如来蔵思想は仏教ではない
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zys********さん
2019/6/2209:09:55
>w_p********さん
>アートマンは個我の内面的本質であり、輪廻の主体でも
あります。しかし、大乗は無我の立場であり、仏性は輪廻の
主体とはなり得ません。
その通りです。表向きは。
しかし実際には日本の仏教は「梵我一如」になっていると
私は思います。
うちの近所の寺には「霊を断ずる法あり」と看板があります。
しかも「唯識によって」と。歴史ある寺院ですが、ここに限らず
平気で霊や魂や「我」を認めてしまっているのが日本の仏教です。
そして輪廻といえば「私が次の私に輪廻する」と言うような
考え方の書籍やらがたくさん出ています。
なぜここまで日本仏教は「梵我一如」になってしまったのか。
それは三身思想の影響がもっとも大きいと思います。
法身や報身を像にして「拝む、祈る」という本来仏教では
なかったものを当たり前にしてしまったと言うこと。 あなたの仰ることは間違ってはいませんが、法身と仏性と
いう関係性はあまりにも梵我なのです。
ヒンドゥー教は間違いなく仏教に浸透していますが、
当然生のまま混入することはできません。
そこで少し形を変え、定義を変え言葉を変えて紛れ込ませて
います。
正しく仏教が伝わっていたのならば、ここまで「梵我一如」
にはならなかったと思います。
>大乗の仏が説いた、とは具体的には誰を指すのでしょう?
わかりません。
なぜなら大乗仏典の作者は釈尊に託して書いたからです。
またそうしなければ経典としての意味がないでしょう。
「山田はこう言った」「加藤はこう言った」と書いても
なんの説得力もありません。
ですから「世尊、三昧よりたちて告げたまわく」と言うような
書き方になるのでしょう。
>仏陀釈迦牟尼の五蘊無我は梵我一如の境地に至るために、
障りとなる個我意識の幻を消す方法論と解釈しています 私は如来蔵思想はアートマンを仏教に合うように
書き換えたものと思っています。
大乗仏教には「宇宙の真理」とか「宇宙との一体化」などと
言うフレーズがよく出てきますが、「宇宙の真理」と言えば
ブラフマンでしょう。
これは梵我一如に他なりません。
かと思えば「無我」であるはずの仏教なのに、高僧と
言われる人たちが「真実の自己」などと言ったりします。
今の日本仏教は形のみで、本質はヒンドゥー教(ブラフ
マニズム)だと思っています。
大乗経典は釈尊滅後500年ほど後(紀元前後)に創出されていますので
釈尊の説ではないことになります。
>大乗仏教もほぼ非仏説になりかねません。
これには色々な解釈があり、「釈尊の説ではないが、大乗の仏が説いた
のだから仏説である」という人もいます。
>北伝仏教のヒンズー回帰度を示す尺度になる説と見るべきでしょうか?
仏教はマウリア朝のアショーカ王の時代が全盛期で、それから徐々に
衰退して行きます。それには都市の時代から地方の時代への転換
(仏教は年の宗教でした)や仏教に押されていたバラモン教が地方の宗教
を取り入れてヒンドゥー(インド)教として盛り返してきたことなど
色々の要素があります。
ともあれ、ヒンドゥー教の人気の一つは「好みの神に願掛けができる」
ことでした。
仏教は本来、祈りも願掛けもない宗教でしたし、教義がなかなか難しくも
ありましたので、民衆が離れていったということもあるでしょう。
そこで仏教にもヒンドゥーの神々を加えて行ったのですね。
梵天(ブラフマー)
帝釈天(インドラ)
毘沙門天(クベーラ)
弁才天(サラスヴァティー)
大黒天(マハーカーラ)
等々たくさんのヒンドゥーの神が仏教の中に混入されていきました。
一度こういうことをするとどんどん緩くなって行ったのではないかと思います。
まあ、ある意味「生き残りのため」と言えなくもないかもしれません。 w_p********さん
2019/6/2201:31:39
横から失礼します。
zys********さんの
>私は如来蔵思想はアートマンを仏教に合うように書き換えたものと思っています。
なるほど。そうとらえると分かりやすい。と思いました。
が、やはり、アートマンと仏性は違いますよ。
アートマンは個我の内面的本質であり、輪廻の主体でもあります。
しかし、大乗は無我の立場であり、仏性は輪廻の主体とはなり得ません。
一見同じに見えますが、似て非なるものなんですよね。
如来蔵とは、仏陀になる「可能性」のことであって、梵我一如とは違った意図を
持つものだと思います。
そういった意味で言えば、阿羅漢にしかなれないと定義したのは部派仏教であって、そこからして仏説ではないのです。
整理すると
まず、七仏通誡偈からも分かるように、お釈迦様は過去仏を認めていま
す。
つまり、お釈迦様以外にも仏陀はいるのです。
そこを部派仏教は、仏陀になれるのはお釈迦様だけ。他は阿羅漢まで。とした。
大乗の教えは阿羅漢止まりではない。仏陀になれるんだ。と主張し、
パーリ増支部「比丘たちよ、この心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている」つまり、自性清浄だが客塵煩悩によって汚れているとの仏説を根拠に、如来蔵が説かれるようになった。
ということです。
もちろん大乗経典は釈迦入滅後、500年以上後に編まれた創作経典ですから、
非仏説であることは間違いないんです。
外道のものもたくさん取り込んでいます。
しかし、非仏説ではあっても、非仏教ではないと私は思います。
大乗涅槃経、偽経の件ですが、zys********さんのおっしゃる通りです。
大乗涅槃経は梵本がありますから偽経にはあたりません。
>アートマンと仏性は違いますよ
光り輝く光明の心 = (一切有情悉有)仏性
常楽我浄の「我」 = 梵我一如
仏性(種としての阿摩羅識・自性清浄心) ≠ 法界体性智
といった感じでしょうか? goo********さん
2019/6/2210:04:17
大乗涅槃経は梵本があるので、中国撰述ではなく、偽経とは言いませんが大乗涅槃経の説く如来蔵思想が”ブッダの教え”(ニカーヤにある教え)とは異なる思想の上に成り立っているという指摘があります。
そして、如来蔵思想の根底にある考え方はブッダが斥けられた考え方であり、非仏教であるというのが
如来蔵思想批判の骨子です。
ブッダは永遠不滅の”我”(アートマン)というインド古来の考え方を斥けましたが、
その意図は、全ての人間が等しく持つ可能性を称揚し、自由を尊び、一人一人の人間が
等しく尊重される世の中を理想とし、個人の”幸せ追及可能性”(苦しみの解決)を知らしめるため
だったと思われます。
アートマンとは、”本質”性にその中心思想があり、本質とは不変であることを意味しており、この考え方によって社会的にも心理的にも人々を縛り付けていました。
例えば、低カーストの人間は、その本質により動物に生まれ変わるとか、
高カーストの人間のみが再び人間に生まれ変わるあるいは解脱するといった考え方がインド社会の常識だったのです。奴隷階級に生まれるような者は”奴隷に生まれる本質”を生来持つどころか過去生から延々と持っているとされたのです。
これでは低カースト者には夢も希望もありません。
社会には停滞感が漂っていました。 ブッダが説かれた無我(アナートマン)とは、永遠不滅の「本質は無い」ということですから、人間の可能性がこれにより解放されるわけです。
人間の思考の癖なのか、それともインド人特有の思考の癖なのか、インド諸宗教では
「根源」や「本質」を求めることに熱中する人たちがいつの時代にも生まれました。
更には、この世(宇宙)を解き明かそう、説明しようというモチベーションから
数多の思想が生まれました。そういった”思考のパラダイム”から抜け出すことは容易ではありません。
ブッダは宗教のパラダイムシフトを成し遂げたとも考えられます。
なぜ、大乗に顕著にみられる「本質主義」が説かれるようになったかといえば、それは”悟り”に対する大乗的理解に原因を求めることができます。
(※”本質主義”はブッダの教えと相容れないと、紀元前3世紀頃の第3回結集の議長が残した論書に示されています)
初期の仏教では、”悟り”とは歴史的実在の人間ゴータマ・ブッダが明らかにされたもので、それはゴータマ・ブッダの境地のことであり、
ブッダの生き方・振る舞いによって示されているのであり、”ブッダ”というのは敬称であり尊称であり、例えるなら「ミスタージャイアンツ」
あるいは「王の中の王、マハラジャ」のようなものであり、ブッダ滅後しばらく経ちますと、ブッダという称号はゴータマ・ブッダにしか使われなくなりました。 ”ミスタージャイアンツ”は長嶋茂雄であり、原辰徳がそれを名乗ることは僭越である、
憚れる、といったことと同様の民衆心理です。
(うちの宗派は”仏”に成れるから、”阿羅漢”にしか成れない〇〇宗より
偉い、なんてのは馬鹿げた考え方です)
大乗仏教では、悟りの”本質”をダルマ(法。真理。自然法則)に還元し、
”法。真理。自然法則”は永遠不滅だということに強く吸引され、
それを敷衍し、「法体」を説くに至り、この法体こそがブッダの本質であり、
ブッダは永遠に「実在」すると説くに至ります。人間ブッダはある意味で忘れ去られ、人間ブッダから”悟り”だけを取り出して、取り出した”悟り”に本質性を与えました。
(※還元主義も第3回結集議長により斥けられています)
そして、「常楽我浄」が悟りであるとします。
これは、”無常・苦・無我・不浄”に対比されるものです。
”ニルバーナ(涅槃)は常である”という文句が落とし穴になった可能性もあると思います。
(ブッダの本意を考えるべきです。意図を考える必要があります。パーリ版涅槃経には”一般的な意味
での苦しみの片鱗もない瞑想の境地もドゥッカである”という経文があります。ドゥッカ=苦、とは無常・無我を指し示しています)
大乗涅槃経の「一切衆生悉有仏性」という語句に注目した大乗僧は多く、
日本仏教に影響を与えた天台教義の中心思想でもありますが、思慮深い僧侶は
この語句の矛盾と問題点に気づくんですね。道元禅師がその一人でした。
そこで道元禅師は、
「悉く仏性を有する」のではなく、「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」に
よって衆生の内に仏性が存在するという考えが否定され、
悉有(あらゆる存在)が仏性であると説かれるのです。
引用元:道元禅師と仏性
https://zenken.agu.ac.jp/zen/story/h15.html
上記引用にあるように、涅槃経の漢訳文を読み替えました。
大乗経典もニカーヤ(口伝されていた教えを筆記したもの)を根本として、
それを発展させたものであるのですが、発展させるのではなく、
ブッダの教えの「意図」を推しはかることを中心課題とすれば、大きく脇道に逸れ、迷路に嵌りこむこともなかったのになとは思います。 まとめ
大乗派は
・「永遠」性に執着してしまった。”永遠”を求めるのは俗人の典型的思考
・本質主義・還元主義の陥穽に嵌ってしまった
・人間の心の教えであるはずのブッダの教えを無闇に拡大解釈して、一切の現象に当てはめようとした
・神秘主義への回帰。ブッダの悟りまで神秘化してしまった。(神秘体験と悟りは無関係。瞑想時の神秘体験も虚妄です)
・人間の生き方振る舞いの重要性を見ないようにした。仏教の学問化と、
その学問の偏重と、学問を司る特権的インテリ階級として生きる
大乗僧の自己存在理由と自己弁護のためか?(仏教僧のバラモン僧化) >>10
「永遠性に〜」
大乗諸派は中観派の系譜であり、その中観派で、「永遠性」なんてものは否定されてます。
「本質主義・還元主義に〜」
このような現代の概念に置き換えて仏教を理解しようとする事は、
文中のお箸をフォークと書き変えるようなもので、大意は通じますが、誤解の元となりますね。
中観派では「本質は無い」「相依性」と説きますので、本質主義でも還元主義でもありません。
「人間の心の〜」
これも現代の学問的な分類、即ち分別によって仏教を見ているので、誤解の元となってます。
「神秘主義への回帰」
これは仏教教学を知らない人の妄想ですね。
勿論、宗教ですので、世間に対して現世利益、つまり祈祷などは為されますが、全て方便としてです。
外科手術をみて、人を傷つけるなと難癖を言うようなものです。
「人間の生き方〜」
これは個人主義的な視点からの物言いですね。
話になりません。
現代日本人は、キリスト教的な世界観、個人主義や人権思想、そして疑似科学的観点から仏教を見て批判や再構築をしますが、
それは仏教ではない、単なる個人の願望の投影に過ぎません。
「人間としての釈迦の本当の考え」なんてものを想定して仏教を騙る人は、学者も含めて全て、仏教を騙るのみです。
野球を実際にプレーせずに、プロ野球選手にダメ出ししているようなもので、話半分に聞いとくのが無難でしょう。(笑)
社会で実践して世界的に賞賛されてるなら方なら陳謝しますが、(笑)
どうせ個人的に仏教かじった奴が好き勝手なこと言ってるだけか、せいぜいカルト関係者やら学者先生、生臭ハゲとかだろ?(笑)
(^。^)偉そうな事は組織から出て個人として実証してから言えと。(笑) Ⓠ龍樹と真言八祖の竜猛は別人物ということですね
A1
現代の学者はそう考えています。
年代で考えたら、同一ではあり得ないのです。
しかし、空海は中観の龍樹と、八祖の龍猛を同一と考えているので、真言教学においては、そこはグレーゾーンな扱いになっています。
中観 龍樹と、八祖 龍猛に関しては、単純な同名異人説もありますし、
「龍樹」という名に何か相承されて行くような特別な意味があり、その2人だけでなく、
複数の龍樹が存在したのではないかとする研究者もいます。
A2
>
zys********さん
2019/6/2418:54:40
これですか?
「河口慧海や寺本婉雅は、『八十四成就者伝』の龍樹伝が
特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の
没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。
この説では、本来の龍樹を「古龍樹 (Nāgārjuna I)」、
『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 (Nāgārjuna II)」と
呼び分ける。」
まあこういう説もある、ということですね。
私は単独説をとりますが。
>ダライラマ十四世も単独説ですね。それで思ったのですが、
龍樹という名もダライラマのように何代も襲名された可能性もあったのでしょうか。
あるいは転生活仏でアートマンとしては同一人物だったとか言ったら有身見すら脱してないと怒られそうですね。 >教義を混ぜてはイケナイって人が何人かいますが、テーラワーダとヒンドゥー教アドヴァイタは混ぜる必要はありません。
同じものなのだから、混ぜるも何もありません。
ただ、同じだってコトを、自分の眼(法眼)で観なくてはいけないだけです。
===
入門期には、どれか一つの教義を突き詰める方が楽です。
テーラワーダのアーチャン=チャーの法話集がオススメです。
瞑想実践はする方が良いです。
>テーラワーダではニッバーナ、アドヴァイタではタットと呼ぶモノに達することが大事です。
喉が渇いた時に、水やコップの議論を何時間しても、渇きは治まりません。
水を飲むしかないです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています