宗教とは何か?
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>>89
>信教の自由にGHQの洗脳も入ってるんだろうな。
標的は国家神道、その狙いはキリスト教の普及。
>戦後、現れた思想洗脳団体は検証する必要がある。
そう思いますね。同意。
>仏教っても、信仰にしちゃったら洗脳であり、宗教ちゃう。
その通りです。釈尊は他力を否定しているのに。TT >>91
>検証不可能あるいは検証が難しい命題の集合
心の問題だから当然そうなります。
だから、他力信仰ではなく、自力になります。
釈尊は他力信仰を否定します。
自分で十分納得できれば、それでいいのです。
苦が滅すればそれでいいのです。 名無しは荒らし 糞だな。 ただのバカだな。糞凡愚プ〜ンただバカなだけ イヌヤマァ
妻子と月一、金曜夜7時からのお坐り会、ワンコインで茶菓、バカイヌは見栄張る、品性劣悪漢オトコ
イヌは 華厳宗だろ、禅はカラッキシで、くちパクパクだけの尋牛(じんぎゅう)未満
南伝仏教華厳宗奈良東大寺官長じっちゃんのお抱え運転者だった。
それが唯一自慢タラタラでツカイッパ全くの無内容、年金暮らしで一日中ブラブラ誰からもウトマレル禿げ爺だね。
禅では無い。印度教外道。
5ちゃんねるの会話の形式はバトル形式、馴れ合いを禁じます。
但し、その事を踏まえた会話かどうかが 問われています。
ググるシッタカの糞雀鬼はアンタはエライ!と褒めて欲しいのです。
それは糞雀鬼がリアル社会で疎外無視され続けてきた現実があります。
一見、相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞雀鬼の抱え込むリアル社会の絶対評価です。
と言う事で、糞雀鬼は「暴れさせて、ゴミがたまったら透明あぼ〜んが適切ですね。
決してレスポンスしない事が、大切。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○荒らし粘着糞雀鬼は無視放置スルーされるのが一番キライ、耐えられません。
|| 荒らし糞雀鬼は常に誰かの反応レスを待ち焦がれジレます。
|| ○荒らし糞雀鬼は門から入るものが宝と誤謬し、自己の内側、佛心が観えず。
|| 荒らし糞雀鬼は常に無視されている自己存在の確認要求に拘泥します。
|| ○荒らし糞雀鬼は問いに問いで返す破廉恥無脳が故の脊髄反射のパープリンです。
|| 荒らし糞雀鬼は理解力が皆無、とにかくしつこい、金魚ドジョウと救い難い。
|| ○荒らし粘着糞雀鬼の重複スレには誘導リンクを貼って放置が一番カステラ2番。
|| ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。
|| ○放置された荒らし糞雀鬼は煽りや自作自演でアナタのレスを巧みに汚く誘います。
|| 荒らし糞雀鬼にノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
|| ○反撃は荒らし糞雀鬼の滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
|| 荒らし糞雀鬼につけ入るエサを与えないで下さい
|| ○荒らし糞雀鬼が枯死するまで孤独に暴れさせておいてゴミが溜まったら削除です。
|| 荒らし糞雀鬼は外道{野狐}です。 GHQは「インディアンや日本やベトナムやイラクやらが悪者で アメリカが正義だから大量殺戮してもいい」というフェイク洗脳を止めれない。 あいつら自分で自分を洗脳して世界が狂ったワケだが誰か治してやらんのか。 釈尊は、坐禅に熱中して骨と皮になっていたが、
スジャータの乳粥に救われる。
この時、釈尊が何を感じ、何を思ったかを想像してみよう。
苦行だけでは悟れない。苦行だけでは死んでしまうではないか。
そうではなくて、「愛」が大事なのではないかと。
釈尊はすぐに、自分の中に「愛」が欠けていたことに気づく。
そして自分の人生を心底悔いた。
その瞬間、甘露(不死)が釈尊の頭の中に落ちて来る。
甘露とは、キリスト教で言えば神霊とか聖霊のことだよね。 釈尊が「乞食」を修行の中心に据えたのは、
この時の体験があまりにも衝撃的だったからではないだろうか。
今の日本では「乞食」は軽犯罪違反で処罰の対象になる。
飢えた犬猫ならエサをやるのに、生活保護からも排除された
憐れな「乞食」は犯罪者として扱われる。
余裕のない、息苦しい社会になったもんだ。
消毒し過ぎると、人間社会自体が成り立たなくなるだろう。 中道とは何か? −− 釈尊は成道後、
相変わらず苦行を続けていたかっての修行仲間に中道を説く。
王子時代の快楽主義も、修行時代の苦行主義も誤りであり、
二つの極端を離れた中道を歩むべきだと。
これが対機説法にすぐれた釈尊の初法転輪ではなかったろうか。
では中道を生きて何をやるのか。それが苦集滅道である。
これは乞食をし、日常的に自分自身について考えることであり、
止観の観(ヴィッパサナー)に相当する。
だから坐禅では観をやらない。 中道の背後にある釈尊の思想 ・・・ 二元論
@ 甘露体験 → 神(命そのもの)と出会った
A 霊魂体験 → 真の自己=霊魂(アートマン)と出会っている。
B 人間(生き物)は → 霊魂(命)と物質が合体した存在。
従って、快楽主義で物質に執着するのは誤り。
かといって苦行主義で霊的世界に執着するのも誤り。
人間は霊魂と物質が合体した存在なのだから
どちらか一方に片寄らない、中道という立場が正しいあり方である。
これは、霊魂(命) と 物質の二元論である。 竜樹の『中論』は完全に誤り! ・・・ 第24章18詩
どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。
それは仮に設けられたものであって、
それはすなわち「中道」である。
竜樹は、時間も霊魂(アートマン)も神(命)も否定する。
であれば、残された世界は物質だけになり、そこには実体がない。
これが「空」らしいが、これでは中道ではなく、
一元論の唯物論と何ら変わりない。
仏教が快楽主義(後期密教)に堕落して行く遠因がここにある。
釈尊の二元論・中道とは無関係である。 無とか無我とか空とかは、
絶対に体験できない空想上の言葉でしかない。
なぜならこの宇宙は、ビッグバンによって「無の世界」から、
「有の世界」に変わったのだから。
わたしたち生き物は、「有の世界」を生きている。
生きていても死んだ後も。
無や無我や空を探しても、どこにも見つからない >>106
宗教と信者はその通りだと思うが、
神についてはどうなのか?
既成宗教の神仏は怪しい限りだが、
わたしの出会った神は「命の雫」であり、命そのものだった。
そのとき、わたしは魂が震撼するような衝撃を受けた。
信じるも信じないも、あなたの自由です。(^-^) 想受滅は意識自体は存在するが、意識の対象がなくなるから生じる。
しかし逆に、意識がなくなったから想受滅が生じたとも考えられる。
そう考えれば、無や無我を体験したのだと錯覚する。
この錯覚を排除するには、神に出会ってから坐禅をスタート。
集団禅や目覚まし禅をやめ、想受滅から霊魂体験をしてしまえばよい。
漫然と坐禅を始めてはいけない。(`・ω・´)ッ >>107
>既成宗教の神仏は怪しい限りだが、
>わたしの出会った神は「命の雫」であり、命そのものだった。
>そのとき、わたしは魂が震撼するような衝撃を受けた。
そう言っちゃあ宗派分裂を繰り返し殺し合ってきた宗教の歴史 >>108
手術の時全身麻酔かけてな、気がついてたら終わってた。
落ち込むように急に意識が消失する感覚は、眠りよりもむしろくっきりしてるが、夢も見ないし、
スコンと何時間か吹っ飛ぶわけだ。
意識の対象がどうのって話じゃないな。 >>107
おめでとう
あなたは開祖になる資格を得た >>109
107の体験は、無信仰の状態で真理を探求していた時のこと。
>>110
わたしも全身麻酔の経験がある。麻酔は、意識←神経←外界
という系路の神経だけをマヒさせる。この間、医師が患者の体を管理し、
手術が終われば麻酔から覚めるように麻酔量を調整している。
これに対して想受滅は、自分で自分の体をコントロールして徐々に
神経の働きを弱めて行く。神経の働きが完全になくなれば想受滅だが、
この場合は医師にあたる役割を自分自身がしなければならない。
想受滅に入ると、自分の体の状態がわからなくなるから、そのまま
死んでしまうことになる。だから、集団禅や目覚ましの話が出てくる。
もうひとつは、坐禅を始める前に神(命そのもの)に出会っておけば、
不思議なことに想受滅から無事に生還することができる。 実は、想受滅の後に霊魂(アートマン)体験をする。
この霊魂は外界(記憶・体・物質)から切り離されている。
しかし非常に明晰な自己意識がある。
霊魂は猛スピードで白い霧の中を飛行するが、
周囲の状況変化に応じ、視覚も触覚も聴覚も瞬時に生じる。
このとき、霊魂の状態と、神に出会ったときの至福感が
まるっきり違うことに気づいてしまう。
この気づきによって意識が戻り、地上に生還できた。
この体験から推測するに、
釈尊が想受滅を体験して無事生還できたのは、
想受滅の前に神(命そのもの=甘露)に出会っていたからであり。
想受滅の先の霊魂(アートマン)体験をしたからだろうと。 人類教やベーコン教なんてのもあるんだし
必ずしも宗教を作る上で
神は必要ないんじゃないかな 真理を探求してきただけで、
新しい宗教を作る気などまったくない。
苦労してわたしがさとり得たことを、
今説く必要があろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
この真理を悟ることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は
見ることができないのだ。 by 悪魔との対話・梵天勧請より 同行二人 = 犀の角のようにただ独り歩め by Sn.35
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、
あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、
また子を欲することなかれ。いわんや朋友をや。
犀の角のようにただ独り歩め。
人間の精神は弱いもので、誰かに依存しないと落ち着かない。
お互いに依存し合っているだけなのに、
誰かがそばにいるだけで不思議に安心して強気にもなれる。
人間はそんなふうに造られているようなのだ。
そして神に出会い、自分が霊魂であることを知った時、
その誰かとは神のことだったと気がつく。
他人から見れば孤独ではあるが、
本人にしてみれば「神と共にいる」のだから孤独ではない。 >>114
信仰を持てば、多分もう真理には近づけない。
脳から全ての感覚を遮断すれば、ブラックアウトするが意識は残る。
ただし、その状態で長時間意識を保持することは困難のようだ。
一方、感覚、自律神経などは動作させたまま、中枢神経の一部を伝達阻害すれば意識は消える。 >>119
信仰すれば、神を探さなくなる。
神を探さなければ、神に出会うこともない。
神を知らなければ、坐禅で想受滅に到達してもそのまま死ぬ。
悟れる資質があったのに、非常に残念なパターンですね。
麻酔についての話は勉強になりました。サンキューです。(^-^) 釈尊に「神風」が吹いた!
成道後は、とんとん拍子に教勢が拡大する。
@ 事火外道のカーシャパ三兄弟が弟子2千人を連れて帰依。
A マガダ国王ビンビサーラが帰依。竹林精舎を寄進する。
B マハーカーシャパ(二祖)が参加。懐疑論者サンジャヤの弟子
シャーリプトラ、マラドガルヤーヤナが5百人の弟子を連れて帰依。
C カピラ城に里帰り。父王が帰依。多くの釈迦族青年を出家させる。
ラーフラ、アーナンダ、ナンダ、ウパーリ、デーヴァダッタなど
義母のマハープラジャパテ、妻のヤショーダラーなど → 尼僧集団へ
D コーサラ国王が帰依。スダッタ長者が祇園精舎を寄進する。 ヨブにも神風が吹いた!
ヨブが神に出会った後、神はヨブを以前にもまして祝福した。
家畜は以前の2倍、
ただし子供は以前通り7人の息子と3人の娘をもうけた。
→ 亡くなった子供たちの生まれ変わりかも。
ムハンマド、ジンギスカン、ナポレオンなどの場合は、
神風というより、軍事的天才だったのではないかと思われる。
モンゴル軍を二度も撃退した北条時宗の場合は、
神国日本に神風が吹いたと考えるのが自然だろう。(`・ω・´) 神風か携挙か
キリスト教には「携挙」という教えがある。
「終わりの日」にイエスが雲に乗って現れ、
キリスト教徒は空中を上昇、イエスと共に雲に乗って救われる。
しかし、それ以外の人々は破滅的な災いの中で死ぬ。
キリスト教徒はこの日を待ち望んでいるらしい。
でも、携挙の根拠が聖書以外に何もないのだから、
これはウソ、作り話としか考えられない。
信じなさいと何度繰り返されても、信じるわけにはいかない。
オウム真理教のような自作自演をマネしてはいけない。 神がいるから人間がいるんだから、神と人間の橋渡しにも神の存在が前提。 >>125
その通りですね。釈尊もヨブも、
神(命そのもの)を相手にすることで神風を吹かせる。
この神風は自分を砕けるかどうかにかかっている。
キリスト教徒がダメなのは、
自分をそのままにしておいて救われることを願う点にある。
いくら信じても罪人のままだから救われない。
キリスト教徒は、十戒に反し、人間イエスを神にしてしまう。
ユダヤ教徒はたぶん、内心で大笑いしている。 ユダヤ教にとってメシアとは
異教徒をバンバン殺しまくるレイシストだから
そりゃ笑うよな ちなみにユダヤ教の時点で
信者に大量の貢物させてたらしいし
宗教は洗脳と搾取ってのは一理あるな?
スパモンみたいなのはむしろ少数派なんかな 十一献金は暴利過ぎて話にもならない
信者が10人いれば、信者は9/10の暮らしになるが、
牧師や神父は10/10の暮らしになる。
信者が20人なら、信者はやはり9/10の暮しだが、
牧師や神父は20/20の暮しになる。
信者たちの2倍以上の暮しではないか。
信者が50人いれば、
牧師や神父は50/50の暮しになる。
信者たちの5倍以上の暮しではないか。(# ゚Д゚) >>129
私が底辺時代、ほとんど騙されて教会に行き洗礼を受けてしまいました。
私が洗礼を受けた後「あなたはクリスチャンになったのだから」と後出しじゃんけんのごとく細かい制約を言い出してその中に什一献金もありました。
それだけの制約があるのなら何故最初からきちんと教えてくれないのか。
先にも書きましたが、当時の私は底辺生活。 家賃・食費・光熱費支払ったら自分の
楽しみもままならない状態。 だから什一献金で五千円納めたんです。
そしたら次の週の礼拝後、牧師が私を呼び出してこういいました。
「神様に泥棒してませんか?」
牧師は純粋培養で世間知らずの乞食だと思いましたよ。 >>130
教会は自分たちの都合のいい箇所しか引用しない。
詐欺師はよく、マラキ書3:8にある十分の一の献げ物を語る。
しかし、ニテサ3:10「働きたくない者は、食べてはならない」
とパウロ自身が教えているではないですか。
私も少し教会に行ったが、初心者教育の段階で疑問を感じ急ブレーキ。
みんなの前で「洗礼」を受けないで本当によかったと思う。
洗礼を受けたら、精神的にやめづらくなりますものね。
でも、そのお蔭で教会がどんなところなのかはよくわかりました。
経験しないとわかりません。やめてラッキーでした。(^-^) 洗礼という洗脳
信者は、信仰は「神と自分の関係」だと思っている。
ところが、牧師や神父や信者たちの前で誓わせる洗礼によって、
この関係が「教会と自分の関係」にすり替えられる。
これが心理的な負い目になり教会から離れがたくしている。
洗礼は単なる儀式ではなく、
信者を教会に心理的に従属させる洗脳だと言ってよい。
それは見え透いているが、狡猾なワナである。 132.洗礼は詐欺である、か。
答え。詐欺である。
バカには理解できない。大爆笑である。 新約聖書は、ウソと真実の混ぜ物だと言われている。
要するに、クソミソを一緒にして混ぜたものだ。
糞味噌をどうやって分けようか。分けられはしない。
分けたところで使い物にならない。
そんなものはまとめてゴミ捨て場にポイする以外にない。
新約聖書は、もともとローマの政治支配のために採用された。
真理なんかどうでもよく、民衆をだます道具だった。
民衆は昔、聖書に近づけなかったから権力者の言いなりにされた。
でも今は違う。読もうと思えば読めるからね。
それでも騙されるとしたら、自業自得になるのかもしれない。 まぁヨシュアDQN伝説と
パウロの妄言と
身内の抗争だしあれ >>135
初めて新約聖書を読んだ時、山上の垂訓には感銘を受けた。
でも、パウロの手紙以下は余りにつまらなくて読むこともできなかった。
霊的なものが何もない。→ そこで旧約聖書に興味が移行した。
旧約聖書は、いろいろなレベルの物語があるからいい。
一読して「ああ、これだ」と思ったのは、エデンの園、ヨブ記、
ヤコブとエサウの話、イザヤ書(前半)、詩編(ダビデ)あたりですかね。
十戒以外の律法とか、ユダヤ民族の歴史とかは退屈だった。
でも、読むべき個所がいくつもあるし、霊的にも高いものがあるし、
キリスト教を理解するためにも、旧約聖書は欠かせないですね。 新約は旧約をネタにしたファンタジー
山上の垂訓も創作 処女受胎はウソ
新約聖書を開くと最初にイエス・キリストの系図がある。
アブラハムから始まり、途中ダビデが出て来て、
最後はマリヤの夫ヨセフになる。ところがマリアは、
ヨセフとは無関係に、神の聖霊によって身ごもる。
ということは、イエスはアブラハムともダビデとも無関係であり、
救世主(メシア)の資格を欠いていることになる。
それに、処女受胎などあるはずがないではないか。
正常な理性があれば、この時点で福音書を閉じなければならない。
マタイ1:1−15で、キリスト教は終了。(`・ω・´) そもそも処女受胎自体
乙女を処女と勘違いしたやつだし まぁスパモンやベーコンみたいなのもあるし
宗教全部ダメっつーのもだめよ ユダヤ人が考えたメシアは、宗教的指導者であると同時に、
政治的指導者でもあったダビデのような人物である。
だからこそ、ダビデの家系からメシアが生まれると信じていたのだ。
神殿で暴れて即刻十字架で処刑されたイエスなど論外である。
では誰なのか。ローマ軍と戦ったバル・コクバだ。
ラビ・アキバも彼をメシアと認めた。
135年、バル・コクバは戦死、多くの人が死に、
ラビ・アキバは処刑されたが、
ユダヤ人が考えていたのは「メシアは人間だ」ということである。
毎日飲み食いし、糞小便を垂れ流していた
イエスという「神」ではない。 洗脳のレベルは、
仏教よりキリスト教の方が上で重症かもしれない。TT
それからあれだ、自分の罪を温存しながら救われたいなどと
考えたり思わないでほしい。身勝手過ぎる。
身勝手なのが原罪なのに ・・・ バカだね ((´∀`))ケラケラ イエスの「人間宣言」はないのか
イエスは死んじゃって無理だから、代わりに
教団や教会のトップが大至急やってほしいが、これも無理か。
じゃあ、どうしよう ・・・ ⚡⚡⚡ 閃いたぞ!
信者の方から、「人間宣言」を投げつけてやればいい。 パウロが作ったキリスト教はいったい何だったのか。
これを考える場合、現在のユダヤ人やユダヤ教が参考になるだろう。
かりにパウロがいなければ、
イスラエルもユダヤ教も聖書も存在しなかった可能性が濃厚なのだ。
パウロの旅は、東洋ではなく、ローマ帝国のある西洋に向かう。
そして、人間イエスを神にし、従順をしきりに説く。牛馬を放牧し、
肉食の、北方の蛮族アーリア人を洗脳しようとしたかも?
「ローマ人への手紙」に「秘密の計画」が語られているが、パウロは
祖国イスラエルのために大芝居を打ったのかもしれない。(^-^) 新約聖書の世界的権威、ジェイムズ・D,G.ダン(英)の
『使徒パウロの神学』浅野淳訳、教文館
2019・3・26発売、6300円(6804円) A5、976頁 パウロはテント職人として働きながら、エルサレムで高名なラビ、
パリサイ派のガブリエルのもとで旧約聖書を研究している。
であるから、エデンの園にある「善悪を知る木」からその実を食べた
ことが、アダムとエバの原罪であることは当然学んでいる。これは、
言葉の中に原罪(善悪判断)が隠れ潜んでいることのたとえ話である。
それと同時に、命の木から命の実を食べたら、永遠の命を得ることも
当然知っていたはずである。ところがパウロはこの話を完全無視。
なぜなら、パウロは命の実を食べたことがなかったからだ。
それゆえパウロの言っている「信仰」は、
善悪の実(原罪) → イエスへの信仰 ということになり、
命の実(神霊体験・神との出会い)を欠いている。 ← ここがポイント! これで「ヨハネの黙示録」の位置づけができた。
エデンの園の「善悪の実」から、「命の実」に至る
心象風景が「ヨハネの黙示録」になっている。
新約聖書の全体は、エデンの園をイメージして構想された、
と言っていいだろう。
ヨハネの黙示録は、単なる心象風景であって、
そういった現実が実際に起こることを預言したものではない。
それは「命の実」を食べることの難しさの比喩だ。 個人の救いは、個人ごとに異なる時にやって来る。
だから、ヨハネの黙示録のように同時にやって来るわけではない。
同時に、十人死のうが、百人死のうが、千人死のうが、
万人死のうが関係ない。
この世における生死は個人的なものであって、
その救いも個人的なものである。同時に死んだとしても、
神の救い(神との出会い)は個人的なものであり、
神に救われる人は常に救われる。
神の救いは、生きている間に決定している。
ということは、生きている間に「携挙」されたということである。
生きている間に「携挙」を体験したか否かだ。
自分が救われるか否かは、本人だけが知っている。 新約聖書を信じて、「携挙」を待っている人は
残念だけど救われないのですね。 v(^-^)v 残念だが、パウロは生前のイエスに全く興味がなかった。
パウロ神学にとっては、十字架につけられたイエスだけが
必要だったようである。 Tコリ2:2参照
わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架に
つけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた。 キリスト教は「パウロ教」と呼ぶべきである
AD30年 イエス・キリスト刑死 → 【49〜61年 パウロの手紙】
【マルコ 50年代 → ルカ 59〜60年頃 → マタイ 60年代
ヨハネ 85〜90年頃】 → ヨハネの手紙 80年代後半〜90年代前半
【ヨハネの黙示録 95年頃】
キリスト教の成立は、パウロの手紙 → 四福音書 → ヨハネの黙示録
になっている。この順序から言えば、まさしく「パウロ教」である。
それにパウロは、生前のイエスには全く関心がない。イエスの十字架が
人類の贖罪になるのであれば ・・・ それで福音書はO.Kだったろう。 パウロは詐欺師だったのか否か
パウロは人生を賭け、大真面目に布教していた。
そんな姿を知れば、詐欺師だったとは到底思えないのだ。
そうではなく、自分のアイデアが絶対に正しいと思い込んで
布教に熱中したのではないだろうか。
フェストゥスは大声で言った。「お前は頭がおかしい。
学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」 使徒26:24
ーー これこれ、たぶんこれだ!
ーー キ×▼○・キ★※□・キ△☆∞ ・・・ (´・ω・`) >>138
旧約創世記の時点でツッコミどころ満載なんだよなぁ ルカの福音書16:19〜28
金持ちの描写は今現在金持ちという描写だけでそれ以前にどれだけの生活をしていたかの
言及がない。 もしかしたら、あの金持ちは葡萄園で仕事を分け合与えた主人かもしれない。
なんか、そんことを考えながら聖書を読むと苦しい。 旧約は、自力で神を探し求めることを説く。
神に出会えば救われる。
新約は、イエスを御本尊にして、イエス信仰で救われることを説く。
信仰しても救われないのは、信仰が足りないからである。
イエス信仰が正しいという証拠はどこにもないのに、
イエス信仰がまちがっているとは考えない。
そんなことを認めたら、キリスト教が崩壊してしまうから。 キリスト教信仰の二大欠陥
@ イエス信仰で、神(命)に出会う道が封じられる。
A 聖書には坐禅がなく、自分(霊魂)に出会う道もない。
えええーー まるでダメじゃん www
アーリア人を封じ込めるにはピッタリだが
日本人はこんなアホ宗教を信じちゃあダメだぞー 悪魔との対話・梵天勧請より
苦労してわたしがさとり得たことを、
今説く必要があろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
この真理を悟ることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、
深遠で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は
見ることができないのだ。 キリスト教信者は、自分の欲や貪りや憎しみや闇黒につけこまれる。
そのため、ひどく混乱し、やがて頭がおかしくなってしまう。
十戒違反の、イエスを神にし、十字架という刑具をうっとり拝み、
偶像崇拝を何の抵抗もなく平気でやってのける。
こうして精神が転倒し、洗脳が完成する。
こんなキリスト教がある限り、聖書はバカ売れ、イスラエルは安泰だ。
これこそが、キ○△※ パウロの秘密の計画だったのであろう。
ただ、イスラエルを同じ民族であるスファラデーではなく、アーリア人の
アシュケナジーに乗っ取られたのは計算外だったかもしれない。 イエスやパウロなど、本来のユダヤ人であるスファラデーは、
偽ユダヤ人のアシュケナジーに差別され、頭に放射線を浴びせるとか、
陰湿な嫌がらせを受けているという。そういう意味では、
キ※×△ パウロの秘密の計画は失敗したのかもしれない。 ☆☆☆ 天使の存在証明
@宇宙が始まる前は、時間もなく空間もなかった。→ 無であった。
Aその無が突然、大爆発する。→ これがビッグバンである。
Bこれによって無ではなく有の宇宙が誕生した。→ 無から有へ
C有の宇宙は、神(命そのもの)と物質から成立する。→ 二元論
D神と物質とは、その性質が正反対だから直接には出会えない。
E直接出会えば、瞬時に爆発し → 無に返る。
Fそこで神は、神と物質との間に天使を置いた。→ 天使の誕生
G天使によって、物質世界に生き物(命+物質)が登場する。
H天使は番人であり、(神→天使→生き物)の流れを作り出している。
Iゆえに、生き物の世界があれば、天使が必ず存在することになる。 唯一神教だと直接神にふれる人間が複数同時にいると都合が悪いから
あえて間に天使をおいたというだけでは >>161
教祖の都合で天使が創作されたと?
どう考えようが個人の自由なので、好きなようにしてください。
ただ、そう他人に主張したいなら、それを論証してください。 宇宙が始まる前は、時間もなく空間もなかった。→ 無であった。
そもそもこの前提が不明なことなのに
無であったと決めつける誤認 163.物理学をやっているバカである。大爆笑である。 有の宇宙は、神(命そのもの)と物質から成立する。→ 二元論
これも不明なこと
それどころか「完全不可知」でさえあるかもしれないのに
神(命そのもの)があると決めつけるのはいけない >>160
は天使の存在証明ではなく
天使の「定義」である 宗教の三位一体
@ 商売道具 → 聖書、仏典
A 詐欺師 → 神父、牧師、僧侶
B 魔窟に潜むアヘン常習者 → 信者 宗教の三位一体
@ 聖書・仏典 → 商売道具
A 神父、牧師、僧侶 → 詐欺師
B 信者 → 魔窟に潜むアヘン常習者 人間は 自殺しないですむために神を考えだすことばかりに熱中してきた。
これが 今日にいたるまでの世界史の要約だね。 宗教の意義が明らかされ、
待ちに待った「終わりの始まり」が姿を見せた。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「神を知れ」と言って
教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者も
わたしを知るからである、と神(命)は言われる。エレ31:34 >>172
じゃあ自殺しないですむために
神を考え出す必要がないと示した
オーギュストコントの人類教は
「人類最後の宗教」
と言うに相応しいな 以前通ってた教会でのこと。
礼拝後とある教会での集まりのチラシ配りに駆り出された。
牧師はチラシはポストに入れればいいというので、その通りに適当に配って集合場所に戻った。
でも集合時間を過ぎても女の子が戻ってこない。
俺は「ふざけんなよ。早く帰りたいんだよ。」とか思ってた。
ようやく女の子登場。 しかもなんか興奮してる。
話を聞いてたら、その子はポストに投函するんじゃなくチャイムを鳴らして出てきた人
に教会名と集まりのアナウンスをしてチラシを渡してたらしい。
で、ある家から出てきたのがオヤジ。 それも夕方早い時間から酔っぱらってたそう。
そのオヤジは女の子のアナウンスを聞いて、チラシを一瞥してこう言ったらしい。
「なんでこんなことやってんの?」
一気にここまでまくしたてて最後は笑いながらこう言いました。
「地獄に落ちろ。」
その場にいた全員(牧師含む)も笑ってました。
俺は(ざけんなカス!テメェが何様じゃ!)と思ったのは間違いではないと思う。 日本には古くから神道がある。
そこで神道を説こう。
まず神道には「終末思想」がない。
これが欧米流の一神教との決定的な違いである。
初期のユダヤ教のように「終末思想」がないことから、
神道は、人類草創期、発展期の宗教であることがわかる。 っつーか神道ってアニミズムそのままの
宗教で言えば化石じゃん 神道を要約すれば、三種の神器に至る。
天皇家の三種の神器が有名だが、
日本各地の支配者もそれぞれの三種の神器を奉持していた。
そこに権力の源泉が象徴されていた。
すなわち、神道は権力者の宗教であったということだ。
鏡(八咫鏡)→ 知力(自分自身を知ること)
玉(八尺瓊勾玉)→ 財力
大蛇の尻尾から出てきた剣(天叢雲剣)→ 武力 この三種の神器に支配者の秘密がある。
「鏡」によって自分を知り、自分の分を守る。→ 傲慢にならない。
仁政を行う→民を豊かにする→「玉」を増やす→ 兵士を揃える。
戦いは「剣」=武力だけではない。→ 龍神を味方にできれば勝つ。 神道は、天皇支配を合理的に説明しようとして、
天地開闢神話を接ぎ木したものである。
しかし、その神話には注目すべきものがある。
@ 神の一元論なのか、神と物質の二元論なのかはっきりしない。
高天原(霊界?)に登場した最初の神は独り神の天御中主神。
A その後、高天原に何柱かの独り神が出現し、
さらに何柱かの男女神が出現する。 ← 高天原(霊界?)に。
B その中の男女神、イザナギ、イザナミが地上に降りて来る。
この二人が日本という国を産み、その子孫が天皇家につながるらしい。
100%作り話だろうけど。^^ 支配の正当化のために宗教を統合したという点は
ユダヤ教や新興宗教と似たようなもんだな 日本の最初の人間
イザナギ・イザナミは、アダムとエバのようなものか。
高天原を霊界とすれば、それが地上にやってきたわけである。
ところで高天原には、イザナギ・イザナミの男女神(2柱)の前に、
4代の男女神(8柱)がいる。その前は独り神ばかりだが、
独り神は天之御中主神のほかに6柱がいる。
ということは、天之御中主神 → 6柱の独り神 → 4代の男女神
→ イザナギ・イザナミの男女神であるから、
男女の区別は、独り神〜霊界で生じ、地上の男女になるわけである。 わたしが体験的に想定している流れ
神(命)→霊界の霊魂(男女の別なし)・・・ 独り神
→霊界の霊体(男女の別あり)→地上の肉体(男女の別あり)
この流れから言えば、古事記の冒頭部分は正しそうである。
人間の究極は霊魂であるから、究極的には男女の別は存在しない。
しかし、地上に生を受けて誕生する時と、
死んで霊界に帰るが輪廻する宿命である時は、男女の別がある。
霊魂だけ →(男女の別なし)
霊魂 + 遺伝子 →(男女の別が生じる) 神道の神は、神(命)と物質の二元論だと推定しよう。(^-^)
その根拠は、神が徐々に徐々に地上に降りて来るところにある。
一元論の全能神であれば、物質を作って、物質に命令すれば済む。
キリスト教やイスラム教の神のように。
ところが、神道の神は人間の霊魂に細々とつながっている。
その霊魂が人間を作りだし、その末裔が皇室である。
しかし、皇室が神につながっているなら、
国民もつながっていなくてはならない。いや日本人だけでなく、
全人類が神につながっていなければならない。(`・ω・´) 全能の逆説に影響されないというメリットもあるけどね多神教 >>186
そのメリットは、二元論の根拠にもなりますね
唯物論や、唯識や唯心論、全能神などの一元論は、
両極端でもはや過去の遺物です。
神(命)と物質の二元論は、
古くて新しい真理だと言っていいでしょう。(^-^) 神(命)と物質のどちらかの極端、一元論を排除し、
両者の中道である二元論を歩む。
これが神道であり、これこそが釈尊の教えでもある。
神道と仏教は親和的ですね。 釈迦がやりたかったことって科学そのものじゃねーの? 釈尊は真理を体験した。
神(命)に出会い、自分(霊魂)にも出会っている。
それは真実の体験だから、いつの時代の、誰でもが体験できる。
それは霊の世界の真実だから、
それは永遠の真実であり、それは科学だと言っていいでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています