0062神も仏も名無しさん
2019/10/19(土) 07:37:24.45ID:a2DV2fWeれは今日「三大諍論」といわれる。「諍論」とは、「どちらが正しい仏法か」についての争いをい
う。
第一の諍論の相手は、後に浄土宗西山派を開いた善慧房証空で、親鸞と首席を争う高弟だ
った。
親鸞が「阿弥陀仏の本願は、生きているただ今、救ってくださるというお約束です。」断言した
時、善慧房は真っ向から対立した。
「何をいわれる、親鸞殿。この世で救われた、ということがありましょうか。念仏さえ称えれ
ば、死んだ後に極楽へ生まれさせていただけるのが、阿弥陀仏の本願ではありませんか」
これが論争の発端だった。
●弥陀の救いは現在か、死後かで衝突
親鸞は「阿弥陀仏の本願は、生きている時、大満足の身に救う約束だ」と説いたから、これを
「不体失往生」という。「不体失」とは"肉体を失わず"ということで、「生きている時」の意味であ
る。「往生」とは「弥陀に救われること」である。
それに対し善慧房は、「生きている時に弥陀に救われるということはない。弥陀の本願は、死
んだら助ける約束だ」といったので、彼の主張を「たいしつ体失おうじょう往生」という。「体失」と
は"肉体を失う"で「死後」のことだからである。
阿弥陀仏の本願の救い(往生)は「生きている時(不体失)」という親鸞と、「死んだ後(体失)」
と言い立てる善慧房との一騎打ちだったので、この争いは「体失・不体失論の諍論」といわれ
る。
親鸞の曾孫、覚如の著した「口伝鈔」という本に記されている論争である。
弥陀の本願は、ただ今
高弟二人の激しい衝突に、周囲の弟子は混乱した。法然は、生きている平生に救う「不体失
往生」が弥陀の本願だと裁断を下す。