山下良道 アンチスレ Part.2
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ジャンプしようとしろなんて書いてないんだけどな
そもそも私自身ジャンプしようとしてジャンプしたことなんかないのに…
その点で山下は今回非常に重要な指摘をした ジャンプがなければ仏教もそのへんのスピリチュアルや自己啓発と大して変わらないからジャンプは重要
ただその重要さはジャンプした人間にしか分からないのだから発言には気を付けてあまりベラベラ言うもんじゃない
ジャンプが何なのかわからない人間にはオカルトかハッタリだと思われかねない パッパッパッで今ここ今ここで紛らわせて「囚われてない」つもり
自分では「無我」か何かのつもり
なんちゃって無我で分別の塊みたいになっているのに「囚われてない」つもりでいる
だから第一図に戻るしかなくて単コロしちゃうんだろうな
人間性捨てることで第四図から離れてるだけ
虫か動物みたいになってるよ >>896
それはわからないでもないですが…
でもそれは変人騙りオカルト、、、みたいに見ている側の問題です
こちらには関係ありません
ハッタリと彼らが思いたければ思っていれば良いですよ
こちらは現にそこにあるものを語ってるだけなので
妄想の人たちを全て構うつもりももうありません こんな感じで強烈な妄想に囚われたまま、永遠に地獄の苦しみの輪廻から逃れられない人には瞑想は意味がないんでしょうか? 一法庵に一度も来たことがないのに自分勝手な開脚で指導者ぶりたい勘違い野郎の野狐禅様 「一法庵に一度も来たことがない」
「来た」ということは、君は一法庵参加者なのかな? 何が気に入らないのかな?
何を罵りあってるのかよくわからないんだけど。 ジャンプしてもまた戻ってしまったり行ったり来たりの人は自分の中心性が心から抜けないまま心の中にジャンプの経験を生じさせてそれと同一化してるだけ(ちゃんとはジャンプできてない)だから注意な
わかっているのかわかってないのかわからないが山下さんはそういうあたりをちゃんと話されていない
ちゃんとジャンプできたときは心身と完全に離れたことがわかるし元々最初から離れてのだという理解になるし心身上に雑念などはわくけど今もこれからもジャンプしたままもう戻らないとわかっている
そういう細かい説明ができてないところも修行者に疑問がわいてしまったりアンチが生まれやすい理由のひとつだろう ある意味そういう感覚とも言えなくないけれど
山下さんはジャンプしても心身からは離れないと説明してたよ 神秘体験みたいのが欲しくてドラッグやる人とたいして変わらないね >>906
離れるといっても仏教で言う有身見がなくなるってことで心も身体も自分でないとはっきりわかるが重なってはいるから離れたように認識される
服を着てても服は自分じゃないし自分と服は離れてるというようなもの
服を自分と同一視してる人にとっては服も自分と思えたり自分に貼りついてると思える
そのへんは山下さんだって当然わかってる
ピッチャーが交代したり青空と雲が離れてなかったらおかしい
離れてないというのは自分の認識からなくなるわけじゃないって意味でしょう
ただ心や身体とブッツリ切り離された理解はあるしそれがないならまだ自分の中心が心の中にある(ちゃんとジャンプできてない)可能性がある >>907
それはいい指摘でジャンプしたという思い(体験が)が心に生じるだけならドラッグや催眠でもいくらでもできると思うし
実際自己暗示やきちんとジャンプできてない状態でジャンプの体験をしている人は多いと思う
ジャンプは心と完全に離れるので体験とは全く違う
神秘体験だのなんだのこれまでの体験は心の中に生じていただけで心の世界に同一化してただけなんだとハッキリわかる
神秘体験も本人は超常的に感じてるけどただの心の体験に過ぎなかったことがわかる
そういう意味でジャンプは体験ではない(神秘体験やドラッグのような心や身体上の体験ではない)
だから出世間という言葉が使われるんだよね >>908
心と言ってるのが第四図、エゴのことならその通りとも言えるところもあるし誤解されてるとも思う
雲は青空ですよ、分かれてません
テーラワーダ的には不還果までは自分という概念は持ってる、慢は起きうる(境界を作りうる)
ということだから頭では無我はわかっていても実際には中心は自我にあるでしょう
本当に無我を悟ったら阿羅漢だと聞きます
大乗では阿羅漢は目指しません
レス読んで思うけど無我にとらわれてませんかね?
