「人間の5つの構成要素.色(しき)蘊・受(じゅ)蘊・想(そう)蘊・行(ぎょう)蘊・識(しき)蘊をいう.」(岩波仏教辞典)

他の方たちに良く見てほしい。
これが五陰の冒頭の説明であり、ある意味、これが全てです。
これをペテン大作さんは引用せずに隠した。
五陰とは、元々、「人間」に用いられた内容です。
私の知る限り、釈尊は五陰を人間にのみ用いて、他の事にはあてはめていない。
逆に、そうでない事例があるなら教えてほしい。
だから、阿含経で五陰と出て来たら、基本は人間のことです。
理由は、教法を主に人間に説いたからです。
釈尊は、自己に帰依することを成し遂げた、と述べているように、
彼の教法の対象は自分という人間であり、他の存在ではない。
目の前にいて説法できる相手もほぼ人間だけです。
釈尊は言葉で教法を説いたのであって、桐山説のようなデンパで説いたのでは
ありませんから、言葉が通じるのは主に人間です。
だから、仙尼経の「陰とともに相続する」の陰を人間であると解釈したのです。
わざわざこれを死後の霊的な存在であると解釈する理由は何もない。