【仏教】悟りを開いた人のスレ440【天空寺】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
お気軽に質問等をどうぞ。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願いする
※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ439【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1567229664/ 私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 「自分とは何か?」
これは雑念である。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 「自分とは何か?」これは雑念である。自分は自分。それだけだ。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 キノは馬鹿ぢゃ。逃げ虫ぢゃ。雑念に囚われて、それを解放だと勘違いしとる阿呆ぢゃ
>> 大山
環境を認識するものは、環境なのぢゃ 「自分とは何か?」これは雑念である。
「自分はいない」これは洗脳である。
自分は自分。それだけだ。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 ロボットは、環境ぢゃ
ロボットは、ロボットを認識できる
つまり環境は、環境を認識できる
人間も、環境ぢゃ
人間も、人間を認識できる
つまり環境は、環境を認識できる
で、自分。それは何処におるのか?
どの部分からどの部分までが自分で
どの部分からは、自分ではないのか?
自分というものが、有ると言うのなら
それを明確に答えてみよ 「みんなの為に」これは迷いである。
「自分とは何か?」これは雑念である。
「自分はいない」これは洗脳である。
自分は自分。それだけだ。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 995こじ ◆jDjYTwtZiI 2019/09/02(月) 23:45:36.78ID:dOP5RsWZ
ズバリ教えてやろう
「自分など、無い」のぢゃ
そのようなものは、初めの初めから、この世に存在すらしておらんのぢゃ。『これが真実 』
それを強化することも、守り通すことも、癒すことも、救うことも、無意味ぢゃと知れ
998仏教棄民の大山2019/09/02(月) 23:47:57.21ID:6Q+6fQjQ
>>995
断見。
こじさん、よくよく鑑みてください。自身を縛ってる縄を。 バカは、自分とは何か?を答えてもせずに
「自分以外はどうでもいい」と言うておる
この矛盾を、どう説明するのぢゃろうか? >>7
>>> 大山
>環境を認識するものは、環境なのぢゃ
(環)境は相分。
相分は見分と対で成立する。
あなたはつまり、"相分を認識するものは相分"って云ってる。
論外。 吹聴する初関を40回も透ったら、そりゃ初関を透る、じゃないっpe
お抱え運転手年金イヌヤマ!オマイは タバコ ! ( ´兪)y-~~百害ダケデ一利なし外道!
5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。
但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。
ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいのです。
それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。
一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼の抱え込むリアル社会の絶対評価です。
と言う事で、糞雀鬼は「暴れさせて、ゴミがたまったら透明あぼ〜んが適切ですね。
決してレスポンスしない事が、大切。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○荒らし粘着糞雀鬼は無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。
|| 荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。
|| ○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。
|| 荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。
|| ○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。
|| 荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。
|| ○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。
|| ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。
|| ○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。
|| 荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
|| ○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
|| 荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい
|| ○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせておいてゴミが溜まったら削除です。
|| 荒らし糞雀鬼は外道{野狐}です。
|| ||
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
愚レスポンスを繰り返す糞雀鬼、|出口| λ............トボトボ ............トボトボ ............トボトボ out >>10
「自分はいない」は敵を無力化するための洗脳戦術である。 前スレで何のために座禅するのか、という
問いの答えがアレとは…
座禅する自分に酔ってるだけとか笑 悟後の修行
禅宗においては、見性を得た身心をさらに長く養い、悟りを育てる悟後の修行を「聖胎長養」という。
修行が済み、ある境地を得たといっても、それを真に無碍自在に活用できるようになるがために、容易に世に出ずに、さらに心境を錬ること。
人は一度悟ったとしても、慢心しているとすぐ迷妄に陥るからとする。
唐代初期の馬祖道一の『馬祖語録』
「示衆」の「見色見心」にて、「色の空なるを知るが故に、生は則ち不生なり。
若し此の意を了せば、乃ち時に随いて著衣喫飯し、聖胎を長養して、任運に時を過ごすべし」とあり、馬祖道一の門下の大梅法常、亮座主、大珠慧海は大悟したのち、聖胎長養にみな励んだという。
日本においては、悟後の修行である聖胎長養を鎌倉時代末期の大燈国師、関山慧玄が重視した。
大燈国師は、大応国師から与えられた『碧巌録』の雲門の関字の公案を3年かけて透過し、大応の印可を得た大燈は、京都に帰り鴨川の東岸あたりで乞食の群れに入り、日夜刻苦精励したと伝えられる。
これが有名な「五条橋下二十年の聖胎長養」である。
関山は京都洛北・大徳寺の開山・大燈国師について修行、禅関の奥義を極め、52歳のとき、印可と関山慧玄の道号を授かり、美濃の伊深の里に身を隠し、里人と一緒になって牛を追い、田畑を耕して悟後の修行に励んだとされる。
大燈は20年、関山慧玄は9年、白隠の師正受老人は44年の聖胎長養の時を持っている。
江戸時代の白隠禅師はこれを取り入れ、「見性」と「悟後の修行」の2段階の修行を唱えた。
最大の関門は「見性」であるとし、「本来の面目」を覚知自証した後は、これに満足せず、修行者は「悟後の修行(聖胎長養)」によって悟りを深めることで、禅の完成があるとした。
この修行は臨済宗の禅の特徴となった。
白隠は、その法語では、しばしば、永遠の「悟後の修行」を勧め、たとえ悟りを得ても菩提心なければ魔道に堕つと説く。
そのためにあらゆる分野の書物を読んで学問をして、それによって人に施せとした。 では「みんな」とは何か?
そのようなものが、どこにあるのか
>> バカ大山
相分って何ぢゃ?見分って何ぢゃ?
いちいち用語を持ち出すな。現代語で書け 「自分とは何か?」これは雑念である。
「自分はいない」これは洗脳である。
自分は自分。それだけだ。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 >>17
静かに坐れば、禅。
型にはめたら、見てくれのお坐り。見てよ、みんなぁー 坐ってる俺をほめてくれよー それが∪・ω・∪ 悟後の修行など、一切無い
>>16
敵を無力化するには「自分はある」と言えば、その勘違いに囚われて、バカにできる
「自分は無い」を知れば、すべてのリミッターやブレーキを外せて、何でもできる 守るべき「自分」を意識しつつ
右手に剣をもち、左手に盾をもって、振り下ろした剣の威力と
守るべき「自分など無い」と知り
両手で大剣をもち、両手で振り下ろしたときの剣の威力では
どちらが上か? 「自分はいない」これは洗脳である。
自分は自分。それだけだ。
私は医者にデパスを処方されて悟りを開いた。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 >>10
>ロボットは、環境ぢゃ
>ロボットは、ロボットを認識できる
>つまり環境は、環境を認識できる
認識っていうのは、見分(見るもの)と相分(みられるもの)に分析される事なんです。
つまり、こじさんの中でロボットaが相分なんです。
で、そのこじさんの相分であるロボットaの中でロボットbが相分なんです。
だから、それ、言ってることが支離滅裂なんです。 >>19
見分と相分については今まで何十回も説明したけどなぁ。 尊重すべく「相手」を意識しつつ
それを気づかい、言葉を選んで話すことと
尊重すべく「相手などいない」と知り
気兼ねなく、言いたい事を言うのでは
どちらが気がラクであるか?
和智が言うとる教えは、精神を縛るような平和思想に見えるか? >>24
敵に自分の姿をさらさずに遠距離から狙撃するスナイパーが最強である。 >>22
>「自分は無い」を知れば、すべてのリミッターやブレーキを外せて、何でもできる
無けりゃ外すリミッターもないでしょw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ鬼子ちゃんへ
余談ですが
YouTubの花園大学公開講座で横田南嶺総長が臨済禅師の臨済栽松のお話しをされて
公案だと思いますけどずっと取り組んでいらっしゃるみたいです ロボットaも、ロボットbも、環境ぢゃ
見るものも、見られるものも、環境ぢゃ
>>29
接近戦より、遠距離戦より、罠の方が上ぢゃ >>24
>守るべき「自分など無い」と知り
だったら攻める自分もねーだろw 【ゴータマブッダが説いた教え】と
(その弟子の教え、弟子の弟子の教え、と連綿と続いてきて)、
【現代の仏教の教え】の両者はどのくらいの違いがあるのだろう >>28
>尊重すべく「相手などいない」と知り
>気兼ねなく、言いたい事を言うのでは
ただの増上慢でしょ、それw 「自分はいない」これは洗脳である。
自分は自分。それだけだ。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 >>30
「自分がある」。それがリミッターなのぢゃ
「自分が無い」。外すリミッターもないの
>>35
そうぢゃ。環境が自由にあるだけぢゃ 「自分はいない。」
これは洗脳である。
「心底、自分以外はどうでもいい。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 >>33
>見るものも、見られるものも、環境ぢゃ
そもそも環境って意味知ってる? 攻める自分も無ければ、守る自分も無い
正覚者も無ければ、増上慢も無い
環境は、環境ぢゃ >>31
終わりのない公案でしょうね。
死ぬまで続けていく事です、現成公案です。 >>34
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ忙しいのが好きなのかなぁw
知らないけどwww 「心底、自分以外はどうでもいい」
その「自分」とは何か?それは明確に何なのか?答えてみよ >>47
いや、見込みの有る人を探してるんじゃないかな? >>48
空き缶は環境である。部屋も環境である。身体も環境である。意識も環境である >>52
んー?
お前、唯我独尊タイプじゃ無かった? では大山よ、鬼子よ
「自分」とは何か?
答えてみよ >>41
>「自分が無い」。外すリミッターもないの
え?
さっきまでリミッターを外すって言ってたじゃん。
で、自分なきゃ何もできないじゃんw 見られるもの=対象があるから、見るもの=主体・主観があるというのはちがう。。
認識があるから、認識するものがあるだろうというのはちがう。。
認識のみがあって、認識する者はいないというのが正解だろうな。。
あるいは、主客なし、現象のみがある。。 >>45
>正覚者も無ければ、増上慢も無い
え?
わしは悟りのチャンピオンって言ってたじゃん? 臨済宗の寺に松はつきもの。妙心寺の境内にも沢山の松が植えられている。
「臨済裁松の話」
師匠(黄檗師匠)の下で修業中の臨済は、ある時、松を植えていた。それを見た師匠は問いかける。
「こんな山奥にそんなに沢山の松を植えてどうするのか?」
臨済はそれに答えて言う。
「一つには寺の景観のために、二つには後の人の為の目印のためです。」
この後も問答は続くが…
師匠は言う。
「私の宗旨はお前の代になって大いに世間に広まるだろう。」
この話に依って、臨済宗のお寺では松を植えることが盛んになる。
松は常に色を変えず、寿命の長い木であるから、「教えが永遠に続く」という事に喩えられ、
ここでも臨済宗の教えが色あせず続くという事を意味している。
松樹千年翠(松樹千年の翠)
また、なぜ松を植えていたのか?臨済は景観の為と言っているが、はたしてそうか?
師匠の言うように山奥に松を植えてどうなるのか? >>47
率先垂範方というか、付属の幼稚園児とマラソンしたり、まぁ、元気がいいんでしょうね。 >>56
阿呆。
十二支縁起が解ってない証拠。
お前は無明でもトンチキ言ってただろ。 >>62
凡夫に言われてもね。
証しは立てたから、あんたに言われてもなんともw 自分は確実に今ここに存在する。
「心底、自分以外はどうでもいい。私は私の事だけに専念する。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。 鬼子とこじさんを一緒にするのは可哀想だ。
こじさんが流石に可哀想。
円覚寺まで足運んで作文提出しようとする奴と同じは気の毒。
ビジネスでは常識って、坐禅会はビジネスの場ではない。
そこまでの思いがあるならここに書き殴ってみせろよへなちょこ。 >>69
「お前」とは、何なのか?
「自分」とは、何なのか? >>69
本当にそれだよな。ぶれたよな。俺は人のこと言えないが。 ただ、通常の認識というのは、認識した途端に、主客分かれる。。
ホントは分かれていないんだけど、分かれていると思うから、認識が生じるわけだ。。
自分の外に客体があるように思う・・・こっから迷いが生じるということ。。
だから、現象学的還元みたいに、三界唯心、万法唯識とか、すべては心の中にある、なんてことを言う学派が生まれたわけだ。。w
心外無別法・・・こんなんでホントに解決するのかな?w
それより、認識以前の実在に触れましょう、ということだと思うが。。 >>67
だから書いたじゃないですか?「あなた」はどうですか?
