「水は枯れ全ての清らかなものが汚される
形あるものは邪まな汚れとしての存在に覆いつくされ食い尽くされる」
(『アゴンマガジン』102号、36頁)

仏教の不浄とは、阿含宗の不浄とも意味が違う。
釈尊のいう不浄とは煩悩のことであり、煩悩に基づく行為が不浄なのです。
阿含宗のように、死者たちを霊的不浄などという考えは仏教にはありません。

和田中僧正様は好戦経などを引用して霊障のホトケだと称しているが、
何度も指摘しているように、好戦経の肉段は阿含宗の霊障のホトケではありません。
なぜなら、
・肉段は自分の悪業の報いで苦しんでいるだけで、怨念で苦しんでいるのではない、
・釈尊は肉段を供養や成仏させろと言っていない、
・釈尊は肉段を霊的不浄や邪悪な存在(邪軍)とは言っていない、
・釈尊は肉段が生きている人やこの世界に悪影響を与えるとは言っていない、
・釈尊は肉段が解脱に悪影響するとは言っていない、
つまり、阿含宗の霊障のホトケとは別物であり、釈尊は肉段を
説かないと述べているのだから、むしろ、阿含宗の教義を否定しています。
釈尊は阿含宗のいう霊障のホトケ、霊障のカルマなど説いていないのです。
霊障のホトケ、霊障のカルマなど仏教とは関係のないオカルトにすぎない。