★★★深山は外道の経典製造機★★★

>阿含宗という宗教150
>332 :神も仏も名無しさん:2008/11/27(木) 13:25:05 ID:lnhRYV0M
>「心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔らかで、巧みで確立し不動」 とは、煩悩が消滅して解脱したという意味です。
>仏教学者に上記の文章の意味を聞いてごらんなさい。
>全員が、これは解脱したことを意味すると解釈するはずです。
>この段階で釈尊はすでに解脱しているのです。
自分の勝手な解釈に経典を合わせるのではなく、
経典に合わせて解釈するのです。

三学経典に出て来る「心が統一され・・・」は解脱ではない。
四諦認識の直後に比丘(釈尊)による解脱の告白が出て来るのだからこれ以上の根拠はない。
また仏教学者たちも「心が統一され・・・」を四禅もしくは八等至と解釈し、誰一人解脱とは解釈していない。
岩波仏教辞典(第二版)には原始仏教の解脱には、五分法身(戒定慧の三学、解脱、解脱知見)を備えることが必須条件であると記されている(273頁)。
また「定」については同書515頁に「心を集中して散乱させぬこと」とあり「心が統一され・・・」は三学の定に該当するのは明白である。
このように「心が統一され・・・」の文言には解脱の意味など微塵も無い。
深山は経典の記述=釈尊を無視し、独善的な解釈で本来の経典とは全く違う自分好みの経典を創作した。
正に経典製造機と呼ぶに相応しい外道の行いである。