大山は、子供のころによほど親から「勉強しなさい」と言われてきたのか
あるいは、勉強することで己の劣等感を埋め合わせしとるのか、は分からぬが

知恵での探究、知識の収集というものに対して、信奉的になってるように見える
学び重ねてきた己の苦労と努力を、なんとか報われる形で昇華させたくもあるぢゃろう
そのような想いが、儚く終わるのは嫌でもあろう。積み重ねたものが瓦解することは
懸命に頑張ってきた者ほど、辛いことであり、手離そうにも手離せぬものであろう

しかし、IQ による知恵や、勉強による知識は、それは仏の「智慧」とは別ものぢゃ

信奉的な想いを、心の動きである知恵や、沢山の情報を記憶する知識におくことは
そこには精神の安静など、あろう筈が無いのぢゃ。これは例えば、大山の話しであって

ある者は強さに固執していたり、ある者は美しさに固執していたり、ある者は
技術探究であったり、財産を貯めることであったり、何かしらを信奉的に
「自分にはコレしかない」「信じられるのはコレだけ」「ここに主軸をおいて生きよう」
などという思いがあったりする訳で、そのような思い立ちと、努力と苦労を
報われない形で心のなかから手離すことは、やはり頑張ってきた者ほど、辛いものぢゃ

しかしながら仏教の教えは「諦観」

あれを諦めろ、これを諦めろ、と、諦めの教えのオンパレードである理由が此処にある
その諦めとは、心のなかで手離せば良いだけであり、それを失い切るのではなく
そこに対して、信奉的に「自分にはコレしかないんだ」という、強い思いを
それを「思い立つ、一瞬前」まで、戻すだけで良いのぢゃ。それこそが「心の帰路」

人生という、心が右往左往する長い旅路の、巡り巡って戻り道の、帰るべき故郷である

(-人-)