涅槃寂静。悟りは、精神の安静でもある

ではその安静は、いったい精神のどこにあるのか?という話しぢゃ

まず最初に、人はそれを安全にあると考え、それを得るためには危険を排除しよう
と考える。その段階は、外の世界を見てどうこうしようと考えている、凡夫なのぢゃ
警備員になるなり警察になるなり、やり始めるが、彼らを見て、心が安静には見えない

つまり精神の安静は、心の内側の問題であり、外の世界をどうこうしても仕方ない
ここから精神の内側を観るようになる訳ぢゃが、その心というものは、常に右往左往し
止めどころがないものだと、垣間見るであろう。そんな精神のいったいどこに
安静があるのか?それはズバリ「思い立つ前」ぢゃ。そこに気づかないと悟れない

「〜をしよう」「〜になろう」「〜でなければならない」などという思い立ちは
それと同時に、その瞬間に「今はそれが不足している」という、影を発生させている
その影が付き纏う限りは、精神の安静は得られずに、悪戯な思考を練ってみたり
悪戯な努力を重ねて「なかなか上手くいかない」という思いに、たびたび出会すのぢゃ

で、その思い立つ前。そこに悟りがある。ここをよく観るのぢゃ。ほんの一欠片も
思い立ってはならぬぞ?例えば凡夫は、こんな事を思ったりする。誰それは裕福だ
それに比べて自分は貧相だ。それを努力で埋め合わせ「しよう」。とかぢゃ

差異の見比べから、劣等感が生じて、努力で埋め合わせしようと思い立ち
それを己で「これは向上心だ」「自分は前進してる」「自分は努力家だ」などと
その心の能動性のなかに、心を依存させてしまい、努力で夢中であるときは良いが?
それは精神の安静とは言えないものぢゃ。ここに、有りの侭を観ることの難しさがある

極端な話し、外で殺人事件があろうと、戦争が起きてようと、明日の食べ物が無くとも
「何も思い立たない」ところに、精神の主軸を置いておくことが、悟った者の心境ぢゃ

そこから心を動かせば、必ず「〜しよう」「〜になろう」「〜でなければならない」
となり、それをモチベーションに変えてしまうのが凡夫なのぢゃ。それが観えぬのは

よく自己観察ができておらんからぢゃ (-人-)