無我意識しすぎると主人の居ない空き家になると思いますよ > 神秘体験だのなんだのこれまでの体験は心の中に生じていただけで心の世界に同一化してただけなんだとハッキリわかる
> 神秘体験も本人は超常的に感じてるけどただの心の体験に過ぎなかったことがわかる
> そういう意味でジャンプは体験ではない(神秘体験やドラッグのような心や身体上の体験ではない)
そう、第四図の出来事で傍観してますからね >>911
中心は自我にあると書いてるけど中心はなくなるよ
正確に言えば中心がないことはハッキリわかっているけど中心があるような思いが心に生じてしまう
それが慢
ただ心とは離れているのでそれが慢だということもわかってはいる
無我だの阿羅漢がどうだのはあなたが試していけばいいと思うよ
あなたが阿羅漢なら言えばいいけどそうじゃないんでしょう
俺も別に阿羅漢じゃないしジャンプに関しての話をしただけで無我とか阿羅漢の話はしていないから 青空ごはん論法にはうんざり。
ずっと堂々巡りで
中身ゼロ。
説明した体裁をとってるだけ。
山下(王様)は裸じゃないか!!!と
本日、朝カルで誰かが言わなきゃ >>913
通説ですよ
あなたの言ってることは七割方正しいと思うけど
本当に中心が自分にない、慢が生じないなら阿羅漢でしょう
読めばわかると思いますが自分は無我を悟りたいとか思ってません
目指す気も試す気もないです >>915
中心があるような思いが心に生じてしまう(慢が生じる)って書いたつもりだけど
中心があるとか中心がないとかいうのもどちらも正確には分別でそれをわかってる自分という中心を心に生じさせている慢だし
通説に関しては読み取り方や解釈で変わるかな
あなたがどうしたいのかは俺にはわからないのであなたはあなたはご自由にしてください 自分の表現が悪いのかな
> 正確に言えば中心がないことはハッキリわかっているけど中心があるような思いが心に生じてしまう
> それが慢
> 心から離れているのでそれが慢だともわかってる
それは「中心性」は残ってるということだと思います
理由は阿羅漢にはそれがないという通説です
単にジャンプと言ったらそこまでのことは言わないでしょう
ということを言ってます >>917
>>905でも言った通り、そのへんまだがハッキリしてないならちゃんとジャンプできてないというのが俺の言い分なんだよね
でも定義の問題にもなるからそれ以前でもジャンプと言いたいならそれでもいいんじゃない?
俺からするとそれはまだ心の中に自分の中心があって心の外に出てない(ジャンプしてない)状態なんだけど
ただ山下さんはそういう状態でもジャンプしたみたいな言い方してる気はする(○○さんはジャンプしてるみたいな言い方するけどそうは見えないから)
山下さんはちゃんとジャンプ出来てる人と仮ジャンプみたいな人をどちらもジャンプしてるという言い方してる気はするけどそのへんも俺はよくないと思ってるしだから>>905みたいに書いたわけで
ジャンプの定義がそこまでのことじゃないっていうならそうなんだって感じかな 神秘体験でもドラッグでもなんでもハッキリしたって思いは心に生じるしその人は間違いなくハッキリしてると確信してハッキリしてますって言うだろうけど
そういのじゃなくて本当にハッキリしてるならそれがジャンプでいいと思いますよ 「俺」ではジャンプ出来ない
「俺にはお前はこう見える」が慢
単コロがいつも気づかずにやってるけどw 「心の外」に出ていたら「俺」という言葉は使わないよ 山下さんは「仮ジャンプ」的なところでも実は青空から観ていると言ったところが有り難いわけです
しかし、第五図第六図が青空、本当の私と確信しなければジャンプとは言えないでしょう
それはハッキリした体験ですね
(あなたの言うように第四図的には無体験でもある)
繰り返しますが、エゴはテーラワーダ的には阿羅漢になるまで消えない
行ったり戻ったりするということです
大乗では阿羅漢は目指しません
無我が真理だと頭で思い込んでも良いことは無いでしょう
また言葉で、顔も見えない文字列でやりとりしていれば自ずと中心性は見いだされてくるでしょう
そこに拘る意味が私にはよくわかりませんということです
身体から出ないし、雲は青空ですよ
慈悲は第四図の「心」ではないけれど心であることに変わりないですし
まあ、そこらへんよくよく考察なさってみてはどうでしょう >>923
なんちゃってイマココで分別の塊の単コロくんおはよう(・∀・)ノシ 2019/08/31 第一図に戻って単コロするマインドフルネスは地獄の入り口か こんな感じで強烈な妄想に囚われたまま、永遠に地獄の苦しみの輪廻から逃れられない人には瞑想は意味がないのかな? 単コロしないと書き込めないほどの強い執着は瞑想で消えるのか? >>924
行ったり戻るがどういうことかや中心性がなにを指すかがあなたと俺とでは内容が違うと思うので
あなたの書いてることにもう少し説明した方がいいんだろうけど説明すべきことはもう俺の言葉で一応説明してると思うのでこれ以上は言わない
俺は俺で考察したいことはいつでもしてるしあなたはあなたで考察してもしなくても好きなようにしたらいいと思うよ 「俺」ではジャンプ出来ない
「俺にはお前はこう見える」が慢
という自覚は出来なかったか
ニセモノだな やや、単コロは別のしゅうちゃくに取り憑かれてしまったのか?戻ってこないぞ 単コロくんの地獄の一日
「妄想野郎め!こんちくしょう」パッパッパ
「執着が取れねえ!」パッパッパ
「イマココイマココ」パッパッパ
「イマココイマココ」パッパッパ
「イマココイマココ」パッパッパ
パッパッパ、パッパッパ、パッパッパ
「わはははははは!どうだ!執着取れたぞ!切り替えるか」ポチッ
「さあ、妄想野郎と山下信者に粘着してやる!わはははは」 何やらワンダルマメソッドをやると病状が悪化するみたいだ。
こわいな……。 ID:73ibdqA3が妄想障害なのは自分にもわかるけど
怖ろしいほど悪化してるのかい? ちょいとスレを覗いてみたら
何かヤバイ人(本物のキチガイ)が連投してるっぽいね……。 単コロくんの執着が止まらないー!
誰か単コロくんの暴走を止めてあげてー! 単コロくんの執着が止まらないー!
誰か単コロくんの暴走を止めてあげてー! 既に自演バレしてる単コロくん
バレてないつもりで粘着w
935 神も仏も名無しさん sage 2019/08/31(土) 09:55:45.97 ID:73ibdqA3
何やらワンダルマメソッドをやると病状が悪化するみたいだ。
こわいな……。
938 神も仏も名無しさん sage 2019/08/31(土) 10:16:04.24 ID:MWQlpmny
ちょいとスレを覗いてみたら
何かヤバイ人(本物のキチガイ)が連投してるっぽいね……。 このスレ見てワンダルマメソッドのヤバさがよくわかりますた 体の外に出るとか青空と雲は分離してるとか、典型的な「頭で考えたジャンプ」だな 単コロしないと書き込めないほどの強い執着は瞑想で消えるのか? さて、土曜だしバカからかってないで
ちょっくら美味しいものでも食べに行こうっと
単コロくんまたなー(・∀・)ノシ 以上
ワンダルマメソッドをやるとこうなります
の巻でした ワンダルマやると単コロ自演野郎になるのかー
そいつは考えものだな >>951
さすがにそれはない
ID:NoC4Baa7 はアンチのなりすまし このクソ坊主は散々他人を引用するくせに「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリには触れないよな
まあヒキニーのアニオタには無縁なんだろうが、本能的に持論が覆されるのが分かってんだろうなwww 一般の人は騙されても哲学者は騙されない。
仏教3.0鼎談、永井さん最後の言葉。 つまり、、、
・山下は詐欺師である/ではない
・内山老師は嘘を言ってない
・藤田一照は盲信者である
どれを言ったのだろう?
自分には永井さんが一と三を言うとは思えないけれど >>955
それは君の映画でしょ
山下的な言葉で言えば「ハラリには揺さぶられない」 >>957
出たら慈悲ありという山下の映画に対して。
一般人が幸せになるならそれでいいとも言っていたけど。 >>961
出るという映画。
よくあるだろ。
マトリックスとか 出たら慈悲があるというのが山下の映画(第四図)だと断罪するのであるならば
永井さんは慈悲の瞑想に習熟した時に起きる現象について説明できないといけないね
それが出来ないなら片手落ち、わからないことを語ったことになる
>>962
言葉の上では第五図第六図も内山老師も映画だと言ってしまうことも可能なんだけどね
そんな雑な議論をしたのか? また、「出たら慈悲がある」というのが山下の映画である
というのが永井さんの映画でないと言える理由は何なのだろう? と考えるなら
そこをいい加減にして「そんなのは山下の映画だ!」なんて断罪するとは
私には思えないんだけどね
>>956のレス読んだ瞬間にそこまで考えたけど 人間は見聞きしたことを自分の都合のいい解釈で納得しがち >>959
都合が悪くなると「映画」www
まさにオウムと変わらんカルトやなwww 具体的にはこれの話が進んだかどうかというのは一つの見所だったと思うんだが
永井均 @hitoshinagai1
慈悲の瞑想は菩薩の実践と違って本気で願うが実際には何もしない。あれは実は演劇だからだ。
私は演劇部出身だが、練習を含めて何度も本気で演じるとその心性が自ずと自分の一部になる。
実人生もまた一種の演劇だからだ。
だが、そもそも演技(完全にそういう人になりきること)が全くできない人がいる…
かなりポイント外していると思うんだ、これは
何故なら、人間は本当に「生きとし生けるものの幸せ」なんか真剣に願いながら生きることは不可能だから
仮に演技だとしてもその演技にはシナリオも想定され演じられるキャラクター性もない
慈悲は個人の人格としてのキャラクター性はないし、超人願望でもない
それを瞑想の中ではやる
慈悲の瞑想では観客は一切想定されない
(山下さんのインストラクションを聴くと演技と思ってしまう人もいることは想像に難くないがw)
永井さんはここらへんの違いが論じられてないのは思慮が足りないと思う
また、仮に慈悲が所詮第四図のことであるならば、その慈悲は観察すれば消えて無くなるものなので
永井さんのヴィパッサナーが本当にヴィパッサナーになっているならば
