聖書は創世記から黙示録に至るまで神話の塊。
だから神話解釈のセンスのある人間でないと「こんなの信じてる奴ってバカ?池沼?」と見えてしまう。
佛教のような高度の哲学性のある宗教とは違うのだ。

旧約聖書「出エジプト記」14:21-22で、「モーセが手を海の上に差し伸べたので、主は(中略)海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。
イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが(後略)」とある。

たとえばこれね、モーセが、絶体絶命・破滅の危機・社会生活の崩壊の崖っぷち、にある自分の指導下にある人々に対して、
人々の歩むべき方向性を指差す。すると「あ、そうか!オレは こ の 道 を 歩 め ば この人生を生き延びることが出来るんだ!」と分かる「歩むべき"道"」が目の前に"拓ける"わけだ。

後の部分はエジプト人たちが同じ果実を得たいと願って追撃するわけだが、
モーセの指導下で道を歩んでいる訳でないエジプト人達は同じ果実を得たいと願っても同じ果実は得られない。つまり破滅する。


"約束の地""カナンの地"とはユダヤ人入植者が家を建てて住む土地の話をしているわけではない。
神の命令通りに人生を歩んだものの到達するべき地点、即ち「救済」を意味している。

それをね、古代人風の真理の表現法である"神話"で表現するとああなるだけ。


孫悟空の話だって単なるガードマンだと思ってる人が多いけど、よく考えて欲しい。
三蔵法師玄奘と共に歩む。天竺を目指して。つまり修行の階梯なのだ。そして実際天竺に辿り着いたら今までと違う姿に転じる。当たり前だ罠。


お遍路の標語"同行二人"だって、「旅は道連れ世は情け」という意味ではない。「二人」とは誰か?自分と弘法大師だ。
つまり「弘法大師とともに歩む」のだ。だから修行だ。単に一つの霊場から次の霊場へと徒歩で移動しているのではない。
これは『華厳経』の「浄行品」の発想と同じだね。