>>390-391
>初心者は八輩=聖衆、から出発するのだよ。本当にアホだよね。
>それが第一段階だ、少し勉強すると、三結を断じた預流からが聖者なのではないか?と疑問が生じる。

また、釈迦仏は実は、修行者をいちいち八輩で峻別してはいませんよね。
釈迦仏が峻別したのは、「あの者は三結を断じ切ったから預流である、
また誰それは三結を断じ貪瞋痴が薄らいだから一来者といい、
またあの者は五下分結を果たし不還者となった、彼の者は五上分結を果たし
諸漏を滅し尽くしたので阿羅漢となって認知認証し具足し住している」と、
経典ではこのような表現でしか分けていません。

ですから以上のような四沙門果と、修行の過程を辿っている八輩を混同すると、
釈迦仏の指導する真偽が分からなくなります。
それぞれの向と果は、それぞれの「修行の様態」を表しているに過ぎない。
例えば、「釈迦は阿羅漢果である」とは表現しないのと同じことです。
ふつう、「釈迦は阿羅漢である」と表現しますね。
誰それは三結を断じた預流果とは言わないのと同じことです。
深山さんが何度も述べているように四沙門果と四向四果を混同すれば、
上述したような頓珍漢な表現が導かれてしまうのです。
これが解ればヨル公さんも異仏教から仏教へと一歩前進しますね。