>>885
たとえ見性したからって全てが同じようには見えるようにはならないです。
やはり見性は見性だし、悟後の修行は悟後の修行だし、九図の返本還源、これはまぎれも無く解脱であって心身脱落。
牛を仏性などとする見方もあるけど、仏性を手慣らすなんて芸当は人にはできない。
そうでなく、見性するといかにそれまでの人生、煩悩煩瑣となっていたかまざまざと知ることになる。
無心を得ることによってはじめて自身が有心だらけとなっていたか気付くことができるようになる。
この退治すべき煩悩を牛に見立て、この野生の牛を飼い慣らしていく。
これが悟後の修行というもので、四図の得牛以降に示してあるもの。

仏性は初めから最後までどこにも行かず主人公と共にあります。
なぜならこの主人公こそ仏性だからです。
未悟の人は自身が仏であることにまだ気付けていないだけ。