マインドフルネス Part.23
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★★慈悲の瞑想を過度に否定するのは止めましょう★★
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネス Part.22
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1565086871/ 無我の境地は魔境である。
私は坐禅して自己を磨く。自灯明。
「己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり。」『法句経』 私は坐禅して自己を磨く。自灯明。
「己れこそ、己れの寄るべ、己れを措きて誰に寄るべぞ、良く整えし己れこそ、まこと得がたき寄るべなり。」『法句経』 >>793
スマナサーラ長老は無我はあくまで無我
我では無いではなく我は無いということ
非我ではなく無我で正しい
永遠の魂、アートマンというものはない
とハッキリ言ってます いやーサルの自分も青空の自分もその存在そのものが錯覚っぽいですけど この世(第四図)の私は夢。お浄土(第五図)の私もまた夢
そう思わせてくれるのが慈悲の瞑想
はい、一発解決! >>800
で、その言葉で「我はない」とはどういうことか理解できると? >>804
矛盾してないでしょ
仏教無我ど真ん中でしょ
これで仏典全部簡単に読めるんです。 ゴータマは王宮で初禅
出家して八禅まで、真我のヨガをやった
しかし、それはゴータマの求めた問いの答えにはならなかった
苦行もした
なんだかんだあって「真我なんかなくねえ?」
と気づいた時に悟りへの道が開け
ゴータマは仏陀に悟った
真我に非ざるものとしての自己を発見した時に
苦を見つけて以来の全ての辻褄が合った
ということだろ
最初は真我、志向性、苦行後は非我、非指向性
比較分別にならない最小限の言葉で言おうとしたからわかりづらくなったんだろう
じゃあ、我とは何かといえば
考えや思いを自己と思い込んでいることだろ
いかに宗教的な概念やイメージに「我」を添わせて禅定を極めたところで
それを一旦手放さなきゃ苦からは逃れられない
それがジャンプ、エクアニミディだろ 山下が言ったことそのまんま言ってる人って何なんだろう 誤解されそうだな
僕らはエクアミニティまで入っても多分悟りにはならないだろうけどねw
しかし、ジャンプしたら菩薩ではあるだろう >>803>>806
は山下(信者)なりすましの荒らし 仏教の話は最低初禅まで入らないと全然ピンとこないと思う
瞑想しないで無我とは?とか考えても違ったものを頭の中に作り上げるだけ >>807
>苦を見つけて以来の全ての辻褄が合った
ゴータマの見つけた苦とは何?
単なる苦痛?苦しみ?生まれて来たことへの恨み辛み? 「ジャンプしたら菩薩」という言い方をワンダルマ以外でしてるとこってあるのかな 苦とはなんだ、これをなんと呼ぶ、これとこれとの関係は
とかそんなカッタルイ話じゃない
苦は苦だ
自己の認識する世界全てが変わるんだから紛れようもない体験だ
それを言葉でチョロチョロと小賢く理解しようとしないことだよ
ともかく初禅だ
ここがほとんどの人にとって関門
知識なんか一切ないほうが良いぞ? >>813
あそこは凡夫も菩薩だろ
たとえば法華経では独覚乗、声聞乗、菩薩乗は同じだという
凡夫も菩薩なのか?
そんなわけ無いだろうと思うが? マインドフルネスにかんして「ジャンプ」という言葉を山下、一法庵関係者以外で使ってる人いるのかな >>820
質問に答える前の書き込みも全部余計だということになるだろ 「無我」について思いついたことを書いただけ
山下とかの話ではないので、山下スレではやらない
山下の話でいうジャンプについて一行触れただけ
せいぜいオチャラケしかできない中身のない
〇〇アンチとか自治厨みたいな事ばかり言ってるこそ自重しろ
他人がしてる話にいちいち干渉するな、エゴの塊 ここは秘密警察の監視下だから
ナチス政権下のドイツでユダヤ教の話をしてるようなもんさ
マインドフルネスについて語ることは禁じられてる 大した話もないのに出てくるよな〜
秘密警察w
誰かが少し踏み込んだ話すると躍起になって否定しに出てくる 一切知識は必要ないと思うんだからずっと黙ってりゃいいだろ >>825
リアルに毒ガス刑にあうわけでもなし
やわな初禅 自分にとって関係ない話だからスネてるのか秘密警察はw
お前は関係ないんだから出てこなければ良いだろ、馬鹿か スレタイをワンダルマにすれば、
いくら山下用語を使おうが問題ないね!
次スレのタイトルは
ワンダルマ Part.24
にジャーンプ! >>812
これに正面から答えられないか
答える気もサラサラない
ジャンプだの体験すれば分かるだので誤魔化す。 まぁ「苦」は中国で翻訳された言葉だから
ゴータマが、苦は苦としか表現できない
なんて言うわけはありまへん 言葉で全て理解できるなら、本読めば完全な悟りに至れるね!
頑張れ! 痛みとかないし!
瞑想してる時以外はひたすら「苦」だけど!
みたいな >>836
言葉で理解できないのは当たり前だが、ギリギリまで頑張れ。
特に人に高説垂れる時は 言葉で説明しても必ず誤解されるだろう
というか、理解したからったら自分でやれという話でしかありえない
理解したくないから言葉で説明しろという
ならば説明する必要はない 何故、瞑想に入れない人に噛んで含めるように教えなきゃならんの?
しかもネットで
甘えるなよ全くw >>807
ヨダレ垂らして噛んで含めたげな覚者風文章 >>807
>出家して八禅まで、真我のヨガをやった
八禅は梵我一如とか真我発見とかとは無関係です。 >>844
そうなんだ、じゃあ無我って何なのです?
>>843
菩薩は覚者ではないでしょう >>846
ブッダは我の有無については一応無記を貫き通しましたが、恐らく涅槃に入ると自他の識別はなくなるようなことは語っています。
1044.( 1037) 〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔まさに〕その、〔あなたが〕尋ねた、この問いですが、それを、あなたに説きましょましょう。
すなわち、名前(名:精神的事象)と、形態(色:物質的形態)とが、残りなく止滅するところとは
――識知〔作用〕(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この〔名前と形態〕は止滅します」〔と〕。 初禅に入ってない人に少ないスペースで説明しても
ID:Y4RPxbAJみたいなチグハグ出鱈目な誤解をするだけになる
結局どれだけ説明しても>>843みたいなことを言われる
と、わかってるからねw
マインドフルネスをやっていって抑圧していた苦が観えることがなかったら
マインドフルネスにもならないのに…
>>844
そうですか勝手な思い込みでしたかね
では、最初の二人の師から教わった第八禅定とは一体どういう考え方に基づくものですか?
単に無知なので教えて下さい
>>846
そう、菩薩であって覚者ではないです
菩薩名乗るのは誰だって勝手だからね >>850
無我ってナーマ、ルーパの止滅のことなんですかね
そうするとテーラワーダだと預流果で無我知ってることになっちゃいません?
どちらにしても縁遠そうな話ですけど 信心から入る場合も教えから入る場合も、信・精進・念・定・慧の五根はあります。
五根で頑張って学びと修行に励むと、道がどんどん開け、やがて一瞬だけ「無我」を「体験」し、
預流果に達します。
https://j-theravada.net/world/study/pali-sutta2-4/ >>851
大般涅槃経でブッダがアーナンダに八つの解脱として解説しています。
ネットで検索したらその箇所を全文記載しているページがmixiにありました👍
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&id=77286770
ちなみに
無所有処も超越して、思いがあるわけでもなく、思いが無いわけでもないなあという非想非非想処に達して安らぐこと。これが第七の解脱だ。
は、元の中村元訳そのままだと思いではなく想いと書いてあります。
こちらの方が非想非非想のイメージは掴みやすいと思います。
想いは想蘊(イメージ、表象)のことなので。
>>852
非想非非想に至っても想はあるわけでもないわけでもないと名称(ナーマ、心の働き)が止滅しているわけではありませんが、預流ではその非想非非想まででも到底辿り着けないとされています。
ナーマ、ルーパの止滅は
非想非非想処も超越して、思いも感覚も滅し尽くす想受滅に達し安らぐこと。これが第八の解脱だ。
(大般涅槃経)
この第八の解脱、想受滅定(滅尽定)に至って実現するのでしょう。
つまり、それが出来る阿羅漢クラスじゃないと無理です。 自己主張は不要だろ。大事なのは共感力だけだろ。共感力が無いのはサイコパスだろ。以下、沈黙を貫く。 自己主張は不要だろ。大事なのは共感力だけだろ。マウンティングしてくる奴はサイコパスだろ。以下、沈黙を貫く。 私は傾聴(けいちょう)する。
自己主張は不要だろ。大事なのは共感力だけだろ。マウンティングしてくる奴はサイコパスだろ。以下、沈黙を貫く。 私は傾聴(けいちょう)する。
自己主張は不要であり、大事なのは共感力だけである。マウンティングしてくる人はサイコパスであり、男性のほとんどはサイコパスである。サイコパスは成仏できない。
以下、沈黙を貫く。 私は傾聴(けいちょう)する。
自己主張は不要であり、大事なのは共感力だけである。マウンティングしてくる人はサイコパスであり、男性のほとんどはサイコパスである。サイコパスは心が満たされることが無い。
以下、沈黙を貫く。 智慧は傾聴(けいちょう)に始まる。
自己主張は不要であり、大事なのは共感力だけである。マウンティングしてくる人はサイコパスであり、男性のほとんどはサイコパスである。サイコパスは心が満たされることが無い。
以下、沈黙を貫く。 仏陀は苦が無いのにサティ入れてたのか、ジャーナを行ったのかな?
苦はあったから、一切皆苦だから、苦を滅し続ける生き方をしたんでしょ?
激しい腹痛で苦しんだんでしょ?
禅定に入って入滅したんでしょ?(そこには苦しみはないよね)
仏陀の日常全て苦しみがないなら、別に禅定もサティも必要ないんじゃないの?
今朝書いたよね…
これも繰り返すけど
そこに至ってないマインドフルネスをやることが駄目だ
とは言ってないからね
そこよろしくね?
不可能性の追求だから、それは否定しない
一照さんの言う通り、失敗してナンボでしょ
全く砂一粒も希望が無くなったら、捨で観られるよ
あるいは発狂だね
それくらい苦しいよ、サマタと観察だけで捨になるには
だから慈悲の練習が大切、というのが私の考え方だな ニセモノさんサイコパス説もありうる
それは考察に値するな… 「非想非非想まではマニュアル通りたどり着けるんですよ〜」
的なことを山下さん言ってた記憶あるけど
あの人は一来果以上ではあるってことなのかな…
まあなんでもいいけど、どちらも疑ってないです ドゥッカに苦という漢字を当てられているから苦しみと単純に捉えるのは問題あるよね。
そういう要素も含んではいるのだろうけど。 大隠朝市(たいいんちょうし)。
私は人々という森の中で修行する。 >>865
ドゥッカそれ自体に苦しみ的要素はあるかな
受け止めようによっては、そうなるということじゃないか? しからば友等よ、何が苦dukkhaであり、何が苦の集であり、何が苦の滅であり、何が苦の滅へ導く道なのでしょうか。
生も苦です。老も苦です。死も苦です。憂悲苦憂悩も苦です。怨憎会も苦です。愛別離も苦です。求不得、それも苦です。要略するに、五取蘊が苦です。
友等よ、これが苦といわれます。
では友等よ、何が苦の集(原因)なのでしょうか。
およその、再有をもたらし、喜悦の貪りをともない、そこかしこに対する歓喜ある渇愛。すなわち、欲愛、有愛、無有愛です。
友等よ、これが苦の集といわれます。
では友等よ、何が苦の滅なのでしょうか。
じつに、かの〈渇愛〉の残余なき離貪による滅、棄捨、捨離、解脱、無執着です。
友等よ、これが苦の滅といわれます。
では友等よ、何が苦の滅へ導く道なのでしょうか。
かの八支聖道です。すなわち正見…… ……正定です。
友等よ、これが苦の滅へ導く道といわれます。
友等よ、聖弟子がそのように苦を知り、そのように苦の集を知り、そのように苦の滅を知り、またそのように苦の滅へ導く道を知り、あまねく貪随眠を捨て、瞋 随眠を排除し、
『我あり』という見慢随眠を根絶して、無明を捨て明智を起こし、現法において苦の終わりをなす者となるならば、
じつに友等よ、それだけをもって、聖弟子は正見の者となり、彼の見は真っ直ぐになり、法に対して不壊の浄信ある者、この正法に通じた者となるのです。
中部 正見経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmlp/mn01/mn01c17.htm 仏陀は、生老病死の苦から逃れることが出来るか?ということで出家し悟られた
どうにもならないことであり、絶対的なことだ
世俗的に如何に上手いこと生きようが最期は必ず死ぬ
信長も秀吉も家康も角栄も最期はただの死体だ
安倍もいずれ死んでただの死体になる
自分も死ぬし、親も死ぬ、配偶者も死ぬし、子供も死ぬし、孫も死ぬ
どんなに幸せを感じていてもみんな死ぬ
年老いていき、死ぬ
人間全員、死に向かって生きてる 幼児が親に虐待されて死ぬ
道を歩いてても高齢車が突っ込んできて死ぬ
家で寝てても不審者が入ってきて死ぬ
山を登っては死に川で遊んでも死ぬ
風が吹いても死ぬし雨が降りすぎても死ぬ
太陽が照りすぎても死ぬ
飯食ってても風呂入っててもセックスしてても死ぬ 苦dukkhaは、どうにもならないという現象
のみこまれなければいい。
引き摺られなければいい。
醒め醒め続けていればいい。 慎重に沈着に不放逸に注意深く、感覚-感受-渇愛-執着から実体視(錯覚)に至るこころのカラクリを観ていればいい
大ごとにはならない
適切な対応もできる >>862
>全く砂一粒も希望が無くなったら、捨で観られるよ
あるいは発狂だね
仏法の勘違い
ニセモノ 手前勝手な勘違い
重い我執が見たいものだけを見ている 手前勝手な勘違い
重い我執の苦しみが見たいものだけを見ている 秘密警察ゲシュタポは、ニセモノさんを香しいと踏んだのか
みなさん今日も一日ワンダルマメソッドで元気に爆発していきましょう!\(^o^)/
ピース 痛みがあるからサティを入れるのが仏陀
痛みとか感じないしだから、つらいよねも無いというのがアスペさん >>875
確かに一法庵総意の現実認知のずれは、笑っちゃうほど凄いよな
天気の子とか >>873
では、ホンモノはどう違うのか教えて下さい
お願いします
砂一粒の希望があるとはどういうこと?
砂一粒でも心が未来に行って今ここにない
という意味なんですが…
そこ読み取れてますか?
観たくて観られるわけないと思うけどな
出来れば観たくないと思っていたようなことだし
見たくて見たなら発狂してもおかしくない
執着したら観ても消えないよ
>>879
一法庵関係ないですよ
全く名前も知らない頃の話ですね テーラワーダは発狂・自殺するから日本人には向かない あと
捨になってないマインドフルネスが悪いなんて言ってないですからね
そこよろしくお願いしますね
それじゃ
>>885
質問してるのはこちらですが、逆質問ですね
「イマココ」はサルの自分にとっては絶望ですよ
サルは常に砂一粒でも未来に心を向けて「希望」を作り出そう
絶望を観ないようにしよう、苦から目をそらそう、とする
イマココはサルの尽一切絶望ですよ
本当に今ここになるには山下の言うジャンプがなかったら不可能です
それが捨だしマインドフルネス
シンプルだけどそんなに簡単なことでもない
あなたはホンモノを知ってるから、悪人正機は仏法ではないと
アングリマーラもチュッラバンダカも悟っちゃいねえとおっしゃるのかもしれないけれど
私は騙されません
それじゃ 山下師言うところのジャンプがないのはマインドフルネスではありません
それを実現するには山下師考案のワンダルマメソッドが一番なのです そうそう
山下メソッドでなければジャンプしない
とは言ってませんので
そこもよろしくw そうそう
名古屋のヨギーニはその昔、悲しみと絶望のあまり一時、離人症にも似た状態となりました。
ワンダルマ唯一の公認ジャンプです。
そこんとこ夜露死苦w
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