【仏教】悟りを開いた人のスレ424【天空寺】
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>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願いする事。
※前スレ
【仏教】悟りを開いた人のスレ423【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1564021370/ 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 更にコピペじゃ。
未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 【鬼和尚天空さんの体験と見解】
わしは金剛経を読んでいる時、観照が起こった。
観照によってわしの自我は消え去った。
そして静寂と安心が起こった。
もはや守るペき自我が無いことにより、緊張と不安が消えたためじゃった。
そして、智慧が湧いた。
自我が消えた故に、自我の歪みを受ける事の無い、平等性智が起こったのじゃ。
わしはその智慧に問うた。
(ここでは言葉を使う必要上わしという主語を使うが、その時の心にわしは無かったと覚えておくのじゃ)
この境地が最後のものであるのか、すると自然に智慧が湧き起こり、答えが湧いて出た。
この境地が最後のものではない、未だ安心と静寂を認識するものが残っている、と。
そこでわしは更に認識するものを観察し、それが実体が無く、空であると観じた。
自我が消えてしまえば認識を破壊するのは容易であった。
空であると観じていると、認識するものが消えた。
そして、認識するものがなくなると、言葉やイメージで表せるものが全て消え去った。
そこにおいてはもはや見る者も、見られるものも、見るという事も無かった。
言葉もイメージも、記憶さえも無かった。
全てが無かった。
そして無でさえも無かった。
今、何年も経ってからでさえ語るべき言葉の無いものじゃった。
わしはそこで全ての技を捨てた。空であると言う観も捨てた。
そこでは為すべきことは無く、為す己が無く、為すという行為さえ無かった。
わしは再び問うた。(本当はもうわしは無いんじゃよ、わかっとるね?)
この境地が最後であるかと、智慧が答えた。
この境地が最後である。何故ならもはや為すべき事も、為すべき者もおらず、為す事も無いのだから。と、智慧が答えた。 (続き)
そこには智慧があった。平等性智、大円鏡智、妙観察智等の智慧が全てあった。
無為にして坐り続けるわしの前に、一切の神秘が開かれた。
わしは世の一切が平等であり、空間さえも一つの同じ意識を共有しているのを感じる事が出来た。
わしは死の意識を知り、死がもはや無い事を知った。
死は意識の消滅ではなく、変化に過ぎないことを知った。
わしは経典の言葉が理解出来るようになった。お釈迦さまが何を言わんとしていたのか、判るようになったのじゃ。
世界は全て一つの意識で出来ており、それは唯一なるが故に、一つと数える事さえ無いものであった。
わしは長らく坐っていたようじゃ。
永遠の安らぎである涅槃がそこにはあったのじゃ。
わしは菩薩の誓いを思い出した。
悟りを得たら、再び地上に返って人々を導くと言う菩薩の誓願が、わしを押し止めた。
わしは定を解き、ここに帰ってきた。
自我は無くなっていた。
人と話をする為に擬似的自我を作り出したのじゃ。 空が解らない鬼和尚。
140 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/23(火) 21:53:23.82 ID:PjgYNsY2
言葉は全て空なのじゃ。
それが空の法なのじゃ。
これまでとか言われて騙されてはいかんのじゃ。
わっはっはっは。 唯識が解らない鬼和尚。
728 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/24(水) 22:50:47.31 ID:DjHFbmNK
>>721 完全に妄想じゃな。
もしおぬしが真の悟りを得たならばそのような妄想を書いたことを悔やむじゃろう。
阿頼耶識が徐々に智慧に転じるなどということはありえないのじゃ。
真の悟りは頓悟でしか起こらないからのう。
そのような妄想と知ったかぶりと傲慢は捨てるが善いのじゃ。 762 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/24(水) 23:13:57.14 ID:DjHFbmNK
修行のための法である無明や無明が尽きるという事も無く、老死も無く、老死が尽きる事も無い。
四諦の苦集滅道も無く、智慧も無く、何かの境地を得る事も無い。
得るという事も無いのであるから、菩薩達は智慧の完成によって心の妨げを無として、恐怖も無とする事が出来る。
全ての顛倒や幻想を厭離する事が出来て、涅槃を極めるのである。
智慧の完成によって無上にして正しい悟りを得るのである。
故に智慧の完成が一切の苦を除く、真実にして虚しくない偉大な呪文と知るのじゃ。
故に智慧の完成の呪文も記すのである。
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶
以上のように心身の各要素に、空であるとか無であると観想するのじゃ。
この空の法が難しいのは、人の特性として空とはどのようなものであるかとか、このようなものではないかと、観念として言葉やイメージで捉えようとするからなのじゃ。
そのように言葉やイメージによって捉えられず、認識できない状態こそが空なのじゃ。
もし誰かが空とはこのようなものであると知ったというならば、それは空ではないのじゃ。
知る事の無いものが空なのじゃ。
知る事が無く、認識する事も無い、分別の停止した状態を頭の中に実現し、それを心身の各要素に当てはめるのが、智慧の完成と呼ばれる法の正しい使い方と言えるのじゃ。
何度も何度も繰り返し唱えたり、観想したりすることで空の法は効果を表わすじゃろう。
心身の認識が無くなり、自然に無我に入るのじゃ。
更にそれを認識するものさえ空であると想えば悟りも訪れるのじゃ。 755 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/24(水) 23:09:01.78 ID:DjHFbmNK
龍樹などの提唱する縁起と組み合わせた空の法じゃ。
肉体は食べ物や飲み物などによって存在し、それらが無ければ無くなってしまう。 体は食べ物などの縁によって起こり、縁が無くなれば消えてしまうものじゃ。
縁に依って起こるものであるから、そこに実体は無く、本性も無い、空なるものであると見なす。
心も感覚は感覚の対象を縁として起こり、実体が無く、本性も無く、空であり、幻のようなものであると見なす。
以下、感情と感情の対象、思考と思考の対象、分別と分別の対象、認識と認識の対象について、それらが縁によって起こり、実体が無く、本性も無く、空であり幻のようなものとして観るのじゃ。
このように心と体に対して、縁によって起こり、実態が無く、本性も無く、空であり幻のようなものと見なすのが、縁起による空の法である。
これは仏教の縁起を深く信じ、縁起を良く学んだ者にとって、有効なる修行法と言えるだろう。
しかし、これは縁起と空について、深く知らねばならぬ故に、初学者にとっては少し難しいものがあるかもしれぬ。 752 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/24(水) 23:05:42.64 ID:DjHFbmNK
空の法には幾つか種類があるが、代表的なものをやってみるのじゃ。
一つは般若心経にあるように、全てに無を持って観るものじゃ。
全ては在るでも無く、無いでもない。 汚れているものでは無く、清いものでもない。増えもせず減りもしない。特徴があるのでも無く、無いのでも無い。
このようにおよそ考えたり、言葉やイメージとして認識している全てが無であると観るのじゃ。
疑問が浮かべば、その疑問さえも無であると観る。
そのようにして修行すれば、空を感得するに至る。
空を感得するとは、例えばりんごを見ても、それがりんごであるという言葉が浮かばない。
逆にりんごという言葉を聞いても、りんごのイメージが湧かなくなる。
そのようであれば、りんごというものの概念が壊れ、阿頼耶識の作用を止めたと言う事になる。
それが空を感得したと言う事じゃ。
空を感得したなら、次にはそれを自らの肉体と心に向けるのじゃ。
肉体が空である、そして心を形成する感覚、感情、思考、分別、認識の全てが空であると観るのじゃ。
それらのうちのいずれに自我を投射していようと、それが空であり、阿頼耶識の作用を受けつけないが故に、自我は観照され、無に消え行く。
更に消えた自我を観る認識をも空であると観た時、阿頼耶識は観られたものとして落ちていき、完全なる悟りが得られるであろう。
これが無による空の実践法である。 悟りについていろいろと関心をお持ちの方がおありなので、以下唯識の視座からの智慧を得るまでの流れをまとめてみましたのでご参照ください。
ただし、多少なりとも唯識の知識をお持ちでないと分からない内容となっておりますので悪しからず。
転識得智の仕組み
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます。
参考文献
成唯識論を読む/春秋社
唯識とはなにか 法相二巻抄を読む/春秋社
唯識初歩/すずき出版
唯識入門/春秋社
世親/講談社学術文庫
認識と超越<唯識>/角川ソフィア文庫
大乗仏典 世親論集/中公文庫
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む/角川ソフィア文庫
唯識の思想/講談社学術文庫
大乗仏教の深層心理学 摂大乗論を読む/青土社
等・・・ 246 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/25(木) 22:39:16.94 ID:Eeg2E5jj
縁起の法はお釈迦様が教えられた、真の仏教の修行と呼べるものじゃ。
通常の観察では連想記憶と今、ここにあるものの観察が混在したりするが、縁起の法では今、まさに起こっている心と体の動きを観察することが出来る。
悟りを得る前の者でも、煩悩を離脱出来る故に、煩悩を破壊し、真の悟りに導く修行法と呼べるじゃろう。
では判り易く一つずつ教えて行く事にしよう。
縁起の中でも一番判りやすいのは、やはり接触によって生じる感覚であろう。
接触によって感受が起こる、という一節じゃな。
観察で紹介した鐘の音を聞く方法であれば、鐘の音を聞く、耳から音が聞こえた、音によって聞くという感覚が起こった、と観察する。
音に因って起こされる感覚を詳細に観察するのじゃ。
それが大きいのか、小さいのか、丁度いいのか、澄んだ音であるか、濁った音であるか、高い音であるか、低い音であるか、詳細に観察するのじゃ。
音を聞く、聞いた音によって起こされた感覚を観察する。
この連鎖を何度も観察すると、次第に慣れて来る。 247 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/25(木) 22:39:36.41 ID:Eeg2E5jj
そうなったら、今度は感覚によって引き起こされた感情や思考を観察するという風に、12縁起などを参考にして、少しずつ増やしていくのじゃ。
そのプロセス、過程が自我無しで起こる所まで観察出来れば、観照が起こる可能性が非常に大きい。
しかし、12縁起は一つの観察例に過ぎない。
例えば12縁起は愛があるから取、執着があると説くが、執着があるから愛があると観察する者もおるかも知れない。
その時は自分が観察した通りでいいのじゃ。
要は今、ここにあるものを観察する事であり、12縁起はそのためのモデルの一つに過ぎないのじゃ。
例えば強い情念を持っていて坐る事すら出来ず苦しんでいる者でも、縁起に従って観察する事により、情念の影響を脱する事も可能なのじゃ。
その為には情念によって引き起こされる苦の過程を、縁起に拠って観察する。
例えばモノや人に執着する苦を抱えている者なら、執着によって苦ありと、この位は観察出来るであろう。
更には苦を感受する感情がある、感情が苦を逃れようとする逃避がある。逃避によって一時的な安楽があると、どこまでも観察していくのじゃ。
人の心身の動きは次々に連なって止まる事は無い。
一度、止まったと見えても、実は更なる逃避や忌避によって目隠しされているに過ぎないのじゃ。
それらの過程を次々に追っていけば、全体的な観察が出来る事になる。
全体的に観察する事で、観照はより起き易くなるのじゃ。
真にお釈迦様の教えられた縁起の法は、煩悩を破壊し、速やかに人を悟りに導く法と言えよう。 十二支縁起の無明が解らない鬼和尚。
258 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM sage 2019/07/25(木) 22:49:10.72 ID:Eeg2E5jj
>>251 例えば誰かが腕とは何じゃ?
とか聞いたならば、今おぬしのからだの横についているものじゃ。と答えたりするじゃろう。
身近過ぎるほどの身近なものならば、ぐだぐだと説明するよりはそれじゃと、示すほうが簡単で正確であるからなのじゃ。
無明とは何かと聞かれたならば、今そのように聞いているそれじゃと、答えるのがより簡単で正確であるのじゃ。
自分は書いていると認識するそれが無明なのじゃ。
正にそれなのじゃ。
それなのじゃ。
それじゃ。
おぬしに既に平等性智があるならば、それで分かるはずであるがのう。 >自分は書いていると認識するそれが無明なのじゃ。
鬼和尚誰の受け売りじゃ
言語から必然的に実体視する故に無明
まぁ、妄想分別というからね。
分別妄想の方がいいかもしれない。
だから間を見ろと言う。
一乙! 悟り、も、ごちゃごちゃで、大変である、なー。鬼和尚。
フォイエルバッハを読め。
簡単になる。
西田哲学も西洋哲学からの悟り、である。 >>17
>フォイエルバッハを読め。
解説して見てください。
ついでに西田哲学も。
もう一つなにかあった
宮元啓一氏 >>17
色即是空はうそである
これもね。
お願い。 フォイエルバッハを読め。は学生運動の常識である、から。
宮元啓一は石飛女史とのつながり、である。
色即是空、は悟れば、わかる。ウソである、ことが。
バカ栄進も断定すれば天才である、よ。 >>21
なるほど、鬼和尚は誇大妄想だと言いたいわけですか? 師家は、出された答えの正否を認定する、だけである、から。
各人の答えを提出されたい。
他人の答えの引用でも良い。 22.鬼和尚は絶対無に到達した、と書いてある。
それは良い、と思う。
観察は方法論である。
答えとは分離すべきである。
絶対無の詳細が問題となる。 フォイエルバッハよりも鬼和尚のブログのほうが面白いのじゃ
https://search.yahoo.co.jp/search?fr=slv1-tospcb5&p=%E9%AC%BC%E5%92%8C%E5%B0%9A%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%8B%89%E5%BC%B7%E4%BC%9A&ei=UTF-8 25.読んだことがないバカが言う、ことである。
大爆笑である。
笑われるエロ和尚である、か。
大爆笑である。
いつから和尚になった、かや。 >>26
すまん、暑さでボケてきたのじゃ。
訂正するのじゃ。
フォイエルバッハよりも鬼和尚のブログのほうが
おもしろそうなのじゃ
ブログの内容をYOU TUBEにした奴もいるのじゃ。暇な奴じゃ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLvJUv6-PsZuzhC8vRASc0I8gWkJcF6q6I >>27
へえ、鬼和尚弄り元データとして保存しておく笑 唯識論の意義
主張 → 識一元論。すべての事物は心が作り出した表象にすぎない。
問題点 → Aさんの心はAさんが死ねば消えるが、
事物はそのまま残っている。それをBさんが確認できたりする。
後世への貢献 → 心を表層意識・マナ識・アラヤ識に三分割したこと。
この辺はフロイト心理学で学んだ方がわかやすい。
転識得智・・・識を転じて智を得ること。アラヤ識→大円鏡智
マナ識→平等性智、意識→妙観察智、五識→成所作智 >>978
残念だなぁw
つーか、でおーの言ってる事が最近なんとなく分かって来たんだよ。
でおーは、直感的に感じたものを感性そのままにストレートで話してくるだろ。
俺は密教というか修験道というか、そういうものはよく分からないけど、感応道交というか、ロゴスに対するカオス的なものが人間性というか創造性を刺激させるんじゃないかと、ね。 >>30
大山が公案禅をどれだけ解っているかは未だに疑問だが。
それと別ルートで密教ネタを出していただけだ。
大山が不立文字に反するのを問題視していたが、
密教などは不立文字に反するものであり、大山のスタンスに極めて近づく。
道元禅がゴジラなら、密教はメカゴジラのようなもの。
日本土着仏教とは、葬式仏教に続く、日本の土着性を、高野山大学・大谷大学教授であった、五来重教授が創生した
仏教民俗学の文献を中心に、真の日本的霊性を提示しているだけである。
あと、
>感性そのままにストレート
というより、チベット密教の二ンマ派が得意とするシャーマニズムか?と一見思われる、あのセンスで遊んでいるだけだ。
山伏も密教も。
日本土着密教化するプロセスですら、悟りに関する、その当時(平安末期近い)密教学僧の多数の説で見受けられる世界観でも出てくる話(いいか悪いかは別として) チベット密教の二ンマ派が得意とするシャーマニズムか?と一見思われる、あのセンスと
仏教民俗学の文献資料から見える霊性を把握とか、
文献資料とか、空海の著作で直線的に狙ったりするわけだ。 やっと、日蓮すら生み出した影響力があった、覚鑁から始まる、日本土着な真言念仏の霊性の姿を。
仏教民俗学文献、資料から明らかに現れてきだした、
高野山の阿弥陀仏系の宿坊で、禅定をこんどこそキメてやるワラ。 >>31
日本的霊性というとお祭りを思い出してね。
あれにはいろいろと意味があるんだろうな、と。
それと、本家は曹洞宗なんだけど、法事の後、坊さんが帰ってから親族が集まって、念仏を称えるんだよなぁ。
Wこころは信濃の善光寺、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀Wってね。
で、長男には代々W源Wの字が入るとかw
まぁ、不思議だよなぁw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています