「牛」と呼び、「無相の自己」と呼んでるもの、
それに目覚め、それを求めるのは十牛図の第七図まで
第八図以降はその「牛」も無くなってるところがポイント
それを「牛」と「人」も無い根源に目覚める
それを「法」(ダルマ)に目覚めると呼ぶのではないでしょうか