慈悲の瞑想で起きてくる現象が無常のものとして消えていくことを確認してみようということにならなきゃおかしい
やってみて慈悲の瞑想をして起きてくる現象が演技とは違ったものとして理解できなければならない
そこまで言えなければ、「外に出ると慈悲があるというのは映画」とは言えない
>>966のいうとおりだとするなら哲学者としては「やっちゃった」ということになる
ここの議論が十分にされなかったか、ID:TeGoTQlzに伝わらなかっただけなのかはわからないが >>970
山下は世間にある話題の本全て読んでなければならないのかな? ハラリの本はパラパラとめくっただけだが
個人的には「あーまたいつものやつか」としか思わなかったんだよね
悪く言えばユダヤ人が終末煽ってるだけ
つまりよく作り上げられた映画を見ている人だよなぁ、としか思えんのよ あらゆる宗教はその「現実」としてのホラー映画からジャンプするためのもの
イスラエル人やアメリカ人が終末好きなのはそこにジャンプがあると
知っているからだと思うよん >>970
ちなみに、オウムは映画を現実、「超越世界」からみた現実と思い込んだ人たちだから
全く逆のケースだよ 山下さんが語ってるのはダルマであってロジックではないからな
人類の進化が起きるのか、格差が起きるのか、そんなことでは覆らない >>971自レス
> 何故なら、人間は本当に「生きとし生けるものの幸せ」なんか真剣に願いながら生きることは不可能だから
ごめん、訂正
願いながら生きるのは不可能じゃなくて、実際願って生きてるし
けれど、それを客観的にわかる形で演じながら実現しながら生きることは不可能ですよ
ということ
幾らでも「お前願ってねーじゃん」と言われうるからね
例えば、薬局に行ったら殺虫剤が山程あるのを見てどうするのか?買い占める?
薬局、薬品会社にテロするの?それは人殺しになるよね…とか
道や公園を歩いていて蟻を踏み潰さないように歩けているのかとか
梅干しや蜂蜜食べたら口内から肛門までの最近の一部は死ぬし
そういった事全て考慮して生きとし生けるものの幸せの実現を願うことは
物質的な生命の領域を超えた事なんだよ
だから、瞑想の中で思量の及ばないところに行く、ジャンプする
演技でそれが出来たら神がかりだよw
極稀にそういう天才がいるにしても、一般的に「演技だ」なんてことは言えないと思うね
役者は全員、慈悲喜捨の領域にジャンプするのかい?
んなわけないだろう
仮に演技だとしてもその演技にはシナリオも想定され演じられるキャラクター性もない
慈悲は個人の人格としてのキャラクター性はないし、超人願望でもない
何故なら、キャラクターの違う一般人、いわゆる凡夫にも慈悲は見いだされるからだ
だから、永井さんは上記のツイートについてそれ以上議論を深めずに
「外に慈悲があるなんてわたしは騙されないぞ」と言ったとすれば(←仮定ね)
それは永井さんの思慮がまだ足りないだろうと思うね
もしそこで〈哲学〉が終わったなら非常に残念なことだ ただし、役者さんが慈悲の瞑想をやれば、「一般人」よりは慈悲喜捨になりやすいかもしれない
ということは思わなくはない
役者ではないからやらせてみないとわからない でね?
永井さんは誠実な人だからそんな雑なことを言うわけがなくてねww
「慈悲なんか関係ねーよ、勝手に幸せな気分になってりゃいいだろw」
なんていうことは絶対にしませんよw
それやったら哲学者としてアウトでしょう
足元から崩れ去ります
哲学者の看板外すまでやらないでしょう
そんな事を言ったように吹聴してる思慮の足りない人が
決して安くない料金を支払って鼎談を見に行ったと、、、
何のために? お猿さんは今ここにいられなくて、第五図へ飛ぼうとする。 やっぱり慈悲の瞑想は必須なんですね
必須じゃないとか言ってる人はニセモノですね 内山老師は!慈悲の瞑想は!
・・・・やってませんorz 何故?
答えは簡単
スマナサーラがまだ、作文してなかったから 遥か昔は、私が幸せでありますようにと祈って何になると笑っていたもんだけどな
変われば変わるもんだ キャスを10年も遡れば、慈悲もマインドフルネスも内山も第五図も一言も出てこないから レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。