って数息観でもするのが先決ですよね。 セーシューはこの辺の稚拙なレベルでとめとかないとな ここの連中は口だけで
修行を全くしないことで有名。
名ばかり覚者。 真理は 愚者にとって猛毒であり狂気であるというのは セーシューさんに言えるな。 >>548
結論?
空想の定義に結論なんかあるか?
アホ >>586
なんだ そんなことも解らないの 教えない。 >>586
日本人なら当たり前の基本中の基本なんだけど。 >>593
www
空想じゃない、実相だよw
勘違いするなw >>595
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ麦は波長が合わないのか?霊は見えなくて良かったって思っていますけど
リアルの知り合いが霊が見えるから幽霊はいるのかなぁ?とか思ったり
半信半疑です
日本とアメリカでイメージ違い過ぎるのも
う〜ん??って感じですね まこと熱意を込めて思惟する聖者に かの万法のあきらかとなれるとき
彼の疑惑はことごとく消えさった
縁起の法を知れるがゆえである 如来達の出現が有ろうと、如来達の出現が無かろうと、かの道理は定まって存する。
法住性・法決定性・此縁性である。
彼の如来は(縁起を)完全に悟り、全く理解する。
(如来は自らが)悟り理解したように、(縁起を)説き、示し、証し、開き、分別し、明らかにする。
「見よ、比丘たちよ、無明に依って行が生じる」と。
そのように、比丘たちよ、それについての如性・不異如性・真実性・此縁性、比丘たちよ、これを縁起と言うのである。
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│ ただいま入浴中です。 │
│ 温まるまでお待ち下さい。 ...│
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│ Now Bathing ・・・ │
└─────────────────┘ >>259>>260 字が読めないのじゃな。 哀れな者じゃ。
約束とは小学校でも相互の合意で結ばれるものと教わる筈であるがのう。
小卒もしていないのかのう。
おぬしが約束したと思っているだけなのは妄想なのじゃ。
既に証明反覆済み。
字が読めないおぬしが反論しなかった故におぬしも認めたということになるのじゃ。
>>261 それが押し売りに見えるならば、おぬしが押し売りをしているからかもしれん。
仲間内でレスをして金儲けを企んでいるからかもしれん。
このスレの者をカルト宗教に洗脳して奴隷にしようとしているからかもしれん。
オウムとか、セクハラ人種差別発狂の臨済宗に入れようとしているのかもしれん。
そのようなことをしていればこの世で苦しみ、来世は地獄行きなのじゃ。
早々に心を入れ替えて真の大悟徹底したわしに帰依すると善いのじゃ。
>>600
エレガントたん♪♪♪
おやすみお⌒☆
∞ノノハ▲★ノノハ
川ー○ーレ彡$σ 。σミ
|.⌒o⌒.⌒o⌒.|
| ※※※※. |
 ̄◎ ̄ ̄◎ ̄ >>264 出来るだけくるのじゃ。
おぬしもわしのブログとか前のスレとかから引用してよいのじゃ。
頼むのじゃ。
>>266 大我も真我もないのじゃ。
それは誤訳なのじゃ。
アートマンは真の我ではないのじゃ。
そのようなものを目指してはいかんのじゃ。
瞑想中に幻覚を見てそれが真の我と妄想に陥ることがあるからのう。
すべてを否定し、認識できない認識主体が独存した時にアートマンは実現したといえるのじゃ。
>>601
馬鹿鬼や?
お前はこう言ったよな?
>悟りを得れば物事を如実に捉え、
>不可知なものごとをも知ることができるのじゃ。
勿論、お前のそれが悟りではなく、統失で精神を病んでいる故の異常な言動というのは百も承知している。
その上で、不可知論は古くからあるものの、近現代になりそれが科学的にも数学的にも証明されているからこそ、お前の言う事がデタラメだと俺は指摘している。
俺の指摘が間違いというのなら、以下の3つの証明を覆してみせろw
ゲーデルの不完全性定理
アロウの不可能性定理
ハイゼルベルクの不確定性原理
出来なければこの宗教板から永久追放な。
勿論、出来ればこの俺が宗教板から永久に去る。
…終わりだwww 自作自演、自問自答、自画自賛、ステマ、成り済まし、嫌がらせ、既存仏教の批判、詐称…
名前を売り、金儲けの為なら仏教の看板を使ってなんでもありとか、お前は人間の屑なんだよ。
今まで重ねてきた悪業が清算される時が来たって事だ。 >>589 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
実践がすべてなのじゃ。
実践する者だけが進んでいくのじゃ。
実践しない者は悉くただ死んでいくだけなのじゃ。
それでは虫けらと変わりないのじゃ。
死んでから地獄に行き、昔、変な人が居たらしいといううわさが残るだけなのじゃ。
>>604 既に証明反覆ずみ。
おぬしはそれに反論しなかったのじゃ。
ということはわしの証明反覆を認めたということじゃ。
おぬしが論破瞬殺されてしまったということなのじゃ。
それすらもわからないとは、字が読めないとは哀れな者じゃ。
そもそも最初から何を書いてもただひたすら認めず、自分は追放せず、腹も切らないつもりじゃろう。
何でもお見通しなのじゃ。
明治に出来たカルト宗教、セクハラ人種差別発狂宗、臨済宗に相応しい嘘つきなのじゃ。 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 >>490
真我というのも、また、イメージを見てる
五蘊の他には何もなく
その一切が空であるというのだから
真の我など、どこにあるというのかw >>608 そうじゃ、真我など妄想なのじゃ。
みんなが真の我という妄想にはまるのは自我がなくなる恐れからの逃避なのじゃ。
慈悲深い神の存在と同じく妄想で自ら慰めているだけなのじゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 >>486
我というものが認識対象にくっついてるのが、苦悩の原因で、その我が真我にくっついてても、それは認識主体が存続しているのだから、永遠に、そこにいることになる
だけど、永遠のものはないと、一切は無常だというんだから、永遠に感じられてるというだけで、実際は別の形に移る、その時、我がくっついてたら、それは苦悩になる
被造物に同化してるというか、我々も被造物でしかない
その同化と言っても、瞑想の光の中での話だから、つまり、現実と言っても、普通の人の感性の、リアルではなく、リアルによってリアルしてるようなんなの
まあ、ハジのが間違ってるかもやけどな
すまんw >>603
> すべてを否定し、認識できない認識主体が独存した時にアートマンは実現したといえるのじゃ。
www
なんだそりゃw
仏教は、W私とは認識主体であるが、認識主体そのものは認識できないWというヤージュニャヴァルキヤに連なるウパニシャッド哲学を否定してるんだよw
すなわち仏教は、常・一・主・宰の我を否定してるので、認識は出来ないがあるとされる認識主体の独存なんて一切認めてないの。
そんなの仏教の入門書に書いてあるレベルだよw こんな程度の低いレベルで悟り云々とか十数年もやってたとか、一体なんの冗談なんだよwww >>603
アウト
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%8C
大乗仏教の我
大乗では、個体としての我(人我)を否定するのみでなく、部派で存在を認めていた法我(存在を構成している要素の実体)をも否定して、人法二無我を説き、すべてのものが無自性空であるとする。
また、部派仏教では、すべてのものが無常であり苦であり無我であり不浄であるとさとって、煩悩を滅しつくした境地を究極的な涅槃であるとするのに対して、
大乗ではすべてのものはもともと空であるから、それをさとった涅槃の境地は絶対的な自由の境地であって、常・楽・我・浄の徳をもつとする。その我は、凡夫の考える小我と区別されて、大我、真我などといわれる。
〜中略〜
大我
このように仏教の教えは、今日ここにいる「我」自身がとらえらるべき何ものかとしてあるのではなくして、縁起においてあることを、いろいろな形で追及してゆく。
空性というのも、如来蔵というのも、仏性というのも、この「我」の追及のうえにもとめられた姿に名付けたものである。
真我とは大我ともいわれ「パラマートマン」(parama-?tman)であり、最高の我の意味である。もちろん、この我は外道の我でなく、仏果の徳の上につけた名である。
すなわち涅槃といわれるさとりは真実であるからと、その悟りの世界はいっさいの繋縛をはなれて完全自由であるからとの両面より、さとりのうえに大我の徳を認めるのである。
自在の義なり、凡夫は自己の身心を認めて我となせども、身心一も自在なるものなし、我と思ふものは迷倒の見のみ、我の実あることなし。
此の理を悟るを小乗の知見とす、而して彼れ但凡夫の倒我小我なきを知て更に佛の眞我あり大我あるを知らざるなり、即ち佛所証の涅槃は真我なり、大我なり、
佛は八自在を得て一切の繋累を離れ、万法に於て自在なり、之を涅槃の大我とす。『涅槃経』一部の所明是なり。 >>608
>>614
大乗は大我を認めてるみたいだからハジ君は小乗やね? >>615
そーなの?
ハジは小乗でも大乗でもないけど、もしも、真我を認めるのなら、別に、わざわざインドの聖者たちと区別する必要がないと思うけどなあ
真我、大我? を認めるんなら
ラマナマハルシだって、ニサルガダッタマハラジとか、誰だっけ元祖の人、そーゆーのと仏教の悟りって、同じちゃうん? それ系統で仏教の悟りなんなら
手ぶらちゃんとか、コジくんとか、の、ゆーてる
世は夢の如し
的なやつが、それで、それならわざわざ、仏教じゃなくてもよくない? >>611
造られたもの 生じたものは滅するという法則が説かれ 宇宙は誰かが造ったものではないという真理が説かれた
今いる宇宙が膨張と収縮を繰り返す性質のものであるとする時 そこに「あ・うんの呼吸」を観る
宇宙に内在する被造物が滅したとしても この宇宙の仕組み自体は被造ではないから永続される
この宇宙に付随する大我が被造かどうか迄は釈迦と同等の知見が無い限りは解らない
ただ仮説としてこの空性の大我の中に空性の自我を投げ入れた場合に自我は見分けが付かなくなって消える
この自我の消えた状態を維持出来るならば 釈迦の云う処の「迷いの生存」には戻らない
もし生存の世界に釈迦が戻るとするなら生まれた時から迷いの無い悟りの証を示し 生涯一度も迷わずに人生を全うするのではないか?
という仮説を立てた時に条件を満たした例はどの時代のどの国にも見られない
結論として 「少なくとも現在迄の間に釈迦は一度も転生していない」となる
おそらく その言葉通りに無漏となって空性の中に有無の無い状態で溶け込んだままの筈で有る
反論するなら現在誰にも発見出来ない「釈迦」を見つけるしかない >>618
ふーむ
空性ってやつが、あると思ってるやろ
笑 本質の話、ハジ兄貴は嫁さんと別れたのは
嫁さんより自分の瞑想時間が欲しいから? >>620
ハジは嫁さんとおる時の方が、坐禅的な、つまり、座ってやる瞑想はやれてたのだ
瞑想は誰かといたらできないとかないのだ
誰かといると難しいとかはあるかもしれんが やれてたって言っても40分とか1時間くらいしか、したことないよ?
それに、ちゃんとした、坐禅ちゃうし
ハジのは、座ってやる瞑想だったからね
そやけど、普通の人に比べたら、けっこーやってた方ちゃうんかなあ
まあ、このスレにいるプロの方々とは、違うから、その程度なわけやけども
なんかごめんw 女は構ってあげないと愛想尽かすんじゃないの?
面倒くさいっすよね。そこまでしてやりたくもないよね(●´ω`●) >>623
頼み事を聞いてあげないと怒るし
自分の趣味の時間を邪魔すると怒るし
感謝の言葉を述べないと怒るし
好きなこととか、好きなものとかに共感しないと怒るし
笑 >>616
其処からが難しい処で 大我は空性で有るから実有ではない かといって無も実在しないから非有非無という事になる
つまり外道の有我説でも当てはまらない
大我が有ると見るのも無いと見るのも共に間違いで大我は空性として見るしかない
他に比較する物差しが無い状態で それが有るとかないとかを確認する手段も判断する基準も無いですよというのが大乗の大我に対する理解だから やっぱり他の宗教と同じにはならないよ >>625
いやあ、けっこう一緒だと思うよ
その涅槃としての大我のことを、インドの聖者たちも
真我とゆーたり
神の恩寵とゆーたりしてる
違いは、真の我を認めてないとこであるはず わたしは在る
在るの中に消え去りなさい
そうして最期には、その
私は在るも消えてしまう
そこが、真我だ!
アチョーwwwwwww ブッダ
無我の境地
一切は無常である
無常であることから苦である
思い通りにならない
思い通りにならないから無我である
無我であるから輪廻しない >>617
だから仏教では悟りに達する時には信仰を捨てなさいと説くんだよ
最終的にはどんな宗教的見解も意味の無いものになるからね
信仰されるべきは造り主のいない法そのものだけど 帰依を成し遂げる時には法信仰すら邪魔になる
法と自己の間に有る障害を取り払わないとならないからね
「これは私ではない 私のものではない」という観想から始めるのも最終到達段階が空でそれが法だからだとすれば辻褄は合うんだよ >>619
「有る」は反対側に「無い」が無いと成立しないと前から言うてる通りや
空性が有るとか無いとか判断するのが間違いやねん
ゼロはプラスかマイナスかて聞かれてもゼロやし 有るか無いかを聞かれてもゼロやからね 笑 >>630
ハジの中ではブッダの話と、ギーターの話は明確に違うw
神と合一するのと
識別作用の止滅
は
全然違うことをゆーてる >>627
神=創造神を認める処が決定的に違う
仏教が説くのは造物主に因って造られた宇宙ではなく 生ずる事も滅する事も無い空性の宇宙やから 両者が一緒に見えるのはそれだけ解っていないという事になる >>628
大我というのは説明する都合上の呼称でそれ自体に「自我」は無いで?
比較するべき他者がいてないのやから 対応する自我も育たない
これも「神」とは違う性質や >>633
神(ブラフマン)=真我(アートマン)
大乗仏教が、真我、大我を認めるのなら
一切知の神と我の合一により、梵我一如により
非二元により
個としての我が、神としての我と一つあることを悟る
そのところの真実在の我の実在を認めるのならことになる >>632
> >>630
> ハジの中ではブッダの話と、ギーターの話は明確に違うw
>
そらそうや
> 神と合一するのと
神との合一なんぞ誰も言うてない
>
> 識別作用の止滅
>
> は
大我(仮称)には識別するべき他者が存在しない
>
> 全然違うことをゆーてる
仏教とヒンドゥー教は違うからね いやいや
真我、大我を認めるのなら
仏教とヒンドゥー教は、瓜二つ それなら、このスレには覚者は、めちゃくちゃようけおるw >>636
> >>633
>
> 神(ブラフマン)=真我(アートマン)
>
> 大乗仏教が、真我、大我を認めるのなら
>
> 一切知の神と我の合一により、梵我一如により
本来別々のものが合一するのと違うよ?
>
> 非二元により
>
> 個としての我が、神としての我と一つあることを悟る
>
神や無い 意識の根本いうだけや
> そのところの真実在の我の実在を認めるのならことになる
実在と呼べる実体も無ければ 我と呼べる為の他者も存在しない
実在で有るとか非実在で「無い」とかの判断基準も存在しない
識覚を拡大せよ >>640
インドの聖者たちも、同じようなことを言ってるんだってw
クリシュナムルティとか、マハルシとか、マハラジとか
その果てに、不可知なる真我
あなた自身というものが、これが、神、つまり、自他の区別ない大我と
オニーサンがゆってるみたいなこと、ゆってるってw
涅槃の大我とか言い出したら
そっくりそのままやんw そーゆーのを否定したところが
釈迦の斬新なとこやったんちゃうの???? いや、まあ、ハジは、わかってないだけかも、、、
熱くなってすまんw >>641
全然違う 笑
ヒンドゥー教には神は法の被造物であり 寿命を持つ天界の生き物に過ぎないというブッダの見解が欠落してる上にカーストという余計なものがくっついている
字面の上辺だけで似ていると感じるなら意味の違いが読み取れていないんだよ
ヒンドゥー教の創造主が居る前提での大我と大乗の創造主が存在しない無始無終の宇宙に於ける観察者としての大我の違いを理解しないなら 貴方は大乗をそれほど深く考えた事が無いという事になる
深慮熟考されたし >>642
大乗仏教で言うところの大我には自性が存在しない 即ち無我と同質で有る
神では無いし 自我でも無い 表現として大我と読んでいるに過ぎない >>644
まあハジは、たぶん、わかってないんだろう
ハジからすると、真我、大我を認めるのなら
インドの聖者たち、仏教徒ではない人たちの
悟り
悟りと
ブッダの、真我、大我を認めている
悟り
悟りは
これら両者に違いは見られない >>643
うん 急に理解しろと言われても無理だから ヒンドゥー教の大我と大乗の大我は意味が違うとだけ理解しといて
神みたいな我欲我執の無いのが大乗の大我で 神というよりはユングの集合無意識の方がまだ近い
創造主でも被造物でも無いと言うのが神の宗教との決定的な違い >>646
先ず宇宙は誰かに因って造られたものではないという大前提を理解してね
其処が解らない限り大乗の大我はブッダの無我と矛盾しないという事が解らないから
大我に自意識が有って自分が宇宙を造ったなんていう考えが有る訳では無いんだよ ハジは仏教が大我なんてものを認めることを
断じて許せない
笑 >>650
ウィキダルマって、すげーな
わかった
ちと、勉強に励むことにするから、またな!
これ、まだ、あんま知らんけど
なんか、めちゃ勉強できそうなやつやん >>651
大我という言葉は同じでも外道と大乗のそれで何が違うかを緻密に追って行けば必ず解るから 頑張って >>617
コジさんも手ぶらさんも、言われてることはかなりのことを語られてるよ
でも、それ(悟り)を認めてる、「自分」というものの上で取り扱ってるからおかしいってだけで 「真我」って言葉を使った!
仏教は無我なのにおかしい!
これは仏教じゃない!
こういう風になりがちではあるだろうけど
このようになるのは、語られたもの・言葉や経典の中に悟りを見てるからではないでしょうか >>648
勝手にその大前提が正しいとするな!
散々、論破したのにまだ懲りないのか
大我も小我もネーヨ >>654
言葉や経典以外に悟りって、あるんか?
そーゆーのを独り善がりと言う >>656
言葉で語られたものは全て仮設のもの
ってか、そもそも言葉自体が何一つものを示し得ない 言葉と実際が違う、それに禅定の体験で気付くことが悟りの初めらしいね
言葉でつくられたものを実在だと思ってるのが迷いであると 上座部仏教では、これに気付くことを名色分離智って呼ぶらしい
「名」(言葉・観念)と「色」(物質現象)が等しくない、別々のものであると気付くこと 一切は縁起として起こってる
何一つ「個」として独立するもののないままに溶け合い関係しながら無常として現象し続けてる
そういう実際のありように、言葉・観念を使って
思いの上で抽象して「なにものかが存在する」って認めてやりとりしてるのが我々のやってること
でも、実際としては、一切は無常、縁起してるのだから
言葉・観念で抽象されたものは、実は実在し得ていない 実在し得ていないのに、思いの上で抽象されたなにものかを実在と錯覚して
それに執着したり憎んだりしてる様を
この世とか此岸とか欲界とか言うのでしょう >>655
ブッダが無始無終の宇宙を説いたとお前の名誉会長も認めてるのに誰を論破したつもりか知らんが お前は仏教徒でも学会員でもない事になるな
とりあえずお前の粘着は迷惑行為としてあぼんするわ
今後も俺を論破したとか根拠の無い妄想を言ったらその都度あぼんするからそう思え
お前の独善的な見解を俺や他の人達が全く必要としていないという事を骨の髄まで叩き込め
https://sgi-shiteifuni.com/?p=8607
名誉会長: すると、修行をしていたのだから「法」はあった。法はあったが「仏」はいなかった時代があったということになる。これでは「無始無終の宇宙と一体の仏」はいないことになってしまう。 >>662
池田大作は、鋭いのう
無始無終の宇宙を説いたら因果は成り立たなくなり仏法では無くなる
三世常住の本仏を説くには法が無始無終でなければならない
それが南無妙法蓮華経である!
おい!真言宗!
何が宇宙が無始無終だ?
法華経が無始無終だろーが!
勘違いすな 雑魚がまだ何か言ってるみたいだな? 笑
おそらく一生仏教を理解できまい >>657
僕は、わかっちゃってるとでも言いたいのかな?
なら言えや言葉で
言えねーだろ(´・ω・`)ホレホレ >>658
実際とは何や?
言葉で説明せーや
それが出来ないのは、ただ単にお前の能力不足
坐禅をその言い訳に利用すんな(´・ω・`)笑 >>659
そんな下らん常識に気づくことが悟りなんか?
やっぱり上座部仏教の僧侶は、粛清するべきやな
全員一列に並ばせてFlak38の水平射撃で粉砕すべし(´・ω・`)笑 >>660
はあ?
テメエが使ってるパソコンやスマホは存在してねえのか?
頭が沸いとるんとちゃうか?(´・ω・`)冷やせ >>661
はい?
この欲界はリアルに、こーして存在してるのを否定すんの?
それが悟り?
チゲーだろ!
どうしてこの欲界という宇宙が存在してるのか?
その理由と根拠が悟りだろーが(´・ω・`)ドアポ 栄進さん荒ぶってるな
>>665
>>666
言葉観念で捉えてるものとは違うもの、それを「実際」って呼んでると
そして、「実際」ってのも言葉だよ
>>668
>>669
「存在してる」も「存在してない」ま思いでしょう? 存在してるという思い、これが違うと聞くと
「なら存在してないのか!」となる
「有る」ではない、と聞くと
「では無いのか!」となる
これは、観念を実在としてるとそうなってしまうことなんだよね
「有無の二見」って呼ばれる 栄進の頭は消費税と同じターボーなんじゃwww
公務員やタコが自分の足を食ってるとも言うwww
良く言うと良いキチガイ、悪く言うと悪いキチガイwww
大山も栄進もキチガイには変わりないのさwww
脱キチガイが涅槃じゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 犬山先生宜しく何でも無我無我だと
自堕落になるよね(●´ω`●)
ブッダは遺言でアーナンダに「確固とした島を作れ」「法に従って生きろ」と言ったそうだが
わかりやすくわたしの私見を述べると
「絶対に揺るぎない自信をつける」
「俺ルールに従って生きる」
こういう生き方が成功者たちの共通のマインドなんだよ(●´ω`●)
無我無我は無責任 また、「善ではない」と聞くと、「なら悪なのか、悪で良いのか!」となる
これが二元論
この二見、二元論は、人の思いの上でしか成立してない
どうしても、人の思いでない「そのもの」に気付く必要があるってこと ターボーじゃわかんねーかwww
ターボエンジンじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 栄進はケキョ狂いに突進中。
晃の糞にブッシャー。
相手にしないこと。 昔テレビCMで沢口靖子が
「あなたのポットに惚れてます」
と言っていたね(●´ω`●) 「有る」という思いでもなく、「無い」という思いでもない
思いではないそのものを、仮に「空」とか「実相」って呼んでる
(だから、空とか実相とかを、言葉だけで認めてどうこうしてもしょうがないんですよ) >>670
もう単なる荒らしだからあぼんしてほっとけば良いよ
誰彼構わず難癖付けては同じ事を何日説明しようと理解も学習もしないんだから 議論にも仏教にも向いてないってだけだし
常に誰かを自分の下にして支配しようとする学会体質だから 関わる意味も無いし 先月と今月で全く進歩も成長もしてないんだからエネルギーと時間を割いてまで相手にする価値も無いよ
ダラダラと無駄レスを垂れ流して相手を自分の暇潰しの道具にしようとしてるだけ
高度な知識も経験も無いから同じ処をぐるぐる回って一向に議論も深まらないし 来る場所を間違えてるんだよ
学会板に誘導してスルーが妥当だね 罵倒や暴言ありでの関わりも、縁なんだよね
説明できるなら説明する 私は年甲斐もなく鼻血を出してしまった(●´ω`●)
けどオナニーしたら眠くなるからしない 同じもののはたらきでこうして縁を結んでやりやってる 君たちはかつてのわたしのように未熟だ(●´ω`●) バカ大山も鬼和尚に論破されて永久追放である、か。
大爆笑である。 手ぶらなニャ食がいるwww
奴はいつも手ぶらじゃwww
鋏を持つ手ぶらとはなんじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています