【仏教】悟りを開いた人のスレ457【天空寺】
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「ただ坐る」が悟り。
修証一如(しゅしょういちにょ)。 このスレは間違えて立てたスレですが良ければどうぞご利用下さい。 人知を越えた事柄について議論するのは不毛。不戯論(ふけろん)。
「ただ坐る」が悟り。修証一如(しゅしょういちにょ)。 人知を越えた事柄について議論するのは不毛だからやらない。不戯論(ふけろん)。
「ただ坐る」が悟り。修証一如(しゅしょういちにょ)。 ハイハイ
チンピラは此方へどうぞ
目障りだから本スレ汚さないでくれ
259:麦 ◆MUGI/AIUgo 2019/10/24(木) 21:13:10.94 1obPIg/T(19/20)引1NG
>>247
∞ノノハ∞
川^〇^ハレまだ居たのかよwww
とっとと議論しろやwww
262:麦 ◆MUGI/AIUgo 2019/10/24(木) 22:02:17.16 1obPIg/T(20/20)引1NG
>>247
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ高野山のどの子院にいつ頃から修験や山伏がどれだけ居るんだよ
箇条書きしろボケ >>10
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ嫌なら出てけよwww
高野山の把握もしてないからなお前www
答えられないだろうwww
なんちゃって高野山野郎www >>11
( ´,_ゝ`)プッ
山内全院把握する在家なんている訳無いだろ?
身延みたいなど田舎と一緒にするなよ 笑 262:麦 ◆MUGI/AIUgo 2019/10/24(木) 22:02:17.16 1obPIg/T(20/20)引1NG
>>247
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ高野山のどの子院にいつ頃から修験や山伏がどれだけ居るんだよ
箇条書きしろボケ
高野山は歴史的に山伏を認めない仕様だよ
そんな事すら知らないで噛みつくなよ
説明してやったんだから 雑密 純密の区別ぐらいおぼえとけ 物知らず >>13
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ文献出してみろボケ >>14
猫に小判
基礎から知らん君には理解出来ん
最初に言ってる様に現在高野山内に修験寺院は一ヶ寺も存在しない
違うというなら自分で調べて証拠を出せばいい
山内行事に山伏を出したのがここ三年以内だが 有ると思うなら全力で探せ >>15
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ高野山は知らないけど空海さん自身繋がりがあったと思うけどねwww
「吉野-高野・弘法大師開創の道プロジェクト」
http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/--c1a7.html
>「空海、少年の日、好んで山水を渉覧す。吉野より南に行くこと一日、
さらに西に向かいて去ること両日ほどにして、平原の幽地あり。
名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当たれり。
四面高嶺にして、人蹤(じんしょう)蹊(みち)絶えたり」…。
この一文は空海選による「性霊集」に記述される有名な文言で、空海が高野を見つけるに至る経緯を明らかにしている。
若き日の少年空海は、吉野から大峯を経て、高野へとたどり着くのである。
これは単に道筋だけの問題ではなく、役行者という山林修行者の世界と、
空海という真言密教者の世界が根底で繋がっていたという日本文化史、
日本宗教史上の問題提起でもある、と私は捉えている。 >>16
それはその通り
空海の四国修行の足跡は役行者修行跡地と合致するという話も有る
但し後世の高野山は修験色を薄めて真言宗の根本修行道場というイメージの為に体系化された真言密教を正純密教と呼び それ以前の未整理な密教を雑密と呼んで差別化した
後から来た真言宗が高野山の支配権を巡って 付近を通る山伏達と揉めたのかも知れないし 密教の看板を巡っての主導権争いが人知れず行われていたのかも知れない
当時法力に於いて優る高野山側が勝利したとすれば 後の行人方が学侶方の下になったのも説明が付く 行者は験力勝負をしたがるから大いに有り得る
もっと面白いのは高野山が天皇家御領だった事 天皇家の聖地を山伏が闊歩してるのを快く思わない勢力が都に有ったとすれば 高野山下賜は空海を使った一帯管理の意味合いも有ったのかも 麦も大山に哲学病とヒステリーを感染し過ぎているからなあ笑。
かかし完全復活、
実力は大山より上、昔のかかしでも、曹洞宗。 仏教知識では悟れないバカ大山である。
大爆笑である。 >>15
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ空海さんは超ウルトラスーパー超人だと思いますけど
麦は禅師が好きなので高野山のお話はでおーたんと仲良くやってくださいませwww
丹生都比売神社
ウィキペディアより
>後世には、修験道の修行の拠点にもなった
高野山の開創以後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として
高野山の鎮守となり、壇上伽藍にも勧請された[10]。
この記載は、文献では『太政官符案』寛弘元年(1004年)9月25日や『百錬抄』寿永2年(1183年)10月9日に見える[10]。
また、高野山の火災では丹生都比売神社が仮所とされたほど重要視されていた[10]。
以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、
高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた[10]。
そのため境内にも仏教系の伽藍が多く築かれ、
その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている[10]。
後世には、修験道の修行の拠点にもなった。
丹生都比売神社
https://niutsuhime.or.jp/heritage/
「神道と仏教の融合」の始まり
古い地図
1200年前とは、弘法大師空海によって、高野山が開創されたことを指します。
弘法大師は唐で習得した真言密教の修験の拠点を神々の鎮まる山、高野山に求めました。
そして、まず守護神として当社の神である丹生都比売大神(にうつひめおおかみ)と
高野御子大神(たかのみこのおおかみ)を祀る社を建てました。
これが日本における「神道と仏教の融合」の始まりです。 >>15
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ金峯山寺の中に現在も山伏居ませんか?知らないけどw
空海が歩いた山道をたどる
吉野山から高野山まで55キロ
この動画にホラ貝が鳴り響なか
山伏姿で歩く金峯山寺の僧侶の後に金剛峯寺の僧侶が続いて
厳しい登りにさしかかると山岳修行特有の
六根清浄の掛け声です
2014年8月12日公開
https://youtu.be/HBCIZykAICA >>20
>「金剛峯寺」と「慈尊院」の中間地点に位置し〜
残念ながら門内寺社じゃないよ
慈尊院は橋本市 金剛峯寺は高野町 中間は山の中腹だから大門の外側
大事な場所では有るけどね
高野町内に有る神社は神職が居なくて僧侶の管理だけど その神社は神主さん居るし >>21
吉野山金峯山寺は修験寺だから居るよ
高野山金剛峯寺は僧侶だけ
名前が似てるから間違え易いけど今はもう別の宗派だし直接関連は無いよ
修験組織を持たない高野山所属の僧侶が山行やる時は基本的には個人で他宗派の講に参加するんだよね
何かの記念祭とか 大きな行事で頼まれて参加する時以外はね 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 ここで善いのじゃ。
ブラフマンはどこにでも満ちているのじゃ。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレてか思い出した!
和尚さんではない鬼和尚さん 犬には仏性がない。人間にも仏性がない。
なんでか。
無字の公案である。
宗教問題をやれ。 >>29 大日如来ではないのじゃ。
梵天なのじゃ。
お釈迦様は大日などしらなかったのじゃ。
三明経を読むと善いのじゃ。 >>33
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ梵天より前に神様いたんだってお
真言たんが教えてくれるだお >>34
光音天ね
法界や法界の如来については 釈迦は言及していないから 正確な事は言えないよ >>34 ブラフマンは本来、神ではなく法なのじゃ。
後に人格神としてあがめられたがのう。
おぬしもブラフマンの法を行うと善いのじゃ。 鬼和尚にお聞きします。
鬼和尚の弟子の栄進くんが様子が変ですが、何でこうなったんですか?(●´ω`●) むしろましになったのじゃ。
さすが賢者栄進なのじゃ。 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 ホストエラーで本スレ立てられ無いので 何方かお願いします ここが本スレなのじゃ。
安心するが善いのじゃ。
>>39 から読んで実践あるのみなのじゃ。 >>43
宗派を特定出来る程のものじゃないよ
初心者向けの基本的な瞑想法の一つでしかないし >>43 無派じゃ。
ムハムハじゃ。
誰でもやってよいのじゃ。
お釈迦様が教えた止観の正しい実践法なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。 お前は禅の独学だろ。(笑)
そーゆーのを野孤禅ってんだよ。(笑)
(^。^)たわけが。(笑) >>40 鬼 さん
> オウムとか、セクハラ人種差別発狂の臨済宗に入れようとしているのかもしれん。そのようなことをしていればこの世で苦しみ、来世は地獄行きなのじゃ。早々に心を入れ替えて真の大悟徹底したわしに帰依すると善いのじゃ。 』
(。_゜)〃ドテッ!
やじるし だね、鬼さんは。
地獄行きを保証してくれた。ありがたい(人´∀`)アリガトー♪
あれこれ実践すれば、実践女子大生か。
で、それがさとり、真理 なの・
まず聞いてみよう、(@_@)/ずばり! 真理(さとり)を教えてください、おねがいします。 >>46 禅などないのじゃ。
わしは禅でもないのじゃ。
お釈迦様派なのじゃ。
お釈迦様の教えを正しく説くのじゃ。
>>47 それはおぬしが自分の心の中に探すものじゃ。
他のところには無く、他人に聞くことも出来ないものじゃ。
自分自身で自分の心の中を探して、見極めるしかないのじゃ。
全ての仏陀はそのようにして悟りを得たのじゃ。 >>48
> オウムとか、セクハラ人種差別発狂の臨済宗に入れようとしているのかもしれん。そのようなことをしていればこの世で苦しみ、来世は地獄行きなのじゃ。早々に心を入れ替えて真の大悟徹底したわしに帰依すると善いのじゃ。 』
(。_゜)〃ドテッ!
やじるし だね、恐喝行為だよ、鬼さんは。地獄行きを保証してくれた。ありがたい(人´∀`)アリガトー♪
あれこれ実践すれば、実践女子大生か。___φ( ̄^ ̄ )メモメモ
で、それがさとり、真理 なの? まず聞いてみよう、(@_@)/ずばり! 真理(さとり)を教えてください、おねがいします。
>> それは わしがおぬしに聞くことなのじゃ。
おぬしの心の奥底にある真理とはどのようなものじゃ? 赤いのか青いのか白いのか黒いのかそれとも何色でもないのか。 重いのか軽いのか中間ぐらいなのか無質量なのか。 清浄のか不浄なのか不垢不浄なのか。
しっかり見てみるのじゃ。 』
微笑、苦笑
まさにオウム返しだあ、それ。
何か修行すれば、それが真理にたどり着く、とでも言いたいのかな。
こういう公案が有るのは、よく知ってるとは思うけど、
坐禅をウンウン唸り乍らしている修行僧に、瓦を磨いて、鏡にはならない、と禅師ぜんじが言った。
ガマガエルの如く、坐ればその先に真理(さとり)が有る事は無い。
こころ、がすべて、
こころが真理、
と言うのは、唯心主義だろ。
唯物主義の反対を言う。
唯心は、唯物の 二つで一つのセットで、初めて論が成立する相対だ。
唯心だけ、唯物だけ、 では存在しえない、妄想(もうぞう)、無いものを有ると思い、有るものを無いと思う。だね。
初関を透る、
これはそれとこれを分けない、
これとそれは、一如だ、と体得する。
鬼さん、体育会系だねぇ、
流した汗は必ず勝利となって報われる、と言う論理だ。
息を吸い、息を吐く、これが生死(しょうじ)だ。
真理(さとり)は、これを同事(どうじ)と言う。
これから寒くなって雪が降り積もって、その上に紅い花がポトリ、と落ちた。
この事を真理(さとり) と言う。
わたしは、鬼さんに語り掛けました。
白八木さんから、お返事、まあだぁ〜♪ >>44
>>45
お答えありがとう〜
私、頭の中じーっとするの苦手なの
唯一、子供を寝かしつける時だけ寝たふりしなきゃいけなくて、瞑想みたいになってる マグロを包丁で潰して、ネギトロ丼って言うか、刻み大葉トロ丼にする 誰か日蓮正宗の為に妙法寺スレ立てて上げてください
普通の仏教と自分達の教えが根本から違うのを理解出来ない頭みたいなんで住み分けましょう >>52
おまえ、マグロを一匹買える身分になったのかwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>52
よう!こじ!
ガイジ丼作れや(´・ω・`)笑 >>49 その公案は変化を求めて修行する者を諌めるためのものじゃ。
修行すること自体を否定するものではないのじゃ。
お釈迦様の時代から修行を実践する者だけが悟りを得てきたのじゃ。
今のおぬしはこれとそれをわけているのじゃ。
息を吸うことも無く、吐いても居ないのじゃ。
同時も無く、雪も降らず、花が落ちることも無いのじゃ。
それらは全て修行の成果としてあらわれるものじゃ。
>>50 その時に実践するとよいのじゃ。
おぬしもよく眠れるようになるじゃろう。
心も不動になるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。 > オウムとか、セクハラ人種差別発狂の臨済宗に入れようとしているのかもしれん。そのようなことをしていればこの世で苦しみ、来世は地獄行きなのじゃ。早々に心を入れ替えて真の大悟徹底したわしに帰依すると善いのじゃ。 』
まず聞いてみよう、(@_@)/ずばり! 真理(さとり)を教えてください、おねがいします。
>> それは わしがおぬしに聞くことなのじゃ。
おぬしの心の奥底にある真理とはどのようなものじゃ? 赤いのか青いのか白いのか黒いのかそれとも何色でもないのか。 重いのか軽いのか中間ぐらいなのか無質量なのか。 清浄のか不浄なのか不垢不浄なのか。
しっかり見てみるのじゃ。 』
(苦笑
何か修行すれば、それが真理にたどり着く、とでも言いたいのかな。
こういう公案が有るのは、よく知ってるとは思うけど、
坐禅をウンウン唸り乍らしている修行僧に、瓦を磨いて、鏡にはならない、と禅師ぜんじが言った。
ガマガエルの如く、坐ればその先に真理(さとり)が有る事は無い。
こころ、がすべて、こころが真理、と言うのは、唯心主義だろ。
唯物主義の反対を言う。
唯心は、唯物の 二つで一つのセットで、初めて論が成立する相対だ。
唯心だけ、唯物だけ、では存在しえない、妄想(もうぞう)、無いものを有ると思い、有るものを無いと思う。だね。
初関を透る、
これはそれとこれを分けない、これとそれは、一如だ、と体得する。
鬼さん、体育会系だねぇ、流した汗は必ず勝利となって報われる、と言う論理だ。を吐く、これが生死(しょうじ)だ。真理(さとり)は、これを同事(どうじ)と言う。同時では無いよ。
これから寒くなって雪が降り積もって、その上に紅い花がポトリ、と落ちた。この事を真理(さとり) と言う。
返信:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM
>> その公案は変化を求めて修行する者を諌めるためのもの、修行すること自体を否定するものではないのじゃ。
お釈迦様の時代から修行を実践する者だけが悟りを得てきた、今のおぬしはこれとそれをわけているのじゃ。
息を吸うことも無く、吐いても居ない、同時も無く、雪も降らず、花が落ちることも無い、それらは全て修行の成果としてあらわれるものじゃ。 』
〇 とりあえず、禅は無理だよ鬼さん。イヌヤマと同じ。 >>57 そのように想うのはおぬし自身が禅は無理であるからじゃろう。
禅とはディヤーナのことなのじゃ。
実践しない者がディヤーナに到達する事はありえないのじゃ。
実践しない者の主張は全て自分が怠けて暮らしたいだけの言い訳なのじゃ。 >>58
> >> そのように想うのはおぬし自身が禅は無理であるからじゃろう。
禅とはディヤーナのことなの、実践しない者がディヤーナに到達する事はありえない、実践しない者の主張は全て自分が怠けて暮らしたいだけの言い訳なのじゃ。 』
むきになって何を説明してるのだろうねぇ。
全部これ説明、しているだけで、無内容だよね。
ダウ玉ちゃんは苦行の果てに朦朧としてねらんじゃら川のほとりへさまよい出てきて、木の下に坐りこんでしまった。
そのまま間もなくやって来る死を待っていた。
その時、川へ毎日の仕事役割のして貧しい村娘が見た。
家に急ぎ帰りヨーグルトを供養した。
断食行のガウタマが供養を受け入れて、差し出されたよグルトに口をつけた。
それで、断食行が終わった。
立ち去る事も無く、坐る続け夜明け近くの水平線上に輝く金星を観て、さとった。
母の死が、彼を突き動かす問いである。
彼の居城は市街地を場内に置く都市国家である。
東西南北に門がある。
都市国家である城壁の東門、西門、南門、北門、は内と外の境目である。
禅は生死(しょうじ)を問う。
東門は西門と対し、南門は北門と対す。
また、交点を成す。
この家の前の小路はみやこ長安に通ず、である。
また、この麻布の重さは三斤である。
これが、ガウタマが夜明けの明星を観てさとった、それ、である。
追記、断食行の実践を止め、ガウタマはさとった。 >>59 他人がむきになっているように見えるならば、おぬしがむきになっているのじゃろう。
説明だけで無内容を書いているのじゃろう。
お釈迦様も苦行を止めた後に、七日間座り続けたのじゃ。
実践しないで悟った者はいないのじゃ。 >>60
頑迷固陋とは、鬼さんを言う。
また、誰かが書いたものを根拠とするのは、児戯である。
ウエイクアップ、朝だよ、目を覚ませ、歯を磨け、顔を洗え。
金星を観た時、さとったのは、なにを悟ったのかを言えよ。
先んじて言っていたが、ここで再度言おう。
『 ガウタマちゃんは苦行の果てに朦朧としてねらんじゃら川のほとりへさまよい出てきて、木の下に坐りこんでしまった。
そのまま間もなくやって来る死を待っていた。
その時、川へ毎日の仕事役割のして貧しい村娘が見た。
家に急ぎ帰りヨーグルトを供養した。
断食行のガウタマが供養を受け入れて、差し出されたよグルトに口をつけた。
それで、断食行が終わった。
立ち去る事も無く、坐る続け夜明け近くの水平線上に輝く金星を観て、さとった。
母の死が、彼を突き動かす問いである。
彼の居城は市街地を場内に置く都市国家である。
東西南北に門がある。
都市国家である城壁の東門、西門、南門、北門、は内と外の境目である。
禅は生死(しょうじ)を問う。
東門は西門と対し、南門は北門と対す。
また、交点を成す。
この家の前の小路はみやこ長安に通ず、である。
また、この麻布の重さは三斤である。
これが、ガウタマが夜明けの明星を観てさとった、それ、である。
追記、断食行の実践を止め、ガウタマはさとった。 』 鬼さん
> お釈迦様も苦行を止めた後に、七日間座り続けた 』
インドに於いて悟った修行者は、深山幽谷の地でそのまま、真理の法悦のまま死んでいった人が多くあったのだという。
ガウタマもさとりの喜びのまま、死んでいこうとした。
この世界の成り立ちの在りようが明らかになったからだ。
輪になって歌い踊り、笑い続けているのがその器官であり、興奮冷めやらぬ期間である、誰にもそういう事が起こる。
梵天勧請のくだりは、美しいドラマである。 >>61 他人が頑迷固陋に見えるならば、おぬしが頑迷固陋であるからじゃろう。
おぬしが書いたものも根拠とするべきではないというのじゃな。
それはただの塵芥であるというのじゃな。
おぬしが眼を覚ますべきなのじゃろう。
何と言葉で言えるようなものを悟ったのでは悟りではないのじゃ。
全ての観念を超越したことが悟りなのじゃ。 >>63
鬼さん
それを 言葉で言い表せない。
言い表せ、と言われたら、わたしは 一の如し、と言おう。 >>64 何か言えるならば悟りではないのじゃ。
観念遊戯なのじゃ。
赤裸々な自己を晒すのじゃ。 >>65
> >>64 何か言えるならば悟りではないのじゃ。 観念遊戯なのじゃ。 赤裸々な自己を晒すのじゃ。
(笑)
なんとか持ちこたえようと必死だね。
自己矛盾だよね。
鬼さんが一人で生きていて他の人がいないのであれば、なにも伝達する必要が無いので、言葉は不要になるね。
だが人は 社会性の存在だよね。
類人猿の中にあって、ひとが言葉を得てきたのは社会性の獲得だったのよ。
無毛のサル、パンツをはいたサル、
自然界で生きていくには弱い。
そこで集団生活が始まる。
この時の武器が言葉。
さて、鬼さんの繰り返しの呼吸法は、わたしの呼吸法とは違うのだろうね。
そこで、くどくど、繰り返し言わなけれないけないみたいだ。
読んでないので、すまない。┏○ペコ
コピペを止めて自己の、自己だけの、鬼さんだけの言葉で真理(さとり)を語れ。
待ってるよ。どうぞ。 >>66 他人がそのように見えるならば自分がなんとかもちこたえようと必死なのじゃろう。
おぬしが自己矛盾しているのじゃろう。
人とか社会性も無いのじゃ。
それはおぬしの妄想なのじゃ。
わしが語れるのはおぬしが悟りを知りたいならば、これから一日三十時間の実践をしなければいかんということだけなのじゃ。
それを三十年も続ければ知れるじゃろう。
何も無かったということを。 むきになることも、
頑迷固陋であることも。
必死であることも
無内容であることも、
全て自らの心の反映なのじゃ。
そのような心をありのままに観るのじゃ。 67 名前:鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] 投稿日:2019/11/20(水) 22:22:05.10 ID:gjYKI01t
>>66 他人がそのように見えるならば自分がなんとかもちこたえようと必死なのじゃろう。 おぬしが自己矛盾しているのじゃろう。 人とか社会性も無いのじゃ。 それはおぬしの妄想なのじゃ。
わしが語れるのはおぬしが悟りを知りたいならば、これから一日三十時間の実践をしなければいかんということだけなのじゃ。 それを三十年も続ければ知れるじゃろう。 何も無かったということを。
むきになることも、頑迷固陋であることも。必死であることも無内容であることも、全て自らの心の反映なのじゃ。そのような心をありのままに観るのじゃ。 』
どうもかみ合うところが、無いねえ。
定型文のコピペで済ましちゃおう、
と言う事なのだろう、言いたいことだけを繰り返す
、、、マイケルジャクソンだね、参った| 壁 |/_*)ハゥ・・・マ、マイッタ!マイケルジャクソン そのように書くと言う事はおぬしはかみ合わず、定型文のコピペということじゃな。
自分の言いたいことだけを繰り返しているのじゃな。
マイケルジャクソンなのじゃな。
死んだはずであるがのう。 >>70
(笑)
しばらく語り掛けない、守りに入られてしまったようだし、なにも新しいものが無い、じゃあ、いつかまたチャンスが有ればいいね<(_ _)> >>71 そのように書くと言う事はおぬしは守りに入っているのじゃな。
それで語り掛けないのじゃな。
何を守っているのかのう。
守るものなどなにもないのじゃ。
自分を観ていないから新しいものがなにもないのじゃ。
自分を観ない限りおぬしにはチャンスなど永遠に無いのじゃ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています