エホバの証人の復活の楽園について
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人間は草食になり、病気もケガもなくなり
成長するのは二十歳くらいまでで永遠の命。
楽園は地球だけど天変地異もない。 日本弁護士連合会のサイトの中に
「反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」
https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/1999/1999_13.html
という日弁連が出したPDFファイルがある
(1999年3月26日)
内容は、法律家の立場から、今なお問題が多い霊感商法に対して一つの意見を提言する、というもの
なかなか興味深い資料ですな 世の終わりの予言、何度も外れてるんでしょ?最初は1914年とか言って外れ、
その後も何度も外れ、結局1914年に世の終わりが始まったとか言ってごまかし 異端とされてることや、預言が何度も
外れてること末端の信者たちは
知ってるのかな? 楽園になったら何をしたいかとよく聞かれるが、どうしてもこれを言うとドン引きされそうだから
言わないでいることがある。
誰を復活させるかどうかはエホバのみぞ知るのだから、ヒトラーやゲッベルスや東条英機や
石原莞爾や大川周明が生き返ったらいろいろと尋ねたいことがあるんだが。。。
特に大川周明に聞きたいのは「東京裁判でどうして東条英機の頭を引っ叩いたのか?」という点。
ゲッベルスに聞きたいのは「ヒトラーのどこがそんなに良かったの?」ってとこかな ヒトラーや東條英機、石原莞爾はエホバの証人だったんですか?エホバの証人の
人しか楽園に行けないんですよね?石原莞爾は法華経とか右翼とかと思った。
自分も楽園に行きたい。どうすればエホバの証人になれるのですか? 聖書の矛盾
1.神は祈りを聞かれる
神が叶える祈りは神が行うことのみ
神が叶えない祈りは神が行わないことのみ
祈りをしようがしまいが結果はかわらない
変わるのは祈った人の心のみ
2.信仰の定義、楽園の希望
「私たちが神を愛するのは神が私たちを愛してくれたから」これが信仰の大前提
ということは本当の信仰を持つ人は見返りを求めないはず
楽園の希望など本当の信仰を持つ人には必要ない
これは聖書自身が聖書に矛盾しているところだからいくら屁理屈こねくりまわしても納得してはいけない 衣食住トイレはどうするの?
自分たちで作るの?
神様が、やってくれるの?
老化がないから老人もいない。
異様な世界。 もちろん自分たちでいろいろやりますよ
神様の助けがあるから何も問題ありません
病気で死んだり苦しむこともないでしょう >>7
過去に生きていて今は亡くなっている人は、エホバの証人ではなくても、
生きていた時にエホバの事を一度も聞いた事がない人でも、ほとんどすべての人が復活してきます。
復活した楽園でエホバについて学ぶのです。 別に楽園信仰というのは
変わった宗教観ではない
古代ギリシア人はエリュシオンという楽園を
信仰していたし
インドの極楽浄土、中国の桃源郷など
世界各地に昔から楽園信仰というのはあった
しかし
エホバの証人にとっての真の救いは殉教であって
そこが狂信的やらカルトやら
言われるゆえんなんだが
楽園の希望はエホバの愛や善良さから来るいわば
ボーナスのようなもの
最初から楽園に救いを求めるのは間違いだろう >>13
復活後にJWになるの拒否ったらその場で処刑(石打ち)されるの? >>15
おまえみたいなバカが
エホバの証人じゃなくて良かったよ >>16
なんでバカなんだよ〜
知ってるんだろ〜教えてくれよ〜 >>18
今時って書いてある時点でお察しなんだよな
こんなマヌケばかりだわ >>13
これホントかよ?宗教は普通、救われるのは自分たちだけだろ?
つまり、自分も楽園行き? イスラム教やキリスト教は救われるのは自分達だけ。仏教は仏になれる、解脱できるは自分達だけ。いずれも信者には
ならなければならない。信者じゃなくても楽園なら信者にならなくてもいい。
今度エホバの証人の人が来たら聞いてみよう >>22
生前に教えを一度も聞いた事がないなら復活してチャンスが与えられるという事になっている。それでも聞かないなら最終的な裁きで滅ぼされるから一緒。
生きているうちに神に故意に従わなかった者は裁きの復活。 >>23
家にエホバの証人の人は何度も来てる。しつこいと、もう来ないでくださいと
言ってる。信者になると期待させちゃうのも悪いし。ならば自分の楽園行きは
ないと言う教えだよね。
まぁ、いいけど 完全な天使が自ら悪魔になった
完全な人間が神から離反した
楽園になっても神から離反する人満載だね
1000年王国すぎても神から離反する人満載だね
結局今と変わらん状態になる 私が子供の頃は1977年頃ハルマゲドンが始まるって言ってた
全然起こらなくて草 人間は草食って、エホバの証人は菜食主義じゃないでしょ?輸血はダメでも
焼いた肉は食べてる。楽園じゃ料理しないで草食動物みたいに食べるのかな?
どんな楽園になるのか知らんが聖書に
こんなこと書いてあるの? 書いてないよ
その辺は勝手な解釈
復活してくる人には性別がないとか勝手なこと断言してたしな
それはようやく不明ってことになってたけど ライオンは草を食べるだっけか?
同じ記述に赤子は蛇の穴に手を置くとか書いてあって、明らかに比喩表現(全ての赤子が100%蛇穴に手を置くわけない)なのに「ライオンが草を食べる」だけ文字通りの現象だと理解してて頭悪すぎだろと思ってる 別に教理の重要な部分なわけじゃないから大したことないし、俺も別に問題視してるわけでもないんだけど
頭悪いやつらはこの辺指摘する会話ちょろっとしたら「奴隷級の理解を信じないとは危ないやつ」みたいな反応すんの
考えろ考えろ
思考力を働かせろよ
結局残ってんのは思考力を働かせてるつもりになってる盲信者だけ 主として聖書って二種類ある。訳しかたが違う。宗派や教会により
使い分けてるんでしょ?エホバの証人は新世界訳とかいう
独自の聖書らしい 教理について少し論理的に考えるだけで「奴隷級」の正統性が揺らいじゃうんだからそんな会話して危ない橋わたれねーだろw
完全にマイコンされてる奴だけでなく教理のヤバさに気付いてるやつは議論自体避けるだろうよ
中途半端に論理的思考ができて自分を賢いと思ってる奴が能天気に疑問を口にする
特に「比喩と字義通りの恣意的な使い分け」を指摘しだしたらいつ坂を転げ落ちてくかw
・「大群衆が神と子羊の前に立っている」のは比喩で「14万4千人」は文字通りの数なの?
・「忠実で思慮深い奴隷」は実在するグループを示していて、「飲んだくれの奴隷」や「十人の処女」は比喩なの?
ちなみに楽園での猛獣の話は数年前の研究記事で「人や家畜を害さない」ということになったよ
脳天気な姉妹が「草食になる」て注解して長老が訂正してたw 最近思うのがサタンのほうが一貫性があるんだなとw
サタンは長い間きっちり仕事してブレてないw >>35
>ちなみに楽園での猛獣の話は数年前の研究記事で「人や家畜を害さない」ということになったよ
ソースをお願いします >>40
その話は聞いたことあるぞ
ソース示せって言われても辞めてるから示せないが
確か出版物の楽園の挿絵が猛獣や草食系動物がみんなで
草食ってる光景だったような
また一説によるとノアの洪水前は人間は肉食ってなくて、
楽園ではその時に戻るような話を聞いたことある >>43
まあまあ
エホ証みたく偽りの教理+コロコロ教理変わるのにソースと言われてもね・・
仮にもソースが出てきたとしても、こんなめちゃくちゃな宗教の
ソースなんてほぼ意味ねーだろうw 最新の研究記事による公式見解は
塔12 9/15
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2012682#h=1:0-57:0
これだったような気がする
「おおかみと子羊」の聖句なのに「動物と人」の関係だけを語っているのが片手落ちだが
こういうの見るとガチで最低限字が読める程度の知的レベルの人間しか相手にしてないんだなぁ・・・と感じる この記事は楽園での人間と動物の関係について言及しているのであって、
動物が楽園で草食になるかどうかを論じている訳ではないじゃん 人類が文明をもってから70万年は経過してるのに、いまさら聖書とかいう
寄せ集めの物語を信じてこの世の終わり?楽園出現?
知能低いだけでしょ?
どんどん新しい歴史の発見があって聖書、キリスト教なんか一蹴されてますよ。
今の世界中の興味は日本人の古代史に集まってるんじゃないの
ユダヤよりヤマト=人類史ですよ。
シュメール人はヤマト民族で正解なんじゃないの? >>46
これ読むとスラム街の人向けの宗教なんだね。
話の内容も話の展開の仕方も、頭の狂ったやっとこ字が読める程度の小学生レベルだわな。
間違っても先進国の大人が洗脳されるような内容ではない。
私の人生に最も嘆きと叫びと苦痛をもたらしたのはエホバの証人ですよ。
知能の低い五体満足な人たちが他人の人生を滅茶苦茶にするんだ。 >>44
ノアの洪水じゃなくて氷河期以前は肉食ってませんでしたよ >>50
その小学生レベルの宗教から
落ちこぼれるとか頭の障害者かなんかか?
おまえのバカ親が泣いてるぞ?
せっかく虐待みたいにして教育したのにってw 信教の自由(カルト宗教無法地帯)の今の狂った日本で、
子供を成人するまでカルト宗教と頭の狂った人間から守るのは最低限の親の務め! 子供の頃研究生だった者です。もともと教えに対して疑問だらけだったので大学への進学を機にバッサリやめました。
巡回監督が止まりに来た時「なぜ?なぜ?なぜ?」って質問したらキレられたのもいい思い出ですw
予言がことごとく外れてるのにみなさんはなぜまだ信じてるんだろ?と思ってたんですがあれと同じですね。ギャンブルで「もう10万突っ込んだのに今更引き返せるか。当たるまでやめれないだろ!」 金、時間、人生の全てをエホバの証人のような宗教に捧げ、子供の青春まで
犠牲にして生きて来たら疑問に思っても、後戻りできない。自分の人生
だけでなく子供の青春まで台無しにしてしまったことになる。自分の人生
だけでなく子供の人生まで無責任だよね。自分をごまかし生きて行くしかない。
子供がかわいそう。子供までまきこむな いしいさやさんと木本結梨香さんは青春を奪われた。
木本さんは命まで 諸外国から見ると、日本は児童性的虐待にとても寛容な国に見えるそうだ。
マスゴミの報道姿勢を見ていても忖度しまくりなのが分かる。
実際は、エホバの証人組織は国からもマスゴミからも守られ、忖度されている。
税制でも優遇されている。
なぜなら「ものみの塔組織」は「この世の支配側、権力側」だから。
一番悲惨なのはエホバの証人の親に育てられた子。
生まれてからずっと共〇主義勢力による迫害を受けている。
自殺した子もいる。組織は自殺者さえも冷たく攻撃する。
(実際はそれが目的だったりするので組織は痛くも痒くもない)
国家、人種、イデオロギーの破壊が目的だから反省もせず任務遂行するのみ。
邪魔者は徹底的に攻撃するのみ。 日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、自殺を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人・職人気質はブラック企業擁護論である。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。
職人気質は悪しき文化
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1573270987/755
dnr 偽りの教理
コロコロ変わる教理
ことごとく外れる予言 エホバの証人として過ごした楽しい青春時代を思い出す エホバの証人の子供だと言う自分を相対化
絶望が導く相対化の世界
でも、おそらく、そのような希望を持つより
心は豊かで居るのだろう
どうせ、いじめられる底辺信者、底辺国民だ 証人が動物は聖書読めないから楽園に行けないって言ってたけど流石にこれは酷過ぎだろう 組織や仲間の信者に対する罵詈雑言を口にする現役信者がいつまで経っても辞めないのは、
ハルマゲドンを生き残って楽園で永遠の命を貰いたいから???
ご利益宗教なの???
自分だけは助かりたい??? >>49
まさに騙されやすいタイプ・・
脱会直後にパチにハマる恐れあり
しかし競馬は頭使うので女性元カルトはのめり込まないかも すべての動物が草食になったら生態系が崩壊してしまうように思うが…
動物はどんどん増えて、山々は丸裸になり…
(現に日本は、大型肉食動物がいないせいでイノシシやシカが増えすぎて困っている) >>66
「神様がそうならないように、ちゃんと管理してくれるから大丈夫」
って言うよ、この人たち。
気の毒な人たち >>1に天変地異もないって書いてありますよね?
台風、大雪、大地震もないそうです。神様がそうしてくれるそうです。
動物も増え過ぎないように適量が生まれるのではないでしょうか あと、楽園の人たちは病気もケガもないそうです。
完璧な人間なんだとか 35年前、当時小学生だった私はこの世の終わりが迫っていると親から教えられました
常に危機感を持って行動するようにと
私は親の教えを忠実に受け止めてきました
世捨て人のように生き、いつの間にか45才なってしまいましたがまだこの世が続いています 将来に希望を向けつつも今の生活も楽しむ
それが理想のJW
何事もバランスが大切 人間は楽園で完全になったら、青酸カリを飲んでも毒キノコを食べても死ななくなるのですか? こんな楽園、ホントに信じてるの?今まで、やって来たことが全て無駄になる。
だから自分をごまかしても信じて行くしかない。でも未来のある子供たちまで
巻き込まないでほしい。勇気のある人はやめると思う。 ペットには永遠の命は与えられないと司会者に言われて、憤慨して聖書レッスンを辞めた研究生がいる
死んだペットは復活しないと司会者に言われて、憤慨して聖書レッスンを辞めた研究生がいる ユダヤ教とイスラムの来世は楽園=エデンの園
そっから取ったんでは? エホバ考案者の考えは単純なのかも
主(エホバ、ヤーウェ)を固有名詞にしてしまえば新約の「主」は通らなくなる 新約、福音書は捏造本
「主」がYHVHにアドナイの母音記号つけたものだといいうことも知らない奴が作ってる パウロがそれを知らないはずがないんだが
部分的にその間違いを含んでるということは書き加えがあったということだろう
つまり
「主イエス・キリスト」という言葉を使えばキリスト教の教義(イエスが神で三位一体でありメシア)を認めたことになる
みたいなやつ
「エホバ・イエス・メシア」なんて単語とおるはずないだろ 福音書が捏造であればマラキの預言も通るしコーランも通る
イエスはエリヤとして死後救済を伝えるために神に送られた
→ユダヤ人が拒否したので神殿破壊 エリヤとして、ではないか
エリヤそのものだったのか
でエリヤが終末期に神に送られてくる→イエス・キリスト再臨
これはイスラムに共通
黙示録は真書だな 自分はこのままではハルマゲドンとやらで滅ぼされてしまうのだろうから、
今のうちにとっとと死んで楽園送りにしてもらいたい
それでなくても今の世の中で生きていくのが辛い 既に死んだ人はエホバに背いたものでない限り復活する
ハルマゲドンの時に生きている人はバプテスマを受けてないと滅ぼされる
なんだこの不公平は とりあえずまもなく来ると言われているハルマゲドンでは法律を犯すような極悪非道な人間だけを滅ぼし、慎ましく暮らしている一般市民はたとえJWでなくても楽園で再起の機会を与えて欲しい
ってノアの大洪水やソドムとゴモラの例を見ればそれは無理な相談か… 楽園で会いましょう〜
こんな、おかしな楽園なんか
あるわけない 万年研究生の自分だが、歴代研究司会者に必ず尋ねている事がある
JWではない世界の大多数の人々は、本当にハルマゲドンで滅ぼされなければならないのかと
返って来る答えは決まって「エホバは悪いようにはされない」
その言葉を信じていいものなのか… 「幸福の科学」が「維新の会」乗っ取り作戦
https://ponkichi-muragon.muragon.com/entry/1072.html
本田リエ 大阪市城東区
岡崎太 大阪市東成区
上村太一 堺市堺区
神には始まりがないというが、天地創造の前は何をしてたのでしょう?
案外今のような物質宇宙を創造して、被造物に反逆されて、にっちもさっちも行かなくなり、すべてを滅ぼして、それで新しく今の世界を造り直した、とか? 造ったり壊したりの繰り返し
今の世界もじきに消滅し、また新しい世界が創り出されて、新しい聖書が書かれるのだろう 生身の身体が煩わしい
トイレに行くのも風呂に入るのも本当に煩わしい トーラでは死後救済、永遠の命は「生きる」という言葉で表される なぜ天地の草創期から揃いも揃って天使も人間も次々と神に反逆するのか
おかしくないか? 神が被造物に邪の心を植え付けたとしか思えない 天使も、サタンに至っても神に反逆はしていない
人に悪があるのは神がそれを植え付けたからであり
人の中にサタンがあるのは神がそれを支持しているから
人は自由意志を試されてる
これはイスラムやユダヤで共通 人は自分が「もっとも悪い部類」になるのを嫌がるだろ
下には下を
自分はましと思える存在を求める
そのためにも悪は存在するのかもしれないが
すべて神が作ってる
あらゆる良きものと同じく、悪しき事、災いもすべて神による
コロナもおなじ 今日の夜は最悪
20時30分頃から子供の叫び声・暴走族・犬がうるさい コロナが蔓延したまま新年を迎えてしまった
今日も大勢の人が死んでいく… うちのBBAが事件・事故があるたびに「遺族は復活の希望の音信を聞いていないのだろうかねぇ」と言うのが本当にウザい
JWの評判が悪いのは誰のせいだと思っているんだよ 何が正しくて何が間違っているのか、正直よく分からない
今この瞬間に自分がこの世に存在している事だけは真実、と言いたいところだが、自分が本当にこの世に存在しているのか、それすらも怪しい 人類は神の創造の欠陥品なのでは?
アダムもエバも完全なはずなのに、神を裏切ったり責任転嫁したり、最低な人達じゃん >>153
だが愛のうちに神に似た様に作られたのだ
だから人間にも神の愛、アガペーが出来る
どんな人でもアガペーで誰かを救う事が出来る エホバって、輸血禁止異常に許せないのが、昭和50年代にから平成にかけて、殺人未遂同然の虐待をやってきたこと。アイツらの残忍なムチでの体罰は残虐すぎる。アザが出来ようが、血豆できようが、流血しようがぶちのめし続けたんだから、楽園なんて行けるわけがない。 鞭でさんざんいたぶって、子供を苛めて、反省の色もないんだから、楽園なんかムリよ。 鞭による虐待で死者がでたらしいし、無抵抗な子供を何十発、100発以上なんて。80年代と90年代はゴムホース、ガスホース、傘、鉄製定規、木の棒、ものさし、木製ハンガー、自動車牽引ワイヤー、電気コード、ベルト、靴べら、なんでも凶器にしていたらしい。その他は、夏の猛暑の炎天下の中立たせたり、厳寒の雪の日や氷点下の下立たせたり、火傷おわせたり、風呂の水の中ぶちこんだり、パンチでボコボコにしたり、お仕置きとか体罰のレベルじゃないみたい。
そして、殴りあいや取っ組み合いの喧嘩を否定してるなんて、暴力を否定しながら虐待を肯定して、行き過ぎを不完全と言い訳するし、それで、楽園??!?え、そんなのないから。あるわけない。子供にしてきた100倍以上の仕打ちうけると思う。サイコパスすぎる。
目には目を歯には歯をだし、蒔かぬ種は生えぬ、でしょ???
かりに楽園あったとしても、そっちには行かないと思う。鉄球の鞭に毎日打たれそう。そして、灼熱の炎とか、極寒の氷とか、蒔いた種悪すぎるもん。
虐待していたぶった奴は、カルマ減らすためにかなりの努力が必要そう。ある意味可哀想。 はっきり言って、水掛け論で乱闘とか、浦和レッズのサポーターの乱闘とか、阪神タイガースファン同士の殴りあいよりも、何百倍悪質。
はっきり言わせていただきます。 JWのエホバじゃなくて、本物のエホバ様(ヤハウェ様、ヤーヴェ様、ジェホバ様)は子供を殺人手前の極悪非道で傍若無人で、残忍極まりない凶悪な虐待を見て許すわけがない!。あれを厳しい教育とか躾というのは1000%ありえない。自分の機嫌でムチを増やしたりしたとか鬼畜以下。サイコパス。被害者が多いらしい。
子供をサタンから守るんじゃなく、サタンの言いなり。子供が苛め加害者になったり、苛め被害者になったり、多重人格になったり、ヤンキーになったり、サイコになったり、PTSDになったり。
本物のエホバ様に対する冒涜。許せない。
奴らが生前苦労して悔い改めて、恵まれない人に募金したり、ボランティアして罪滅ぼししないとカルマ多すぎる。あの世で大変そう。 子供を失神寸前まで鞭で虐待してボコボコにし続けたバカは、楽園で野獣となかよく出来るわけない。子供にしてきた以上の仕打ちだね。ライオンにボコボコに噛まれたり、ワニにギタギタにされたり、サメに襲われたり、拷問うけるんじゃない。蛇に巻かれたり、ありとあらゆる動物が鞭と化すんじゃないかな。 人は死んだらどうなるのかというのが宗教の本質
一般的には輪廻転生や天国や死んだらそれで終わりと考えられている。
地上の楽園っていうのは特殊だと思う。
二世や脱会者は人は死んだらどうなると思ってるんだろう。 >>162
2世や脱会者より、鞭で傷負わせて強制収容所並の拷問続けた奴らが、天国や極楽浄土に行けるわけがない。
輪廻転生あったとしても、来世が苦労が多く壮絶だと思う。犯罪者さながらだもん。 >>163
あなた自身は自分が死んだらどうなると思いますか? >>155-158
適当な事を言うのはやめてもらえませんか? >>165
適当に言ってないですよ。
実際に被害者がいらっしゃるんですよ。
かわいそうだと、思いませんか?もし、自分の親がこうだったらと思い、被害者がかわいそうすぎますよ。 >>165
ムチの行き過ぎで2世さんがどれぐらい死に目にあっているのか、話をいろいろ聞かされましたが、残忍極まりないです。気の毒で心痛いです。
ただ、2世さんでも親御さんに恵まれた方も勿論いらっしゃいますから、すべてがすべてと申しません。 自分も2世だが死ぬほどのムチを受けた経験はない
多数の2世を知っているがそんな2世にお目にかかった事もない
だいたいにして死ぬほどまでムチ打ちをするのは聖書の教えにもエホバの証人の教えにも明らかに反している
聖書の教えを良心的に守る事が求められているJWの中で、聖書の教えから逸脱した行為が蔓延していたとは考えにくい >>169
君も二世ならわかると思うが、JWにとって大事なのは教団内での自分の立場なんだよ
聖書に詳しければ教団内での立場が良くなるから、みんな聖書を勉強するから、聖書の教えを大事にしているように見えるだけ
自分の子供が教団に背いたら教団内での自分の立場が悪くなるだろ
だから、教団内での自分の立場を守るために聖書の教えに背いてでも子供を鞭で叩く親もいる
実際虐待死させてニュースにもなってるだろ 開拓者制度や奉仕報告書なんて聖書のどこに書いてあるんだか
信者が教団内での自分の立場をよくするために頑張るためのシステムだろ
明らかに >>172
そうですよ💢!?!平成5年の広島での折檻死ですよね。次男が食べ散らかして、そして父親が殺した件あるじゃないですか。
それは氷山の一角で、それ以外に親に それ以外に親が、子供を自分の機嫌でどれだけ鞭で(ガスホース、電気コード、水道ホース、傘、その他色々)殴って苛めてきたか、体罰の域を越えた残虐行為をやって来たのか、、、、。それをエホバ様(ヤハウェ様)や聖書に責任転嫁してるんですよ。それも自分の立場を正当化するために。聖書に人を痛め付けろなんて書いてないですよね?。子供を苛めで強引に支配しろなんて。
多くの子供さんが犠牲になってるんですよ💢そんなことをして楽園に行こうなんて、エホバ様(JWのではなく、本物の!)に失礼極まりないですね。 >>172
は?
JWにとって一番大切なのはエホバとの関係ですよ!?
また適当な事を… >>178
じゃあ開拓者って何?
奉仕報告書って何?
そんなもん聖書のどこにも書いてないんだが?
これだけ奉仕を頑張ってますってアピールして自分の立場を良くしたいだけだろ 頭がおかしい背教者はほっといて、素晴らしい復活の希望について語り合いましょう 伝道の書9章5、6、10節
詩編146編4節
など JWは、死者は全くの無意識であると教えています
しかしJWを除くほとんどの宗教は、人は死んでも生き続ける部分(魂)があると教えます
人間は、死後は無存在になるという考え方にとても恐怖を感じるのかもしれない
地獄でもいいから死後も生き続けたいという思いが霊魂不滅の教理を生み出すのかもしれない 自由意志がなくてもいいから罪を犯さないように人間を創造して欲しかった 人間はもともと欠陥のある創造物だったのではないかと思う事がある
今年の地区大会のノアの音声劇を聴いてそう思った 罪を犯さないような人間を創造すれば良かったのに
自由意志とやらがなくても本人が幸せならそれでいいじゃないか あたいは中3になっても親父に尻鞭されてたー
なんで思春期の娘が親父に尻見せにゃならんのよ
しかもさ、日曜日に学校の友達と遊びたくて嘘ついて集会休んだのがバレたからとかなのよ
ただ友達と遊びたいだけなのに毎回嘘つかなきゃならん
そんで鞭打ちのループとかまじで狂ってたなぁ 改訂版新世界訳聖書の日本語訳は、「霊」という語を徹底的に排除しています
「清い崇拝」の本を見たら、「霊的パラダイス」という語は「比喩的パラダイス」になっていました
以前の言葉をいちいち言い換えるのは大変だと思うのですが、よく新しい表現を思いついたものだと思います 神はイエスを創造した後,イエスを用いて,天使たちも含め他のすべての物をお造りになりました。
コロサイ 1章15〜16節
「15 神の子は,目に見えない神に似た者であり,全創造物の中の初子です。
16 なぜなら,他の全てのものは,天のものも地上のものも,神の子を通して創造されたからです。
見えるものも見えないものも,王座や統治権や政府や権威もです。
それらは全て,神の子を通して,神の子のために創造されました。」 ソロモン王は神の霊感のもとに,「死んだ者には何の意識もない」と述べました。
伝道の書 9章5,6,10節
「生きている人は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ人は何も知らない。何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる。
また,彼らには愛も憎しみも嫉妬もすでになく,太陽の下で行われることに何の関わりも持たない。
あなたにできることは何でも,力を尽くして行いなさい。あなたの行く場所,つまり墓では,働くことも考えることも学ぶことも理解することもできないからだ。」
弟子であるステファノが石打ちにされて死んだ時,ステファノは死の「眠りについた」と記されています。
天にも火の燃える地獄にもいませんでした。み使いにも先祖にも会っていません。別の人間に生まれ変わったのでもありません。
夢を見ることのない深い眠りについたかのように,死んで休んでいたのです。
体が死ぬ時,人の一部分といえども生き残ることはありません。人間は不滅の魂や不滅の霊を持っていないのです。 死んだと考える時点でサタンにやられている。
イエスは人は死ぬと考えず長い眠りにつくという考え方だった、そして目覚めさせ復活させた。
原罪や裁きや死というのはサタンの刷り込みだ、皆騙されて悩み苦しみ死んでいく。
だがイエスをイエスの愛を信じればわかる。
エホバの巨大で無限の愛の前には原罪も裁きも死も通用しないことを、だからイエスを信じれば長い眠りに着くことは有っても死ぬ事はないのだ。
そして我々は楽園から出たのだからいつか楽園に帰る、数えられないくらい大勢の人と共に地球規模までに広がった新しい楽園にな。 パウロは,義者と不義者の復活があると言いました。
使徒 24章15節
「わたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望は……義者と不義者との復活があるということです」
「天的な希望を持つ油そそがれたクリスチャン」や「キリスト教以前の忠実な男女」,
また「地的な希望を抱いている人でこの終わりの時に忠実を保って亡くなる人」も,義者の復活にあずかると言えるでしょう。
「不義の者」とは,歴史を通じて死んでいった人類の中の大部分の人々,とりわけ「無知の時代」に生活した人々が含まれるでしょう。
さらに,救いの音信を聞いたものの,その時に十分こたえ応じなかった,あるいは献身とバプテスマの段階まで進歩しないうちに亡くなった一部の人々もいるでしょう。 >>201
パウロに頼らず自分でイエスに習ってもいい。
あんたはあの時代のパウロより進歩しているからだ。
パウロには楽園という信仰が無かった、知らなかったのだろう。
彼は天の王国しか知らなかったのだ。
当時ギリシャの人々は善良な人や英雄は死後にエリュシオンという楽園に行くと信じていた。
パウロはそれを否定して天の王国を述べ伝えたから多数のギリシャ人に受け入れられなかった。
エリュシオンではなくパラダイスだと教えればいいと知っていれば宣教もやりやすかったのかもな。 7つの頭を持つ野獣は,悪霊の機構ではなく,人間の機構である世界的な政治体制ことを示唆しています。
啓示 13章16〜18節
「10本の角と7つの頭がある野獣はさらに,あらゆる人,すなわち,小さな者にも大きな者にも,裕福な者にも貧しい者にも,自由な者にも奴隷にも,右手か額に印を受けさせる。
そして,その印,つまり野獣の名である数字を記されている者以外は,誰も売り買いできないようにする。
ここで知恵が必要になる。洞察力がある人は,野獣の数字を解き明かしなさい。それは人間の数字であり,その数字は666である。」
6という数字は不完全さを意味しています。聖書中では,7という数は完全であることを象徴します。
7より1少ない6という数は,神の目から見て不完全だったり欠陥があったりするものを指す場合があります。
666という名前は,神から見て人間の政治体制が大きな失敗であることを強調しています。 2022奉仕年度の年次総会がjw.orgにアップされているが、義者と不義者の復活に関する見解が変わったようで 身内が闘病しているがエホバの証人の言う復活が本当なら信じたい >>207
エホバの証人の神は聖書(キリスト教)の神のことだから3万種類以上あるキリスト教の教派から
わざわざここを選ぶ必要は無いよ
教会の説教をユーチューブで公開してるところが複数あるから
それを見て聖書・キリスト教とは何ぞやというのを知ることをお勧めする
by 元2世 神は人間にはっきりと「禁断の木の実を食べたら死ぬ」と言ったんだ
それなのに悪魔サタンは「木の実を食べても死なない」とエバに言った
しかしそれは嘘だった
それでサタンはその嘘を取り繕うために「人が死んでも魂は不滅だ。人が死んでも魂は生きているんだ」と更なる嘘をついた
だから霊魂不滅を教えるキリスト教教派は全部偽物
死んだ人は地上の楽園に復活するというJWの教えこそが正しい聖書の教え サタンと邪悪な天使たちには,できないことがあります。聖書には,サタンや邪悪な天使たちが人の思いや心を読めるとは書かれていません。それができると述べられているのはエホバとイエスだけです。
サムエル第一 16章7節
7 しかしエホバはサムエルにこう言った。「彼の容姿や背の高さに注目してはいけない。私は彼を選んでいない。人間の見方と神の見方は違う。人間は目に見えるものを見るが,エホバは心の中を見る」。
マルコ 2章8節
8 しかしイエスはすぐに,律法学者たちが考えていることを悟り,こう言った。「なぜそのようなことを心の中で考えているのですか。」 エゼキエルは,末の日にマゴグのゴグ,つまり悪魔サタンが神の民に攻撃加えると預言しました。
ゴグは象徴的に,「北の最果てから来る」と,エホバはエゼキエルを通して言われました。
ゴグは,人類に対する全面的な支配を妨げるクリスチャンの霊的地所を除き去るため,あらん限りの手を尽くします。それでも成功しません。
北の王の最後の軍事行動は,南の王に向けられるのではありません。ですから,北の王は,大いなるライバルの手にかかって終わりに至るのではありません。
同様に,南の王も,北の王によって滅ぼされるのではありません。南の王は「人手によらずして」,神の王国によって滅ぼされます。
エゼキエル 38章
主権者である主エホバはこう言っている。『ゴグよ,私はあなたの顎にかぎを引っ掛けて,あなたをその全軍,馬や騎兵と共に連れ出す。
その日,あなたの心にさまざまな考えが入り,あなたは邪悪な計画を立てる。そしてこう言う。「私は,無防備な居住地ばかりの土地に攻め込む。騒ぎもなく安らかに暮らしている人々を攻める。」』
主権者である主エホバはこう宣言する。『私は,私の全ての山の上で剣に呼び掛け,ゴグを攻めさせる。全ての人の剣は自分の兄弟に向けられる。私は疫病と流血をもってゴグに刑を執行する。
そして,激しい雨とひょうと火と硫黄を,ゴグとその兵の上に,また共にいる多くの民の上に降らせる。
私は必ず自分があがめられるようにし,自分を神聖なものとし,多くの国の人々の目の前で自分について知らせる。
彼らは私がエホバであることを知らなければならなくなる』。 >>212
コロナの影響により、エホバの証人は現在、家から家の伝道と公共エリア伝道を取りやめています
手紙・電話・メール・ビデオ会議システムなどを使って人々に聖書の音信を伝えています ニムロデは、ハムの子孫クシュの子です。聖書では、クシュはエチオピアを指しています。
エチオピアはダニエルによって、終わりの時に北の王の歩みに付くことが預言されました。
ダニエル 11章43節
「北の王は隠された金銀の宝を支配し、エジプトの貴重な物全てを支配します。リビア人とエチオピア人は彼に従います。」
ニムロデは、大洪水後にシナルの地に王国を創建します。シナルの地は、大洪水後の偽りの宗教の発祥地です。
ニムロデは、バベルの塔建設失敗の後、バベルにとどまり、領土を拡張し、最初のバビロニア帝国を創建します。
ニムロデの時代の人は、エデンの園の歴史をよく知っていました。彼らは、創世記3章15節の神の約束の意味を曲げて、自分たちにあてはめることにします。
創世記 3章15節
「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
このすえはセムの家系から出るのであって、ニムロデのハムの家系から出るのではありません。しかしバビロニアでは、ニムロデの母が、大いなるへびのかしらを砕くすえの母すなわち「女」であると考えられました。
これが母親と息子を崇拝することのはじまりとなります。この母と子の崇拝はバビロンから全世界に広まりました。
エジプトではイシスとイシリスの名で母と子の崇拝が、インドにおいてはイシおよびイシワラであり、アジアではシベレおよびデオイウスである。
異教ローマにおいてはフォーチュナとジュピター・ピュエールすなわち少年ジュピター、ギリシャでは偉大な母セレスとその胸に抱かれた赤ん坊、あるいは平和の女神イレネとその胸に抱かれた子プラタスがある。
このようにニムロデの宗教においては、子のニムロデにいちばん大きな栄光が与えられています。
キリスト教国では父なる神よりも子なる神を重要視しています。キリスト教国のある部分では、父または子よりも処女なる母を崇めています。
J・ガルニエは『死者の崇拝』(1904年)の中で、「人々の宗教的な概念はすべて共通の源、または共通の中心地に由来しているに違いない。
どこでも、典礼、儀式、習慣、伝承、およびこれらの人々のそれぞれの男神や女神の名前や関係には極めて驚くべき種々の一致点が見られる。」と述べています。 エホバの証人以外は救われないとか誰が言ってるのか教えてくれ 復活の楽園が本当にあるのか確かめてみたいから、今度死んでみようかな 詩編 37:29
正しい人は地上に住み続け、そこで永遠に暮らす。
コリント第一 15:20-22
20 しかし、キリストは生き返らされ、死の眠りに就いた人たちの中で最初に復活した方となりました。
21 死が1人の人を通して来たので、死者の復活も1人の人を通して来ます。
22 アダムのゆえに全ての人が死んでいくように、キリストのゆえに全ての人が生かされるのです。
ヨハネ 5:28、29
28 このことに驚いてはなりません。記念の墓の中にいる人が皆、彼の声を聞いて出てくる時が来るのです。
29 良いことをした人は命の復活へ、悪いことを行った人は裁きの復活へと出てきます。
ヨハネ 11:25
25 イエスは言った。「私は復活であり、命です。私に信仰を抱く人は死んでも生き返ります。 」
使徒 24:10、 15
10 パウロは、話すようにと総督が顎で合図をしたので、こう答えた。
15 また、私はこの方たちと同じ希望を持っております。神が正しい人も正しくない人も復活させてくださるという希望です。
啓示 20:6
6 第一の復活で生き返る者は、幸福な者、聖なる者である。その者たちに対して、第二の死は何の力もない。
彼らは神とキリストの祭司となり、1000年の間キリストと共に王として治める。 神は、基本子音「YHWH(JHVH)」の名前を持っておられます。
しかし、そのヘブル語の正確な発音はわからなくなってしまいました。
というのは、古代のヘブル語には母音の文字がなく、問題の発音は口伝えで伝えられていたためです。
新英語聖書の翻訳者たちは、「エホバ」の名を用いることを完全に避けたわけではありません。
その翻訳者たちは脚注の中で次のように述べています。
「ヘブル語の子音はYHWHで、おそらくヤハウェと発音されたと考えられるが、その伝統的な読み方はエホバである」。
英国の聖書学者J・B・ロザハムは、「ヤハウェ」という語形を用いた先駆者のひとりです。
彼は「エホバ」という語形を用いるに至った理由を説明しています。
「エホバが訳文中に使用されるようになったのは、ヤハウェの場合のように、発音の正確さを期するということではなく、
一般人の耳目とのつながりを保つのが望ましいということによるものである。
最も重要なことは、神の御名とされるものが容易にそれと認められるということである。
聖書の一般読者にとってよく知られていると同時に、文句なく受け入れられる名の語形を使用するのが望ましいと考えられるに至ったのである。」 S・T・バイイングトンも現代英語聖書の序文の中で同様の趣旨のことを次のように述べています。
「綴りや発音はそれほど重要ではない。非常に重要なのは、これが固有の名前であることを明確にしておくことである。
この名を『主』などの普通名詞を用いて翻訳したのでは、幾つかの聖句は正しく理解することは困難である」。
西暦11世紀のレニングラード写本の母音符号の打ち方では、エフワー、エフウィ、およびエホーワーと読めます。
ギンスブルクの編さんしたマソラ本文の母音符号の打ち方では、神の名はエホーワーと読めます。
また、エホシャファト、ヨシャファト、シェファトヤその他のヘブライ語名のつづりに見られるエホー、ヨー、ヤーハ、およびヤーフーという形はすべて、ヤハウェから派生したと考えることができます。
初期クリスチャンの著述家による、み名のギリシャ語の翻字は、ギリシャ語で発音してもヤハウェに似ているイアベやイアウーエのようなつづりで、やや類似した方向を示しています。
中にはさらに、「ヤフワ」、「ヤフーア」、「エフーア」など他の発音を支持する人もいます。
確実な発音は今のところ分からないのですから、英語でよく知られている“Jehovah”(日本語では「エホバ」)という形を捨てるべき理由があるとは思えません。 聖書に「三位一体」という言葉は出ていません。また、イエスは一度も自分が神と同等であるとは述べませんでした。
それどころか、神を崇拝しました。
ヨハネ 14章28節
「父は私より偉大だからです。」
コリント第一 8:4
「私たちは、偶像には何の意味もないことと、神はひとりしかいないことを知っています。」
ペテロ第一 1:3
「私たちの主イエス・キリストの父である神が賛美されますように。」
コンスタンティヌスがローマ帝国の単独の支配者となった頃、自称クリスチャンたちは、神とキリストとの関係をめぐって分裂していました。
イエスは神なのか、それとも神に創造されたのか、という問題です。
これを解決するために、コンスタンティヌスは教会の指導者たちをニカイアに召集しました。
それは、宗教上の真理を知ろうとしてではなく、宗教のことで自分の帝国が分裂するのを避けたかったからです。
コンスタンティヌスは、数百人になっていたと思われる司教たちに、全員一致の結論を出すよう求めましたが、一致した結論は出ませんでした。
それで、イエスと父とは「同一実体」であるという曖昧な概念を採択するよう提案しました。
「新約聖書をはじめとするクリスチャンの聖書に、三位一体の神に関する、三位一体説を支持する陳述や思弁はない」(ブリタニカ百科事典)。
「三位一体の教理はキリスト教の最初期の時代の所産ではない。ゆえに、はっきりその教理に言及している文献は2世紀末以前にはない」(「初期キリスト教双書 ― 神々と唯一の神」)。 聖書は、神が『人の住む地を裁くために日を定めた』と述べています。
使徒 17章31節
自分が任命した者によって世界を公正に裁くために日を定めたからです。
ヨハネ 3:16-21
神は、自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。そのようにして、独り子に信仰を抱く人が皆、滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。
神が自分の子を世に遣わしたのは、彼が世を断罪するためではなく、世が彼を通して救われるためです。
彼に信仰を抱く人は裁かれません。信仰を抱かない人はすでに裁かれています。その人は、神の独り子の名に信仰を抱いていないからです。
さて、裁きの根拠は次の通りです。光が世に来ているのに、人々は光ではなく闇を愛しました。邪悪なことを行っていたからです。
悪を行っている人は、光を憎んで、光の所に来ません。自分の行いが暴露されないようにするためです。
しかし、正しいことを行う人は光の所に来ます。自分の行いが神の意志に沿っていることが明らかになるようにするためです。 神に任命されて裁きを行なうのは、キリスト・イエスです。
聖書は、イエスが「生きている者と死んだ者とを裁く」と述べています。
地上に復活する人は、この体制の終わりを生き残る人と同じように、裁きの日の間の「行ないにしたがって」裁かれます。
テモテ第二 4:1
キリスト・イエスは現れる時に、王国の王として、生きている人と死んでいる人を裁くことになっています。
啓示(黙示録) 20:7-15
1000年が終わるとすぐ、サタンは牢獄から解放される。彼は出ていって、地の四方にいる人々、ゴグとマゴグを惑わし、戦争のために集める。
その人々の数は海の砂のようである。彼らは地上全体に広がって進み、聖なる人たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。
しかし、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くした。そして、人々を惑わしていた悪魔は火と硫黄の湖に投げ込まれた。
そこにはすでに野獣と偽預言者もおり、彼らは永久に昼も夜も苦しめられる。
さらに見ると、死んだ人々が、大きな者も小さな者も、王座の前に立っており、数々の巻物が開かれた。別の巻物、すなわち命の巻物も開かれた。
死んだ人々は、数々の巻物に書かれている事柄に基づき、各自の行いに応じて裁かれた。
海はその中の死者を出し、死と墓もその中の死者を出し、その人々は各自の行いに応じて裁かれた。死と墓は火の湖に投げ込まれた。
火の湖は第二の死を表している。命の書に名前が書かれていない者は皆、火の湖に投げ込まれた。 神の日は、大いなるバビロンへの攻撃をもって始まります。
最初に大いなるバビロン、つまり偽りの宗教が滅ぼされます。
ペテロ第二 3章10節
神の日は泥棒のように来ます。その時、天はごう音を立てて消え去り、さまざまな要素は極度に熱くなって溶解し、地とそこでの活動はすっかり暴かれます。
大いなるバビロンを攻撃するのは、十本の角を持つ野獣です。神はご自分の考えを、緋色の野獣の十本の角の心の中に入れます。
緋色の野獣は国際連合を表わし、十本の角は現在の政治勢力全体を表わします。
啓示(黙示録) 17:16-17
あなたが見た十本の角と野獣は、娼婦を憎み、破滅させて裸にし、彼女の肉を食い尽くし、彼女を火で焼き尽くします。
神が、ご自分の考えを彼らの心に入れて実行させたからです。
神の言葉が成し遂げられるまで、彼らが自分たちの王国を野獣に与えて、自分たちの1つの考えを実行するようにしたのです。 偽りの宗教が滅ぶとき、それらの宗教に属していた者たちすべてが死ぬわけではありません。
聖職者であっても宗教的な歩みを捨て、自分が偽りの宗教に属していたことを否認する人がいるようです。
預言者ゼカリヤはその時のことについて、霊感を受けて書き記しました。
ゼカリヤ 13:4-8
その日には、預言者たちは皆預言する時、その幻を恥じる。また人を欺くための毛の上着を着ない。
そして『わたしは預言者ではない、わたしは土地を耕す者だ。若い時から土地を持っている』と言う。
万軍の主は言われる、つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。
牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。
主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。
偽りの宗教組織が滅んだ後は、王国の良いたよりを宣べ伝えるべき時ではありません。
その時はもう完了しました。「終わり」が実際に来たのです。
次いで、緋色の野獣とその十本の角はサタンにせき立てられて、神の民に攻撃を集中します。
マタイ 24:14
そして、王国の良い知らせは、全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます。それから終わりが来ます。 聖書は、不滅の魂があるとは教えていません。
ヘブライ語の「ネフェシュ」とギリシャ語の「プシュケー」という言葉は、いろいろな聖書で「魂」と訳されています。
ネフェシュは直訳すると「呼吸するもの」であり、プシュケーは「生きた存在」です。
聖書では、ネフェシュやプシュケーは魂ではなく、人そのものを指しています。
創世記35章18節には、ラケルが「息を引き取ろうとする」時のことについて書かれています。
この表現は、ヘブライ語を直訳すると「ネフェシュが去ろうとする」となります。
これは人の命が終わりを迎えようとしていることを表す比喩表現であり、魂が出ていくことについて述べているのではありません。
キリスト教の中には不滅の魂を信じている宗派がありますが、この教えは聖書ではなくギリシャ哲学から来ています。
ブリタニカ百科事典にはこう説明されています。
「聖書でいう魂は、息をするという概念と結び付いている。聖書は霊魂と肉体を分けて論じることはしていない。
体と魂は別個のものであるとする概念は、古代ギリシャに起源がある」。 現代の多くの聖書で十字架と訳されているギリシャ語はスタウロスです。
古典ギリシャ語においてこの語は単にまっすぐな杭、つまり棒杭を意味しました。
インペリアル聖書辞典はそのことを認めて、次のように述べています。
「十字架と訳されるギリシャ語[スタウロス]の正しい意味は、まっすぐな柱、あるいは1本の棒杭である。
ローマ人の間でさえ、クルクス(英語のcross[十字架]はこれから派生している)は、もともとまっすぐな柱であったようだ」。
この点に関する新カトリック百科事典の次の注解は興味深いものです。
「彫像を禁ずる旧約の影響を受けた初期クリスチャンは、主の受難のさいの刑具をさえ描こうとはしなかった」。
「キリスト教会の歴史」は、1世紀のクリスチャンについてこう述べています。
「十字架は用いられなかったし、十字を表わすような物も使われなかった」。
古代イスラエルにおいて、不忠実なユダヤ人たちは偽りの神タンムズの死を悼んで泣きました。
彼らが行なっているのは「忌むべきこと」である、と神は言われました。(エゼキエル 8:13、14)
歴史によればタンムズはバビロニア人の神で、その象徴として十字架が使われていました。
バビロンはニムロデの時代におけるその始まりから神に逆らっており、真の崇拝の敵でした。(創世 10:8-10。エレミヤ 50:29)
ですから、十字架を大切にする人はまことの神に対抗する崇拝の象徴を敬っていることになります。 >>229
うん、事実だね
イスラムも十字架ないって言ってるし
ユダヤ人はキリストはユダヤ人が処刑したといってる
つまりローマ式刑の十字架刑ってのはありえないね >>228
明らかにユダヤ教が不滅魂説だが
イスラム・ユダヤも共通
キリスト教がはみ子なんだよ 死んだ人は何も知らず、その思いも滅びるので地獄で責め苦を感じることはありません。
死は無活動の状態、命のないことを表わしています。
詩編146章4節
人は息絶えると地面に戻る。まさにその日、その人の考えは消えうせる。
伝道の書 9:10
あなたにできることは何でも、力を尽くして行いなさい。
あなたの行く場所、つまり墓(シェオル)では、働くことも考えることも学ぶことも理解することもできないからだ。
ゲヘナはとこしえの滅びの象徴です。ゲヘナを地獄と訳している翻訳もありますが、ゲヘナは地獄とは異なります。
イエスはゲヘナを、責め苦ではなく、永遠の滅びの象徴として用いました。(マタイ 23:33)
悪魔が永久に責め苦に遭うためには、永遠に生きなければなりません。
しかし、聖書によると、悪魔は無に帰せしめられる、つまり存在しなくなります。 復活の音信を宣べ伝えているエホバの証人は、この闇の世の中の一筋の希望の光です
そんなエホバの証人をカルト呼ばわりする元信者・マスゴミその他の皆さんは、真理の光が輝き渡らないように一生懸命努力している誰かさんの手助けをしている事になってしまいます 反キリストとは、単なる一個人や一団体のことではありません。
聖書は「多くの反キリスト」がいると述べているからです。
ヨハネ第一 2:18、22
幼い子供たち、今は終わりの時期です。反キリストが来ることを皆さんが聞いていた通り、今や多くの反キリストが現れました。
このことから、今が終わりの時期だと分かります。
イエスがキリストであることを否定する人こそ、うそつきではないでしょうか。父と子を否定する人、それが反キリストです。
「反キリスト」は聖書に5回出てきます。
聖書の筆者で、「反キリスト」という語を用いているのは、使徒ヨハネだけです。
ヨハネが「多くの反キリスト」と述べていることから、反キリストは一個人ではなく、一群の人々であることが分かります。 テサロニケ第二 2:2-12
主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。
だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教が生じて、不法の者つまり滅びる者が明らかにされてからでなければ、その日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。
不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。
その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。
不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。
彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。 >>234
ヨハネは捏造書だろう
週末の反キリストはひとり 「神だと宣言する偽メシア」ってのをみても
三位一体をかたって嘘、情報戦で信じ込ませる系だろうし
やっぱつまり三位一体は一回滅びるんやろな イエスに忠実に従う人々のことをイエスはご自分の花嫁、会衆と呼びます。
ティンダルは、ギリシャ語エクレシアを「教会」と訳さずに「会衆」と正しく訳しました。
特定な目的のために召集された人たちの集合体ならばどんなものでもエクレシアと呼びます。
黙示録は天的な花嫁の数を、14万4000人と記しています。(啓示 7:4-8)
この小さな群れは、イエスと共に王国を相続します。
ルカ 12章32節
恐れることはありません、小さな群れよ。天の父は、あなたたちに王国を与えることを喜んでいます。
コリント第一 3:23
そして、皆さんはキリストのものであり、キリストは神のものです。 黙示録でヨハネは14万4000人とは別のグループ、
全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た誰も数え切れない大群衆を見ます。(啓示 7:9)
大群衆は天で生きるよう選ばれた人ではなく、大患難を生き残って地上で永遠に生きる人たちのことです。
バプテストのヨハネもダビデも14万4000人の1人ではなく、地上に復活してきます。
マタイ 11:11
はっきり言います。これまでに生まれた人で、バプテストのヨハネより偉大な人は現れていません。
しかし、天の王国で最も目立たない者も彼より偉大です。
使徒 2:34
ダビデが天に上ったのではない。 14万人のほとんどが使徒や殉教者
それが最初に復活する
最初のものが最後になり最後のものが最初になる
つまりキリスト教は3宗教のうちで最後になる必要がある
三位一体を打ちこわしてバベルである聖書bblを廃棄して
本来のキリスト教に戻る 初期クリスチャンは誕生日の祝いを異教の風習とみなし、全く避けなければならないと考えていました。
実際、聖書にはイエスの生まれた日付に関する言及は何もありません。
カトリック教会は西暦4世紀にクリスマスを制定しました。
大半のローマ人は12月25日に、無敵の太陽の誕生を祝っていました。
それで教会は、その日をクリスマスとし、ローマ人が太陽の代わりにイエスの誕生を祝うように仕向けました。 ヨーロッパの異教徒は冬至を祝う際、邪悪な霊を追い払うために家を様々な明かりや常緑樹で飾りつけました。
ドルイド僧は、特にヤドリギに魔力があると信じていました。
常緑樹のヒイラギは、太陽の復活を保証するものとして崇拝されました。(アメリカーナ百科事典)
マクリントクとストロング共編の百科事典には、「クリスマスの祝いは神により取り決められたものでもなければ、聖書に由来するものでもない」とあります。
初期クリスチャンは、いかなる人の誕生日を祝うことをも異教の習慣とみなしたので、イエスの降誕を祝わなかったのです。(ワールドブック百科事典) 神の名前は、テトラグラマトンと呼ばれる四つの子音字母、YHVHまたはJHVHで最古のヘブル語写本に出てきます。
テトラグラマトンは、「四つ」の意味のギリシア語テトラと、「字母(じぼ)」を意味するグランマとに由来します。
多くの人が神の名前を知らないのは、ユダヤ人の間に生じた迷信的な考え方のためです。それは、神ご自身のお名前を口にするのは誤りであるという迷信です。
いったいユダヤ人がなぜそうした考え方を取り入れたのかはわかりません。
その名前は神聖すぎるゆえ、不完全なくちびるをもってしては発音すべきではないとの教えが生じたためだという人もあれば、
非ユダヤ民族が神の名前を知って、それを誤用するようなことがないようにするためだったとか、
さらには、魔術的な祭式に用いられないよう神の名前を守るためだったと主張する人もいます。 律法学者の教説や伝承を集大成したユダヤ教のミシュナの編さん者は、西暦2〜3世紀に生存した僧正ラビ・ユダとされています。
ミシュナには、「人は神の御名を用いて仲間とあいさつすべきである」とあります。
したがって、イエス在世中、ユダヤ人の多くが神の名前を用いるのは当時一般のならわしだったといえるでしょう。
西暦4、5世紀にさかのぼる七十人訳は、エホバ(ヤハウェ)の名前のかわりにギリシア語キュリオス(主)あるいはホ セオス(神)が用いられています。
西暦6、7世紀には、ユダヤ教の写字生がテトラグラマトンを書く際、アドナイ(主)あるいはエロヒム(神)を表わす母音符号に置き替えられました。
神は、イザヤ42章8節でこう言っておられます。
「私はエホバ。それが私の名。私は自分の栄光をほかの誰にも与えず、自分の栄誉をどんな彫像にも与えない。」 Yhwhは名前ではないし
名前をよんではならないてのは預言者に向けたもので
預言者はyhwhでない真実の名前を知っていた ガンツで異星人を遣って、100点とったら
1を選べw
メモリーの中から再生されるw 聖書は天の「神の霊の子たち」を、少なくとも三つの級に分けています。
それら三つの級として指摘されるのは、ケルブ、セラフ、そしてみ使いという一般的な級です。
それら天の「神の子たち」は、神ご自身と同様に霊であって、地上の被造物であるわたしたち人間とは、性質上全く異なっています。
ケルブたちは、神の占めておられる権威の座の近くにいます。(詩 80:1)
セラフたちは、おのおの六つの翼を持っています。
その二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛び回ります。(イザヤ 6:1-7)
み使いたちの総数は1億にも達します。(ダニエル 7:9、10)
み使いたちは、ある知らせを伝えたり、あるいは特別の仕事を行なったりする任務を受けて、何度も遣わされました。
み使いたちが神から受けた任務を遂行するのを、人間は阻止できません。み使いたちの持っている力や能力は、人間のそれよりも勝っているからです。(マラキ 3:1) ではなぜ神は天使にアダムに跪拝しろと命じたのか
自由意志が勝る 偽預言者ってまさにエホバの証人だよね。ことごとく予言を外して信者を食い物にする
まさに羊の皮を被った狼。 >>250
そんなもんにすがる信者も信者だろ、
勘違いするなよ?
熱心な信者たちが運営を後押ししてる構造なのよ。
現に、
食い物にされたなんて言ってるのはもう辞めてリタイヤしたヤツだけなんだが、そもそも脱落者は敗者なんだから何も残らないのが理解できんのかね? こおろぎ
この昆虫が出て来るのはレビ記11章22節だけで、その聖句では食物にできる清いものとして挙げられています。
欽定訳やヤング訳は、ヘブライ語のハルゴールを「甲虫」と訳しています。
翻訳者たちはこのハルゴールを、落ちるいなご、飛ぶいなご、こおろぎなどと様々に訳出しています。
レビ記 11:21-22
羽があって4本の足で歩く小さな生き物のうち、折れ曲がった足がほかの足よりも上に突き出ていて、地面を跳びはねるものは食べてよい。
すなわち、さまざまな種類のバッタ、コオロギ。 コーシャーの浄不浄は象徴
蹄が分かれた反芻するとは、神とそれを確証する預言者が2つ揃った状態
反芻とはその教えを反復する熱心さ
蹄が分かれていない反芻する動物はユダヤ人に例えられる
蹄が分かれていないが故に勾配を踏み支えられない
ラクダがユダヤ人として例えられ、それが針の穴つまり狭き門に入ることはない
蹄がわかれているが反芻しないのは不信仰者で預言者が現れると反対者となる
最も汚れたもので、豚に例えられる 神はゴグに対して、「わたしはあなたを猛きんに、あらゆる翼の鳥、そして野の野獣に食物として与える」と述べておられます。(エゼ 39:4)
悪霊は霊の被造物ですから、猛きん、鳥、野獣に食べられることはありません。
聖書は、サタンは千年のあいだ底知れぬ深みに入れられると述べています。(黙示録 20:2, 3)
また、聖書はマゴグのゴグによる攻撃だけでなく、「北の王」による攻撃、「地の王たち」による攻撃についても述べています。(ダニエル 11:44, 45)
ですから、神の民への最終的な攻撃に関するこれらの聖句を比較すると、マゴグのゴグがサタンではなく、諸国家の連合体であることが明らかになります。 イエスは全ての天使と共に到来し、全ての国の人々が彼の前に集められ、羊飼いが羊をやぎから分けるように、
人をひとりひとり分け、彼は羊を自分の右に、やぎを自分の左に置きます。(マタ 25:31-33)
イエスが全ての国の民に裁きを宣告した後にも、ハルマゲドンの戦いが始まるまでに、幾つかの重要な事柄が起きます。
大患難の勃発前に、天使が神の証印を神の奴隷たちの額に押していきます。その数は14万4000人です。(黙示録 7:1-4)
「10本の角と野獣」は「娼婦」を攻撃し、滅ぼします。この出来事が大患難の始まりとなります。
マゴグのゴグによる攻撃が始まった後、14万4000人の油そそがれた者たちは、瞬時に天に集められます。(テサロニケ第一 4:15-17)
その激しい衝突の起きる時が、ハルマゲドンの戦いなのです。
イエスは、天の共同支配者14万4000人と天使の軍勢を率いて諸国家の連合体を滅ぼします。地上の神の民の救出に来るのです。(黙示録 17:14)
ついに地からあらゆる悪がぬぐい去られ、大群衆は大患難の最終部分を通過します。こうしてサタンの体制は終わりを迎えます。 天に行く人たちの数は、14万4000人です。
「地から買い取られた14万4000人」、または「地からあがなわれた14万4000人」と記されています。(黙示録 14:3)
彼らはイエスと共に王として地上を治めます。(黙示録 5:9, 10)
黙示録 5:9, 10
「あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう。」
ヨハネは別のグループも見ました。地上で生活する大群衆です。
黙示録 7:9-16
「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、
しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
長老たちのひとりがわたしに言った、『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。』」 一般のキリスト教会では、神に従う人々が将来地上で永遠に生きるという聖書の真理がほとんど教えられていません。
今日、多くの教会では善人は死んだら皆天に行くと教えています。
地上の楽園は次のように描写されています。
イザヤ 65:17-23
わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。
彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない。
彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。
イザヤ 11:6
オオカミが子羊と共に過ごし、ヒョウが子ヤギと共に寝そべる。子牛とライオンと肥えた動物が皆一緒にいて、小さな子供に導かれる。
ヨハネ 5:28, 29
墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
使徒 24:14, 15
パウロは言った。「私は、彼らが異端だとしている道にしたがって、父祖たちの神に神聖な奉仕をしています。そして、律法の中で述べられていることと、預言者の書に記されていることを全て信じています。
また、私はこの方たちと同じ希望を持っております。神が正しい人も正しくない人も復活させてくださるという希望です。」 >>244
エッセネ派がYHVHをフェニキア文字で書いてたのはどう思う >>257
「裁き人イエス」を信じるのか?
全人類を捌くと? >>258
その14万は失われた10士族(ダンのぞく)の総計であって
異邦人は含まれない
ダンのかわりはヨセフの息子エフライムとマナセでわけられる
故にバルク黙示録では「9士族半」と言われる エッセネ派とは、ヨセフス、アレクサンドリアのフィロン、大プリニウスなど、1世紀の著述家たちが言及しているユダヤ教の一派です。
バプテスマを施す人ヨハネとイエスがこの団体に所属していたとか、二人が少なくともその影響を受けていたとかいう説に関して、新ブリタニカ百科事典はこう述べています。
「クムラン派とバプテスマを施す人ヨハネの間には、根本的な相違がある。また同派の見解と、イエスの宣教の範囲、イエスの救いの音信、神のご意志に関するイエスの理解、そして特に愛に関するイエスのおきて、および罪人と社会的に除け者とされている人たちに対するイエスの友情に見られる革新的な特色との間には大きな相違がある」。
死海の北西にあるワディ・クムランのふもとには、古代の遺跡群があります。1947年にイザヤ書の死海写本が発見されました。
のちに、100を数える聖書写本の中に、エステル記を除くヘブライ語聖書のすべての書が含まれていました。ある巻き物はクムラン教団によって隠されたのかもしれません。
しかし証拠からすると、その多くは、エルサレムが最終的に崩壊する2年前の西暦68年にローマがユダヤに侵攻した際、逃げてきたユダヤ人が洞くつに入れたものと思われます。 クムランの書物は、安息日の規定が極端に厳しかったことや、儀式上の浄さ(きよさ)に度を超えた関心を示していたことなどを明らかにしています。
エッセネ派に関しても、同様のことが言えます。社会から隔絶していたこと、運命論また魂の不滅を信じていたこと、独身主義や、崇拝で天使と共になるといった神秘思想を重視していたことなどです。
これは、エッセネ派が、イエスや初期クリスチャンの教えと相いれなかったことを示しています。(コロサイ 2:18)
イエスは、人間には不滅の魂がある、と教えたことは一度もありません。イエスはヒンノムの谷つまりゲヘナを、復活の望みのない死の適切な象徴として用いました。
イエスは、神には『たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる』と述べました。(マタイ 10:28)
ゲヘナは、とこしえの責め苦ではなく、とこしえの死の象徴なのです。
地獄に関する教えを改めた宗派もあります。例えば1995年に、英国国教会の教理委員会はこう述べました。
「地獄は、とこしえの責め苦ではない。地獄とは、全くの無存在という結末しかあり得ないほど、全面的また徹底的に神に逆らうことを、最終的かつ変更不能なものとして選択することである」。 「裁きの日」とは、あるグループや国民や人々全般が、神に行動の責任を問われる日または期間のことです。
死に値すると判断された人たちにとっては処刑される時となり、ある人たちにとっては救われて永遠の命を得る機会となります。
イエス・キリストと使徒たちが言及した将来の「裁きの日」には、生きている人たちだけでなく過去に死んだ人たちも裁きを受けます。
マタイ 12:25, 36
イエスはこう言った。「あなた方に言いますが、人は、自分が語る無益な言葉全てについて裁きの日に責任を問われます」。
マタイ 25:32, 33
全ての国の人々が彼の前に集められ、人の子は、羊飼いが羊をヤギから分けるように、人々を分けます。
そして羊を自分の右に、ヤギを自分の左に置きます。
伝道の書 12:14
真の神は、人からは見えない事も含め、あらゆる行いについて、その善悪を裁くからだ。
ローマ 14:12
私たち一人一人は、神に責任を問われることになるのです。 黙示録7章の一覧表は、民数記1章にある生来のイスラエルとは異なっています。
ここの一覧表は明らかに、肉のユダヤ人を部族によって見分けるためではなく、霊的なイスラエルを示すためのものです。
神の王国は生来のユダヤ国民から取り去られて、王国の実を生み出す霊的な国民に与えられました。
預言者ホセアは、神が生来のイスラエル国民を退けて、異邦人を含む霊的な国民を選ぶ際、
「わたしの民ではなかった者たちに、『あなたはわたしの民である』と」言うようになることを予告しました。
ホセア 2:23
私は私の民を種のように地上にまく。憐れみを示されていなかった人たちに憐れみを示し、私の民ではなかった人たちに、
「あなたは私の民である」と言う。彼らは、「あなたは私の神です」と言う』」。
ローマ 9:6-8
イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。
肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。
ローマ 9:24, 25
神は、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。
それは、ホセアの書でも言われているとおりである。「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、
愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
マタイ 21:43
それで、神の王国はあなた方から取られ、望ましい実を生み出す国民に与えられます。
ガラテア 3:28, 29
ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由民もなく、男性も女性もありません、皆がキリスト・イエスと結ばれて一つになっているからです。
さらに、皆さんはキリストのものなのですから、まさにアブラハムの子孫であり、約束によって財産を受けることになっています。
ローマ 2:28, 29
外面がユダヤ人である人が真のユダヤ人なのではありません。また、真の割礼は外面つまり体に施されるものではありません。
内面がユダヤ人である人が真のユダヤ人なのです。 霊的イスラエルであれば何故ダン族がはぶかれてヨセフの子マナセとエフライムに分けられるなんてことになるのか?
明らかにイスラエルの失われた10氏族を表していて
今のユダヤ人はその失われた氏族を求めてる
それはメシア時代にメシアのもとに集まるとされてるからだ
つまり使徒が予言やら力やらを与えられて送り出されるくだり
あれはイエスが死んだ後に全世界に送られて、霊の力で各国語をしゃべる能力を与えられ
「失われた羊」を探し出して義人として死なせる目的を書いてる
つまりそれらが死んだ後に蘇って世界支配で、「剣をすきにかえ、、全地が平和に、、」ってかんじ
それらはイスラエルの氏族そのものでなければならない 神はイエスをよみがえらせ、神の王国の王にしました。(ダニエル 7:14)
イエスは、イエスの王国は地上のものではないと説明します。(ヨハネ 18:36)
メシアでありダビデの子孫であったイエスは、天から地を支配します。(マタイ 28:18、ダニエル 4:32、ヨハネ 4:26、ルカ 3:23-38)
『メシアが地上に王国を打ち立てる』という期待を抱いていた1世紀のユダヤ人の大半は、イエスをメシアと認めずに退けました。
イエスは、生来のユダヤ人が検分されている時を見分けなかったことを嘆きます。
ルカ 19:44
あなたが、検分されている時を見分けなかったからです。
マタイ 23:38
聞きなさい、あなた方の家は見捨てられます。
パウロは、不信仰な生来のユダヤ人は折り取られ、異邦人を含む信仰のある小さな群れが神の王国を与えられると述べました。(ルカ 12:32)
ローマ 11:17-24
一部の枝が折り取られ、そこにあなたが野生のオリーブでありながらも接ぎ木され(ました)。彼らは信仰が欠けていたために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。 イエス・キリストは肉体での存在を再び取りません。
使徒 13:34
そして、復活させられたイエスは、腐敗する人間になることは二度とありません。
パリサイ人がイエスに神の国の到来について質問したとき、イエスは彼らに、「神の国は、見られるかたちで来るものではない」と答えました。(ルカ 17:20)
イザヤ2章1-4節とミカ4章1-4節には、末の日に神の家が高められると述べられています。
聖書では神殿は神の家と呼ばれることが多いです。しかし、かつてエルサレムのモリヤ山上に建てられたような物理的な神殿とは限りません。
パウロは、「あなたがたは神の畑であり、神の建物である。あなたがたは神の宮であって、神の霊が自分のうちに宿っている」と霊的な神殿に言及しました。(コリ一 3:9、16、17)
ヨハネは新しいエルサレムが天から下って来るのを見た時、「わたしは、この都の中には聖所を見なかった」と描写しました。(黙示録 21:22)
以前のものが過ぎ去った新しい天と地では、もはや神に近づく手だてとしての神殿は必要ないのです。 神殿が天の神殿、神のもとにある神殿を模倣してるってのは?
エゼキエル神殿の川づたいに木がなり、それが生命の木だってのは?
詩篇1の木がエゼキエルのその部分と全く同じものを書いてる エゼキエル 40-47章にも、神の一つの神殿に関する詳しい説明がありますが、その神殿はかつてエルサレムのモリヤ山上に建てられた神殿でもなければ、そこに収まるような神殿でもありません。
イエス・キリストは土台の隅石です。約束の聖霊をもって証印を押されたクリスチャンは、イエスと結びあって建物全体は調和よく組み合わされ、神のための聖なる神殿に成長してゆきます。(エフェソス 2:20-22)
エゼキエルは神殿の幻の中で、神聖な建物から川が流れ出ている光景を目にします。(エゼキエル 47:1-12)
天使によると、その川は死海に流れ込み、塩分濃度が高くて生物のいない海の水をきれいにします。川の水が達した所にはたくさんの魚がいるようになります。
川の両岸には、あらゆる果樹(かじゅ)がたくさん生えています。毎月、栄養豊かな新しい実を付け、葉は人を癒やします。
神の家からの水が死海の隅々にまで達したわけではありません。天使の説明によると、命を与える水が達しない沼地や湿地があり、そこは「塩にまみれるままにされ」ました。(エゼ 47:8-11)
千年統治の後、反逆者たちの一団がサタンの側に付きます。
聖書の中で川や水は、神からの命を与える祝福の流れを表すのによく使われます。
天でイエス・キリストと14万4000人の共同統治者たちが1000年にわたって王として治め、14万4000人は祭司としてキリストの贖いの犠牲の恩恵が人々に及ぶようにし、忠実な人たちが完全になるのを助けます。
イエスの千年統治の間、神の王国の助けにより、忠実な人たちは贖いから最大限の恩恵を受けます。徐々に完全になるのです。
病気はなくなり、医師も看護師も病院も健康保険も必要なくなります。「大患難」から出てくる「大群衆」、つまりハルマゲドンを生き残る大勢の人たちのもとに、命の水が流れます。 最初のものが最後になり
最後のものが最初になる
これはエデンに入る順番だと思うがどうだろう イエスはぶどう園の労働者の例え話で、「最後の人たちが最初に、最初の人たちが最後になります」と述べました。(マタイ 19:30、20:16。マルコ 10:31。ルカ 13:30)
初めに雇われた者は、イスラエル国民の中の宗教指導者をさしています。
その中には大祭司アンナスとカヤパ、下位の祭司や宮のレビ人、公式の書記、パリサイ派やサドカイ派の人々、モーセの律法に精通した者などが含まれています。
最後に雇われた者は、イエスの弟子たちです。ユダヤ教の指導者たちは、イエスの話を聞く一般の人々を見下していました。
多くの宗教指導者は、そのような人々を侮蔑し、食事を共にしたり、商取引をしたり、交友を持ったりしなかったようです。
ヨハネ 7:47, 49
パリサイ派の人たちは言った。「律法を知らないあの群衆は神に見放されているのだ」。
イエスは、律法学者とパリサイ派の人たちを偽善者であると言いました。
マタイ 23:1-15
イエスは群衆と弟子たちに話した。
律法学者とパリサイ派の人たちの行いに倣(なら)ってはなりません。その人たちは言いはしますが、実行しないからです。
行うことは全て、人に見せるためにしています。
高慢になる人は低く評価され、謙遜になる人は高く評価されるのです。
偽善者である律法学者とパリサイ派の人たち、あなた方には災いがあります! デナリ銀貨で働き人たちに支払いをする時が来ます。最後の者が最初に支払いを受けます。
デナリを受け取るのは、キリストが弟子たちの上に聖霊を注がれる西暦33年のペンテコステの時です。
デナリは、神の王国を宣べ伝えるために油そそがれた霊的なイスラエル人になるという特権を意味しています。
イエスは弟子たちに聖霊によるバプテスマを受け、地上の最も遠い所にまでイエスの証人になるという特別な仕事を与えられました。(使徒 1:5、8)
ユダヤ人の伝統的な考え方によれば、シナイで律法が与えられ、イスラエルが顕著な民族になった時はペンテコステでした。
モーセは仲介者としてイスラエルを率いて律法契約を結ばせるのに用いられましたが、
同様にイエス・キリストも霊的なイスラエルの仲介者として今や、その新しい国民を導いて新しい契約を結ばせました。
最初に雇われた人たちはやがて、イエスの弟子たちが支払いを受けたことに気づきます。
ユダヤ教の指導者に求められていたことは、エルサレムの宮、各地の会堂、サンヘドリンなどにおける名誉、権力、物質的利得の地位を捨て、ラビととなえられていたことを改め、またローマ政府によって許された地位を離れることでした。
しかし、これまでイスラエルで得てきた宗教上の利益すべてを放棄することは、彼らにとって大きすぎる犠牲に見えました。 神はイエスの死とともにイスラエル国民を捨て、新しい国民として「神のイスラエル」を選びます。それは大きな変化でした。
イエスはユダヤ教指導者の扇動によって殺されました。そのときイスラエル国民は神のぶどう園ではなくなりました。
イエスが杭の上で死んだのは、イスラエル国民との律法契約を終わらせるための神の手段でした。
あがないの犠牲としてイエスが死んだことにより、「数々の規定から成っている戒めの律法」は廃棄されました。
エフェソス 2:15
キリストは自分の体によって、敵意のもとになるもの、つまりおきてや定めから成る律法を無効にしました。
コロサイ 2:14
私たちを責める手書きの文書を無効にしてくださいました。数々の規定から成るその文書を、苦しみの杭にくぎ付けにして取り除いてくださったのです。
神は霊的なぶどう園を始めます。イエス・キリストはぶどうの木、弟子たちはその枝です。
生来のイスラエルからなる神のぶどう園は、イエスの死をもって終わりました。
ヨハネ 15:1-4
私は真のブドウの木、私の父は耕作者です。
父は、私にある枝で実を結んでいない枝を全て切り落とし、実を結んでいる枝を全て手入れして、さらに実を結ぶようにします。
私と結び付いていなさい。
ヘブライ 8:7-9
もし最初の契約が非の打ちどころのないものだったなら、第二の契約は必要なかったでしょう。
神は民をとがめ、こう述べています。「『私がイスラエル国民およびユダ国民と新しい契約を結ぶ時が来る』と、神は言う。
『その契約は、私が彼らの父祖たちの手を取ってエジプトから連れ出した日に、その父祖たちと結んだ契約のようなものではない。
彼らが私との契約を守り通さなかったので、私は彼らを世話するのをやめた』と、神は言う。 律法を無効に?
エビオン派などの律法遵守するキリスト教はどうなる?
クレメンスも律法遵守を訴え、それがヘブル人の手紙とほぼ同じ
真正パウロ思想はヘブル人(の一部)だろ?
しかし何故後世にも誠実さを語り継がれたクレメンスの旧約引用が語引用ばかりなのか?
それは実際にクレメンスの引用か?
恣意的に書き換えてああなってるのか?
だとしたらどう言う意図で語句を変えているのか? モーセの律法が依然効力を持っているという主張は、イエス・キリストに対する信仰を否認することになります。
なぜなら、そのような見方は、イエスが律法を成就して、神が律法を終了させることができるよう道を開いたという事実を退けるものだからです。
神は、イスラエル人に規定と法規を守るよう要求しました。
異邦人の信者に対しては、神はモーセの律法に従うよう要求はしませんでした。
西暦33年のペンテコステの後、ユダヤ人自身ももはやモーセの律法の法典に従うことを神から要求されていません。
ガラテア 5:4
律法に基づいて正しいと認められようとしている皆さんは、キリストから離れています。キリストの惜しみない親切から離れ落ちているのです。
詩編 147:19, 20
神はご自分の言葉をヤコブに知らせる。規定と法規をイスラエルに知らせる。神は他のどの国民にもそのようにはしなかった。
ユダヤ教の背景を持つ一部のクリスチャンは、異邦人の弟子たちも割礼を受けるべきであり、モーセの律法を守るように教えられるべきであるという強硬な意見を持っていました。
しかし、パウロはそのような考えを退けました。
コロサイ 2:16
それで、何を食べたり飲んだりするかに関して、あるいは祭りや新月や安息日を祝うかどうかに関して、誰も皆さんを非難すべきではありません。
コリント第一 7:19
割礼を受けていることにも受けていないことにも、特に意味はありません。
ガラテア 3:11-13
律法に基づいて神に正しいと認められる人はいない、ということは明らかです。
キリストは私たちの代わりに災いを被ることによって、私たちを律法の災いから解放してくださったのです。 ペテロが手紙を書いたころには、グノーシス主義と呼ばれる哲学が人々に好まれるようになっていました。
彼らはイエスは肉体で来たのではなく、人間の体を付けているかに見えただけである、と考えました。
使徒ヨハネは、まさしくこの教えに警戒するよう注意を促していたのです。
ヨハネ第二 7
これらのことを書いているのは、人を欺く者が世の中に大勢現れているからです。
彼らは、イエス・キリストが人間として来たことを認めません。人を欺く者であり、反キリストです。
ヨハネ第一 4:1
愛する皆さん、預言を何でも信じるのではなく、神からのものかどうかを見極めてください。多くの偽預言者が世の中に現れているからです。
ヨハネは、「霊感の表現すべてを信じてはなりません」と忠告しました。西暦1世紀にはすでに、神の啓発から切り断たれた邪悪な天使からの霊感が多く世に出ていました。
使徒 16:16-18
その祈りの場所に行く時のこと、邪悪な天使の力で占いをする召し使いの女性に出会った。その女性は運勢占いで主人たちに多くの利益をもたらしていた。
この女性がパウロと私たちにずっと付いてきて、「この人たちは至高の神の奴隷で、救いの道を広めています」と叫び続けた。これが何日も続いた。
ついにパウロはうんざりし、振り向いて邪悪な天使に言った。「イエス・キリストの名によって命じます。その人から出なさい」。すると、すぐさま出ていった。 神の啓発から切り断たれた邪悪な天使たちは、タルタロスに投げ込まれています。
大洪水前に地上に来て、肉体を着けて人間の娘たちとの性関係にふけった天使たちがいました。
彼らは、そのふさわしくない不自然な行ないに対する罰として、タルタロスに投げ込まれました。
ペテロ第二 2:4
4 神は、罪を犯した天使たちを処罰しないでおくことはせず、タルタロスに投げ込み、刑の執行のために濃い闇の鎖で縛りました。
タルタロスは特定の場所というよりは、神によって卑しめられ、天での持ち場や務めを失い、極めて深い精神的暗闇の中にいて、
神の輝かしい目的を認識できない状態にあるということです。
パウロはそれらが「天の場所」にいて、そこから邪悪な霊の勢力として闇の支配を行なっていると述べています。
タルタロスは、ヘブライ語のシェオルやギリシャ語のハデスと同じものではありません。これらの語はいずれも地上にある人類共通の墓を指しています。
また、黙示録20章1-3節で述べられている底知れぬ深みとも違います。
使徒ペテロは、イエス・キリストがハデスから復活させられた後に、これら獄(ひとや)にある霊たちに宣べ伝えたことを示しています。
エフェソス 6:11-12
私たちは戦っているからです。人間とではなく、政府や権威、この闇の世の支配者たち、天にいる邪悪な天使の勢力と戦っています。
ペテロ第一 3:18-20
正しい方であるキリストは、正しくない人たちの罪のために一度限り死にました。皆さんを神に導くためです。
キリストは人間として死にましたが、天での命を受けました。
そして、捕らわれている天使たちの所に行って知らせを伝えました。その天使たちはノアの時代に不従順だった者たちです。 しかしヘブル人の手紙とそれを引用するクレメンスの手紙は律法主義だろう
クレメンスはローマの長老でイスラエルの祖先を「我々の父祖」と呼ぶ、ユダヤ人
クレメンスの手紙のほうは確実に黙示録の引用あって、それをわからんように消してる形跡もある イエスは、私たちを律法の災いから解放してくださいました。(ガラテア 3:11-13)
イエスはただ一つの律法も書きませんでしたが、神はキリストに信仰を抱く人が皆、滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにされました。(ヨハネ 3:16)
しかし、使徒たちの時代にはすでに、クリスチャン会衆のユダヤ教化を図る人々が現れていました。
書士やパリサイ人たちは民を人間の設けた種々の規定によって支配しようとしました。その教えは圧制的、断罪的、否定的なものになりました。
使徒パウロは、曲がった事柄を言って神の羊の群れを虐げるおおかみのような者たちについて警告しました。
パウロはユダヤ教化を図る人々と闘わなければなりませんでした。
使徒 20:29、30
私が去った後に圧制的なオオカミが皆さんの間に入り込んで群れを優しく扱わないことを、私は知っています。
そして、皆さんの中からも、弟子たちを引き離して自分に付かせようとして曲がった事柄を言う者たちが現れます。
それらの人々は、キリストの示した生き方に従う道を、無効にされていたモーセの律法への奴隷状態に置き換えようと努めたのです。 使徒たちの最後の者が亡くなってからは、そのような背教に対する抑制力がなくなりました。そのため、腐敗が急速に広まりました。
テサロニケ第二 2:6、7
皆さんは今、不法の者が定めの時まで明らかにされないよう、何が抑制力となっているかを知っています。
不法のひそかな力はすでに働いていますが、それがひそかなのは、抑制力となっている者が除かれる時までのことです。
「使徒教父」という表現は、イエスの使徒のだれかを知っていたとされる、あるいは使徒から学んだ弟子に教えられたとされる、宗教に関する著述家を指して用いられています。
その大半は、西暦1世紀の終わりごろから2世紀の半ばごろに生きていた人です。
例えば、ローマのクレメンス、アンティオキアのイグナティウス、ヒエラポリスのパピアス、スミルナのポリュカルポスなどがそうです。
それらの人はキリスト教の信仰を、神話や神秘思想や哲学を用いて説明しようとしたため、誤りの潮流を引き起こしました。
クレメンスが不死鳥<フェニックス>に関する神話を復活の証拠と呼んだことなどは、その一例です。
不死鳥<フェニックス>は、焼け死んだ後その灰の中から生き返ると言われている伝説上の鳥で、エジプト神話の太陽崇拝と関連がありました。
西暦1世紀に使徒は、哲学や人間の伝統や世の理念による欺(あざむ)きを警告しました。
欺きとは、相手にあれこれと誘いかけ自分の思うとおりにさせることです。
コロサイ 2:8
哲学や、中身のない欺きにより、誰かに捕らわれてしまうことがないよう気を付けてください。
そうしたものは人間の伝統や世の理念に基づいており、キリストを源とするものではありません。 ユダヤ教化の抑制力となっていた使徒は、書かれている事柄を越えてはならないという点も強調していました。
コリント第一 4:6
さて、兄弟たち、私は皆さんのために、こうしたことを私とアポロに当てはめて論じてきました。
「書かれている事柄を越えてはならない」という点を学んでもらい、皆さんが思い上がって人をひいきしたり見下したりすることのないためです。
やがて、カトリック教会は宗教とは無関係の論題の書物をさえ検閲するようになりました。
例えば、17世紀の天文学者ガリレオは、地球が太陽の周りを回っていると書いたことで痛烈に批判されました。
教会が、天文学の問題に関してさえも最終的な権威であると言って譲らなかったことは、長期的には聖書に対する信仰を弱めさせるものとなりました。
さらに、第一次世界大戦の大量殺りくに巻き込まれた際、28か国の交戦国のうち24か国はキリスト教を奉じていると称する国々でした。
経済上の問題のゆえにムッソリーニやヒトラーが政権を執る道が開かれた際には、
バチカン当局は1929年にイタリアと、また1933年にはドイツとそれぞれ政教条約を結びました。 クレメンスはフェニックスなど書かない
そういう部分は後代の加筆と考えよ
2世紀中盤からの異端の流れをパウロが書くなんてこともありえない
だから教会がクレメンスの手紙とそれの元のヘブル人への手紙を排除したがったんだったら
それこそが正統
アテナゴラスやユスティノス(これも書き加えあるが)にもそれがあるのがわかるだろう
「聖霊」は予言の霊であってその霊を入れれば預言者となる霊、天使
つまりガブリエル
つまりイスラムが正しいってことだ ヘブル人への手紙が神殿破壊前だったとしたら
その中には確実に神殿が破壊されることへの予言があるだろ?
だからキリスト教集団はヨルダンに逃れることができた
その集団は律法主義のキリスト教
ヘゲシップスが書いてるように2世紀中盤まで教会には一切の異端もなかった
だとしたらクレメンスの哲学もローマのキリスト教徒の哲学そのもの
その律法主義キリスト教が「汚れなき処女」と呼ばれていた 楽園行っても死んだペットはそこにはいないんだよな
それだけはどうしても納得できる答えが見つからない ■モーセの十戒はあなたに適用されますか
http://video.fc2.com/content/20230527Ze033cDt/
神が偽ることのできない事柄(1966年)
・律法はイエスの死によって廃止されました。
・ユダヤ人は十戒をも含めて律法から解放されました。
・異邦人は律法の下におかれたことは一度もありません。
■ヘーデースから死人を解放する
https://video.fc2.com/content/20230531tAXc5GVg
神が偽ることのできない事柄(1966年)
・天的な復活は、霊のからだによみがえる。
・地的な復活は、同じ肉体ではなく、同じ人格を持つ魂に再創造される。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています