いかに九次第定を極めるか
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まず初禅をどのように修めるのがベストか
諸賢のアドバイスをいただければ幸いです。
加えて、不幸にしてカルト幼稚園で心の傷を負わされた園児さんの心のケア、
邪師から受けた催眠暗示の解除、その他仏教全般の課題についての議論の場になり、
彼岸中学(見諦道中学校)に入学できる、加行道小学校」の授業を開講したいです。 無為とは、作られないもののことです。有為とは、因縁和合に依って仮に作られているこの世界の事象のことをいいますが、それに対して無為とは、因縁がなく存在するもののことです。因縁によらずにありますから変化せず常住します。
無為とは、涅槃の別名 観るものと観られる対象、認識する者と認識されるもの、というのは因縁です。
私が心を観るとき、観ている私と観られている心という因縁があります。
このような主客を超えて、直観的にありのままをとらえることによってしか無為の境地には入れません。
無我とは自他分別を超えて、自他無分別の境地に入ること
ニッバーナを体験している時は自他無分別である
合掌 初禅(五禅支の生成)正思惟、正智(出世間上上智を観じる)
第二禅(喜・楽・一境性)止 内清浄
第三禅(楽・一境性)正念(四念処観)、正見
第四禅(一境性単独状態)止(一切の受を捨てる)不苦不楽
空無辺処定 空の無辺性の観想
識無辺処定 識の無辺性の観想
無所有処定 止 何ものも私・私のものと執着しない、何ものも真実には存在せずと観じる瞑想
非想非非想処定 微細な意識による止観 無余依涅槃界の観想
滅尽定 止 相の無い心の統一 涅槃寂静 家にいようと森にいようと、心こそが克服されるべきもの
それが森の中でできるのなら、どうして家の中でできないことがあるだろうか?
ニルヴィカルパ サマーディ(無分別三昧)は、真我(真実在・涅槃・無為・宇宙我)の中に溶けこみ、世界に気づかないまま留まる
原初の、純粋な、自然状態の中に努力も要さず留まっている状態がサハジャ ニルヴィカルパ サマーディ(ラマナマハルシが留まっていた状態とされる)
密教的に言うと
法界体性智(宇宙我)に溶けこみ、世界に気づかない(五蘊が現われない)まま止まる 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない
仏像があると思って(その物自体を)仏と思っては誤りである
いかなる相も虚妄であり
認識できるものは幻想であり(いかなる「個としての枠組み」も、思考分別が作り出した幻想で)
諸々の相は相に非ずと見るなら
認識できるものは真の実在ではないと見るなら
即ち如来を見ることになる
即ち空の智慧を生じて涅槃寂滅を知解する(宇宙の一体性をさとる)事となる パオ・セヤドー
正しいサマーディ・「正定」とは何かというと、第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、これを正しいサマーディと呼びます。
http://parami-library.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-c074.html 九次第定
自身の内界を如実に捉える方法
悟りは「色蘊を空じた」ということであり、受想行識すべてを空じることですべての修行過程が終わる(悟了同未悟)
煩悩を断滅し尽くす
九次第定で、色界の四禅から無色界の四禅へと入られ、「言語」「感受」「表象」「想念」を滅した禅定に入られた。
「滅想受定」が「滅尽定」、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)寂静」涅槃寂滅
悟りに段階があることは臨済禅の公案の示すところです。悟りは一つではありません。
何と一如になるにせよ、一度悟っただけでは「一枚悟り」というところであります。悟後の修行が重要であることは宗派を問うところですらありません。
九次第定は三昧の段階を示したものであり、だれだって通過する境地である。
悟りなんて簡単なものです。肇(じょう)法師の「聖人に己無し 己ならざるところ無し 天地同根 万物一体」という言葉が分かればいいのです。
坐禅はこの悟りを実際に行うことなのです。道元禅師は「証上の修」「修証一如」とか言われています。 ニルヴァーナという心的状態は常に再生を滅している過渡的な状態
ニルヴァーナとは滅する心の働き・滅している心の動的状態(静止している状態は四禅。だから釈尊も滅度される最終段階の心の状態は第四禅でした)
ニルヴァーナは覚知できる。それを解脱した心を解脱した心だと知る「解脱知見」という。
重要なことは、ニルヴァーナは対象となる心ごとに体験されるもので、それこそ即座に、目の当たりに体験されるもの。
個別に発生する心に関しては、誰でも四聖諦の真理を覚って正しく心を扱えば、いつでも体験出来る。
そのように初期経典でブッダや仏弟子も言葉を残しています。 空空寂寂 → 四聖諦(道諦の実践によって縁起を覚り) → 世間法即涅槃(菩薩として生きる境涯を体得)、生死即涅槃 大乗は自他の不二を、釈尊は一切の無常を主体に説く。
大乗は無分別智を、釈尊は煩悩の断滅を主体に説いた。 ブッダガヤの菩提樹下で瞑想をしていると、明けの明星がきらめく頃、明星の光が目に入った瞬間に明星が自分だという体験をなされ、
真我独存を覚った。この世界の全てが自分の心であり、肉体を持った人間は存在しないと証悟した。 釈迦が菩提樹の下で悟りを得た。という内容に関して
悟りを得る事になった経緯
@瞑想、禅定を続け肉体業をいくらやっても悟りは得られない事に気づいた
A自問自答により、自分のこれまでの行いに間違った行動と思念がないか考え一つ一つ精査し反省と修正を行った
B偏りのない心により調和された思念と行いが重要であるという中道理念を思いつく
Cブラフマン梵天と言われる啓示的な現象を受ける
D更に心の奥深くに内在する仏智、パーニャパラミッタを考察しつつAの作業を続ける
E宇宙即我を体験
自分の魂が巨大化し宇宙大になる。肉体は足元から米粒大となり次第に極小化する様を見て釈迦は肉体が仮の姿であり中に入ってる魂が本当の自分であると気づく
以上の体験から、魂の本質を知り 肉体とは無関係に魂本体の心の調和を基本とする指針を得た事を悟りを開くと言う
この時の現象により過去世の記憶を取り戻し、内在された偉大な仏智を覚醒させた事(法界体性智に転じる)を心眼を開くと表現している 心が平静で、慈悲の心に満ち、常に穏やかでいる
多種な感情や欲求に対しても、それを外側から観察するように対処できる。理性的に動ける。
森羅万象一切が、自分の内に見えている状態 → 一切は自分の心であると悟った境地 菩薩になるためにはまず懺悔が必要です。仏の前にすべてをさらけだして告白し、そのゆるしを得て、心身を清浄にしましょう。
解かりやすい仏教講座(1)懺悔文
https://www.youtube.com/watch?v=3s7mtFdb-Ws 識無辺処では、無にいる自分に意識が向いてました。
僕は無だと思いました。
しかし気づきました。
無なのだから自分さえないと。
そして無所有処になりました。
ほんとのただの無だけになりました。
自分の中に無だけがある、だか、無があるのです。
無というのは、無があっては無ではないと気づきました。まるで宇宙です。
それに気づき無がある状態から脱し、何もなくなりました。
それが非想非非想処です。
無色界の頂点はまだ天界の域を出ていませんから、涅槃ではありません。
涅槃に入りたいなら兜率天に往生すると、次に如来となる弥勒菩薩の説法を聴いて、自分も如来となることができます。 苦行でも覚りを得られないとみて、菩提樹下で止観をして、ついに成仏しました。
涅槃に入ることと成仏とは、同じ境地ですから、お釈迦様は止観によって覚られています。 輪廻からの解脱を説くのが本当の仏教では?
カルマ(識の汚れ)によって永続する魂が輪廻するという思想は幻想になりますか?
以前、投票でBAに選ばれた方が、輪廻の考え方を述べた時点で仏教ではないといった見解を書いてましたが、
仏教の解釈にも諸説あり、果たしてそう言いきってよいのか?
仏説を伝統的インド思想と完全に断絶した思想と捉えるのが正確なのか、
重なる点もあるならどの点か
を思惟、尋伺したいと思います
第三回 現代仏教塾1 「初期仏教の輪廻思想」輪廻とは何か?
https://www.youtube.com/watch?v=zsNMhDfTWC0
初禅の境地
まず、欲界から離れること
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210692462
ブッダが本当に説いた事は何だったのか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210550967
ブッダが最後まで語らなかった事は何か?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12210364957
般若を空と説くは浅略で、世間法即ち涅槃と説くのが深義、をわかり易く説明すると、どのように言えますか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13210155923 ブッダ同様に生きることが”仏の悟り”を生きること
自他平等・無分別の境地に到り、大いなるいのちに目が開かれること
お釈迦様の坐禅は自我という囚われから開放されて、天部から覚者まで何にでもなれるという自由自在の境地 一点集中して
止と
徹底的に思索し抜く観行、
八聖道・菩薩行を一生懸命修めるなら
塵のひと粒から大宇空にまで自由自在に飛翔できる
との仏陀の悟り 理解しても体得するまでにはまだ距離があるとするなら、まず理解することも大事かもしれません。
煩悩を制御できる段階に達した人の体験より学びましょう。 悟り体験記に【私】というものを肉体に幽閉されたものとみなし、
時間を過去、現在、未来を直線的な流れでとらえる時空構造に縛られたカルマの鎖からの真の解放がある 第一義諦を
涅槃の境地。究極の在りよう。あるがままの世界における真理
と捉えてよいですか?
一切経は禅定の注釈・仏典は「三密行」へのガイドブックと見るべきか
ino********さん 2019/9/2307:38:39
原始仏典といわれるものも釈尊の没後数百年を経て編纂されたものであり、我々に馴染みの大乗仏典は釈尊の没後5、6世紀も経って編纂され、
膨大な仏典は後世の人間の創作物といってよい。どこが釈尊の直説かこれまた議論のあるところである。
「自己生命の実物」も、その表現は当初は釈尊の使われた「自己」であり、「自心」となり、そして、
心、一心、唯心、空、不二、如、如々、如是、如実、如実、如来、如来蔵、真如、恁麼、不可得、法性、法身、法界、仏性、
涅槃、中道、一乗、実相、妙有、畢竟空、法住、法位、不二法門、般若、不生不滅、一乗、空性、円成実、自性清浄心(順不同)などと表現されるようになった。
このようにいろいろの表現がありニュアンスも違うけれども、たった一つの「自己生命の実物」のこと。しかし、
言葉でどう表現しても表現のしようのないが「自己生命の実物」であるから、実物はただ実物する、つまり「行」しかないというところに行き着かざるを得ない
のである。
澤木興道老師は「一切経は坐禅の脚注である」と言われている。
>仏教の一つの目標は
悟りを開いて、生死を超越した仏として覚醒し、全ての苦しみから解放されること
生死も輪廻転生も縁起によって起こる現象であり、サンカーラの中での現象。
ご存知の通り、サンカーラは無明が原因で生じる世界であり、無明を滅した真理の世界には生死も輪廻転生もありません。
ただありのままの今この瞬間があるだけ 色に実体無く恰も夢幻の如くであるというのは古今を問わず真理
ヴェーダでも世界はマーヤーと言い、
ブッダも「世間を空なりと観ぜよ」と説き
大乗の一切皆空も
より徹底した法無我・空観・中観を追求する。
時代は変わっても
変わらぬ真理が説かれているとも解釈できるし、
そう観じるのが自然。
だから諸賢は
虚妄に過ぎぬ物質界の現実に幻想を抱くな(幻を実体と迷うなかれ)と
執着の無意味さを悟って、煩悩を滅尽し、無上菩提に目覚めるすじ道を説示しているのでしょう。 そして
悟りはある日突然やってきます
悟りは 想像よりも はるかに大きく
圧倒的な至福に包まれます。
目覚めた智慧は持っていたあらゆる疑問を埋めてくれます。
そして悟りは何度もやってくるようになります。 『インド密教学序説』《44〜45ページに書いてあること》
「小乗教と大乗教との最も根本的な相違はここに存するのである。声聞も縁覚も証悟することは出来るが、かれらは一切智を得ることはできない。」
(解脱するには煩悩障と所知障を克服しなければならない。大乗仏教は煩悩障と所知障を克服し得るが、声聞と縁覚は煩悩障のほうしか克服できない。
よって真の解脱はできない。だから密教の方が縁覚、声聞の修行より優れている) >最高精神と結びつく方法。
宇宙を創造したのは最高精神であると語る科学者がいます。
「古代の創造神話や伝説に共通しているのは、
この物質世界が
或る精神的な中心から作られたという事で、
物質的なものは最後には再び精神的な世界に帰ってゆく」
これはヴェーダの世界観ですが、
「精神が物質を作った」という考えについて、どう思いますか?
参考
https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=5095
https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=3812
https://www.youtube.com/watch?v=1t3R9OvlIgI&feature=youtu.be&t=1128
>「精神が物質を作った」という考えについて
全を照覧する存在であるアートマンが無意識に世界を認識したことから
この宇宙は開展したのかもしれないですね
無名天地之始、有名万物之母
極微のエネルギーの塊だった原初宇宙から識大が離れて虚空が生じ、天地が始まったと。
最高精神(法身仏)とつながるには
三密加持すれば速疾に顕はる
無我を観じるのは真我を覚るためのプロセス・一方法論
手段が目的になってしまってるのが二乗の誤謬。 ブッダのさとりに相応することが大事
ニーチェはラカンに比べ一面的。
人間、飽食すれば菜食主義者になったり断食したくなったりするし、
権力にうんざりすれば反権力に傾斜するだろうし、
またエロはもうたくさんと感じれば禁欲主義者になったり、
志向性は常に欠如したものに向かい、心さえも無常なりと気づく
仮観・空観を超越した中観的立場というか
一切は空虚で実体が無い「一切皆空」と観じつつ、ブッダのさとりに心を結合する
(そのプロセスの内の一つである第三禅の観想法が四念処観)実践に向かう心にいつか目覚める
人間には皆、仏に成ろうとする心があり、その心を正しく起こすことが菩提心生起。 ダンマパダ
157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。
158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。
159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。
160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
http://hosai.world.coocan.jp/dammapada-01/damma-all-text.htm 空があるから仏の心と触れ合う事が出来ると言う方もいました。それも「縁」と思います。また
「先祖・前世の因縁」といって、人を不安にさせるのが仏教ではありません。
過去の原因が様々な条件のもとで現在に現れたとしても、それを自分の行動で変えていけるのが仏教の無常観 初期ウパニシャッドの思想家ウッダーラカや、
その弟子ヤージャニャヴァルキヤは、次のような主張をしています。
> 真実の自己はアートマンであり、「真の実在」にほかならない。
>
> ・・・一切の生類は「真の実在」を根底とし、拠り所としている。
> われわれは、「真の実在」を、
> 具体的なものとして認識することはできなけれども、
> しかし、「真の実在」は見えざるものとして
> われわれの人格の根底に潜んで存在している。
>
> ・・・生命の去ったとき、この肉体は滅びるが、
> しかし生命の本体は死ぬことがない。
> それは真実なもの、アートマンであるからである。
>
> ・・・人は無限の生存を繰り返すのであるが、
> しかし人が師について万有の真理たる「真の実在」を悟ると、
> 死後に完全に有と合一する(これが解脱の境地である)。
> それはあたかも故郷から連れ去られて人が、
> 束縛・羈絆を脱して故郷に帰るようなものである。
>> われわれは、「真の実在」を、
>> 具体的なものとして認識することはできなけれども、
具体的なものとして認識できない概念に過ぎないものをあーだーこーだと妄想する
戯論とはまさにこのことだわな >初期ウパニシャッドの思想家ウッダーラカや、
その弟子ヤージャニャヴァルキヤは、次のような主張をしています。
> 真実の自己はアートマンであり、「真の実在」にほかならない。
>
> ・・・一切の生類は「真の実在」を根底とし、拠り所としている。
> われわれは、「真の実在」を、
> 具体的なものとして認識することはできなけれども、
> しかし、「真の実在」は見えざるものとして
> われわれの人格の根底に潜んで存在している。
>
> ・・・生命の去ったとき、この肉体は滅びるが、
> しかし生命の本体は死ぬことがない。
> それは真実なもの、アートマンであるからである。
>
> ・・・人は無限の生存を繰り返すのであるが、
> しかし人が師について万有の真理たる「真の実在」を悟ると、
> 死後に完全に有と合一する(これが解脱の境地である)。
> それはあたかも
故郷から連れ去られた人が、
> 束縛・羈絆を脱して故郷に帰るようなものである。 釈尊が否定したのは祭祀主義であって
極論すれば
彼は伝統的なインド思想に基づくウパニシャッドの修行に応じた沙門だったといえる 自分の心のあらわれ。
自分の業の結果として現在と未来があり、
その事を理解して道諦を
正しく実践するなら、識も浄められるし、因縁も変えられる
そしてアートマンにもアナートマンにも執着しない
出世間の四諦説法が
ブッダ
の本来の立場と観じました。、
また正見には、十事正見、四諦正見もあります。 至上我とは
『こころを肉体から分離して、それを至上我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。
これはダシャー等からの解脱と名づけられている』
(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治)
のように説かれていますが、ダシャーとは、忘我トランスと解釈され、涅槃未満の有頂天あたりの境涯かと推測されます。
またそれは三業を清浄にする事で心眼を開き、解脱に到らしめる宇宙我で、
五蘊を超えたブラフマンの奥、真我に通じる世界 『戒定慧』の三学では、煩悩から離れるようにする『戒』が、一番最初の土台となる 『戒定慧』の三学では、煩悩から離れる土台の上に道諦の実践をすすめ、一切のものに囚われない無執着の心境に至らしめる 諸事象の無常・非我なることを知り、如実に見るとき、無明が滅して明が生じる。
無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕 悟り悟りってそんなすごいのならノーベル賞でも取ったら?
仏教じゃB29も落とせなかったろ? 真実を見る事によって
別に執着するに価するほどの事でないと気づき、悟る
余計な回り道をせずとも
(実地に醜い現実を)見る前に飛べる方法がある。それを教えるのが・・・ 空即是色
ヴェーダでも世界はマーヤーと言い、
ブッダも「世間を空なりと観ぜよ」と説き
大乗の一切皆空も
より徹底した法無我・空観・中観を追求する。
時代は変わっても
変わらぬ真理が説かれているとも解釈できるし、
そう観じるのが自然。
諸賢は
虚妄に過ぎぬ物質界の現実に幻想を抱くな(幻を実体と迷うなかれ)と
執着の無意味さを悟って、煩悩を滅尽し、無上菩提に目覚めるすじ道を説示している。 スマナサーラについては、諸方面ですでに論破されているようですし、ここで論ずる気すら起きません。商売上手な方のようですね。
変な回答者が出没してましたが、
分別説部の成れの果ての哀れむべき妄執の徒であると観ぜられます。 混乱に陥ってる方々を一つ教化してあげます。
無我というのは漢訳時の過ちで
非我が正しい。
>テーラワーダのいう「慧」とは有為法の、つまり形成された
「慧」のことであって「仏の智慧」ではない
>「正しき智慧=仏の智慧=無為法」
つまり涅槃のことで真諦
自性清浄心は涅槃そのものであって、それが真我と思います。
それと同じですよ 因縁の空なるを覚る
生も死も性も幻想なりと気づく事で
解脱する 無我を観じる→縁起を覚る→空を直観で見抜く→法界体性智を顕わす 三密加持と九次第定
この二つを正しく実践する事で即疾に即身成仏することが出来る 九次第定
自身の内界を如実に捉える方法
悟りは「色蘊を空じた」ということであり、受想行識すべてを空じることですべての修行過程が終わる(悟了同未悟)
煩悩を断滅し尽くす
九次第定で、色界の四禅から無色界の四禅へと入られ、「言語」「感受」「表象」「想念」を滅した禅定に入られた。
「滅想受定」が「滅尽定」、つまり「涅槃(ニルヴァーナ)寂静」涅槃寂滅
九次第定は三昧の段階を示したものであり、だれでも
修することのできる境涯の段階。
禅は万物一如の悟りを実際に行うこと 三密加持と九次第定の二つを正しく実践する事で速疾に即身成仏する 自身にブッダが顕現する境涯
↑
本当のブッダを見る境地
↑
自心のブッダを垣間見る境地 因縁の実相を如実・ありのままに見抜き、道諦を完全に実践して自他を解脱に至らしめる ありのままを唯
如実に観じるなら
無執着のあり方に
至る 日本は呪われてる
真敵・職人気質が格差の根元である。
ヤンキー、過激思想、サイコパス等の成れの果てが職人・職人気質です
その職人・職人気質が新たなヤンキー、過激思想、サイコパス等の悪種を生み出すのです。
職人、職人気質が格差をつくり、イジメを生み、犯罪を生み、戦争を生み、地域振興を阻害し、治安が悪化し国力が低下する。
職人気質を廃してこそ日本は平和かつ生産的かつクリエイティブな国家になれるのだ
職人気質は存在自体がパワハラです。緊急事態です。
職人気質は悪しき文化
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1573270987/755
dzg 菩提心生起とは
仏陀に成る
と決意・覚悟を定めること 仏の身体のすがたをもって仏を見てはならない
仏像の物質的な形が仏と思って(その物自体を)見るのは誤りなのである いかなる相も虚妄であり
認識は幻想であり(いかなる「個としての枠組み」も、思考による妄分別が作り出した幻影に過ぎず) 諸々の相は相に非ずと見るなら
認識したものは真の実在ではないと観じるなら 即ち如来を見ることになる
即ち空の智慧を生じて
涅槃寂滅を知解する(宇宙一切万象の一体性をさとる)
事となる 無明があって実体の無いことに幻想を持つから、前欲望(諸欲の未発現の状態)から執着が生じる状態にリリースされる
また実体の無いことに幻想を持っていたんだと気付く事で、欲望の虜にされていた状態から本当の意味で自由な状態へリリースされて、正しい覚りに達する。 空無辺処定 欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れた、一切の作為の無い
無辺の空を観じる
識無辺処(しきむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第2天。認識作用の無辺性についての三昧の境地。
無色界の初天である空無辺処を越えて、その空の無辺なるを厭(いと)い、心を転じて識を縁じ、識と相応し心定りて動かず、
三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。
無所有処(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。 いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。
空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、
この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。
何ものも真実には存在せず
と観察し達観する三昧境とも
非想非非想処定
想いが有るのでも無く、無いのでも無い、深い三昧の境地
想いが有ろうが無かろうが、心が主客に分かれない、すべてわかって何も分かれない無色界の有頂天にもとづく
非想非非想処天とは、この天に生じる者は、下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て
「非非想」、または「非無想」という。 諸事象の無常・非我なることを覚り、如実に観察するとき、無明が滅して明が生じる。
無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。 〔雑阿含経、12〕
木片を焼いたら浄らかさが得られると
考えるな。
それは単に外側に関することであるからである。
外的なことによって清浄が得られると考える人は、
実はそれによって浄らかさを得ることができない、
と真理に熟達した人々は語る
サンユッタ・ニカーヤ そもそも生と死は平等であり
分別する意識は幻想。
全ての生命はやがてその境界線を跨ぎ越える定めにある。それは当然の話で
午前零時を過ぎて日付が変わるのと同じ事。 無明があるからあらぬ幻想を持って執着が生じる
無明滅すれば如実に観じ、大智慧(無為法の慧)より菩提生じて涅槃解す そもそも元来、坊さんという概念も無ければ、坊さんである必要も無い
本当に
唯仏陀に成れば良し 誰もが
本来仏陀である
事に正しく目覚める事
それを覚りと呼ぶ。 如来が世間に在りて完全な法を説く
世間にあっても如来は仏。 出離の楽しみ
第三禅までの「楽」
輪廻からの解脱を求める決意(動機付け) 本来自分が仏であれと説くのが仏教なのに
それを放棄させ、真実から故意に目を逸らして真理に到達する道を放棄するのが最も重い罪。
それが騙された者の罪(カルト菌毒感染にやられた結果)
の核心 ブッダのさとりの根本・仏教の根幹
踏み込んで追求すれば見える
大衆部が上座部から離れ否定した誤謬を
(形骸化した日本の)儀式仏教とカルトは再吸収してしまった有様を >日本の末端寺院等は
とうに本筋から外れた
どうでもよい偶像や創作経典や 挙句は生臭坊主までをも拝んでる
という事かな 如来の正しき覚りは 時間も空間も 言語さえをも超えたものである >数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成 >大きく見たら1、小さくみたら無数
という表現に閃きを感じました。一即一切。一切即一ですね。
虚空が生じて
>一なるエネルギーの塊が 極小単位で分割されたから 今の宇宙=物質世界が生じた訳ですね。 無限ではないけれども
ほぼ無限
無限無数の極小に散らばって宇宙大に拡がり
且つ「一」なる識は共に蔵す >>596
バスター先生乙
ご無沙汰ですね。。
まったくその通りです^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています