【初心者】キリスト教@談話室745【歓迎♪】
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>>950
あくまでも私の見当だけど、持つべきツールは揃ってると思うので。
伝統的なカトリックへ行くべきだと思う。
後は常時じゃなくて良いから「公正公平な見地」
キリストの遺産を借りるための鍵の一つだから必要なときに使えば良い。
偽りの賞賛(ラブシャワー)とか、人間味さんにとって気持ち悪いでしょ?
プロテスタントやカルトは肌に合わないと思う。 >>949
一般の人が書いた日本語訳を読んだよ
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Keyboard/3731/uta/rose.html
なんていうか、赤いバラを生み出すシーンは胸が苦しくなるね
私は想像力が豊かだから、自分の心臓を突き刺されてるような気分になったよ
なんとも言えないあと味の話だけど、誰かの必死な愛は、確かにこのようなものかもしれない
オスカー自身の晩年は、投獄されたり寂しいものだったみたいだね
一度は富み、そして失い、彼は何を思って人生を終えたのか少し気になるところ。 世界の中の唯一の神が唯一の形態で
自分を啓示したとするなら
唯一の神が時間と空間の中の地点に於いて
そこで語ったとするなら
この啓示の権威はすべての人々に妥当します。👸
この啓示が事実なら真理は絶対でしょう。
もし、そうであるなら
神と世界存在の統一は神が人である場合のみ
完全であるの☆🎍
特徴は
神人は一回だけ存在する。
統一は一回だけ
神人は絶対。
人間存在全体と世界全体との。
キリストを信じない人は真理から排除れてる。
神人だけが言うことができる。「私は道であり真理であり生命である」
神人は全く人間である。👸
そして神人は全く神である。
神人は罪を持たない✨
聖であり間違えない✨天に生きてる。 >>952
カトリックの礼拝にこそっと参加ならしてみたいかも。
なんだろう、今はクリスチャンや牧者にコントロールされたくないという気持ちが強いから、繋がりの深い教会や、極端に断言的な物言いをする教会は遠慮したい気持ちがあるね
そういえば、一昨年かな、バチカン行ったよ。イタリア・バチカンと、荘厳な建物や教会や美しい絵画を色々見た。
けど、バチカンのサン・ピエトロ広場に並んで立っている太い柱に寄りかかって、昼寝したことの方がなんだか記憶に残ってるw
風が吹き抜けて気持ち良かったな。 神人は道として模範です🌸
神人は代理です🌸
神人の身体は唯一の救済手段です🌸
神人が現実に存在するなら真理です🌸
しかし
哲学思考からは、出てこない✨
信仰現実は哲学にとっては
つまづきの石なのでしゅ。👸 >>956
適切な距離を取るのは大切なことだよ?
人間味さんは、きっとそれが出来る。
打ち明けられると思った牧師に、今までのこと是からの事を打ち明けると良いよ。 キリスト教は、おそらくキルケゴルによって
初めて明晰になり
哲学的にも克服されたのでしゅ。👸
ぐない。 >>954
この作品は、いわば一編の詩のようなものだから
様々な読み方が可能になるだろうね
美というものが如何に悲しさや残酷さと表裏をなしているか
打ち捨てられるもののなかに如何に崇高な美しさが宿っているか
おそらく『幸福な王子』と通底するワイルドの美意識なんだろうと思う
『幸福な王子』の最後の場面の神による承認を省けば、この作品がそのテーマに置いて
どれほど『幸福な王子』と酷似しているかがわかるんじゃないだろうか
むしろ、予定調和的な神の承認がないからこそ、なお一層その美しさが際立っているように思う
自分の人生の経験によって、さらに深い意味を見出すこともできるだろう
下のリンクはまさに大石邦子さんの過酷な人生から読み取られたナイチンゲールとバラの意味
http://address.co.jp/inochinokibou/asp/newsitem.asp?nw_id=105
聖書を読むということも、同じように自分の人生と向き合わせたときに生まれる意味を
読み取る作業なのかもしれないね オスカーワイルドはボーイズラブの世界だもんな。
届かない愛、殉じる愛、死と生の美、そんな作家かな。
ジャンジュネ、森茉莉、風と木の詩を読んでからオスカーワイルドを読むと、腐女子化してよろしいw >>959
ありがとう。ちょっと今すぐには、考えられないけど検討してみるね
>>955
キリストを信じない人は真理から外れてる、
この部分かな
私の中のキリスト教の疑問としては。
永遠のいのちはキリストを信じる者に与えられる。
分かるけど、なんというか排他的でもあり、、
そして私の知るリアルなクリスチャン達は寛容より排他的だ >>963
考えさせられるURLの紹介ありがとう。
ナイチンゲールの和訳を読んだ時、私も誰かの愛を知らずに捨てたことがあっただろうなとも思ったよ
理解できない分からない気づかない、というのは往々にしてあることだね
私のために泣いてくれた誰かの気持ちを打ち捨てたこと、きっとあっただろう
ある人のことを思い出す。今は恩人と思っているけど、私は4年ほどその人の愛を理解できなかった。たまたま私はその人の愛を理解する幸運に恵まれたけど、知る機会なく打ち捨てた可能性も十分にあり、きっと誰かの愛に対してはそのようにしていただろう。
この青年は、なぜ冬に薔薇が咲いていたのか、いつも鳴いている小鳥が突然鳴かなくなったのか、大人になって気づく日は来ないのだろうか
大人になると、色々な人の情に気づくことが増えるけど
幸福の王子は最後に報われる、小鳥は報われないからこそ、その愛の美しさが際立つというのも分かる
私は報われる話の方が好きだけど、現実的には報われないことの方がずっと多いね
「かけた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」は、スーパーボランティア尾畠春夫さんの言葉 私は最近ある人のことを思って3度号泣した。その人が不憫だったから、幸せを願ってね。もちろんその人は私が泣いたことも知らないし、私がその人にどんな気持ちでいたかも知らない。
この小鳥がしたことも結局は自己満足に過ぎず、相手に伝わらなければ無意味とも言える。
でも自己完結しているからこそ、この小鳥の愛は美しいとも言える。
まあキリスト教的には報いはあるし、
人にできないことも神にはできる、
祈りは聞かれる。
信仰、希望、愛というのはいつまでも残る、とあるようにね。 執着を伴わない愛。
言うはヤスシですが、実例は挙げられない。
毎度のことですが。
ヤハウェ様もイエス様も、理想の実現に執着しておられたわけですし。 >>968
不完全な愛かもしれないけど、私は執着のしない人間の愛を受けた経験があるよ
キリスト教の愛は執着だろうか?
確かにキリスト教の神は、神(自分)の方をいつも向きなさいと言っている
ただ、神の方を向くことが、人にとっての究極の幸せであるという真理からそれを伝えている可能性もあるわけだよね 私の知る執着しない愛とは、良きサマリヤ人のような感じかな。
半殺しになった私を手当てして、宿屋に連れて行き、宿代を十分に払ってくれたような。
でも本人は、その礼を貰うことを望まず、私が回復したことが自身の喜びだったと涙を流し、そして去って行った。
私はこの受けた恩を、どこに返したらいいのか分からず、ただ感謝するのみ。 >>970
その人が言う通り、人間味を回復させたかったわけですよね?
人間味が回復すること、あるいは理想の実現への執着からくるものです。
執着という言葉にネガティブなイメージがあるだけだと思いますよ。
愛の本質は執着です。 キリスト教は愛を限定して差別していると思いますよ。
イエス様はそうではなかったと思いますが。 >>971
執着(しゅうじゃく、abhiniveza अभिनिवेश (sanskrit))とは、仏教において、事物に固執し、とらわれること。
主に悪い意味で用いられ、修行の障害になる心の働きとする。
執「著」と書くこともある。仏教用語というより、一般的な用語であり、現代語の執着(attachment)によく似た意味で、
煩悩の用語としてのrāga(愛)あるいはlobha(貪)に近い。
サンスクリット原語は、abhinivezaの他に、sakti、āsakti(没頭する事)、parigraha(摂取、所有)など良い意味でも使われる語が同時に執着の意味を持ち、
grāha(にぎる、理解)、adhyavasāya(決知、判断)など認識にも関わる語が執着の意味で用いられる。
ウィキより。執着は確かに良いイメージでは使われない。
その人は、確かに理想の現実に燃えていたかもしれない。
でも私に対して固執していなかった。その人の自己満足とも言える。でも究極の自己満足・自己完結こそが愛だと私は思う。
それは、相手を縛らず自由にするから。 >>972
イエスキリストはそうでなかった、差別しなかった、異邦人に対してむしろ寛容だった、と
全ての人のために救いの道を開いたはずだった?
でもキリスト教になると、キリストを信じない者は暗闇で歯ぎしりする?
矛盾は感じるね
サティさんが無名のキリスト者という考えを教えてくれたけど、聖書的には、その根拠をまだ見出せてない
聖書が完璧とするか、欠落があるとするか、によっても話は変わるけど >>973
執着を人に対するものに限定しているから理解できないのだと思います。
その人の理想に対する執着=愛が、その人を動かしたわけです。 >>975
うん、まあ言ってることは分かるよ
尾畠春夫さんなんかもそうだよね
そして、それによって感謝する人たちが出てくる 多分私が、執着という言葉に違和感を感じるのは、
執着という言葉は束縛感のイメージがあるからかもしれないね
束縛し、所有したがる という。でもこれは人に対しての執着において、であり
与作クンが言うように、理想の現実化への執着に対しては、人を巻き込んでも所有しようと言う意志がないからな
でもキリスト教の理想の現実化はやはり束縛や所有を感じる 何を言いたいかわかっていただければ満足です。
あいなは起きたら噛み付いてくると思いますが。 >>978
ドキドキw
美魔女さんの言葉は難しくて、ウィキっても何言ってるか分からないことがまあまああるから、うまく理解できてるか自信持てないんだけどw
さて。
将棋の名士、ネズミ団団長、黒ゴンガーラ統帥おはようございます。 >>968
色んな神がいるのに、排他的なのをディスるとか言っといて自分の場合はオケなのか
たんなるイケズじゃんw 指摘の意味が理解できないアホのよしおさんであった
大爆笑である >>955
オマイ GLAだろ ?
しかも劣化版の。 岡田茂吉は完成された人だった。
でも、彼の死後、彼が撃退した大狐が乗っ取ってしまった。
あれは キツネの穴そのものじゃないか。
どうしてこうもバレバレのことするんだろうね 。 高橋信二は 自分の修業を完成させてから教団を開くべきだった。
あの世で修業するために 教団が必要だったのかな ? 岡田茂吉も高橋信二も 目的は一つ。
あの世で頑張ってるよ たぶん。 われエホバ
なんじの神は嫉む神なれば
われを悪む者にむかいては、父の罪を子にむくい三四代におよぼし
われを愛しわが戒めを守る者には恩恵をほどこして千代にいたるなり
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
この神とイエス・キリストは同一人物です >>968
>執着を伴わない愛。
>言うはヤスシですが、実例は挙げられない。
いくらでも実例はありますよ。ありふれています。
知らない人に道を尋ねられて教えたり
車で道を譲られたり、親子の愛、友情。あげきれないほどです
執着の本質は「わがものとする思い」です。
実はすべてをわれわれは「わがもの」とできません。
それで苦しむわけです。 >>988
それらの例も、理想の実現をわがものとする為の行為と言えます。 自己犠牲的な愛も、無償の愛も、すべては自分のためにする事です。
正当化したり美化したりしているだけで、本質は何らかの執着です。 >>993
自己満かどうかは、人それぞれ、その人の欲求次第ですね。 知らない人からよく道を尋ねられるし
昔は必ず知らない人からシャッター押してくださいと頼まれたが
私は道を教える理想もシャッターを押す理想も持ってないですよ 与作君はことばあそびされているだけで
与作君になにかわだかまりがあって 親との確執とか 友達関係とか
事実としての愛をみとめたくないだけでは? よさくさんは愛はないと信じたいなら勝手だけど、しつこ過ぎw
>>913 愛の本質が執着であると何か不都合があるのでしょうか。 このスレッドは1000を超えました。
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