959神も仏も名無しさん2019/09/02(月) 23:16:45.67ID:76SQx09A>>960
真に仏を求めているなら、誰かに何か言われる前に坐ったりするもんです。
その上で渇きが収まらんと喘いで師家を求めると…こう来るんです。
色んな人がいますがね…。
坐った事もないのに居士林ってアホでしょ?
それに生きている間は燃え続けるんですよ?消せません。
仏教で火といえば何を指しているか分かりますよね。
「私、消せました!」って豪語しとるのがここの似非覚者でしょう。
977神も仏も名無しさん2019/09/02(月) 23:31:56.80ID:76SQx09A>>980>>982
>>967
なぜ涅槃寂静まで書かなかったか、彼方には分からないでしょうね。
>>969
そうですが?
絶対に地獄から逃れられない一凡夫です。
あなたはどうですか?
仏教は常に己を問われるものなんですよ?
988神も仏も名無しさん2019/09/02(月) 23:40:13.82ID:76SQx09A>>991
>>980
ビジネス思考の損得勘定で精々坐禅してくださいな。
自己を以てして、何かしようという…坐禅は習禅に非ず。 >>71
「確実にここに存在する自分」とは、何なのか?どこからどこまでを自分というのか? >>4
〜とは何か?
を消してしまえば、一生苦しみから逃げ続けることになる。
キノさんは一生雑念との戦いである。 >>59
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ五祖が前世で松を植える方だったんだって 認めて欲しいから縋ろうとする。元オウムと同じなんですよ鬼子さんは。
縁起を止める!なんてよく書けましたよね? 自分は確実に今ここに存在する。
「心底、自分以外はどうでもいい。私は私の事だけに専念する。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。
それを世間から叩かれないように表現すると、
「現実に即する」
となる。 >>77
お前の「理解しない姿勢」に付き合うのウザいの。
俺はお前じゃないから、俺の行動は俺が決めるの。
大体、お前に回答求めて無いじゃん?
バカなの? 自分は確実に今ここに存在する。
「心底、苦しいのは嫌だ。自分以外はどうでもいい。私は私の事だけに専念する。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。
それを世間から叩かれないように表現すると、
「現実に即する」
となる。 馬鹿キノは、自分に囚われておるだけの、連投バカぢゃ。デパス飲み馬鹿 >>84
いや、こじの解釈次第で返答が変わる。
俺は今までのこじと違うから返答に困惑してる。
どしたの? >>11
自分とは何か?が雑念であれば、会話すら否定することになる。
あなたはどこ出身ですか?趣味は何ですか?
それも雑念である。と言われたら、会話が終わってしまう。人生がつまらなくなる。
自分以外はどうでもいいなら、あなただけが、幸せになれる。 「心底、苦しいのは嫌だ。自分さえ助かれば他人はどうでもいい。私は私の事だけに専念する。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。
それを世間から叩かれないように表現すると、
「現実に即する」
となる。 馬鹿キノは「自分」という勘違いの監獄に囚われて、そこから解放されずに
精神を「自分」という勘違いに縛られ続けて、デパスを飲んでる、精神異常者
>>89
うむ
>>90
いいから鬼子なりに「自分とは何か?」答えてみよ >>85
そりゃあなたが頓珍漢なんだもの…あなたを理解できるのは同じ狂人だけ。
ビジネスの場ではないんですよ。あなたが行こうとしている円覚寺って。
横田管長の迷惑になるんですよ…。夏休みの作文提出は。
少し考えられたら分かるでしょうが。 「心底、苦しいのは嫌だ。自分さえ助かれば他人はどうでもいい。私は私の事だけに専念する。」
その時、私はあらゆる雑念から解放されて身軽に生きていけると確信した。
それを世間から叩かれないように表現すると、
「現実に即する」
となる。 自分を知らんなんてのは、達磨さんならいいけど、ホントにそこまで徹してないやつが言うと嘘になるんでないだろうか?w
自分を何かしらとみなしてるでしょう、みんな。。w
自分が自分を何とみなしているか、別名自我というわけだけど、そっちを省みることも必要だろうな〜。。w >>95
自灯明を持ってすれば、自分を見る事は、他人を見る事でもある。
ついてこれる?? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています